成歩堂×冥(5)
 車道と歩道を隔てる街路樹から、蝉時雨がしとど降りそそいでいる。
 少女は長く緩やかなカーブを描く坂道を独りで登っていた。
 膝丈から大分短い、上等な黒絹のスカートからすんなりした足を伸ばし、ようよう交互に動かしていく。
 その足取りはトボトボと覚束ない。
 蝉の声は暑さを和らげてくれるどころか、少女の不快感と疲労感をますます助長させ増幅させる。
 少女は時雨に濡れた髪を鬱陶しげに肩の後ろへと払った。

 行く手には夏の西日に炙られたアスファルトから陽炎が立ち上り、睨みつけた少女の視線は自ずと目的地へと向けられた。
 丘の頂上近くにひっそり建っているホテル、そこを少女は目指していた。
(あの男、いったいどういうつもりなの)
 状況が把握できずに苛立ってくる気を落ち着けようと、見えない鞭の柄を握りしめる。
 しかし、体の一部のように馴染んでいたそれは、今や少女の手の中にない。
 ホテルのロビーで彼女を待っているはずの人物に奪われ隠されてしまったのだ。

 歩いていくうちに、木立の間から建物の全容が見えてきた。
 大きな三角屋根のスイス観光地風の外装は少女の趣味に合うものだったが、彼女は全く目に留めず、まっすぐ入口を見つめて入っていった。
 静かに開く自動ドアをくぐった少女は首を巡らした。たちどころに目的の人物は見つかった。
 冷房のせいか、この真夏に背広を着込んでいるくせに涼しげな笑顔で、少女に向けてラウンジ奥の席から片手を上げている。その笑顔が無性に少女の気に障った。
 ツカツカとその男の座っているソファに歩み寄り、正面から指を突きつけて言い放った。
「さっさと返しなさい、成歩堂龍一!」
 するとどうだろう。男―――成歩堂龍一は人の持ち物を隠しておきながら相変わらず笑みを絶やさず、テーブルを挟んだ向かいの席を指して言った。
「まず座ったら。歩いてきて疲れたんじゃないの」
「余計なお世話よ! だいたい、車を使うなと脅迫したのはキサマの方でしょう」
「脅迫・・・ひどいなあ。もうちょっと違う表現してよ、狩魔冥」

 ひどく楽しげに、汗の浮いたグラスからアイスコーヒーをすする。
 普段であればここで鞭の2、3発も食らっているところだ。だがその切り札は己の手の中にある、と思いながら成歩堂は少女―――狩魔冥の拳を流し見た。
 力の限りに握りしめられた冥の黒い革手袋がギリギリと音を立てている。素手ならば掌に爪が食いこんで血が滴るであろうほどに。
 もともと色素の薄い顔色が、今や紙のように白くなっていた。成歩堂はそれを目にし、さすがにからかい過ぎたかと襟を正した。
「じゃ、はいコレ」
 ソファの背に立て掛けられた書類鞄から長さ30cmほどの紙袋が取り出され、テーブルの上に己から離して置かれる。
 冥は立ったまま紙袋を手に取った。その感触は間違いなく愛用の鞭だった。
 苦労して取り戻した分身に、しかし冥は安堵できずに立ちつくした。
 やけにすんなり返しすぎる。
 冥のあまりの怒りように怖じ気づいたとも考えにくかった。成歩堂がそれくらいのことで恐れるような肝の持ち主ではないと、冥はよく知っていた。
 では何故、何のためにこんな卑怯な行動に出たのであろうか。
 あともう一つ思えば成歩堂の言う通り、暑い中を登ってきた体は、休みもせず屋外に出ていくことを拒否している。
 そこで冥は成歩堂の向かいの席に腰を下ろした。成歩堂は手を挙げてウェイターを呼び、アイスティを頼んだ。

