『別離の前日』
「これ、例の事件の捜査報告書です」
宝月茜は手にしていた書類の束を目の前の人物に手渡した。
「ありがとう。ちょっと中身確認するから待ってて」
書類を受け取った牙琉響也は、長い指で紙をめくり始めた。
自然と伏目がちになり、その瞼に長い睫毛の影が落ちる。
茜は響也に見入っている自分に気付き、慌てて彼の顔から視線を外した。
『顔がいいだけで、ちゃらちゃらした女ったらし!』
茜が響也に対して抱いた第一印象はこうだった。
成歩堂龍一の弁護士バッジを奪ったのが響也だとわかった日にはさらに次のようになった。
『顔がいいだけで、ちゃらちゃらしてて、女ったらしで、あたしがこの世で最も嫌いなヤツ!!』
しかし、刑事と検事という関係で半年以上行動を供にしていくうちに、茜は気付いた。
響也の、真実を追究するひたむきな姿勢に。
勝訴することで得られる検事としての手柄だとか、逆に敗訴することで負うリスクだとか、そういうことは彼には全く関係ないようだった。
(そういえば、検事のバンド仲間が言ってたっけ……)
『あいつはちゃらちゃらした格好をしているが、うっとおしいほど真っ直ぐなヤツだ』
確かにそうだった。
この台詞を放った人物は、響也の性格を的確に言い当てている。
しかし彼は今、鉄格子によって隔絶された別空間の住人となっている。
そしてもう一人、響也の良き理解者だった人物。実兄の牙琉霧人も、随分と遠くへ行ってしまった。
彼らの罪を暴いたのは弁護士である王泥喜法介だが、そこには響也の協力も加わっている。
響也は真実と引き換えに、自らの手で身近な人物を追いやったのだ。
真実は時々、それを追及するものに刃を向ける。
身近な者の罪過であったり、信じていた者からの裏切りであったり、刃はさまざまな形を持つ。
うっとおしいほどまっすぐな響也は、抗うことも防御することもなしに、その刃をもろに受け止めた。
満身創痍なはずなのに、それでも彼は真実を追究するために法廷に立ち続ける。
ただひたすら真実を追い求めるその姿勢は、時折、恩人である成歩堂を髣髴とさせた。
真実のために全力で戦っている成歩堂が好きだった。
法廷での響也が成歩堂と重なって見えた時、茜は酷く動揺した。
敬愛する弁護士と大嫌いな検事がダブって見えるなんて嘘。嘘に決まってる。
心の中を駆け巡る打ち消しの言葉とは裏腹に、茜の目はいつの間にか響也を追っていた。
そして、目を離すことができなくなった。
「うん、報告書はこれでOKだ。ご苦労様」
書類から顔を上げた響也は、茜に向かって微笑んだ。
「……もうすっかり夜か。残業になっちゃったね。手間取らせて済まなかった」
響也のオフィスの窓の外には、一杯の夜景が広がっていた。
終業時間はとうの昔に過ぎている。
「いえ、仕事ですから。それに、夜が更けてから検事の所に報告書を出すのには慣れてます」
響也は多忙だった。いくもの案件を同時に抱えている上、どれも手を抜かない。
茜の同僚はよく、響也のことを差して"検事局一の凝り性だ"という。
新しい事実が見つかった時など、終業時間の間際になって「今から報告書を出せ」と言われることは日常茶飯事だった。
「慣れてる……か。髄分迷惑かけたてたんだね」
響也は報告書をファイルに挟み込むと、窓辺へ歩み寄った。
夜景を背にして茜と向かい合う。
その顔には笑みが浮かんでいた。笑顔のはずなのに、何故か茜はその中に影を感じた。
「安心しなよ。君がぼくのところへ報告書を出しに来るのは、今ので最後さ」
「……は? どういうことですか?」
「検事局の上層部の意向でね。見識を深めるために海外で勉強してくることになった」
「え……?」
咄嗟に言葉の意味が解らず、茜は聞き返す。
響也は視線を床に落とし、話を続けた。
「要するに、左遷だよ。ぼくの身近にいた人物が立て続けに捕まった。
そしてぼく自身はまんまとアニキの策略にはまり、一人の優秀な弁護士からバッジを奪ってしまった。
こんな検事を出世コースに乗せとくわけにいかないだろう?
