沈む聖域(The Sinking Old Sanctuary)

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1. Out of Time

 ────三年。

 今や、普段はいつも着物で、昔のようにあの装束を着ることはなくなっていたが、あえて今日はそれを選んで出かけた。
 昔の髪留めも、化粧箱の奥深くにあったのを見つけることができた。
 何せ、三年も経っている。
 そのうえに、いつものように普通の着物を着て、しかも髪をきれいに結い上げていたら、きっと彼は自分が誰だかわからないだろう。
 すみれの香水を耳たぶの裏に。
 御剣検事は自分を見てまず何と言うだろうか?
 真宵が、彼がいつも泊まっていたホテルのラウンジで、ソファに沈む御剣を見たとき、思わず顔が緩んだ。
 何も変わっていない。かつて、よくここで待ち合わせたときと、まったく同じだ。
 どんなに早く行くようにしても、必ず御剣はそこで先に座って、頬づえをついてうたたねしていた。
 ためしに真宵が座ってみたときには、そのソファは深く沈みすぎて、まったく足が床につかなかった。
 だが、御剣だと、長い足をもてあますように足を組んで、それが、長さが邪魔だとでも言わんばかりで、真宵にはいつもとてもイヤミに見えたものだ。
 彼らしく寝顔にすら隙がなかったが、それでも、真宵はいつまでもこの顔を眺めていたかった。
 だのに、彼女が近づいていって、彼を真上から見下ろすと、きまってすぐにゆっくりまぶたを開けてしまうのだ。
 どうしてわかってしまうのだろう、気配だろうか、香水の匂いだろうか。
 何ひとつ、本当に何ひとつとっても昔のままだ。
 まるで、リセットボタンを押して、セーブしたところからゲームをやり直したときみたいだ。
 真宵がこぼれる笑みを隠さずにいると、御剣も、やがて同じように笑みを浮かべた。
「驚いた。ずいぶん変わったな」

「……えーっ!」
「わからないのか? 自分で」
「そ、そんなことないけど、でも今、御剣検事ってば全然変わってないってしみじみしてたとこなのにー!」
「大人っぽくなったなと少しは感心していたんだが」御剣は眉を寄せて苦笑した。「口を開けば相変わらずだな。安心した」
「見かけ、ちょっとは女らしくなった?」
「どうかな。しかし、かなり痩せたようだな」
「そう?」
「ああ。家元は大変かね? 苦労しているんじゃないか」
 真宵は、なんだかそのことに触れてほしくなくて、軽く「まあね」とだけ返事して、その話を流した。
「ん。一個見つけたよ。御剣検事が変わったとこ」
「ほう」
「あのねあのね、これいい意味だからね。さっき笑ったときに気がついたんだけどね」
「うム」
「眉間のしわはそうでもない代わりに、笑いじわが深くなってる」
 御剣は平常から白い顔をますます青くさせ、背中を丸めて頭を抱え込んでしまった。
「わっ、わっ、だからいい意味だってば。しかめっつらしてる時間より、笑ってる時間が多いってことでしょ!」
「……知らなかった。うう……気づかなかった……」
「そっか、自分の笑った顔なんて鏡でふつう見ないしね。じゃ、いま見てみなよ」真宵は巾着からコンパクトミラーを出して、彼に渡してあげた。
「しかし、いきなり笑うことなんて出来んぞ」
「面白いこと考えれば?」
「そんな急に考えつかない。君が何か面白いことを言ってくれ」
「あたしだって急に考えつかないよっ! あ、待って、でも面白い顔ならできるよ。ちょっと待って」
 真宵はくるりと彼に背を向けた。
 とっておきの顔を用意してから、サッと振り向く。
 御剣が思いきり噴き出した唾で鏡が汚れてしまったので、真宵はあわてて奪い取って、装束のすそで拭いてやってから、
「ほらほらほら今のうち、早く見て!」と差し出した。
「ちょ、ちょっと……ぶっ、い、い、今の顔はあまりに反則すぎっ……」
 彼が笑い顔のまま動きを止めたのは、鏡の中の自分と目があったからだろう。
 ゆっくり、笑みをひっこめてから、彼は腑に落ちたように呟いた。「なるほど」
「わかった?」
「うム。表情が崩れた時に年齢が出るということと、年をとるたび親の顔に似てくるというのは本当らしいということがわかった」
「御剣検事のお父さん?」
「ああ、そうだ。……怖いもんだ」