 郊外の丘の上、森の中に建つホテル。そのラウンジで待ち合わせたスーツ姿の青年と理知的な美少女。
 という状況にも関わらず、2人の周囲は緊張感でピンと張りつめていた。
 いくつか用意された客席は互いに見えないよう植え込みで仕切られており、そのため他の客も店員たちも2人の異様な空気に気づくことはなかった。
 注文の品を運んできたウェイターだけが、その空気に怯えて逃げるように厨房に戻っていった。
 冥は成歩堂の方から切り出されるまで待つつもりでいた。
 気が短い性質の彼女には苦行であったが、法廷の外でまで答えを求めて縋りつくような真似はしたくない、そう思い決めていたのだ。
 その甲斐あってか、氷がすっかりコーヒーを薄めてしまった頃、成歩堂がため息をついて口を開いた。
「今日来てもらったのはさ、今日の、というか今回の君は何かおかしいって思ったからなんだ」

 今回の裁判では、努めて普段通りに被告人の有罪を立証したつもりだった。自分自身そう思い込もうとした。
 実はそうではないと、わかってはいたのだ。
 冥にはそれを見抜かれたくない人物が2人いた。それは弟弟子の御剣怜侍と、宿敵の成歩堂龍一。
 だから担当弁護士が成歩堂ではないと知ったとき安心したのだった。
 それがまさか傍聴席から見られていて、しかも隠していた秘密を見抜かれていたとは。
 見えない手によって丸裸にされてしまったような気がした。頬がカッと燃え上がった。
「な、何かおかしいって、何がどうおかしいと言うの」
 平静を装うこともできず、グラスに伸ばした手はカタカタと震えている。成歩堂は冥の様子に言いよどんだ。
「いや・・・何がってハッキリとわかったわけじゃないけど」
「そんな曖昧な好奇心でこんな所まで呼ぶな!」
 冥はホテルのロビーだということも忘れて叫んだ。鞭の入った紙袋を思いきり攫うように取り上げて腰を浮かせた。
「あ」
 成歩堂が一声発するのと、冥の脳裏に警報が鳴るのは同時だった。

 取り返しのつかない出来事を目撃する時、目撃者の目にはその出来事はスローモーションに見えるのだという。
 紙袋に弾かれたグラスが倒れていく様、テーブル板に倒れたガラスが砕け散る様、投げ出されたアイスティが冥の服めがけて叩きつけられる様まで、2人の目には確実に焼きつけられた。
 音を聞きつけたウェイターが布巾を手に飛んでくる。
「お客様、お怪我ありませんか!?」
「あ、大丈夫です。すいません、グラス割っちゃって」
 成歩堂が濡れたテーブルを手早く紙ナプキンで拭いていく。
 その光景は落ちついて座ったままの冥を置き去りに展開されている。
 否、金縛りにあったように動けずにいる冥の。
「・・・大丈夫? 狩魔検事」
「あ。え、ええ。何でもないわ」
 パサリという音とともに膝の上に布が掛けられた感触、それと気遣わしげな成歩堂の声で我に返った。
 見下ろすと成歩堂のものらしいハンカチが濡れたベストとスカートを隠していた。グラスの破片とウェイターはすでに姿が見えない。
 度重なる羞恥に冥は唇を噛んで俯いてしまった。成歩堂はそれを知ってか知らずか、指で頬を掻いて独り思案を始めた。
「困ったなあ。ここらへんは服屋もないし、ホテルの人にクリーニングしてもらうしか・・・いやいや、でも着替えもないし、服屋もないし・・・」
 放っておけば冥の意識をよそに何時までもどうどう巡りを続けそうに見えた。
 しかし唐突に結論が出たらしく、笑顔で口を開いた。
「今日泊まっていくってのはどうかな。あ、もちろん君だけ。代金はぼくが出すから」

 冥は面食らった。何がどうなっているのか。
 事態は目まぐるしく移り変わり、ついていけない。
「なぜ私がこんなところに泊まらなければならないの!」
「いや、だってその服じゃ帰れないんじゃ」
「それは・・・」
 冥の聡明な頭脳はたちまちここに泊まった場合のタイムテーブルを組み立てた。
 必要な資料は全て検事局に置いてきた。今日のうちにクリーニングを急かして終わらせ、明日は早めにチェックアウトすれば通常どおりに仕事に戻れるだろう。
 そこには何も問題はないように見える。しかし大きな問題が一つ。
「あなたに出してもらう義理などない」
 すっかり余裕を取り戻した冥の冷ややかな目が成歩堂を見上げる。
「鞭も返ってきたことだし、私は休んでいくからあなたは帰りなさいな」
「・・・え」


<スレにて連載中>
最終更新:2006年12月13日 08:16