「しっかりしてちょうだいね」

ふいに、腕を強く握られた。隣に視線を落とすと、いつになく不安げな顔の冥と目が合う。

続いて前方に目を向ければ、豪奢なドアとインターホン。はて、ここはいったい誰の家だろう。

「完璧なあいさつ、完璧なマナー。狩魔に認められるならばまずは完璧が条件なの」
「うん……」

とりあえず生返事を返したものの、成歩堂は今の状況に至るまでの過程をさっぱり忘れてしまっていた。

冥が何やら横でつらつらと述べているがとりあえずシャットアウトして、今朝からのことを順番に思い出してみる。


確か、今日は事務所を休みにしていつもより遅く起きた。起きてすぐ電話があって、相手は―――そうだ、冥だった。会ってほしい人たちがいる、といった彼女と待ち合わせの約束を取り付けて、午後に約束の場所まで行った。
芸能人が住んでいそうな豪邸の前が待ち合わせ場所。
表札には英字で“Karuma”と書いてあって……。

「―――そうだ」

そうだ。そうだった。
自分は冥の家族に挨拶をしに来たのだ。正確には、彼女との交際を正式に認めてもらい、なおかつ結婚を前提にしたお付き合いを公認してもらいに。


いつの間にかこの冴えない弁護士である自分・成歩堂龍一が、最年少天才検事の呼び声高い狩魔冥とそんな関係にまで進展していた事実を成歩堂は今更ながらに思い出した。

最悪の第一印象から始まった二人がここまでやって来るなんて、多分誰も予想していなかったに違いない。

成歩堂だってこんな高飛車ですぐ鞭を振るう女なんかと最初は思っていたし、冥だってきっとこんな完璧とは程遠い男なんか、と思っていただろう。

それでも今彼らはここにいる。人生、何が起こるか分かったものじゃない。

思い出せばここまで来るのにかなりの紆余曲折を経験した。
ようやく恋人同士になれたはいいものの、どう接すればいいか分からず困惑する成歩堂を、愛想をつかされてしまったのだと勘違いした冥に泣かれてしまい、それを知った御剣が事務所まで殴り込んで来た。

赤い鉄バットを振り回す彼と約半日に及ぶ壮絶なる追いかけっこの末、ようやく冥の誤解を解いたと思ったら次は……やめよう。

心の自制機構がこれ以上はやめておけと警報を鳴らしている。


「……ちょっと、聞いてる?」
「聞いてる聞いてる……鳴らすべきは警報じゃなくてインターホンだよね」

え?と首をかしげる冥になんでもない、と笑ってみせ、彼はインターホンを押す。

意外に普通のチャイム音、一拍遅れて穏やかな女性の声がドアの向こうからわずかに聞こえてくる。


「ねぇ」
「なに?」

「家では私のことは、その……冥って呼んで。私も龍一って呼んであげるから。
か、勘違いしないで、その方がなんとなく聞こえがいいからで―――」

「分かったよ、狩魔冥」
「だから―――!」
「まだ玄関だよ」
「狩魔は玄関から狩魔よ!」
「わけわからん……」

そうこうしているうちにドアが開く。冥が腕を掴む手にぎゅっと力を込めたので、そっと腰を抱いてやった。


―――

出て来たのは妙齢の女性で、冥の姉だった。
案内された先はリビングで、見るからに高価な調度品が立ち並んでいる。その中でもひときわ目を引く革張りのソファに、彼女はいた。

「ママ」
冥が呼び掛けると、彼女は紅茶のカップからこちらへと目線を向けて来た。


「連れて来たわ。……龍一よ」

ママ―――冥の母は話によると五十代に入ったばかりらしいが、それよりもかなり若く見える。だがけして軽そうなわけではない。年相応の落ち着き、品性、そして色気。さすがは完璧主義者・狩魔豪が伴侶として選んだだけはある。