 彼は背広の内ポケットを探った。真宵の記憶では、当然そこから煙草が出てくるはずだったが、戻した右手には何も握られていない。
「やめたんだった」
「うそ。初耳」
「メイがあんまりにもしつこく言うからだよ。長生きなんかしたくもないがね」
「カルマ検事かぁ。あの人も、だんだん顔がお父さんに似ていくのかな」
「君は本当に人を恐ろしい気持ちにさせる天才だな」
「はは。お母さんのほうに似るといいねえ」
「まったくだ。きれいな方だったから」
「おっとっと。それを言うんだったら、知ってるだろうけどあたしのお母さんだって超美人だったもーん」
「なんでそこで張り合うのかわからないが、まあ、それなら君もぜひ御母堂に似るといいな」
 言ってから御剣がハッとした顔になるのを見て、真宵は最初なぜだかわからなかった。
 彼女は顔についてだけ話をしているつもりだったからだ。
 御剣が自分の言った言葉に自分で別の意味を受け止めてしまったのだ、と真宵も勘づいたとき、〈ああ、そういうことか〉と思った。
 母は家元としての人生をまっとうすることができなかった。
 そして今、真宵は母のあとを継いで家元となっている。
〈やだなあ、ほんと〉と彼女は思った。
〈もー……だから何だっていうのよー。なんでたかがそれくらいで、今にも自殺しそうな顔するのかな。
 今さらお母さんのことを言われたって、全然平気なのに。かえってそんな顔されたほうが、疲れちゃうよ。
 ああ、思い出した。御剣検事って、いつもこうだったな。いつも、なんだか、いちいち重くて〉
「きっと」と彼は真剣そのものの顔で口を開いた。「きっと君も、子ども思いの優しいお母さんになる」
「ありがと。まあ、結婚できるかどうかもわかんないけどね」
「まさか」
「あのね。……お母さん、帰ってこれたの。倉院のお墓に入ったんだ」
「そうだったのか。ずいぶん悶着していたようだったから、それは良かった」
「うん。里の人はみんな反対したけど、でもでも、あたしがいっぱい戦ったからね!」
「ちゃんと御挨拶したいと思いながら随分経ってしまった。今度、墓前まで案内してくれないか」
「ほんと? うれしい。もちろんですよ」
 御剣がほっとしたように薄く笑むのを見て、真宵のほうも肩の荷が下りたような気になった。
〈世話が焼けるんだから〉と彼女は心の中でつぶやいた。〈そんなとこも変わらないや〉
 そう、御剣は御剣のまま、変わっていなかった。
 しかし真宵はふと思う。では、自分は?


 二十歳を前にして真宵は正式に倉院流霊媒術の家元となった。それが成歩堂とも、御剣とも疎遠になるきっかけだった。
 もう、めっきり里から下りてくることもない。霊媒の仕事、修行、修行者たちへの指導、祭事とその準備。まさに忙殺される毎日だった。
 あのおいしいみそラーメンを出す店がとっくにつぶれてなくなっていたことさえ、御剣に教えてもらって驚いたくらいだ。
 彼が日本に帰ってくる機会のほうがよっぽど少ないと思っていたが、そんなこともないのかもしれない。
 その証拠に、最後に街に出てきたのはいつだったっけ、と記憶をたぐり寄せても、全然思い出せない。
〈あ……そういえば、最後にって言えば、最後に御剣検事と会ったのもいつだっけ〉
 中華料理店で注文するときに、彼が次々とメニューを言い並べるのも昔通りだったが、しかし真宵は抗議した。
「えーっ、あたしそんなに食べられないよ」
 御剣は、構わぬようにといった感じでそのままウェイターを下がらせると、
「前はこれくらい平気でたいらげてただろう」と反論した。
「いやいや、あたしももうトシだし、もうそんなわけにいかないよ」
「君は見たところ痩せ過ぎだ。少し太りなさい」
「御剣検事のほうは中年太りに気をつけなきゃねー」
「では私のぶんも君に食べてもらうことにしよう」
 彼の言葉自体は冷静だったが、中年、という言葉を耳にしたときに眉間のしわが大きく動くのを真宵はしっかり見ていた。
 料理は幸いにも味が落ちていることはなく、ただひとつ、食後に真宵が御剣に胃薬を分けてもらったことだけが三年前と違っていた。
「はー、鉄壁の胃袋で鳴らしたあたしがこんなものに頼るようになるとはねえ」
「これから、どうしようか。どこか行きたいところはあるかな」
「うーん、別に考えてこなかったな。映画でも観る?」
