御剣×冥




扉をノックすると、深く穏やかな声が「開いている」と答えてきた。幼い頃から、聞き慣れてきた声だった。
「できの悪い弟のようなものよ」といきがってみたとて、実際には、7歳年上の男は「兄」と呼ぶべきだし、メイの中でも彼はそんな位置にあった。
常に、メイの視線の先にあったのは、御剣怜侍の背中だった。
振り向かない、己ひとりの悪夢と自虐と目標にしか顔を向けない、広い広い冷たい背中。
――あの、背中……
胸の奥が、痛みとも熱ともつかない何かでズキリとうずく。
それは脊椎から腰椎へと滑り落ちて、いつまでも冷めない熱になってメイの中にくすぶった。
「入るわよ」
声と同時に扉を開く。
正面の窓の傍らに、あの背中が、書き物机の椅子に深く腰かけていた。


もともと、主なき狩魔邸に彼を招待したのはメイだった。
「私はもう、あの家に足を踏み入れることはできない」と、一度は御剣は断った。
だが、メイは同じ検事として、よく知っていた。狩魔邸に眠る膨大な資料が、敏腕検事として知られる御剣にとってどれほど魅力的であり、かつ、重要であるかということを。
「あの邸の、今の主は私よ。その私が許可したのだから、貴方は誰に遠慮する筋合いもないわ」
そう言ってメイは、半ば強引に御剣を誘った。
メイがアメリカから一時帰国し、邸の雑事を片づけるのだと知り、御剣はそれならばと、メイの招待を受け入れた。
日本的感覚で言うならば、彼女はまだ未成年だ。そんな彼女ひとりに、雑務を押しつけることへの抵抗があったのだろう。
そして今、御剣は、昔、狩魔豪が彼のために与えた一室、その書き物机の前に腰掛けて、メイの前に無防備な背中を晒している。
狩魔豪は、この邸の書籍を自由に漁ることを、怜侍青年に許していた。むしろ、彼がこの邸のすべての資料を読破することを要求さえした。
夜を徹して知に淫する御剣のために、狩魔邸には彼の個室があったのだ。
メイが用件を切り出すまで、振り返るつもりはないのだろう。椅子の傍らにも、机の上にも、山と書籍を積み上げて、御剣は読書に熱中している。
それは10年間、ずっと変わらない冷たい背中だった。
ぎしり、と、メイの手の中で、己の腕の一部のように使いこなした鞭がきしる。
頁をめくる、御剣の大きな手がぴたりと止まった。
「メイ、」
大きな本を半ば抱くようにかかえたまま、御剣が椅子を後ろに引いて振り返ろうとする。
だが、
「動かないで」
ピシリ! 御剣の顔の、すぐ数センチ脇の空気を鞭が切り裂いた。


「……何の真似だ? メイ。ここは法廷でも現場でもないが」
「法廷よ。貴方の罪を、私が裁く。……背中にみみずばれを作りたくなかったら、おとなしく前を向いていなさい」
「私の罪……」
呟いた御剣は、視線の先の本に向けて、ほんのわずかに笑いかけたようだった。
だが、振り返ろうとはしない。再び、大きな――だが繊細なその手は、頁をめくって読書に戻る。
「本を閉じて」
ぱたん、とおとなしく手は本を閉じて机の上に置いた。
「服を脱ぐの。……上だけでいいわ」
「メイ?」
おだやかな声はあくまで、妹をたしなめる兄のようで、それが彼女を苛立たせる。
「お父様の前では脱いだくせに、私の前では脱げないの?
 ……言ったでしょう。今のこの邸の主は、私なのよ」
刹那、キィン、と凍るような気配が部屋を支配したように、メイには思えた。
再び、鞭を鳴らし、今度は御剣の机の上に立てられたペン立て、その中のペン一本を叩き飛ばす。獰猛な獣を威嚇する、猛獣使いのように。
「脱ぎなさい、御剣怜侍」
「……」
小さな嘆息が、背を向けたままの御剣から漏れ、彼はベストとシャツのボタンを外すと、腰かけたまま、ぐっと背をそらすようにしてそれを脱いだ。
しっかりと筋肉のついた腕が翻り、ベッドに衣服が投げ捨てられる。
そして御剣はゆったりと、肘掛に両肘を預けて椅子に腰掛けなおした。
「これでよろしいかね」
「結構よ」
傲慢に答えてメイは、鞭をまといつかせながら腕を組んだ。
「変わらないわね、その背中。……また少し鍛えられたようだけど」
「どのような職であれ、体は資本なのでね。それなりに整えているつもりだ」
「私が見ていたことを、貴方は知っていたのかしら? お父様は、何でも知っていらした方だったけど」
「……そうなのではないかと、思ってはいたよ」
それが、メイの台詞の前者に向けられたものか、後者に向けられたものか、メイは確認はしなかった。
「背もたれが邪魔ね。……立ちなさい」
不気味なほど大人しく、潔く椅子を後ろにどけて、壁に向いたままの御剣はゆっくりと立ち上がる。
検事としては不必要なほど、ストイックに細身に鍛えられたその広い背に、メイはゆっくりと近づき、そして、手を伸ばした。