「成歩堂龍一です」

頭を下げると彼女はこれまた完璧な笑みを称えて、どうぞ、と成歩堂たちにソファを勧めた。

「冥の母です。お話はいつも冥から伺っておりますわ。この子は最近、手紙でも電話でもその話しか致しませんから」
「マ、ママ!変なことをいわないで!」

耳まで赤くした冥に追い討ちをかけるように、母の隣に座った姉が、

「そうなの。だから話していたのよ、あの冥がメロメロになるなんていったいどんなひとなのかしらって」

「お姉ちゃんっ!」

くすくすと笑う姉と、本気で恥ずかしそうな冥。なんだか冥が年相応の可愛らしい少女に見えて、成歩堂は我知らず微笑んでいた。

「怜侍君からもあなたの話は聞いてるの。今や法曹界のトップ弁護士だって」

「い、いやぁ……」


和やかな雰囲気の中、会話は続く。だが唐突に、母が切り出して来た。

「それで、成歩堂さん」

手を膝の上で組み直し、まっすぐこちらを見据えて来る。顔はいままでと同じ笑顔だが、漂う雰囲気は明らかにさきほどまでとは違っていた。

「今日はどういったご用件ですの?」

来た!

成歩堂もしぜん、背筋を伸ばして姿勢を整える。冥が緊張した面持ちで自分を見つめているのが分かった。

「挨拶だけじゃないんでしょう?何か他にいいたいことがあるんじゃないのかしら」

全身を緊張感が襲う。
当たり前だ、自分は今ある意味人生最大の勝負をしているのだから。


脳がうまく言葉を練れず、声帯からは「あー…」とか「えーと」とかいう無意味に間延びした声しか出てこない。

勇気出せ龍一!お前ならやれるぞ龍一!

そう自分を鼓舞しても、肝心の言葉が思い浮かばないのでは世話ない。

「龍一………」

冥の声が聞こえる。そうだ龍一、お前はこの子を一生かけて守ってやるんじゃないか。

こんな所でびびってどうする!男を見せろ、成歩堂龍一!!


「―――ぼくは」


発した第一声。もうあとには引けないはず。
いや、引かない。


「冥をとても、愛しています。一生かけて、守りたいと思っています。
………だから、彼女を僕にください」

成歩堂の頭はひどく冷静になっていた。ちょうど法廷に立っている時と似た、静かな昂揚が押し寄せて来るあの感じだ。

沈黙。ややあって、狩魔夫人が口を開いた。

「……ならば、証明してくださいな」
それはまったくもって予想外の一言であった。思わず「はい?」と問い返してしまったほど。

「証明していただきたいのです。あなたが冥をどれだけ愛し、また冥がどれだけあなたを愛しているかを。今ここで」

なんだか話がおかしな方向になってきている。この展開は、もしや。

引きつった笑いもそのままに思わず身体を逸らしてしまう成歩堂と、ソファから優雅な動作で立ち上がる狩魔夫人。その細い腕が振り上げられ―――そして振り下ろされたのを見届けた瞬間、風を裂く聞き慣れた音がして、成歩堂の手首がぐいと拘束された。


