刑事課を尋ねて、廊下の向こうに彼女の姿を見つけたときは、心臓が跳ねた。

時間が、急速に巻き戻されたかのような錯覚。
懐かしさと、悔しさ。言いようのない、胸の痛み。
彼女が不審そうに足を止めたのを見て、御剣怜侍は反対側に歩き出す。
ちがう。
あれは、彼女ではない。
彼女と入れ替わりにこの国に帰ってきた、彼女の妹だ・・・。

翌日、検事局の廊下を足早に歩いていると、目の前で執務室のドアが開いた。
目立つ白衣を着た女性が飛び出してくる。
ぶつかりそうな距離で御剣に気づいた彼女は、あわてたようすで閉めたドアに張り付いた。
「きゃっ」
牙琉響也の執務室だった。
検事が検事局の中を歩いて、これほど驚かれるとは。
「ど、どうも、御剣検事」
数年ぶりではあったが、彼女は御剣を覚えていた。
「忘れられたのかと思っていた。宝月刑事」
やっぱり、昨日の人はそうだったんだ・・・と茜がつぶやく。
「いえ、あの。その節はお世話になりました。おかげさまで、今はこうして・・・」
語尾が弱々しく消える。
「そう思っているなら、例え気に入らない仕事でも真面目にやることだ」
つい、厳しい言葉が口をつく。
彼女が科学捜査課を希望していたことは、よく知っている。
だが、誰もが希望部署に配属されるとは限らない。

茜はカチンときたようだ。
「牙琉検事ですね?私のことを、あることないこと」
御剣は、ふっと微笑した。
やはり、性格はまるで違うのだな。
彼女は、こんなにあからさまに感情をむき出しにしたり、ましてやすねたりはしないだろう。
「私は、あることしか聞かない」
茜は絶句したように、肩からかけているカバンを手で押さえる。
おそらく、その中にはあの駄菓子が入っているのだろう。


あの子はね、小さいときから嫌なことがあると甘いものを欲しがるの。
きっと、そういうものを口にすることで、無意識のうちにストレスから逃げ出しているのね。
我慢強くて、人に優しい子だから。

そう言った彼女の笑顔が、目の前の茜に重なった。
ちょっと困ったようにそっぽを向いた横顔。

御剣くん。私を、困らせないで。
そう言ったときの、彼女の顔。

御剣はふっと表情を緩めると、両手を軽く広げた。
「時間があるか?お茶でもどうだろうか?」

検事局のカフェテリアで、コーヒーが出てくるのを待って、御剣は茜のカバンを指さした。
「入っているのだろう?そこに。駄菓子が」
「えっ」
コーヒーに砂糖をれようとしていた茜が、目を丸くする。
この刑事は今、いくつなのだろう。
あの事件のときに、まだ高校生だった。
その後、アメリカへ留学したようだが・・・、今は24、5といったところか。
私が初めて会った時の彼女と、同じくらいだ。
そうだ、彼女はもっとずっと大人びていた。
少なくとも、むやみにコーヒーシュガーをテーブルに撒き散らしたりしない程度には。
「食べたまえ。私と話をするのに、それほど緊張するなら」
ペーパーナプキンでこぼした砂糖をかき集めながら、茜は首を振る。
「い、いえ、別に、そんな」
「以前、宝月主席検事・・・キミのお姉さんに聞いたのだ。キミは緊張や不安を覚えると、駄菓子を食べるクセがある、と」
「お姉ちゃんが?」
茜がびっくりした顔を上げた。
「御剣検事・・・、お姉ちゃんとそんな話をしてたんですか・・・」
おずおずとカバンから出したかりんとうの袋を開ける。
さくさくさくさくさくさくさく・・・。
「それで、さくさくさくさく、あの、私になにか?さくさくさくさくさく」
「・・・ひとりで食べずに、私にも勧めたまえ」
げほ。
茜がかりんとうにむせた。
あわてて飲んだコーヒーはまだ熱かったらしく、喉が粉っぽいやら舌が熱いやらで、茜はあわてふためく。
ハンカチを差し出すと、それを受け取って口に当てた。
「げほげほ・・・あー、び、びっくりしました・・・」
「うム。だいじょうぶか」
落ち着くのを待って聞くと、茜は頷いて、かりんとうを差し出した。
「どうぞ」
今度は、御剣がとまどった。
「・・・・・いや、冗談のつもりだったのだが」
「はあ?!」
甲高い声が、カフェに響く。
「そんなに驚くと思わなかったが」
「冗談って、そんな真面目な顔で言うものじゃないですよ。それに御剣検事、冗談言う人にみえないです!」
さくさくさくさくさくさくさく・・・。
茜に手厳しく言われて、御剣はすこしひるんだ。
自分に冗談のセンスがないことぐらいわかっているのだ。
なのに、思わずこの刑事を前にして慣れないことを口走ってしまった。
・・・そして、ダメ出しされてしまった。


「それで」
コーヒーを冷ましながら、茜は上目遣いに御剣を見る。
「なにか、お話ですか。あたしに」
そう言われると、さほど改まった話があるわけでもなかった。
「ム、いや・・・、お姉さんはお元気だろうか」
茜は、コーヒーをすすった。
「はい。仕事もがんばってるそうです」
茜と入れ替わりに、姉はアメリカに渡った。検事を続けるわけには行かなかったからだ。
「そうか」
「お姉ちゃんのこと、聞きたかったんですか?」
御剣は、本当に手を伸ばしてかりんとうをつまんだ。
そうかもしれない。
シルエットだけで、彼女と見間違えるほどよく似た、妹。
あれから、ついに会うことのなかった女性。
顔かたちも立ち姿も、彼女の面影を色濃く受け継いで、性格のまるで違う茜を前に、御剣は「そうだ」とは言いにくかった。

