『机上の薔薇』
まず最初に気づいたのは香りだった。
宝月巴が朝の捜査会議から戻ると、自分のデスクに一輪の薔薇が置かれていた。
花瓶に挿すこともなく、ただ無造作に置かれた薔薇を、巴は手に取る。
幾重にも重なって広がる真紅の花弁はみずみずしく美しく、濃厚な香りは脳の中枢を侵していく。
巴は薔薇を手にしたまま後方を振り返った。
彼女のデスクと向かい合うように置かれたもう一つのデスク。
そこでいつものように悠然と、資料に目を落としている人物。
「お早よう、宝月主席検事。会議はどうだった?」
厳徒海慈。
厳徒は巴の視線に気づくと捜査資料を机に置き、口角を上げた。
「いつもの通り、単調な会議でした。それより……」
巴は手にしていた薔薇に一瞬視線を落とす。
「綺麗だろう。ローテローゼという品種だ。紅い薔薇の代名詞だね」
厳徒は薄い笑みを保ったまま言った。
「ボクから君に。受け取ってくれるね?」
彼の言葉はあくまで提案で、巴に選択権を委ねているように聞こえる。
しかしその視線は真っ直ぐ巴を射ていた。
薄く色がついた眼鏡を通しても、その鋭さは少しも緩まない。
厳徒と巴が警察局長と主席検事として仕事を共にするようになってから、しばらくの時が過ぎていた。
いつの頃からか二人は"伝説のコンビ"と呼ばれている。
二人の残した功績はそれに恥じないものだった。
数々の功績は二人が互いに協力して生まれたもの、と言われている。
しかし実際はそうではない。
協力ではなく、服従。
巴と厳徒の関係は、協力者・パートナーなどではなく、支配される者と支配する者に他ならない。
厳徒海慈という大きな権力に隷属することが、巴の選んだ道だった。
巴のデスクに初めて紅い薔薇が置かれたのは、彼女が主席検事になったその日だった。
みずみずしくしなやかな花弁の横に、厳徒の手書きのメモが添えられていた。
『今夜待っている』
巴はその日、厳徒と一夜を共にした。
それ以来、たびたびデスクに紅い薔薇が置かれるようになった。
何度か続くとメモの方は省略され、薔薇だけになった。
机上に薔薇を見つけた日、巴は夜の予定を白紙にする。厳徒と褥を重ねるために。
肉体の全てを彼に晒し、余すところなく支配されるために。
厳徒と肌を重ねながらいつも思うのは、妹の茜のことだった。
事の発端である、SL9号事件。
過ぎてしまったことは仕方がない。だけど妹を守りたかった。それが罪だとしても。
厳徒はその罪を共有してくれると言った。
だから、巴は従うしかないのだ。
厳徒に。彼が机上に置く紅い薔薇に。
巴は軽く溜息をつく。
手帳で今夜のスケジュールを確認した。
『21:00 検事局上層部会合』の文字を見つけて、ハッとする。
「今夜は、検事局上層部との会合があります」
巴の言葉に、厳徒は頷いた。
「知ってるよ。アレだろう、いわゆる、上層部同士仲良しだってことを確認する、宴会」
「そうですが……。今後いろいろと円滑に物事を進めるためには……外せません」
「だから、知ってるよ。検事局も大変だよねぇ。そんな会合しないと権力保てないんだから。でもさ……」
厳徒は一旦言葉を切った。
その顔から浮かんでいた笑みが消える。
「ボクは今日、その薔薇を持ってきたんだよ。明日になったら萎れちゃうでしょ」
「…………」
巴は黙って唇を噛んだ。
再び、厳徒の顔に笑みが浮かぶ。
そして、言葉を発することが出来ない巴を見つめて言った。
「妹さん、元気?」
巴は自分の背中に冷たい汗が伝うのを感じた。
そのまま崩れ落ちそうになるのを何とかこらえる。
「…………わかりました」
やっとのことでそれだけ答えると、巴は自分のデスクに戻った。
とにかく関係部署に電話をかけて、今夜の会合をキャンセルしなければならない。
手が震えていた。
呼吸を落ち着け、心拍数の治まりを確認してから、デスクの電話に手を伸ばす。
ボタンを押そうとしたところで、ドアをノックする音がした。
「どうぞー、開いてるよ」
厳徒が答えると、静かにドアが開く。
「御剣です。宝月主席検事に、報告書を」
入ってきたのは長身の青年だった。