「いいっ!?」

手首に絡み付いているのは間違いなく鞭だった。しかもなお悪い事に、鞭はがっちりと彼の手首を拘束している。

「恐るべし狩魔夫人……じゃなくて!な、なんなんですかいったい!」

「言ったままですわ、成歩堂さん。……さぁ、冥。証明してもらいますわよ」
「ママ……私……」

「狩魔の女を娶るならば、それなりの覚悟が必要なのですよ。男も女も」

「め、冥……」

情けない声をあげる成歩堂に冥は近付き、彼女は心底すまなさそうに「ごめんなさい」とつぶやいた。何を、という前に彼女の手がズボンのベルトに触れた。

あっという間にズボンを、そして下着を引き下ろされて。成歩堂はついに狩魔夫人と冥の姉の前で陰茎を晒すこととなってしまった。

当たり前だが興奮してしまう。あっ、と思った時にはもう遅く、陰茎は固く大きく屹立してしまっていた。

「ご立派ですわね」

狩魔夫人が上品に笑った。口もとには手まで添えている。右手に鞭がなければ完璧なのに。

「ど、どうも……」
「社交辞令ですわ」
「うっ……」


あぁ、僕はどうやらエラいところに嫁いで……いや違う違う!
この場合嫁ぐのは冥のほうだ。


「許して……龍一」
「……馬鹿だなぁ。このぐらいで怒るちっぽけな男じゃないよ。
むしろ嬉しい。冥にご奉仕してもらえるんだから」

言って自分で興奮してしたらしく、冥の手の中でそれがますます熱を帯びる。

「……バカはバカなりに、バカらしい考えをするものだわ」

「嫌いかい?」
「バカね」

そう言って自分を見上げて来た冥の顔は、手首さえ自由なら抱き締めてやりたくなるぐらいきれいだった。

「好きに決まってるじゃない」

言って彼女は、熱く固い成歩堂の陰茎をそっと口に含んだ。

暖かい口の中で、彼女の舌が踊るように先端を往復しているのがわかる。
根元をしっかり握った手のひらはそれでもまだしごくことはせず、指先でわずかに熱い肉棒を撫でるのみだ。

抑えていた感情をぶつけあうかのごとく、自分たちは相当過激なプレイも少なからず経験してきた。が、衆人環視、しかも家族の前でなど、こんな異常な状況の経験あるはずもなかった。むしろあったほうが怖い。

冥の前でなかったら泣き出していたかもしれない。

彼女は―――冥はどうなのだろう?血の繋がった実の家族に、こんな淫らな姿を見られて恥ずかしくないわけがない。事実、自分を見上げる冥の瞳はもうすっかり潤んで今にも涙がこぼれ落ちそうなほどである。

「(意外と泣き虫なんだよなぁ)」

成歩堂と付き合い始めてから、彼女は涙を見せることが多くなった。どんどん自分自身が弱くなってゆくみたいで嫌だ、と冥は言ったけれど、成歩堂はそれは違うと首を横に振った。

―――泣いてもいいじゃないか。人に涙を見せられるのは、その人をほんとうに信頼しているからだよ。

僕は君に信頼されてとても嬉しい。だから泣いてもいいんだ、と……。

先走りで濡れた先端にキスが落とされる。苦みを薄めようとして絡められた唾液がぬらぬらと光っていっそう卑猥な感じだ。

根元から下まで赤く湿った舌が滑り降りていく。

「はぁ、う」
「気持ちいい……?」
「……聞くまでもないと思うんだけど」

大きく息を吐く。狩魔夫人や姉のことも頭から薄れ、快感だけが脳を支配しはじめていた。

ただひとつ不満がある。陰茎へのキスも、それを頬張ってしゃぶることも惜しげなく与えてくれるのに、彼女はまだその手でしごいてくれることはしてくれないのだ。

射精のボルテージはガンガン上がっているのに、あとひと押しのそれが足りない。

だからといって冥を急かすのも格好悪い気がした。そして今この場には彼女の家族も見ている事実をも思い出す。

成歩堂は考えに考えたあげく、ついに衝動と欲望に降参の白旗を上げてしまった。

「あのさ、冥……そろそろ手、動かして……」
「だめよ」
「で、でもさ、これじゃ」
「まだイッちゃだめなの」

そして彼女はおもむろに根元に添えていた手を離し、器用なことにしゃぶりながら自分のブラウスのボタンを外し始めた。

現れた黒いレースのブラジャーは、彼女の一番のお気に入りのもの。白い肌にはよく映えている。

そのブラジャーすら彼女は取り去った。そしてしゃぶっていた成歩堂のものから口を離して、両手で乳房を寄せる。

「あーっ、と。冥、ひょっとして―――」

あれですか。パから始まって次にイと来る、あれですか。

「―――っあ、あぁ」
「んぅ……」

予想は大当たりだった。二つの乳房の間に成歩堂の男根を挟み、冥はそれを胸を使って擦り始めた。

美しい肌に、自分の男から滴る体液が染み付くようすに背徳感と征服欲が満たされるのを感じながら、彼は再度息を吐く。


「……冥が、ここまでするなんて」
「静かに。黙って見ていなさい」

狩魔夫人たちの声を遠く聞きながら、成歩堂は自分が着々と限界に近付きつつあるのを感じていた。固くたちあがった冥の乳首が亀頭に時折当たるのがたまらない。

「……出そう?」

上目遣いにこちらを見る冥に、成歩堂は苦笑しながら頷いた。少し早過ぎるが、この状況では致し方ない。

「じゃあ―――」

突然、柔らかな膨らみの感覚が消え失せた。
そのかわり、さっきよりももっと熱くほてった場所が陰茎を包み込む。再度彼女が成歩堂の陰茎を口内へ咥え込んだのだ。これには成歩堂も面食らう。