「かまわないが、飛行機の中であまり寝れなかったので、時差が少しつらいんだ」
 御剣は食後の中国茶をひと啜りした。「眠ってしまってもいいなら付き合うが」
「えっ、いい訳ないよ、つまんないよ。困ったなぁ。どうしよう」
「天気がいいから公園でも散歩しようか」
「いいけど、このあたりで公園っていっても」
「ひょうたん湖公園があるじゃないか」
 真宵はなんと言っていいのかわからず絶句した。「え、え、え。でもでも」
 どうして平気な顔をしているのだろう。あそこは、あんなことがあった場所じゃないか。
 真宵がそう言いたいのがわかったのか、御剣はさらに付け足した。
「前にも一度、いっしょに歩いたじゃないか」
「……へ? そ、そうだっけ」
「忘れたのか」
「うーん……そう言われれば、そんなこともあったような気がするけど……ヘンだなぁ」
 彼女はぬぐいようのない違和感に襲われた。よくわからないが、絶対にヘンだ。
 いつも楽しくてしょうがなかった御剣検事とのデート(向こうは子どものお守りとしか考えていないだろうが)を、完全に忘れているなんて。
「異論がなければそこに向かおうと思うのだが、どうだろう」
 何か不吉な気がして、真宵は正直言ってあまり気がすすまなかったが、
「ハイ……」と浮かない顔のままうなづくことしかできなかった。


 ひょうたん湖公園を包む春らしいうららかな陽気が、この上なく気持ちがよかった。
 だが、爽快であればあるほど、自分の心にいまだこびりつく嫌な予感を嘲笑われているかのようでもある。
「確かに……御剣検事と来たことある。思い出してきた。あの時は、夜だったと思うけど」
 並木道をならんで歩きながら、真宵はうわごとのように呟いた。
「今日は風も強くなくて歩きやすいな」御剣は興味のなさそうに話題を変えた。
「うん……そうだね。もう少し早かったら、桜が見れたのに」
「人が多いのは嫌いだ。こっちのほうが余程いい」
「……ああ……思い出した」
 彼女が立ち止まると、御剣もつられて足を止めた。
「前に来たときも同じような季節で、御剣検事、同じこと言ってた。なんで……なんで忘れてたんだろ」
「まあ、ど忘れなんて誰にでもある」
「そうかなぁ。なんか、それにしてはおかしいような気がするんだけど……。これが健忘症ってやつなのかなぁ……」
「なあ、真宵くん。私には、君は少々疲れているように見える。それが原因なのではないかな」
「……そんなこと、ないよ」
 御剣が自分を気遣ってくれること自体は嬉しくないわけがなかったけど、その思いやりから逃げたくて仕方がなかった。
 やや足早に再び歩きだすと、彼も遅れて続くのがわかる。
〈あたしの周りの人はみんないい人ばかりだ。自分はきっと世界でいちばん友達に恵まれてる。
 ……もったいないな。あたしはこんなに自分勝手なのに。
 そんなふうに気にかけてもらっても、まだあたしは、今日だけは普段を忘れて昔みたいに遊びたかったのにと苛だつだけなのに〉
「真宵くん」
 後ろから呼びかけられても、なんとなく返事をする気がしない。
「君が心配をかけたくないのはわかるがな……」
「それは、誰に頼まれて言ってるんですか?」
「なんだと」
「なるほどくんあたりが、聞き出すように相談したんじゃないんですか」
「む……」振りむいて表情をうかがうと、御剣は少し戸惑ったような顔をしている。
「確かに、私は出発前に、成歩堂夫妻から、君のことについて話を聞いていたが」
「やっぱりだ。変だと思ったんだ。三年もたって今さら御剣検事が会いたがるなんて。どうせ、そんなとこだろうと思った」
 言ってしまってから、真宵は自己嫌悪で胸が痛くなった。
 必要もなく刺々しい言葉を吐いたところで、相手まで嫌な気持ちに巻き込むだけなのに。
 言うんじゃなかった。どうしよう。御剣検事は、怒って、もう口をきいてくれないかもしれない。
 だが、真宵のそんな不安はすぐに覆された。
「……『どうせ』とは何だ、『どうせ』とは!!」
 彼からそんなふうに怒声を浴びせられたのは初めてだ。少なくとも法廷の外では。

「成歩堂はもう君の保護者ではないが、君たちが気のおけない友人同士なのは少しも変わらないはずだろう。
 そんな彼に、君とは疎遠になっている私にまで相談するほどに心配をかけておいて、君はいったい平気なのかね?