「……傷だらけだったわ、いつも」
冷たい指先が、染みひとつない背中にひたりと触れる。
「ひとつ、失策をおかすたびに、お父様はひとつ、貴方を鞭打たせた。
 ……見ていたのよ。貴方は今と同じ格好で、壁に手をついていたから知らなかったでしょうけど。私は見ていたわ。あの地下室の扉の隙間から」
「私の無様な悲鳴をお聞かせして、申し訳なかったな」
御剣の若さが、声にこめられたかすかな屈辱の思いとなって現れたのを、メイは聞き逃さなかった。
ゆっくりと息づく背中に手を当てたまま、メイは、御剣の声からそれを引き出したのが自分であることに陶然と酔いしれる。
「ええ、無様で、素敵な声だった……きっとお父様も、心の底ではわくわくしていたに違いないわ。
 完璧を目指す貴方が――誇り高く傷つきやすい貴方が、小さな失敗をひとつするたびに、次はどう打ち据えてやろうかと」
「おかげさまで、そこらの生温い弁護士とは格段の覚悟をもって法廷に挑めたよ。
 打たれた夜は、悪夢を見ることすらなかった。……痛みと屈辱で眠れやしなかったからな」
「……ふふ」
メイはさらに一歩を踏み出し、ひきしまったその背中に、己の胸をぴったりと押しつけるようにして寄りかかった。
目の前にある肩甲骨に、ちろりと舌を這わせると、かすかな震えがその筋肉に走るのがわかった。
「この背中が……私をおかしくしてしまったのよ、レイジ……」
押しつけられた、やわらかな胸の感触を御剣はきっと感じ取っているだろう。
その胸が、常の通りのかっちりと取り澄ましたスーツに包まれてはいないことも。
扉を開いた時に、振り返っていれば、いくら鈍感な男でも気づいていたはずなのだ。今のメイは、身体を隠す役になど立っていない薄いネグリジェの下に、黒いレースの下着をつけているだけだったのだから。
「メイ、離れたまえ――」
「この私に命令することは許さないわ」
彼女は渾身の力をこめて、目の前に浮いた肩甲骨を噛みしめた。口の中に血の味が広がり、耐える御剣が息を飲んで顎をそらす。
「薄暗い部屋の中で、貴方はじっと耐えていた。痛みよりも、お父様が冷酷にひとつひとつ数え上げる、自分のミスが屈辱だったのかしら?
 犬のように打たれるたびに、壁を殴りつけてわめきながら耐えていたわ……」
「君の手の内の鞭は、私の背中のせいだと言いたいのか?」
「わからないでしょうね、貴方には。……貴方の背中は、本当に美しかったのよ」


自分の身体が女性として変わり行く様を見つめる、あの多感な、夢見がちな少女の頃に、扉の隙間から覗き見た背中。
びっしりと、醜悪な蟲が這ったような青黒い、赤黒い無数の痣が、広く、強く、白い背中を穢していた。
「わからないでしょう、私が、貴方のことを心の中で何に喩えていたかなど」
汗に濡れて光り、その蟲から逃げるようによじられる背中はまるで、どんな痛みや屈辱にも犯されぬ、高潔なる奴隷のようだと彼女は思ったのだ。
だがその背中は父親のもので、彼女に、その背に触れることは許されておらず……
鬱屈した、やり場のない背徳的な想いが、幼い彼女の手に鞭を握らせたのだった。
『好きよ』
振り返らない背中、声は出さず、唇の動きだけでそう囁いて、メイは鞭を持たぬほうの手を、背中からゆっくりと腹の方へと回した。
だが不意に、ビクリと震えて手を引こうとする。
「なぜ手を引く?」
沈痛なほどに落ち着いた、御剣の声だった。
その大きな手は、腹の方に這ってきたメイのほっそりした手を、包み込むように握りしめていた。
「……放しなさい」
「打てば良い、私を」
長い指がゆっくりと、メイの手の形を辿るように彼女の指と手の甲を撫でる。
「レイジ……ッ」
爪の先を軽く擦られ、指の股に差し込むように五指が絡みつき、きゅ、と軽く握られる。
それだけで、指先から全身に甘い戦慄が走り、メイは一瞬ふらついた。
「私を打て。打ちたいのならば。君にならば、理由なく打たれたとてさほどつらくはない。……だが、」
「……何なの……?」
たった片手を取られた、それだけで己の不利をひしひしと感じながら、メイは力なく問い返す。
「君は、私を打つ必要はあるまいよ。
 今更打たれずとも、私の魂は君の奴隷だ」