だって、これでは。

「だ、ダメだよ冥!もう、ほら、出ちゃうからっ」
「いいの」

すでに、冥の息は上がりきっていた。

「出してほしいの……口に」
「なっ……」

今までフェラをしてもらっても、必ず出すのはお腹か髪だった。口の中は怖い、と彼女がずっと拒否しつづけたからだ。
にもかかわらず、今彼女は自分から進んでそれを成さんとしている。

「認めてもらいたいから」

心中の疑問を見透かしたかのように、冥が言う。

「あなたのこと……本気で好きだって、認めてほしいから」

泣きたくなるぐらいに幸福な言葉を、気持ちを向けられて。
泣かない男がどこにいるだろう。

「……かっこわる、僕」

視界が滲んで、冥の姿がよく見えない。
ここには冥の母親も姉もいるのに、泣いてしまうなんて早漏以上に恥ずかしい。

でも、そうだ。僕は自分で彼女に言ったんだ。涙を見せられるのは相手を信頼している証拠だと……。


舌と根元をしごく動きがだんだんと激しくなる。呼吸の感覚が短く短くなって行って、頭が白くスパークし、それから―――。

「あ、あ、出るっ―――もう……あぁ……っ!」

冥の口内で震えたそれは、ごぼごぼと勢いよく精液を注ぎ込み続けた。注ぐ、というよりぶちまける、のほうが正しいぐらいかもしれない。

一度に咽下できるはずもない量を、それでも彼女は懸命に口全体を使って飲み干そうとした。最後は受け入れきれずに口から少し零してしまったものの、あとはほとんど飲んだといっていい。

「けほっ、やだ、苦い―――ごほっ……!」

苦しげに蒸せ込む冥の背中を急いでさすってやる。そしてその時初めて、成歩堂は手首の戒めが解かれていることに気がついた。

狩魔夫人は相変わらず宝石みたいな笑顔でこちらを見ている。

そして、一言。

「合格、です」

隣で姉が拍手を送っていた。

―――

姉に連れ添われて洗面所まで行った冥の背中を見送ったあと、成歩堂は前々から胸の中で大きなわだかまりとなっていたある疑問を、意を決して口にした。

「狩魔夫人」
「はい?」
「もう承知のことだとは思いますが……確認のために聞かせていただきます」

「まぁ……いったいなんですの?」

「あなたの夫であり、そして冥の父親………狩魔豪検事のことです」

狩魔夫人はその質問を、どうやら予測していたようであった。顔色ひとつ変えることなく、「あなたが告発したと聞いております」穏やかに言葉を返した。

「そうです。だから僕は……言うなればあなたから愛する人を奪った張本人。それでも狩魔夫人、あなたは僕に冥を任せてくださいますか」

質問しているこちらの胸が痛くなる。もちろんこんなことを聞くのはアンフェア以外のなにものでもないが、どうしても聞かずにはいられなかったし、また聞くには今しかないと成歩堂は思っていた。

「……確かに私は夫を愛していました。彼のやったことを知った時はとても悲しかった……でも」

そこで彼女は言葉を切り、成歩堂を真正面から見据えた。それは、法廷で冥が見せる顔とよく似ていた。

「夫は許されざることをした……それは揺るぎのない事実であり、断罪されるべきは当然なのです。だから私は……あなたのしたことが間違いだとは思っていない」

「僕も狩魔検事を告発したことは今でもまったく後悔していません。ですが」

そんな簡単に、狩魔夫人にとって割り切れる問題であるはずがない。
いわば自分は、仇ともいっていい存在なのだ。
それを言うと、狩魔夫人は初めて悲しげな顔をした。それでもなお笑おうとつとめているのが余計に痛々しかった。


