ミツメイエロナシ
「御剣怜侍です」
そう言って、少し身を屈めたのが気にくわなかった。
「そう」
無理矢理笑って見せようと、笑顔をつくろうとしたのも腹がたった。
確かに私より歳は上かもしれないけど、子供扱いされる筋合いはない。
それに全然笑えてないじゃない。
名前なんて、どうでもいいわ。
そう言って、父の横ですこし困った顔をした男を無視して部屋へ戻った。
怜侍は私を「冥」と呼んだ。
父の弟子として検事の勉強をしているのかなんだかしらないけど、気安く名前で呼ばれたくなんかない。
怜侍に呼ばれても私は返事をしないか、「気安く話し掛けないで」と鼻で笑うかのどちらかだった。
学校は退屈だった。
何がそんなに楽しいのかしら?
…くだらない。
ゲラゲラ笑いながら下校する同級生達をかきわけて、一人、廊下を歩いた。
外に出るとぽつぽつと雨が降り出していて、まわりの生徒は一人がたまたま持っていた折りたたみ傘に数人で入ったりして、そのまま雨の中に走って行った。
雨は強くなる一方で、地面に水たまりを作っていた。
親が迎えに来ている生徒もいた。
まわりに人はだんだんいなくなり、傘のない私は強くなる雨をただ睨んでいた。
雨がやむ気配はなかった。
さっきの生徒のように、誰かが迎えに来ることがないこともわかっていた。
ため息をついて、中に戻ろうとしたとき、遠くの方からバシャバシャと誰かが走ってくる音がした。
怜侍だった。
ズボンの裾が濡れて色が変わっていて、傘でしのげきれなかった雨のせいで白いワイシャツが肌に張り付いていた。
「すまない。遅れてしまった」
息を切らしながら、傘を差し出す怜侍に私はうまく反応できなかった。
「冥?」
「…本当に遅すぎるわ。全然使えないわね」
怜侍の手から乱暴に傘を受け取ると、私はそのまま怜侍をおいて歩き始めた。
すぐ後ろからパシャパシャと怜侍の歩く音が聞こえる。
私は後ろを振り向くことができなかった。
怜侍の手はとても冷たかった。
最近軽い腹痛が続いていた。
それが今日になってじわじわ強くなってきて、私は早めにベットに入った。
遠くの方から父の怒鳴る声が聞こえる。
また怜侍は怒られてるのかしら。
本当に全然進歩しないわね。
そんなことを考えているうちに、いつのまにか私は眠ってしまったらしく、次に目を覚ましたのは真夜中だった。
体中にびっしょり汗をかいていて、お腹はまだ少し痛んだ。
暗闇の中でしばらく葛藤した後、私はついにベットから立ち上がり部屋を出た。
それくらい恐い夢を見た。
暗く長い廊下をそろそろ歩いた。
父の声はもう聞こえなくて、家はしんと静まり返っていた。
起きていてほしい気持ちと、起きていてほしくない気持ちがぐるぐると頭を回っては消えた。
暗闇の中階段をおりて、そのまま突き当たりまで歩いた。
そこにあるドアの隙間から光りが漏れていた。
ドアの隙間から黒い寝巻の背中が見えた。
下らないことでぎゃあぎゃあわめく、同級生のひょろひょろしたのとは全く違う、広い、たくましい背中。
ここからは見えないけれど、きっと真剣な顔をしてなにか書類でもまとめているんだろう。
いつだったか外で女の人が怜侍のことをこそこそ話しているのを聞いたことがある。確か父の知り合いの人だった。
実力はもちろんのこと、父の横で見せる真剣なその顔は本当によく整っていると。
…ただ、人間らしさはまったくなく、人を寄せ付けないようなオーラを意図的に放っていると。
「冥、そんなところに立っていないで中に入ったらどうだ?」
「!!!………なっ」
突然名前を呼ばれて、心臓がドクンとはねた。
怜侍は机に向かったままこちらを向いてはいない。
「覗かれたままだと気になってしまうのでね」
「…ド、ドアを最後まで閉めないでいるほうがおかしいのよ!!それに別に覗いていたわけじゃないわ!!」
怜侍が椅子をくるりと回してこっちをむいた。
笑ってはいなかったけれど、穏やかで優しい顔だった。
「そんなところにいたら風邪をひいてしまう」
「……」
「おいで」
怜侍がおいでおいでと手招きをする。
その子供扱いに腹が立ったけど、私は黙って部屋の中に入った。
部屋の中はあたたかくて、紅茶の香りで満ちていた。
「恐い夢でも見たのか?」
「ちっちがうわよ」
「それでは私に何か用か?」
「用なんてないわ。…た、ただ怜侍がちゃんと仕事をしているか見に来てあげただけよ」
「その心配はない。もうすぐ片付くところだ」
椅子に座ったまま怜侍が淡々と答える。
「…そ、そう」
「部屋に戻らないのか?」
「なっなによ!!ここに私がいたらいけないっていうの!?」
「い、いやそうゆうわけではないが…」
「私ここで怜侍が仕事をおわらせるまで見張っているわ」
「たった今片付いたのだが…」
困った顔をしてこっちをみる怜侍を無視して、私はソファーに横たわった。
最終更新:2006年12月12日 23:58