手を引かれた――と気づいた時には、メイの身体は攫われるように、御剣の前に引き据えられて両肩を捕まれていた。
「ふっ……振り向くなと言ったでしょう! 痛い目に遭いたいの!」
「だから、打てば良いと言っている。……それに私は、振り向いてはいないよ」
身体がやや反っているように見えるほど、たくましい胸。それが目の前にあることに気づいて、メイは、先ほどまでの居丈高な言動を思い出すことができず、赤面して視線を反らせる。
後ずさろうとして、腰に机の角が当たり、御剣の言葉の正しさを思い知った。彼は、振り返ったのではない。その強い腕で、メイを捕らえて抱き寄せたのだ……身体の前に。
「……綺麗な胸だ」
己の思考を読み取られたのか、と焦って見上げれば、御剣の眼は、じっと、やわらかく盛り上がったネグリジェの下に注がれていた。
「見ないで!」
「……そんな服を着ているのに?」
言われれば、己のしていることがどれほど子供っぽく、馬鹿げたことかを指摘されたような気がして、メイの声には一瞬、涙がにじむ。
「あ、貴方はいつもそう……取り澄まして……ひとりで耐え抜いて……私のことなんか気にもしてない、落ち着き払って……なのにあんな弁護士にだけ弱味を見せて頼ったりして!」
「成歩堂にまで嫉妬されても困るな」
「バカぁ!」
「メイ、君がもう少し足許を見ていたら、いかに私が落ち着き払っていないか、よくわかってくれたはずなのだが」
その声にほんのわずかな照れを感じて、メイは顔をあげ、それから言われたとおり「足許」を――下を見た。
「……!」
彼女の見慣れぬ、隆々たる「でっぱり」が、御剣の細身のストレートパンツの……股間にしっかり陣取っている。
「イ、イヤぁ……!」
とっさに出たのがその言葉だったのに、やはり困惑したらしく、御剣は小さな溜息をひとつついて、「すまない」と低い声で謝った。
「君があまりに扇情的かつ……魅力的だったもので。……結果、こうなった」
メイの両肩を捕まえたまま、御剣は己の両肩をすくめて呟く。
「レ……レイジ」
「君は強情っぱりで、ひたむきで、情熱的で」
「レイジ、……だめ、」
両肩からがっしりした右手が外れ、細く浮いた鎖骨をするすると辿っている。恐ろしく吸引力のある、初めて見る熱っぽい視線に絡められて、メイは御剣の眼から視線を外すことができない。
「いつも必死で、負けず嫌いで、なのにひどく繊細で」
「やめて、……お願い」
やんわりと左の乳房を包み込むように触れた手が、ぴたりと止まった。
「やめて」とメイが命じただけで。
「……そして臆病で……愛らしい」
手が、動かない。メイは常より近いところに、御剣の顔があることに気づいた。
彼が少し、腰をかがめたのだ。
「メイ?」
低く穏やかな、名を呼ぶ声。
勝てるはずがない。幼い頃より一度たりとて、彼女はこの男に勝てなかったのだ。
ふらふらと吸い寄せられるように、顔を上向けて背伸びをする。
そして彼女は己から……己の唇を、御剣怜侍に差し出した。

