成歩堂×千尋②

 術者は夢を見ない。
 そして記憶もない。
 では、今彼女の意識は一体どこにあるというのだろうか。
 僕は目を開ける。目の前に居るのは微笑む彼女。
 彼女の名前は綾里千尋であり、同時に間違いなく綾里真宵だった。
 「久しぶりね、あなたとこうして話すなんて」
 「……もうじき二年になります。」
 「死人には時間なんてもっとも無駄なものよ」
 「…僕にとっては重要です…」
 「それはあなたが生きているからよ。
 ……生きて、変わってゆくから重要なの。」
 「…異議あり…千尋さんだって変わった。……だから僕とあの時……」
 「ダメよ、なるほどくん。そんな腑抜け声、法廷では通用しないわ。
 いつもみたいにあの大きな声で…言って?」
 「あなたは変わった!僕を置いて行ってしまったくせに僕を……縛る……
 一年前、僕は罪を犯しました。あなたと一緒に。
 僕はこの罪の償いをするつもりです。一生かけても、必ず。
 しかし今あなたの言った言葉は明らかに再犯を促すことだ!これは…許されざる…」
 声が最後まで出ることはなかった。結局これは自分の言い訳に過ぎないのだ。
 「……卑怯です、千尋さん。あなたは……卑怯だ……」
 「…卑怯?」
 「僕が拒めないことを知っていて…」
 「何故拒めないの?あなたには拒む権利もそのすべもあるわ。拒もうとすればいくらでも拒めるはずよ。」
 「拒めませんよ!あなたが好きだったんだから!」
 薄暗い事務所に響き渡る声。いくら商売柄、防音設備がある部屋とはいえども漏れても不思議ではない大きな声だった。
 聞かれたくなかった。そして聞かせたくなかった。
 「せめて一人前になってから言いたかったのに」
 「あなたはもう十分一人前よ。私の誇るべき弟子だわ。」
 聞こえる声が生前からは思いも寄らないほど優しく静かなことに、軽い失望さえ覚える。
 「……あなたは僕にとって神様でした。だから安心して憧れていられた。絶対に手が届いたりしない、神様でした。……手が届いてはいけない、神様だったんです。」
 僕はいつもいつも千尋さんの叱咤を心に支えにしていた。不安も恐怖も、あの厳しい視線と叱責で吹き飛んでしまう。ここまで自分が食い下がって弁護士を続けてこれたのも、千尋さんが僕の神様で居続けてくれていたからだ。
 「こんな……反則だ……卑怯です……」
 それなのに彼女はあっさりと、神様をやめて人間になってしまった。女性、という人間に。
 「……綾里の娘は男性と知り合う機会はほとんどないわ。倉院の里を見たでしょう?閉鎖的で…それに真宵は霊力もある。きっと好きな人とは結ばれたりしないでしょうね。
 私だって…真宵の嫌いな人となんかしないわ。
 これは真宵の意志でもあるのよ」
 冷たい空気が体中を凍らせる。事務所の窓辺に立つ“彼女”の肌を、街灯や過ぎ行くヘッドライトが舐めてゆく。それはまるで月光に浮かび上がる幽霊のようだった。
 「…………それこそ卑怯じゃないですか。……真宵ちゃんは…妹みたいに…
 ……僕は…“妹”を汚した罪を償わなきゃならない。…重過ぎる罰です…けど!やっと自分の中で整理が付いた時に……また僕に罪を犯せというんですよあなたは!」
 「……罰?」
 「そうです。あなたを想って真宵ちゃんを抱いた罪のね」
 一年前のあの事件の後、僕は彼女を抱いた。彼女は抵抗さえしなかった。
 「一年前のあの夜のことを……僕は後悔しました。もう会えないあなたを想うあまりに……彼女に軽蔑されても仕方ないことです。
 だから…せめて真宵ちゃんの…彼女の力に、なりたい。」

 真宵ちゃんは強くない。姉を亡くし叔母も母も居ない、たった18歳の女の子。テレビと味噌ラーメンが好きで、おせっかい焼きで朗らかで、少し、寂しがり屋の世間知らず。
 「千尋さんの忘れ形見です。大切な助手です。」
 せめてあと少しばかり勇気があれば千尋さんの目を見て、言い切れただろうに。言い訳がましく視線を動かせない自分が情けない。
 「わたしは結局、神様でしかないのに?」
 ……そ、それはどういう……そう言葉が口から出る前に、彼女は先を続けた。
 「そのままの意味よ成歩堂くん。わたしは最後まで神様のまま。
 でも、真宵は違うわ。生きているから変わっていくのよ。……他人から“妹”、そして力になりたいと思える女へ。」
 ようやく向けた視線の先には微笑む千尋さん。長い黒い髪が街灯の弱い光に浮かび上がって、ぼんやりと外界から切り離されたかのように神々しささえ携えている。
 「あなたが生きて変わってゆくから。
 わたしは変わらないわ。もう、時間が必要ないもの」
 その一言に、この人はこの世に居ない、ということをこれ以上ないほどはっきり認識させられてしまった。千尋さんは死んだのだ。死んでしまった人なのだ。
 「……大切なんでしょう?真宵が……
 見てれば分るわ、嘘が下手ね。今更この綾里千尋に妹だからなんてハッタリは通用しないわよ」
 「………………。」
 彼女が死んでしまって、もう本当の“神様”になってしまってからの後悔。
 “神様”だと安心していた自分に逆襲され、何度も繰り返した悔恨。言いたかった言葉が、言えなかった言葉が通じる白昼夢に理性を失い……そして茫然自失。
 「あなたのことが好きでした。強くて、綺麗で、なにより毅然としていた……僕はこんな性格だから憧れて……。
 安心して憧れていたのに。」
 「安心して憧れているなんて……ひどいこと言うのね……
 女はそんな言葉、必要ないのよ。
 ただ愛してるという言葉が必要なの。」