 心配させるなと言っているのではない。恥ずかしくはないのかと聞いているんだ。
 こんなふうな言い方はまったくもって大っ嫌いなのだが、あえて言っておくとだな、私は君のことを考えると、睡眠導入剤をいつもの量の倍飲んでもまったく機上で眠れなかったんだぞ。
 君はもういい大人のはずだろう、うつけ者が! それでもまだそんな口をきくつもりなら、少しは恥を知りたまえ!」
 真宵は御剣の顔をまともに見ることができず、地面に目を落とした。
 返事を言いあぐねていると、彼が先に再び口を開いた。
「こんなふうに昂ぶるのはあまり私らしくはなかったと思うが、しかし言っておくが申し訳ないとはちっとも思わんね」
「いいんです。あたしも、あたしらしくなかったから」
「わかってくれればいいんだ」
 彼女はなんとか涙がこみ上げているのを悟られまいと顔をそらしたが、かえってその仕草でばれてしまったようだった。
「気にすることはない」と御剣はちょっと慌てたふうに付け足した。
「すみませんでした。でも、ありがとう。ちょっと、目、さめた気がする」
「あそこに座っていなさい。飲み物を買ってくる」
 ベンチまで歩いていくと、目の前に湖がひろがった。涙の膜のせいで、表面のきらきらした光の反射がますます目に痛い。
 こんな気分でなければ、このまったくのお散歩日和を、足取りもかろやかに感謝していたろうに。 
 自動販売機でお茶の缶を買って戻ってきた御剣の手には、煙草の箱も握られている。
「チクっちゃおうかな。カルマ検事に」と真宵が表情を変えずに冗談を言うと、
「勘弁してくれ」彼もまた、笑いもせずに火をつけた。「こんなものでも無ければやっていられんよ」
「御剣検事ってさぁ」
「うム」
「イイ男だよね」
「何だ、今さら。君は今までどこに目をつけていたんだ」
「ううん。昔からずっとそう思ってた。御剣検事だけじゃなくて、なるほどくんもイトノコ刑事も、そう。
 ヤッパリさんだって、ちょっと軽いけどあたしにはすごく優しくて、いい人だしね。
 ね、あたしの周りの男の人って、みんないい人ばっかりだったでしょ。だから、男の人ってみんなそんなかんじなのかと思ってた。
 みんな、なるほどくんとかイトノコ刑事とか御剣検事とかヤッパリさんとかみたいな人ばっかみたいに思ってたんだよねえ」
「結婚の話かね」
「あ、わかった? 家元になってから、何がきついかって、お見合いをこなすことばっかり忙しくて……。
 もう、昔ほどには綾里ブランドにもハクがないんだけどね、まあ腐っても鯛っていうの? 
 本当に色んな人が来るんだよね。あたしのお父さんか、おじいちゃんくらいなんじゃないのって年の人までだよ!
 こんなに、たあああっくさんの男の人がね、みんな、ただ、あたしの家の名前と霊媒術のためだけに、結婚したいんだなって……」
「ふむ」
「びっくりした。ホントに。そんなことできる人がこんなにいっぱいいるなんて。
 それで、あたしは、ほら、たとえば、キミ子おばさまが、旦那さまのことで、すごくつらい思いをされたことも知ってるし。
 でもみんな、そんなこと知ったことじゃないよね。早く結婚しなきゃ、子どもが産めなくなっちゃうもん、そりゃ焦るよね。
 もう、結婚しなくてもいいから適当に、た、タネもらってきて子どもを作りなさいって、そこまで言う人もいるんだよ。
 そりゃ、あたしだって、子どもは欲しいけど、そんなことできるくらい器用なら、最初から結婚してるって!
 ……結婚なんて、しなきゃいけないものだってずっとわかってたのに、……そのはずだったのに」
「なるほど。軽度の男性不信に陥っているというわけか」
「やだやだ、そんなたいそうなもんじゃないよ。もともと、ずっとそういう話題は苦手だったんだから。
 結婚がいやで、じゃあ、だったら、レンアイがしたいのかと言えば、そうじゃないんだ。
 それに、恋愛結婚は、もっとやだ」
「ほう。それは、どうしてかな」
「なんていうか……」
 お茶をいくら飲んでも、喉の渇きが癒されないような気がした。
「うまく言えないかもだけど。……巻き込むのがイヤなんだよね」
「何に?」
「うーん……倉院の里に」
「まあ、確かに君の故郷は少々特殊な場所だが」御剣は言った。
「しかし、君は魅力のある女性だ。多少の事情にくらい、腹をくくることができる男なんて、いくらでも」
「違う違う」真宵は首を振った。
「そうじゃなくてあたしがイヤなの。好きになった人ならなおさら、こっち側に引きずり込むなんて、考えられないんだよ」
「…………」
「勘違いしないでね。倉院の里のこと、嫌いなわけじゃないの。
 ただ……里から下りてなるほどくんの事務所で働いてて、あそこがどんな場所なのか、わかったんだ」
 真宵はそこで話を変えた。
「あたしどうすればいいのかわかんなくて、何度も何度も、お母さんみたいにしようかなって思ったよ。
 里を出て……もとから、はみちゃんの方が霊力はあるんだし、家元を任せて……、でもさ。
 誰も文句のある人はいないだろうけど、でも、はみちゃんだけは、あたしのこと、絶対許さないだろうなって思うと」
 不覚だ。まったくもって不覚だ。
 涙だけは見せたくなかったのに、気がつくと、もう隠しようもないほどこぼれ落ちてしまっている。
「あたしの霊媒師としての、家元としてのプライド、そんなものだったのかって、すごくがっかりすると思うと……、
 別にあたしは、今さら、人に許してもらえないことぐらい、慣れっこだけど……、
 そんなことより、ずっとずっと、人を許せないことのほうが、つらいもん」
「真宵くん、そんなに思い詰めないほうがいい。色々考えてしまうのはわかるが」
「知ってるでしょ、あたし、もう二十二になったんだよ」
 彼女は御剣を睨んだ。もう、涙でよく見えもしないのに。
「ちょっとやそっと思い詰めちゃうくらい、しょうがないよ。
 あそこでは、適齢期だのクリスマスケーキだのって言葉が、まだ残ってるんだよ、信じられる?