触れ合った唇を、御剣は動かそうとはしなかった。
初めての、理解できぬ狂熱にわななきながら、メイは己から唇を開き、震える舌で御剣の唇を舐めた。
その時になってはじめて、自ら己を奴隷だと言った男は許しを得たと認識したのか、ぐっとさらに顔を低くして深く彼女にキスをした。
片手で抱き潰してしまえそうな細い背に、大きな両手が回ってしっかり彼女を支え、そして、首の前の留め紐を探り当てる。
慣れぬ彼女の舌を誘うように優しく己の舌で撫で……だが、それだけで彼女の身体からは力が抜けて怯えるように顔が背けられた。
「レイ、……たすけて、レイジ……だめよ……」
「力を抜いて大丈夫だ」
左腕一本で彼女を抱き支えたまま、御剣の右手が器用にいくつもの留め紐を引っ張り、外していく。
こんな時でさえ、女性の夜着を脱がせることに手慣れている男への怒りが立って、メイは両腕を突っ張った。
「イヤ……! キライ……放して……」
うわ言のように拒絶すれば、憎らしいことに、御剣は大人しく手を止める。
もう一度、バカ! と叩きつけるように叫びたくても、震える唇から大声は出ず、甘えるように彼女は「バカぁ、」と泣き声を出しただけだった。
「脱がせてもいいだろうか?」
「い、いちいち……聞かないで!」
真っ赤になった顔を両手で覆うと、再び身体が抱き寄せられ、そして、音もなくネグリジェは左右に開かれた。
「聞かないと、許可を貰えないのでね。言っただろう、私は奴隷だと。君も望んでいたはずだ。私に傅かれることを」
すぐ耳元で、驚くほど熱い息がささやき、彼女は両手を覆ったままよろめいた。御剣はその足許に跪き、くずおれた彼女の身体を抱きとめる。
「さぁ、ご主人様、ご命令を」
奴隷とは名ばかりの、身体の繋がりなくしてすでに彼女をがんじがらめに捕らえた男が、それでも敬虔に彼女に許しを請う。
裸の胸に抱きしめられて、やわらかな乳房をだらしなく押しつけさせられて、背は絶えずゆるやかに撫でられて……彼女はそれだけで陥落した。
「……わ……わたしを……抱きなさい……!」
次の瞬間、彼女の身体は勢い良く抱き上げられて、御剣の寝台に放り出されていた。



火のような熱さが、脚の間に続けざまに弾けている。
自分は今セックスをしているのだ、と、何とかそれだけは理解できたが、涙で潤むメイの視界に映るのは、天井と、御剣の揺れる髪だけだった。
「あっ、あ、いやっ、あぁっ……」
小さく突き上げられるたびに、彼女自身もよくわからないままに、声が勝手に出てしまう。だが、もう、彼女は自分が声をあげていることすら自覚できてはいなかった。
「レイジ、レイジ……!」
名を呼べば助けてくれる、何とかしてくれる。そう無意識に渇望して泣き声を出すと、恥ずかしいほど尖った乳首を舌で押しつぶしていた御剣が、顔をあげてメイの顔を覗き込む。
「メイ、つらいのか……?」
「つ、……つ、つらい……わ」
何がつらいのかわからなかったが、とにかく、自分は今死にそうなのだ。
それを訴えたくて、泣きじゃくりながらそう答えると、こんな時でも、困ったように御剣は眉を寄せて、そして、覆いかぶさるようにメイの身体を抱きしめた。
「大丈夫、だ……メイ……大丈夫……」
耳元にかかる熱い息。
その声が乱れて揺れていることが、何となく、メイを安心させ、裏腹に、鼓膜の奥の奥をかっと火照らせる。
御剣の手がのびて、彼女の両手を、己の背中に回させた。すがるものができたことにまた、少し安心して、彼女は必死にその背に爪を立ててしがみついた。
苦痛の低い呻きを漏らして、御剣はあやすように、己もまた彼女の背に片手を回し、抱きしめて背を撫でてやる。
先程のように乳房が押しつぶされ、先端がぐり、と曲げられて、メイは痛みと羞恥とそれ以上の――言葉にしたくもないものに狼狽し、かかとで無様に御剣の腿を蹴った。
「レイジ……あぁ、も、うっ、だめ……っ」
「あと、少し……少しだけ……」
命令なんて聞かないじゃない! そう怒って爪を立てる自分と、本当に命令したいのはそれじゃないでしょう、と己を嘲る自分との、両側から引っ張られて、メイの心は引き裂ける。
ずっと追いかけてきた、広い背中。
両手を回して抱きしめても、抱きしめきれない、がっちり骨の太い……愛しい背中。
それにただ、すがりついて揺れながら、メイは快楽を貪ることすらできず、ひたすら御剣怜侍の名を呼びつづけた。




初めての行為に疲れきり昏睡したメイが、綺麗に拭われた身体を目覚めさせた時、彼女はやっと、隣に眠る広い背中に気づくだろう。
絶望的な想いにかられて、永遠に追いつけぬと思いつづけたその背中、父が打たせた醜い蟲が這っていたその美しい背中に、


今は、彼女のつけた爪の跡だけが、その所有権を誇らしく主張しているのだということを。
最終更新:2006年12月12日 22:04