「……たとえあの人が罪人であり、もう戻って来ない人であったとしても、あの人が私に注いでくれた愛情は消えてはいませんわ。
夫は……本当に私を愛してくれていた」

狩魔豪。
彼の犯した罪からすべては始まっていた。

自分の助手である綾里真宵と親友である御剣怜侍。この二人のみならず、多くの人間の運命の歯車をことごとく狂わせたのは他でもなくあの男なのだ。

しかし、すべてにおいて完璧と呼ばれた彼は最後まで完璧な鬼にはなりきれなかったのだ。
妻と子供を愛した、よき夫でありよき父親であった彼。

狩魔夫人の顔を見れば、その愛情がどれだけ深かったか推し量れようというものだ。

「だからね、成歩堂さん。私は正直ほっとしているんです」
「ほっと……している?」

「えぇ。だって冥はこんなに愛されているんですもの。父親がいなくなってからあの子は殊更に他人を拒絶していましたけれど……
凍て付きかけたあの子の心を開放してくれたのは怜侍君。
そして、誰かを愛することを教えてくれたのは……あなた。冥は、一人じゃありませんのね」

「えぇ……そうですね」

「きっと夫も喜んでいますわ。冥を愛してくれる人がいて」
「分かるんですか?」
もちろん、と狩魔夫人は優雅に微笑んだ。

「だって……私が心から愛して、長年連れ添った人ですもの」

その時成歩堂は、彼女の目許に小皺を見つけた。


「冥を……よろしくお願いします」


―――

お泊まりになればよろしいのに、という夫人の言葉を丁重にお断りして狩魔家をあとにした成歩堂と冥は、夕日に染まる住宅街を歩いていた。人通りはほとんどない。

「それにしても、びっくりしたよ」
「何がよ?」
「きみがあんなに大胆だったなんて」

みるみるうちに、冥の顔が夕焼けより赤く染まった。成歩堂は頬の筋肉を不気味に緩ませたまま続ける。

「ほんと、生きててよかったよ。最高だったもん、冥のパイズ―――」
「お、お黙りなさい!」

間髪入れず鞭が飛んで来たが、成歩堂は慣れたようすで回避する。

「ふふふ、見切ったぞ!」
「何ですって!?こしゃくなっ……!」

負けじと冥は華麗な手つきで鞭を振るうが、成歩堂のステップはそれ以上に素早い。

どうだ!と成歩堂が胸を張ろうとすると、なんと冥がいきなり嗚咽を上げ始めた。


「ええぇっ!?僕、何かしたかい!?」
「違うわよっ。……急に安心して泣きたくなっただけ」

「……そっか。でももう大丈夫だよ。僕もいろいろ吹っ切れたしね……。
だからほら、泣くのは帰ってからにしなきゃ。僕、また御剣に追いかけられる」

「うム、そうだな」
「ほら、本人もこう言ってるし……」

あれ?

なんか今、背後ですごく不吉な声がしやがったんですが。

ゆっくりと、ホラー映画の主役さながらの緩慢な動きで振り返ってみると―――。

御剣怜侍が立っていた。

夕日よりなお赤い鉄バットを携えて。

御剣怜侍は立っていた。

「貴様……メイを泣かせないという約束を……」

「ち、違うよ御剣!誤解だ!泣かせてなんかいないよ!」
「嘘だッッ!!」

あぁ、台詞と持ってるものが違う……。

今度こそまずい―――と目を閉じたが、しかし衝撃はいつまでたっても襲って来なかった。


「……あれ?」

目を開ける。眼前に、真っ白な箱が突き出されていた。

「あら、これ……ケーキ屋の」

冥は心当たりがあるらしい。

「御剣、これひょっとして……お祝いってやつかい」
「ち、違う!断じて違う!誰が君なんかに―――ただこれは、少し買い過ぎただけなのだ!」

買い過ぎた、ねぇ……。

本当に素直じゃない。
でも成歩堂は、この不器用な優しさが好きだった。彼と同じように冥を愛するものとして、とても。

「ありがとう。帰ったら二人で食べるよ」
「悪いわね、レイジ」
「いや……うむ、別にいいのだが」

御剣は照れているらしく、何度か咳払いをしながら去っていった。
どうやらこれを渡すためだけに来たらしいが、だからといってバットは必要ないのではないだろうか。

「……気にしたら負けか」
「え?」
「なんでもないよ」

空を見上げる。激動の一日を締めくくるように、そして新しい日の始まりを予感させるかのように―――日が沈み始めていた。


【了】

最終更新:2020年06月09日 17:52