 「……何故抱かれたんですか?」
 「……卑怯よ。」
 「…そうですね。分ってる答えを聞くなんて、卑怯です。」
 「……さすがわたしの弟子ね……」
 呆れ顔に笑顔を貼り付けて彼女が微笑む。つられて微笑む自分が、ようやく地に足が着いた気がした。この罪の重さを背負いながら罰の海に漂う人が、他にもいたのだ。
 「……キスをしましょう。最後のキスを……」
 どちらともなく目を閉じて、深い深いキスをした。キスは……真宵ちゃんにあげたハッカキャンディの味がした。
 長い髪の彼女の体を抱いて、何度もキスをした。腰に回される腕の細さと力の弱さに気付いて、それから強く引き倒された。ソファに掛かる月明かりが幻想的で、少し怖かった。
 「キス、ですよね?」
 「そ…Kiss off。知ってるわね。」
 「殺す、って意味ですよね。」
 「『殺し文句』よ」
 「……卑怯な…人だ……」
 外は雨が降っている。部屋の中の暖房もすっかり止まっていて、しんと冷えている。冷たい唇にもう一度キスをする。もう一度、もう一度、もう一度……
 もう二度と触れないと誓ったはずの肌に僕は吸い込まれる。胸元に舌を這わせる。冷たい肌に舌を這わせる。
 「……んん……」
 耳を澄ますとそれは本当に真宵ちゃんの声で、目を向けるとそれは本当に千尋さんの顔で、そのギャップと不思議さにゾクゾクと背筋がそそけ立った。それは快感でも、恐怖でも、恋慕でも、嫌悪からでもなく。
 ここから何も始まったりしないことが二人とも解っている。これで終わりなのだ。
 冷たく急かす彼女の手が何度も僕の背を這う。この手がせめて暖かくなくてよかった。ひやりと滑る冷たさが強引に僕を現実に引き戻す。
 耳元で囁やかれる、ありえない千尋さんの吐息が僕を覚醒させた。
 「……もう少し早くこうなれたら……」
 僕はつぶやいて目を閉じる真宵ちゃんの身体を抱きしめるしか出来なかった。流れる涙を見ないようにするために。
 魂は掴めない。
 手を伸ばしても。

 ラーメン屋からの帰り道、久々に二人並んで随分前に日の沈んだ静かなオフィス街をてくてく歩く。
 「あーおいしかったぁ。
 でもなるほどくんからラーメンに誘ってくれるなんて珍しいね。」
 くりくりした目が満足そうに僕を眺める。昨日の長い霊媒の疲れからか、実際彼女はよく食べた。店の人たちが呆れるほど。
 昨日の夜、気付いた時には既に千尋さんは影も形も無かった。二年前のあの日と同じように、跡形も無く消えていた。ソファを占領して眠るのは、シャワーを浴び、髪をバスタオルにくるんだままで幸せそうに眠る真宵ちゃん。
 僕の後ろめたさを射抜くようでいて、恨みがましさなどまるで存在しない瞳。この瞳に晒されることこそが罰のような気がする。
 「ねぇ真宵ちゃん、霊媒してる時って意識ないんだよね。」
 「どうしたの、急に。」
 「いや…じゃあ、霊媒中に真宵ちゃんはどこへ行っちゃうんだろうと思って。」
 生きても、死んでもいない状態。肉体に吐き出された彼女はどこへ行くんだろう。魂が迷うことはないんだろうか。
 「んー、意識が無いっていうのとはちょっと違うんだよね。
 例えるのが難しいんだけど……自分の中に魂を呼ぶんだって。自分がその御霊そのものになるの。だから意識が無いっていうよりは連続しなくなるって感じかな、わたしはその場所ではその人でしかなくなるけど、でもそれもやっぱりわたしなのよね。……わかる?」
 僕が抱いたのは、彼女だった。
 彼女の名前は綾里千尋であり、同時に間違いなく綾里真宵だった。

 「じゃあ千尋さんを霊媒したら、千尋さんの魂を持った真宵ちゃんになるんわけだ」
 「あっそうそう、そんな感じ。」
 「……もし、千尋さんが帰らなかったりして、ずっと意識が連続しなくなったりしたら……真宵ちゃんはどうなるんだ?ずっと千尋さんのまま?」
 「やだな、そんなことないよ。あたしそんなに長く霊媒できないし…」
 「もしだよ!もし、霊が帰らなかったら………」
 肉体があったってそれは真宵ちゃんではない。意識と記憶の連続しないただの入れ物だ。それはきっと死に別れるより辛い。目の前に居る分だけ、辛い。
 「あたしまだ未熟だし、春美ちゃんみたいに才能もないから霊が帰らないってのはあるけど…
 でも大丈夫だよ、あたしはちゃんと帰って来るからね。」
 小さな背中から伸びる淡い影がそう言った。
 彼女の笑って振り向いた顔が翳る。
 「………ど…どうしたの、なるほどくん……なんで泣いてるの?」
 「約束だぞ、ちゃんと帰ってきてくれよ」
 「…うん。」
 あたしはちゃんと帰ってくるよ。
 もう一度彼女がそう言ったので僕は真宵ちゃんを抱きしめた。
 ここにいる。ここにいる。真宵ちゃんはここに居る。


おわり




あとがき
3では千尋さんの扱いには最善の注意を払って欲しいっス。
つーかぜんぜんナルチヒじゃないYO!とかの苦情キボン。
最終更新:2006年12月13日 07:57