だから勉強という体のいい言い訳使って、海外に追いやるって寸法さ」
響也の説明を聞き、茜は思わず叫んだ。
「そんな、酷い! 検事は全然悪いことしてないじゃない」
「あはは、ありがとう。まさか君が庇ってくれるとは思わなかった。
ぼくは君の恩人から弁護士バッジを奪った男だからね」
「……それは……」
言葉に詰まる茜の顔を、響也は見つめた。
「とにかく、いま君が出してくれたこの報告書は、大切に次の検事に引き継いでおくよ。
明日、引継ぎが済み次第アメリカに発つことになってる」
「あ、明日?! 明日、明日って……どうしてそんなこと今日になって言うんですか!!
もっと前から解ってたでしょ? そんな、急に明日って言われても……」
「決まったのは2週間前だ。その時点で言えば良かったね。だけど……」
響也はそこまで言うと一旦言葉を切り、自分の前髪を触る。
それは、彼が何か言い難いことを言うときに、必ずする仕草だった。
「だけど何となく、君には言い出せなかった。いや、何となく、じゃないな。言いたくなかったんだよ。
"じゃあまた明日"と続けることが出来ない"サヨウナラ"なんて」
「牙琉検事……」
言葉が出てこなかった。
響也の言ったことが受け入れられなかった。
何なの? このタチの悪い冗談は。嘘でしょ? 嘘。嘘に決まってる……。
そんなことばかり、心の中を駆け巡る。
「刑事クン。突然になってしまって済まない。だけどちゃんとお別れが言えて良……」
「お別れだなんて言わないで!」
響也の言葉を、茜の一喝が遮る。
その茜の頬に一筋光るものが伝っていて、響也は驚いた。
「刑事クン……?」
思わず茜の側へ歩み寄り、手を差し伸べた。
しかし茜はその手を振り払う。
「泣いてません! 泣いてませんからあたし。
大体、あなたはいつもそう。中途半端に口説いたりして、苛々する。酷すぎる」
「……ごめんよ」
「このまま"はいサヨウナラ"なんて絶対許さない」
頬を伝うものを拭いもせず、茜は響也を見据えた。
「口説くなら、最後まで口説いてよ。天才検事なんでしょ? 一流アーティストなんでしょ?
最後まで口説いて、そしてあたしを落として見せて」
「刑事クン……」
躊躇いの表情を浮かべる響也に、茜は一歩近づいた。
ほとんど至近距離で彼の顔を見上げる。
「ここで口説いてもいいのかい?」
耳元で囁くように訊かれた。
茜は頷く代わりに、彼の腕に身体を預けた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
窒息しそうなほど深く長いキスを幾度も交わした後、オフィスにあるリクライニングチェアに身体を横たえる。
横になってからも、しばらくお互いの唇を確かめ合った。
明かりが落ち、真っ暗になった部屋の中で探るように衣服を取り去る。
露になった茜の肌に、唇を這わせた。
欲しくてたまらなかった。ずっと前からこうしたかった。
全身、余すところなく味わいたいと思った。
細い首筋を軽く吸う。そこに己の名前を刻んで良いかどうか、無言で確認する。
茜が軽く頷くのを見届けると、今度は激しく吸った。
白い肌にくっきりと残った跡を見て、それが間違いなく自らの施したものであると認識して、喜びで震えた。
形良い胸のカーブを掌で包み込む。
あっ、という声にならない声が茜の口から漏れた。
胸の丘の頂に唇を寄せる。硬くなった部分を舌で転がすようにゆっくりと吸い上げると、茜の身体がビクっと震えた。
「んっ……あっ」
甘い吐息と供に、切ない声が漏れる。
聞いたことのない艶やかな声に、理性が揺さぶられる。
先走りそうになるのを何とか抑えて、今度は耳朶を攻めた。
「やっ!」
響也の唇が柔らかい耳朶に触れた途端、茜は響也を強い力で押し戻した。
今までにない抵抗に、そこが彼女の弱点なのだと気付かされる。