 いまどきそんな時代遅れな言葉、ギャグだよね」
 真宵は笑おうとして顔を歪めたが、自分でもいびつな表情にしかならないのがわかった。「……でも、ギャグじゃないんだよ」
「まあ、だいたい、想像はしていた」御剣は煙草をベンチの脇の吸殻入れに落とした。
「君が、水準からいって不自然なほど男っ気がないのは昔からだったしな。
 てっきり成歩堂が責任を取るかと思っていたのに、さっさと別の女性と入籍しやがった時から、ずっと気がかりでいた。
 もっとも、私が気にかけたところで何も変わりはせんがね」
「そうだね」
「なんでそこで肯定するのだ。傷つくな」
「えっ。あ」真宵はとりあえず謝った。「ゴメンなさい。だって……でも……こんなこと御剣検事に言ったって、どうにも」
「だから、そういうのが傷つくと言ってるのがわからんのか」
「す、すいません」
「つまりだ」御剣はかったるそうに二本目の煙草を咥えた。
「私にも君の気持ちがよくわかる。というのも、君が思っている以上に米国はカップル単位、夫婦単位で物を考える社会なものでな。
 独身者差別はむしろ日本よりもひどいと言っていい。いい年をして恋人も配偶者もいないとそれだけで社会的信用は落ちる。
 そんなもの、私なら仕事上の実力で充分取り返しているとは言っても、人格上問題があるように決めてかかられるのもいい加減疲れた。
 それに、その、なんだ……周りの同性愛者に、報われないアタックをやめさせることができないのも、なんというか、彼らにしのびない」
「へえ……御剣検事も大変なんですねぇ」
「まぁ、そこでなんだが、どうかね」
「どうかねって何が?」
「つまり、みなまで言うと、二人の利害が完全に一致していると私は思うのだがどうかね、ということだ」
 真宵はまったく言っている意味がわからず、おうむ返しに訊ねる。「リガイって?」
「私はしかるべき指に指輪を填めていさえすれば、出身国に妻を置いてきてまで仕事に人生をかける男になれる。
 そして君は、出稼ぎで忙しい夫の帰りを待ち続ける妻になれる。いい取り引きだ」
「あのあの」真宵は言った。「なんとなく話が見えてきたんだけど、勘違いしてたら困るから、はっきり言ってもらえますか」
「くそっ」彼はほとんど吸ってもいない煙草をぐしゃぐしゃに潰して消してから、真宵に向き直った。
 かわいそうなくらいに顔を真っ青にして、握った拳を震えさせている。……悪いことをしてしまったかも。
「だから、つまりだな。その、私と。……け、結婚してくれないか、と言いたいんだ」


「あ、やっぱりそっか。ん。……どうもありがとう」真宵は薄く笑いかけた。
「む。真宵くん、それじゃその。君は……」
「なるほどくんにもね、同じこと言われたよ。ずっと前にだけどね」
 御剣の顔が固まるが、真宵はそのまま続ける。
「ぼくと偽装結婚しないか、だって。さすが、親友同士、考えることが一緒なんだね。
 冗談っぽく言ったけど、でもあれは半分本気だったね。ことわっちゃったけど」
「どうして断ったんだ」
「だってさあ、あれじゃない。結婚できたとしても、その次は子どもでしょ。
 偽装結婚なんだから他の男の人に頼んだっていいんだけど、さっきも言ったけど、そんなことができてれば最初から苦労しないよ、みたいなね」
「真宵くん。私のほうは……私のほうはだね」
 御剣は大きく咳払いをした。「そのぅ、ふ、ふっ、夫婦生活の実体があっても、まったく、かまわないわけだが」
「やだあ。冗談言わないでよ」
「……そんなに、私では駄目なのかね。お話にもならないほどに」
「そんなことないないない! あたしにはもったいないくらい御剣検事は素敵な人だと思うよ。
 ほんとにイイ男だと思うし、連絡とってなかった間だって、それでも、ずっと友達だと思ってたもん。