紅いスーツに身を包んだ彼は、まず厳徒に一礼した。
「やぁ御剣ちゃんじゃないの。どう? 最近、泳いでる?」
厳徒は顔をほころばせ、親しげに話しかけた。
御剣怜侍の名は検事局でかなり有名だった。
検事局きっての天才と呼ばれる彼と、巴は何度か仕事を共にしたことがある。
その中には件のSL9号事件も入っているのだが……。
とにかく巴は、御剣の才能を大いに買っていた。
「御剣くん。報告書、受け取るわ」
厳徒に話しかけられ、しどろもどろになっている御剣に、巴は助け舟を出す。
「はっ。それでは、これを」
御剣はホッとした様子で巴に歩み寄った。
そのあからさまな姿に、巴の頬が少し緩む。
「そうだ、御剣くん。今夜の予定は開いているかしら」
両手で差し出された報告書を受け取りながら、巴は訊いた。
「……19時までは会議で、その後は帰宅する予定ですが……」
「その後は? 誰か素敵な女性と食事でも?」
「……ザンネンながら、そのようなアレは……」
首を傾げながら質問に答える御剣をよそに、巴はデスクの電話に手を伸ばす。
そのまま短縮ダイヤルのボタンを押した。
「主席検事の宝月です。今夜の上層部との会合の件で」
巴は一呼吸置くと、目の前の御剣を見上げながら言葉を続けた。
「その会合ですが、私は急用が入って出られなくなりました。代理として、御剣上級検事を出席させます」
「……宝月検事殿?!」
何かを言いかけた御剣を手で制し、巴は通話を続ける。
「はい。急ですが、御剣上級検事ならしっかり代理を務めてくれます。私が保証します。では」
「……宝月主席検事、これは、一体……」
受話器を置いた巴に、御剣が抗議の色を示す。
「聞いたでしょう。検事局上層部の会合よ」
「上層部? そんな会合にこんな一介の検事が出ても良いものでしょうか」
「大丈夫。そんなに堅いものではないわ。それに御剣くんの将来にきっと役に立ちます」
御剣はしばらく考え込んでいたが、やがて頷いた。
「心得ました。主席検事の代理はしっかり務めさせていただきます」
「ありがとう。時間は21:00からよ。詳しい場所は追って連絡するわ」
「連絡待っています。それでは失礼」
御剣はそう言って一礼すると、部屋から出て行った。
「随分買ってるねぇ、御剣ちゃんのこと」
部屋の中から御剣の余韻が消えた頃、厳徒が口を開いた。
「彼は優秀です。今はまだ若さが抜けていませんが、数年後が楽しみな逸材です」
「ふーん。ただの若造に見えるけどねぇ……」
巴はそれには答えず、御剣が置いていった報告書に目を通し始めた。
真紅の薔薇は、デスクの片隅に放り出されている。
清らかだったその花弁は、既に端から萎れ始めていた。
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厳徒が指定したホテルの部屋に着くなり、巴は組みしだかれた。
荒々しく唇を塞がれ、侵入してきた舌に歯列をなぞられる。
脱がすというよりは剥ぎ取られるような感じで肌を晒され、露になった部分に次々と赤い跡が散る。
胸元や首筋を唇が這い、くまなく攻められる。
その行為は次第に激しさを増した。
身体中を触れられている間、巴は声一つ挙げなかった。
いつものことだった。
早く時が過ぎるように、己の心臓の音を聞いていた。
そして、妹の茜のことを考えていた。
そのセックスに愛などなかった。
彼女は厳徒に支配され続けなければならない。
彼が求めればいつでも全てを捧げます、という意思を示しているに過ぎない。
一方、厳徒が巴を抱くのは、ただ彼女を支配するためなのだろう。
性的な欲はあるのかもしれないが、やはり愛はない。
そもそも、セックスをするのに愛が必要なのかどうか、巴は甚だ疑問に思う。
勿論、愛のあるセックスは存在する。
しかし、少なくとも厳徒との行為の間にそれは存在しない。
身体は差し出しても、心まで支配されているわけではない。
それならばいくらでもこの身体を差し出してやる。
それで妹が、たった一人の家族が守れるのならば、私はそれで構わない。
「御剣怜侍……今頃、君の代わりをやっているな」
