エロく無いけど



夜も更けて通販番組が始まる頃。
ここ綾里法律事務所には労働基準法もなんのその。
板張りの部屋にちゃぶ台置いて、がりがり机に噛り付く男と
座りもせず、背筋を伸ばして竹刀を持つ女がいた。

竹刀を握るのは綾里千尋。この弁護士事務所の主だ。
今流行の弁護士ドラマから抜け出してきたような美人。
一流のキャリアウーマンてオーラが常に噴出している。
左胸に鈍く光るひまわり天秤のバッヂは誇りと威厳が詰まっていて重そうだ。
「それにしても、殺人事件がデビューとはたいした度胸ね」
「はぁ、自分でもそう思います」
「依頼人が、よ」
「はぁ」
炭酸の抜けたような返事をするのは成歩堂龍一。
流行の道からはみ出して溝に片足突っ込んだようなトンガリヘアー。
三流の社会人ひよこ組って匂いが、くたびれたスーツから漂っている。
左胸にぶら下がるひまわり組のバッヂには手垢と埃がついていて一度磨いたほうが良さそうだ。

「いい?解剖記録を見る限りじゃ大してこちらの手駒は揃わないわ」
二人は明日の法廷に備えて追い込み中なのだ。
竹刀を手で弄びながら千尋は言葉を続ける。
「なるほど君はヤッパリさんの友達だし面会して何か気づいた?」
にゅっと顔を近づける千尋をあまり意識しないようにしながらも、
たまに視線が胸元へ泳ぎだしそうになる気持ちを抑えつつ、冷静に答える。
「……そうですね」
少し俯き、胸元で視点を固定させてから考えを張り巡らせる。

矢張と話した事、か。
成歩堂は記憶の氷に開いた穴から釣り糸を手繰り寄せ始めた。


「もっとはっきりアリバイ説明してくれよ」
「だからよー、その日は……ブラブラしてただけだってば」
面会室にいる二羽のオウムが繰り返して無駄骨を突っつき合う。
何度目かのキツツキで進展の無い会話にヒビが入り始めた。
「いや、もっと他にさ」
「お前、オレを信じてないのか?」
オウムの片割れがギモンチョウに変わった。
「まさか」
「そもそも何でオレが逮捕されなきゃいけないんだ!メイヨキソンで訴えてやる!」
「しょうがないだろ。被害者の彼氏だぞ。23でフリーターで茶髪でそうやってすぐキレるし」
現代っ子の典型的なタイプだ。
「夢を忘れた社会の歯車なんかにオレの気持ちが分かってたまるか!」
やれやれと成歩堂は沸点の低すぎる矢張に水を注いだ。
「矢張、落ち着くんだ。僕の目を見ろ」
「ナルホドぉ……」
救いを求める潤んだ眼差しがこちらを向く。
成歩堂も弁護士のそれではなく、旧知の友としての目を向けた。
交差する視点。
懐メロが流れてきそうな雰囲気の中、あの日と変らない口調で言葉を投げかけた。
「10年位前に貸したままのゲーム、いい加減返せよ」
「テメッ、オレを信用してねーだろ!」
「いやー、急に思い出してさ」
「くそう!もういい。誰も信用してくれないなら……死んでやるぅぅぅぅぅぅ!」
「やめろよ。拘束具付けさせるぞ?」
「だったら舌噛んで死んでやるぅぅぅぅ!」
「やめろよ。口内炎が出来るぞ」
「……それはちょっと嫌だな」
「じゃ、もう一度だけ聞く。あの日何をしてたんだ」
「だからよー」


記憶の糸はまた始まったキツツキによって切られた。
「で、何か思い出した?」
「えーと、ゲームを借りパクされてた事くらいしか」
「……」
千尋の額にヒクッと十字路ができた。
事故多発につき注意って感じの交差点だ。
「なるほど君、明日からのおやつを頭脳パンにして欲しい?」
頭脳パン!
頭脳粉なんて怪しげな粉を混ぜこぜして膨らませたパンだ。
マグロの目といい勝負をしている。
同じレーズンパンでも冠に「頭脳パン」と付くとすごいへこたれる気がする。
毎日頭脳パンを買う自分を想像した。

『あらヤダ奥さん、あそこの弁護士さんまた頭脳パン食べてるわよ』
『まぁホントに。ウチの子にも食べさせて弁護士になってもらおうかしら』
『やめときなさいよ学校でいじめられるから』
『それもそうね』
『おほほほほ』
『おほほほほ』