 ……でもさあ、恋愛とか結婚とか、体の関係とか、そういうことを考えると、なんか、胃のあたりがウッてなるんだよ。
 御剣検事だけじゃなくて、他のだれでもそう」
「ふーむ」
「変な言い方だけどね。今日は絶対ごはんだっていう気分のときに、むりやりパンを食べさせられるみたいに気持ち悪くなる」
「君らしい、いい喩えだ」
「ありがと」
「しかし、困ったもんだ」彼はため息をついた。
「君の男性恐怖症は思ったよりも根が深そうだ。前々からそう思っていたがね。昔から、こんなふうに」
 御剣がごく肩に手を回してきたとき、真宵は思わずベンチから飛びのいてしまった。
 彼は気にしたふうもなく平然と続けた。「とまあ、こんなふうに、少し体に触れただけでも、このありさまだからな」
「え……、……あ、あ……あ……あああ!」
 真宵が、座り直すこともできずに立ち尽くしたままなのは、触られた驚きからでも、彼の手を拒絶した申し訳なさからでもない。
〈思い出した……!〉
 愕然とする。〈お、思い出した……思い出した……ああ! 最後に御剣検事と会ったとき、あたし達が来ていたのはここだった〉
 あのときは夜だった。あのときも、ひょうたん湖公園を歩こうと言い出したのは、彼のほうからだった。
 真宵は驚いてずいぶん遠慮したものだ。むろん、彼を気遣ってのことだ。
 しかし、御剣は笑って、「肝試しもたまにはいいだろう」と言った。だから、行ったのだ。
 なぜそんなところに彼が行きたかったのかなんとなく分かるような気がする。
 もう過去を気にしない、強いところを見せつけたかったのだろう。真宵にも。自分自身にも。
 だから、本当に彼にとっては肝試しだったに違いない。
〈でも……それなのに、あたしは! あたしったら、なんてことしたんだろう!!〉
 街灯に照らされた並木道を二人は歩いた。真宵はなるべく話をふったけど、会話ははずまなかった。
 そのときだ。不意に、指と指が触れた。引っ込めようとする前に、ぎゅっと握られていた。
 びっくりして彼女が御剣をうかがい見ると、目があった。
 心細そうな顔をしていた。
 頭ではわかっていた、彼に今必要なものは、黙って握り返してあげることだけなのだ、と。
 わかっていたのに! わかっていたのに!
「すまんな」御剣は苦笑いした。「もう何もしないから、はやく座りたまえ」
 あのときは、彼はそうは言わなかった。
 真宵が御剣の手を振り払ってから、二人ともそれきり口を閉ざしてしまったし、彼の顔を見れば、傷つけてしまったことがはっきりとわかった。
 駅まで送っていってもらったはずだから、それから何かしゃべったはずだが、思い出せないし、興味もない。
 それが、長い間、最後だったのだ。
 しばらく経って家元に昇任したとき、彼からは、立派な花束と、知らない海外メーカーのアイスクリームの詰め合わせが届いた。
 アイスはとてもこの世のものとは思えないくらいおいしかったが、どうしたものか、お礼状も出しそびれっぱなしでいた。
「あ……ああ、あ、あた、あたし……ああ」
「そう気にすることでもあるまい」御剣は真宵の動揺を勘違いしたようだった。「少なくとも私は気にしてはいないしな」
〈うそだ、気にしてないなんて。だったらなんで、あれからずっと、連絡してくれなかったの!〉
 真宵はふらふらとベンチに手をつき、倒れ込むように座った。
〈ううん、違う、本当はあたしの方から連絡すべきだったんだ。当たり前だよ。でもできなかったんだ。
 しなきゃいけないと思いながら、時間がどんどん過ぎてって、気がついたら、もう遅すぎた。
 あたしはつらくてつらくて、……どうしても忘れてしまいたくて〉
 たとえ彼がそれを今でも気にしていようがいまいが、覚えていないわけがない。
 しかし今になって、なんと言えばいい? 三年も前の出来事を今になってどうやって謝ればいい?