巴の胸の頂を攻めながら、厳徒が口を開いた。
「彼は優秀です。私なんかよりもずっと」
そう答える巴を見て、厳徒は少し顔を顰める。
「相変わらずだね、トモエ。どんなに攻めても顔色一つ変えない」
「………」
胸の頂に舌が這わされる。それでも巴は身動き一つしなかった。
「御剣を見ていたら、思い出したよ。罪門だっけ? SL9号事件で死んだ検事。彼を、さ」
罪門直人。SL9号事件の被害者であり、彼もまた検事だった。
正義感に溢れる優秀な検事だったが、今はもう居ない。
彼を殺したのは、妹の茜………。
「気に入らないな。ああいう正義面したタイプは」
厳徒は吐き捨てるように言った。
そして、巴の身体を無理やり引き起こす。
「抱かれたか? 罪門直人に。そして感じたか!」
激しい口調だった。いつもの落ち着いた感じがない。
そんな厳徒を見るのは初めてだった。
すっかり取り乱している厳徒の瞳の中に、巴は嫉妬の二文字を見たような気がした。
(―――まさか)
嫉妬。ありえない。
そもそも厳徒との間には、嫉妬を呼ぶほどの愛なんて……。
「答えないなら見せてもらう」
厳徒は巴を後ろから抱くと、その姿勢のまま彼女を挿し貫いた。
最深部に到達されたとき、巴の身体に衝撃が走った。
「……っっあっ」
思わず声が漏れた。
逃れようとしてもがく身体を、厳徒は強く押さえつける。
「ん……ん」
押さえつけられたまま、後背位で幾度も突かれた。
不自然な角度で内部をことごとく探られ、その度に巴の身体に衝撃が走る。
今まで何度も厳徒に抱かれたが、こんな感覚は初めてだった。
気を抜くと意識を失いそうな感覚。
心の奥底から、何かが湧き上がってくるような感覚。
そして、理性というものがどこかへ飛んでいってしまうような、そんな感覚。
「あっ……やっ……」
次第に、巴は乱れていった。
しかし厳徒は背後から巴の内部を攻め続け、同時に耳朶や背中に舌を這わせる。
「んっ……」
唇から切ない声が漏れる。
同時に、結合している部分から粘り気のある水音がし始めた。
「やっ……あぁ」
「いい声だ、トモエ」
「嫌……聞かないで」
今までこんな事はなかった。
抑えきれないほど感じることなんて。
身体の奥から溢れてくる熱い蜜を、止められないなんて。
そんな姿を、この男の前で晒したくはなかった。
私は心まで彼に支配されているわけではない。
なのに、こんなにも感じてしまう。そんな自分が嫌だった。
しかし、一方で。
止めて欲しくない、と思っている自分が居た。
もっともっと奥まで来て。もっと触れて。
―――このまま一緒に墜ちたい。
幾度目かの衝撃が巴を襲った。
その波はひときわ大きく彼女を襲い、そしてそのまま彼女を飲み込む。
理性の糸が途切れる寸前に、彼女は身体の奥で感じた。
厳徒から吐き出された熱い欲望を。
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それからしばらくして、巴は厳徒の拘束から開放された。
紆余曲折はあったが、SL9号事件が真の解決を見たのだ。
はじめから全て、厳徒が仕組んだことだった。
巴は厳徒に騙され、利用され、いろいろなものを奪われた。
厳徒は何故罪を犯したのか。
広い法曹界で、権力が欲しかったのか。
それともただ単に、気に入らない人物を抹殺したかっただけなのか。
その両方なのか。
……あるいは、全く別の理由なのか。
巴にはわからない。
妹の笑顔が戻り、再び落ち着いた日々が訪れた。
厳徒に隷属していた期間がまるで夢なのかと思うほどに、平穏で、笑顔に溢れた日々。
しかし巴は時々思い出す。
彼に抱かれながら、溶け合いたいと感じたあの時の自分を。
そういう時、彼女は花屋で薔薇を買い求める。
真紅のローテローゼを一輪。
花瓶に挿すことはせずに、ただ眺め、そして考える。
―――あの時、私は心まで彼に差し出していなかったか。差し出してもいいと思っていたのではないか。
答えの出ないのは解っていた。
しかし問い続けた。
みずみずしく美しいその花弁が、黒く萎れていくその時まで。
(END)