もう一場面おまけに浮かんだ。

『ねーママ。あのおにーちゃん僕みたいにテスト悪かったのかな』
『しっ、見ちゃダメよ』
『でも』
『大人は色々大変なの。ああならないようにお勉強しっかりするのよ』
『わかったー』

もう数場面ほど浮かんだけど心の奥底に沈めといた。

「所長、勘弁してください」
「ならもっと真剣に考えなさい」
ご近所とのお付き合いに支障を来たしそうな由々しき事態である。
井戸端会議のホットニュースを避けるべく、知恵をこれでもかってくらい振り絞る。
振り絞る。

けれどもぴちょんと果汁3%くらいしか搾れなかった。
これじゃ知恵ジュースは名乗れない。
「えーと、特には無いですね」
こいつほんとに考えたのか?!
千尋の額は十字路だらけで大渋滞だ。
湿度80%くらいのジト目を成歩堂に向けてきた。
低気圧の疑い前線が目の前で発生している。

「大丈夫ですよ。矢張は無実だと信じてますから。
向こうがどんなに完璧な証拠を立てたって、所長みたいに必ず勝ってみますよ。」
張ったそばからポロポロ剥がれそうな虚勢を自信満々に宣言してくれる。
千尋は能天気予報100%男を見て、ふぅ、とどんより曇った溜息をつく。
この緊張感の無い新人君をどうしたものか。
明日の法廷に一抹二抹の抹茶な不安を苦々しく感じる。
『恐怖の突っ込み男』として鳴り物入りでデビューさせようと考えてた矢先の依頼。
今鳴らしたってギロがギーチョギーチョ鳴るだけだ。
チンドンヤだってもっとマシな楽器を選んでちんどんしている。

とりあえず、自分にできることは彼の楽器を磨かせる事だけ。
千尋は何度目かの決意を胸にした。

ふぅ、と溜息つく千尋を見て成歩堂は思った。
溜息一つ取ってもサマになるな。
こんなに真剣になって僕を教えてくれるだなんて、気があるのかな。
明日の法廷で並んでいたら恋人って誤解を受けるかもしれない。
えへへ、困ったなぁ。


夜はまだまだ更けていく。
千尋の講義もまだまだ続いていた。
気づけば二人の距離は縮まっており、熱心さが伺われる。
「いい?証言の中にどんな小さな穴でも開いていたら異議を申し立てるのよ?」
成歩堂はどっちかっていうとその胸に異議があった。
穴どころかブラックホールだ。
視線はバタフライの形で泳いでいく。
「なるほどくん」
すっと吸い込まれそうになるその大宇宙の神秘から竹刀が伸びてきた。
竹刀でぐりぐり頬を撫でなれ、潰された蛙のような顔になる。
「何か、考えてたのかしら」
千尋の笑顔はとてもまぶしかった。
蛇に睨まれた蛙の気持ちがよ~く分かった。
けどアマガエルにだってちゃんと防衛機能が装備されているのだ。

「いえ、その勾玉綺麗だな~と。似合ってますよね」
毒を出すのは怖いのでアメを出す。
アマガエルだけにアメ。とかは絶対言えない(いろんな意味で)。
真面目に指導してくれる千尋を余所に、成歩堂はそんな下らない事を考えている。
今のは僕にしちゃ良かったな。
将来有望な弁護士の片鱗を見せる素晴らしい返し言葉だね。
だけども目の前の鱗の塊は笑顔を崩さず竹刀を握る力を増すだけだ。
蛙の顔は整形したヒキガエルみたいになる。
「マ・ジ・メ・に・やりましょうね」
「僕が悪かったです。ほんっとうにもーしわけありません」
「はぁ……」
溜息って言えるほど息を溜める間も無い。
暖簾に腕押しってこういう事なのかしら。

「もういいから。似たような判例調べましょう」
「はい。え~と」
目の前にあるファイルの山脈から一束取り出し、一番上の書類に目を通した。
『パラパラ密室殺人事件』
「パラパラ?」
バラバラの間違えでもないようだ。
「心臓が悪いのにパラパラマニアな被害者に新曲のテープを送りつけて踊り狂わせて死に」
「なるほどくん、それはいいから他のを」
言葉のお尻を蹴っ飛ばして千尋は促した。
「じゃーこれを」
適当に捲って指を止める。
「えーと、連続おでんアツアツ…」
「なるほど君他のを」
その束は千尋が昔おバカな事件をファイリングしたものだけどすっかり忘れ去られてた。


夜は、まだまだ更けていく。
最終更新:2006年12月12日 23:54