 一笑に付されるだろうか、それとも、傷口のかさぶたを剥がしてしまうだろうか。
「力になれなくて申し訳ない」御剣は言った。「何か知恵を搾っておくことにする」
「…………」
「真宵くん?」
「あ……すいません。ちょっと」真宵はなんとか返事をした。「……考えることが多すぎて、頭が……」
「君を困らせるつもりではなかったんだ。すまない。そんな顔をしないでくれ」
「ううん……そうじゃないの……そうじゃなくて」 
 顔がくしゃくしゃになるのも構わず、彼女は言葉を探したが、たいした成果はなかった。「ゴメンなさい……」
「うム……森のほうまで歩こうか。ちょっと、気分を換えよう」


 深緑の中を黙って歩いていると、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。
 御剣のほうをうかがって目があうと、彼は唇の端を歪めて笑い、何かな、と言うように小首をかしげた。
〈考えてみれば、あれから三年も経ってるんだ〉
 あの時の彼は見たこともないような顔を……まるで撲たれた子犬のような目をしていたけど、これだけ時間が経った今、過去のことは過去のこととして、彼の中で片付いている可能性のほうが高いことに思い当たって、取り乱したのが恥ずかしくなってきた。
 自分はとんでもなくひどいことをした。けれど、なんといっても、御剣は大人なのだ。
〈御剣検事……聞きたいな。もう、あたしのこと、許してくれてるのか〉
 だが、そんなことを訊ねること自体が失礼な気がして、とても口に出せそうにない。
「さっきはすまなかったな。突然、あんな話をしてしまって」
「え。あ。そんなこと」真宵はぶんぶんと首を振った。「そんなにあたしのこと考えてくれてるのかって、感動しちゃったもん」
「そう言ってくれると助かる。……真宵くん、今はまだ、あれは急な話なのかもしれないが」
 御剣は目を細めて真宵を見つめた。彼女はこの顔に弱い。いつも、心臓がキュッとなる。
「その……真剣に考えておいてほしいのだ。いつまでもとは言えないが、少しくらいなら返事を待っていられる」
「え」
「それに、あー……もっとロマンチックなプロポーズのほうがよかったというなら、日を改めてもう一度申し込む準備もあるし……」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って!」
「頼む。そう頭ごなしに思考停止しないでくれたまえ」彼はつらそうに眉を寄せる。
「少しでいいから真面目に考えてほしい。私の人生の問題でもあるのだ」
「あの、ああ、ごめんなさい、ほんっとごめんなさい!」真宵は何度もぺこぺこと頭を下げた。
「ありがとうございます。すごく嬉しいです。ほんとです。でも、でも、ホントに悪いとは思うんですけど、どんなに考えても同じだと思うんです」
「…………」
「だって、結婚しても、子どもが出来なきゃしょうがないでしょう? でもあたし、さっきの通り、体に触られるだけで……」
「真宵くん。思うのだが、見切り発車を決意するのも一つの手ではないだろうか」
「み、みきりはっしゃ」
「それとも私は、君の男性恐怖症を解いてあげられる可能性が、万にひとつもないと言い切れるくらい、魅力のない男だろうか」
「そそそそそそんな」真宵はすごい勢いで首を横に振りすぎたせいで、目の焦点が合わなくなり、めまいがした。
 足元がふらついたとき、御剣が反射的に手を差し出すのがわかったが、なんとか自力で踏みとどまった。
 いま、彼の手を借りてしまうことだけは避けなくてはいけない。
 繋いでしまった手を離す自信がまったくないのに、きっと、最後にはもう一度振り払わなくてはいけなくなるに決まっているから。
「そうじゃないんです、そうじゃないんですっ! だから、あたし、さっきも言ったように……引きずり込みたくないんです!」
「ああ、その話か。さっきも君は何か言いにくそうにしていたが」
「あのっ、あの」彼女はいったん呼吸を整えてから、神妙に続けた。
「……勘違いしてほしくないの。あたしの故郷は倉院の里だけで、あたしは自分の帰る場所はあそこ以外にないと思ってるのは本当なの」
「うん」
「でもね」口ごもってしまうが、しかし、話しておかなければいけないことだ。
「あたしは……あの場所は、今よりもっと、外と断絶したほうがいいと思うようになってきたの。
 里の中と外とをどんどん閉ざしていって……人目に触れないようにして……少しずつ、消えていくのが、一番いいって」
 御剣の切れ長の目が見開かれる。「……それは、霊媒術の存在のためか?」
「うん……。あたしは今、なんとか霊媒で人を幸せにする方法を色々探しながら、仕事を請けてるんだ。
 それが、霊媒があったせいで不幸になった人たちへのたむけになるかなって思って……。
 だって、本来は、霊媒なんて、あってはいけないもので……。
 存在しちゃいけないものが存在してるから、あたしは頑張って、それを使いこなそうとしてる。
 術を人間が使うんじゃなく、術に人間が使われることが、いちばん怖いことだから」
 真宵は震えを止めようとして、自分で自分の肩を抱きしめた。