少し強引に茜の腕を押さえ、再び耳朶に舌を這わせた。
「あっ、あぁっ……んん」
高い声が漏れ、その細い身体が幾度も震える。
自分の腕の檻の中で激しく悶える彼女の姿は、繋ぎとめていた理性を大きく揺さぶった。
茜は、逞しい腕に抱かれながら快楽の波と戦っていた。
弱いところを正確に攻められると、波に飲まれてしまいそうになる。
そして攻められる度に自分の唇から漏れる声は酷く淫らで、そんな声を出してしまう自分が恥ずかしくてたまらない。
声が漏れないように人差し指の関節を噛んだ。
しかし、それを見つけた響也は茜の手を口元から引き剥がしてやめさせた。
「や……恥ずかしい……」
微かに首を横に振りながら、囁く。
響也は微笑んで言った。
「この部屋の防音は完璧だ。大丈夫」
「でも、あなたには聞こえるでしょう?」
「聞こえるね」
「聞かないで」
「……参ったな。そんなに可愛いことを言われると……どうにか、なりそうだよ」
嘘をついた。
どうにかなりそう、なのではない。
唇を確かめ合ったときから、既に大方の理性は吹き飛んでいた。
響也の指が、茜の下腹部を経て腿の付け根に伸びた。
「んっ……」
既にそこは滴るほどの蜜をたたえ、触れただけで水音がする。
ゆっくりと指を奥に差し入れ、隅々まで探るようにかき回した。
「あぁぁん……や……あっ」
指の動きに合わせて、茜は全身で反応を見せる。
漏れる声を抑えることもなく眉間に皺を寄せて耐える茜の姿は、響也の限界をより近くへ引き寄せた。
指を引き抜き、絡みついた蜜を舐め取る。
開かれた部分に、今度は限界まで欲をたたえた熱い楔を差し込んだ。
「ああぁっ……」
最深部を探り当てると、茜の口からひときわ高い声が漏れる。
動くたびに欲をたたえた楔は蜜にまみれ、締め付けられた。
「んっ……ああっ、もう……」
背中に回った茜の腕から力が抜ける。
同時に茜の身体の奥に、白濁した理性が吐き出された。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
茜を腕に抱いたまま、彼女の乱れた髪を指で梳く。
時折頬や瞼にキスを落とす。
どれくらいの間そうしていただろう。
不意に茜が口を開いた。
「明日は、何時の飛行機?」
「ハッキリしないな。引継ぎがスムーズに行けば午前中だと思う」
「………そう」
「寂しいかい?」
そう訊くと、茜はしばらく考え込むように黙ってから、答えた。
「あたしがそこで"寂しいです"なんて言うと思う?」
「いいね。なかなかクールな答えだ」
再び唇の感触を探りあった。
次第に深度を増して、舌を絡める。
覚めたはずの身体がうっすらと熱を帯びてきた。
響也は唇を離し、茜の胸元へ掌を滑らせる。
しかし、茜はその手を押さえて首を横に振った。
「駄目。……この続きは、次に会った時」
「次か。会いに来る暇、あるかな」
「来なかったら、成歩堂さんに抱いてもらっちゃうから」
「それは……酷いジョークだ。ジョークに聞こえない」
「ジョークじゃないわよ」
「……OK。会いに来る。だからそれだけは勘弁して欲しい」
「あ。それからもう一つ」
「何だい?」
茜は響也の耳元に唇を寄せて、囁くように言った。
「茜って呼んで。響也」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それから1年後。
牙琉響也は日本に帰国することとなる。
彼の早すぎる帰国には法曹界のトップと言われる人物が絡んでいた。
紅いスーツとフリルのタイをこよなく愛するその人物を動かしたのは、かつて法廷で戦った彼の旧友だった。
響也を日本に呼び戻したい理由を尋ねられたその旧友は
「牙琉検事に早く帰ってきてもらわないと、ぼくが茜ちゃんのこと本気で口説いちゃいそうで危険なんだよ」
などと言った…………かどうかは、定かでない。
(END)