あの忌まわしい事件から、一ヶ月。俺は今、あの事件のある関係者の家にお邪魔している。
画家、絵瀬まこと。あの事件で俺が弁護した被告人。そして、哀れな"被害者"である。
法廷で起こった惨事。緊急搬送。・・・・思い出すだけでぞっとする。
彼女が一命を取り留めたという報告を聞いたときは、安堵のあまりちょっと泣いてしまったぐらいだ。
まことさんが不幸を脱し、幸せな未来を歩めるようになること・・・・俺はひとえに、それを願っている。

さて、前置きが長くなったが・・・・俺は今、彼女のアトリエに居る。
まことさんは、俺の突然の訪問に戸惑った様子を見せたものの、快く迎え入れてくれた。
挨拶だけのつもりだったけど、何だか流れで珈琲を頂くことになったので、ここで待たされているって訳。
「どうしたもんかな・・・・」
独り言。置いてあった完成済みの絵は既に見終わり、制作中の絵を見るような無粋な真似はしたくない。
よって今、俺は結構暇である。まことさん、珈琲淹れるのに随分手間取ってるなぁ。
ふと、机の上に目をやった。絵筆や鉛筆といった画材道具が散らばっている。
その中に、一際目立つ絵筆があった。柄の塗装が剥げ、毛先が妙にバラバラである。
「・・・・随分使い込まれてるなあ。」
思わず手に取ると、その筆は少々湿っていた。手入れの最中だったのかな?

唐突にドアが開いた。カップを二つ乗せたトレーを慣れた様子で持ちつつ、まことさんが姿を見せる。
そして、わずかばかり目を見開いたと思ったら、トレーを机に置きこちらに歩み寄ってきて・・・・
・・・・俺の手から筆を抜き取った。
「・・・・」
まことさんは後ろ手に筆を持ち直すと、じっと俺の目を見据えてきた。
・・・・き、気まずい。何か話したほうがいいのかな?
「あ、えーっと・・・・ず、随分使い込まれた筆ですね、それ。」
口にする言葉が先ほどの独り言リフレイン。こんなだから法廷の最中に声が出なくなるんだよなぁ・・・・
俺が勝手に自己嫌悪に陥っている間、まことさんは、何か言いたそうな素振りを見せながらもぞもぞ動いていた。
沈黙が空間を支配する。・・・・と、そのとき。俺の腕が小さな鼓動を感じ取った。
法廷で、何度も感じたあの感触・・・・今この場で対象となるのは一人。
まことさんの不審な動作に俺が気付くのは、当然の結果である。
「まことさん。」
「・・・・はい?」
「何故そんなに、脚を固く閉じてるんですか?」
今思えば、少々・・・・いや、だいぶ不躾な質問だったが・・・・ともかく、まことさんは静かに動揺を見せた。
「・・・・な、なんのことですか?」
「いえ、そんな気をつけの体勢を維持しなくても・・・・と思ったもので。」
「・・・・」
いっそうぎゅっと身体を固くしたまことさんは、傍らのスケッチブックを取った。
サッ、カカカカカカカカ、シャッ
手馴れた様子でペンを走らせ、スケッチブックを広げる。口笛を吹いている顔のイラスト。
答える気はない、という意思表示・・・・ん?待てよ。
濡れた絵筆、閉じられた脚、口にしたくない事柄・・・・三つの事象が、俺にある発想をもたらした。
それはある種信じがたいことだったが、おそらく正解・・・・いや、でもまさかまことさんが・・・・
思いつきと、それを信じまいとする葛藤が顔に出ていたのだろうか。目の前の彼女は、おずおずと俺に尋ねた。

「あの・・・・もしかして?」
「え?あ、いや、なんとなーくですけど・・・その絵筆、絵を描くのに使ってたんじゃない、とか?」
「・・・・」
縮こまるまことさん。やっぱりそうだったのか・・・・
彼女は、自分の絵筆を使って・・・・その、オナニーをしていたのだろう。
そこへ急に俺が訪ねてきたもんだから、慌てていて絵筆をしまい忘れた、と。
「・・・・あの。やっぱりイケないことなんでしょうか。」
唐突に口を開かれた。
「は、はい?」
「その・・・・絵筆をあんなふうに使うのは。」
あ、あんなふうにって。俺、見てたわけじゃないんだけどな。
「初めて気付いたのは、5年ぐらい前のことでした・・・・」
「気付いた、というのは?」
「特にお仕事がなくて、手持ち無沙汰だった時・・・・ちょっと、出来心で・・・・」
行為自体についてはあんまり口にしたくないようだ。いや、そりゃトーゼンだけど。
「それが、あの・・・・とても、気持ちよかったもので・・・・」
「あ、あの、まことさん?そんな、別に話さなくても!」
「・・・・?」
「え、えっと・・・・年頃の女の子なら一度は通る道ですから!多分!」
俺は何を言ってるんだろう。
「そうです!別にその・・・・は、恥ずかしいことってわけでは・・・・あるかもだけど、いえ、大丈夫ですから!」
さっぱりわからなくなってきた。

「でも・・・・以前、お父さんに見つかった時、とても怒られて・・・・」
「見つかった!?」
「集中していたせいで、部屋に入ってくるのに気付かなかったんです・・・・」
「・・・・そ、それはそれは・・・・」
「だから、イケないことなのかな、と。そのときは思ったんですが・・・・」
どうにも止められなくて、などと呟いている彼女に対し、一体俺が何を言えるというのか。
それ以前に、目の前でもじもじしているまことさんに何か妙な感情が芽生えている自分もいるわけで。
だ、駄目だ!このまま話を聞いてたんじゃ、身体が勝手に・・・・何か、何か返答しなくては!

俺の答えを示すんだ!
・見せてもらえませんか?
・お手伝いしましょうか?

続かない

最終更新:2020年06月09日 17:51