「倉院の里が今みたいになるまで、長い長い時間がかかったと思う。
 だから、それと同じくらい長い長い時間が必要なのかもしれない。
 けれど、あたしの代から……あたしから……ゆっくり、滅ぼしていきたいの」
 ひどい顔を見られたくなくて、できるだけ自然に背を向けた。「お願い。信じて。あたしは倉院の里が大好き。離れることなんか考えられないくらい」
「信じるさ」
「ほんと?」
「私も似たようなことを考えるときがある」
「うそっ!」思わず振り返ってしまう。
「私は犯罪者の罪を立証することを通して、この世から犯罪が少しでも減ればいいと願っているが、ところがしかし、考えてもみたまえ。
 犯罪者がいなくなれば検事なんて仕事はおまんまの食い上げだろう」
「あっ! そ、そうか」
「わかったろう。君は別におかしなことを考えているわけじゃないさ」
「そうかなぁ……うーん……御剣検事が言うんだったら、そうなのかも」
 はーっと大きく息をついて、安心すると、自然と笑みがこみ上げてきた。
「なるほどな。やっと、だいたい話が見えてきたよ」
 入れ替わりのように御剣が、疲労の色を浮かべて大げさに肩を落とした。
「さて、このあたりでいったん整理してもいいかね。
 君は里に外部の人間をこれ以上関わらせたくない。沈みかけているタイタニック号に人をひっぱってくるようなものだからな。
 そして、ひいては綾里家と心中する腹づもりでいる。だから外の人間との結婚は嫌だが、自分の死後に遺志を継ぐ子どもは欲しい。
 しかし種を仕込んできたくても君は男性恐怖症ときてる。こんなもので合っていただろうか」
「わ。さすが御剣検事だ」
「やれやれ、もう、さいころ錠は残っておらんだろうな」
「え、何?」
「なかなかの無理難題ときたもんだ、と言ったのさ」
「うう。ですよね……あたしもそう思う」
「……やっぱり、素直に腹をくくるのが一番賢明な判断に思えるんだがなぁ……」
「腹をくくって何するの?」
「指輪を受け取る」
「ぶっ。う、受け取らないよ! これだけあたしが、無理だって言ってるのに、まだ言うの?!」
「成歩堂が君を助けようとして川に落っこちて、あやうく溺れ死ぬところだったのを覚えているか」
「そりゃ覚えてるけど」
「私にもそれくらいのことをさせろ。川に落ちるも沈没船に乗るも同じようなものだ。どうして、成歩堂はよくて、私はだめなんだ」
 まるで、子どもが拗ねたときのような顔をしているのを見て、真宵は呆れた。
「そ……そんなの屁理屈でしょうが! 御剣検事ともあろう人が、何言ってるのよ!
 あのときなるほどくんはあたしの保護者で、それがあれほどまでのことしてくれた理由でしょ。
 御剣検事のほうは今日アメリカから帰ってきて、三年ぶりにあたしと会ったばかりじゃない!
 そ、そうだよ……三年も、三年もほったらかしにしてたくせに、なんでケッコンとか、すぐに言えるのよ! そういう神経って、信じらんないよ」
「長いこと連絡を取らなかったのは悪かった。が、私は真剣だ。軽々しく言っているわけじゃないのは君にもわかるだろう」
「ええ、ええ、わかるよ、わかります。重々しく言ってるんでしょ。わかるよ、御剣検事っていつもそうだもん。
 いつもマジメで……あたしの話なんかを、マジメに考えたりするんだから。
 だから、そんなヘンな話になるんだよ。なんで、あたしが結婚できないからって、じゃあ自分が貰ってやるとまで思っちゃうのよ!」
「別に私は」
「御剣検事って、重いよ、いつも」真宵は、悪いと思いながらも、彼の言葉をさえぎらずにいられなかった。
「なにもかもマジメに受け取りすぎだよ。昔から思ってた、うざったくて疲れるときあるって。
 友達思いなのはわかるし、嬉しいけど。でも今回は、さすがにちょっとひいたよ」
「ほう。長らくそう思われていたとはついぞ知らなんだ」
 すぐに自分が口をすべらせすぎたことに気がつく。「……すみません。あ、あの」
「そんなに、私は重かったか」
「…………」
「『私にとって人生は重いのに、あなたにとっては軽い。その軽さに耐えられない。私は強くないから』」
「え……」
「確かに私は君にとって迷惑なくらい重かったのかもしれない。
 だが、誰にたいしてもそれほどまで親身になれるような人間ではないことを知っていてほしい」
「はい……わかってます」彼女は改まって頭を下げた。「ホントにごめんなさい」
「安心しなさい。もう二度とあんなことは言わんよ」
「…………」
 真宵は後悔した。しばらく考えさせてください、とたったひとこと言うことができなかったことを。
 望みを持たせるような言い方をしたくなかったのなら、せめてもっと、ほかの言い方があったのに。
 ムキになってしまって、止まらなかった。
 バカだ。大バカだ。三年間、ほったらかしにしてしまってたのは、あたしのほうなのに……!
 ふだん里にいると感情の起伏が自分でも驚くほど乏しいのに、今日は、泣いたり怒ったり落ち込んだり忙しくて、すっかり疲れてしまった。
「御剣検事……」
 先を歩く彼が、立ち止まらずに振りむく。
 口は微笑んでいるのに、目だけ悲しそうにしてるのは、反則だ、と真宵は思った。

最終更新:2009年03月21日 08:24