「キミは・・・、今でも科学捜査の仕事をしたいのか」
さく。
「そりゃ、そうですけど」
さくさくさくさくさくさく。
「移動願いのほうは?」
さく。
「出してますけど、無理っぽいです」
さくさくさくさくさくさく。
「・・・・機会があったら、話を通しておこう。聞き入れられるかどうかはわからないが」
さく。
「いえ、けっこうです」
御剣が、手を止める。
「だって、御剣検事にお願いして移動させてもらったなんてことになったら、その先どんなにがんばったって認められません。あたし、実力でがんばりますから」
そう言い切った茜は、数年前に成歩堂の隣に居た少女ではなかった。
過去や今の辛さも全部受け止めて、自分の足で立っている、自分の力で生きている女性だった。
ああ。
やはり、彼女の妹だ。
「・・・余計なことを、言ったようだ」
茜ちゃんなら、大丈夫だよ。
そう言っていた成歩堂を思い出す。
茜を、お願い。
最後に、振り返ってそう言った彼女。
確かに、妹さんは大丈夫なようです・・・。
御剣は、伝票にサインをして立ち上がった。
「帰宅するなら、近くまで送っていこう」

道を聞きながら車を走らせると、少し慣れてきたのか、茜はぽつぽつと刑事課での仕事ぶりを話した。
遠慮がちに、牙琉検事へのグチもこぼす。
自宅の前まで行くつもりはなかったが、思いのほか人通りの少ない道が続き、途中で降ろすのがはばかられた。
「このへんでいいですよ、どうせいつも駅から歩くんだし」
「しかし・・・もう少し交通の便がいいところにしたらどうだろう。帰りが遅くなることもあるのだから」
「うーん。お姉ちゃんも、そう言ってたんですけどね」
茜は御剣の前でお姉ちゃん、と言う事にだんだんと抵抗を感じなくなってきているようだった。
その言葉を聞くたびに、御剣は胸が少し痛む。
誰よりも、彼女を救いたいと思ったのは自分だったのに。
結局は、彼女を追い詰める側に立たねばならなかった。


御剣くん。

最後に控え室で聞いた、あの声。
追いかけて、抱きしめたいと思ったのに。
どこにも、行かせたくはなかったのに。
結局は彼女は戻ってくることはなかった。

「あ、ここです」
茜の声でふと我に返る。
礼を言って茜が降りる。
ぼんやりとその背を見送ると、茜が入っていったアパートの窓のひとつに灯りがついた。
部屋を確かめてしまったようで、御剣は後ろめたさを感じて静かにアクセルを踏んだ。

それからしばらく、茜に会うことはなかった。
裁判の資料を読み込んでいた夕方、ノックもそこそこにドアを開け、茜が御剣の執務室に飛び込んできた。
「なんだろうか」
驚いたが、出てきたのは落ち着き払った言葉だった。
そこで茜は、立ち尽くしたままうつむく。
「宝月刑事?」
御剣が、茜の顔を覗き込むように体を屈める。
「なにか、あったのだろうか」
「・・・い、移動」
茜は顔を上げる。
「移動になるかもしれません。科学捜査課に」
ぼろぼろと、頬に涙がこぼれた。
「御剣検事、あなたなんですか?あなたが、口を利いて」
しゃくりあげる。
御剣がポケットからハンカチを出して、茜の涙をぬぐった。
ようやく、事の次第がわかったような気がした。
希望の部署への移動を、御剣が手を回したと思ったのだ。
「私はなにもしていない。だいじょうぶだ。キミ自身の、力だ」
だいじょうぶだ。
その言葉で、茜はその場にしゃがみこんだ。
御剣は、そんな茜の背中をそっと撫で続ける。
好きな勉強が出来るとはいえ、アメリカで暮らすのには心細いことも多かっただろう。
日本に帰ってきて、科学捜査官になろうと思ったのに、なれなかった。
一生懸命に捜査したけど、どうしてもうまくいかない。
かつて世話になった成歩堂は、弁護士ですらなくなっている。
かりんとうを食べる量だけが増えていく・・・。
何年もの間、張り詰めていた糸が切れたように茜は泣いた。


御剣のハンカチを握り締めて、ようやく茜の涙が止まったのは、それからどれほどたってからか。
「あ、あたし、なにしてるんだろう・・・」
そう言って、くしゃくしゃになった顔をハンカチでぬぐう。

ふいに、茜の頬に御剣の指が触れた。
気づくと、茜の唇に自分のそれを重ねていた。
「な、なにするんですかっ」
茜が飛び退る。
「うむ。失礼した」
御剣が手を離す。
「あ、謝らなくても、いいですけどっ」
茜はふりきるようにハンカチで、鼻をかんだ。
それから、はっとしたようにハンカチを見る。
「あの、ちゃんと新しいのを返しますから・・・。こ、この間お借りした分も」
「それには及ばないが」
「なんか、いい香りがするんですけど。もしかして、すっごく高級なハンカチだったりするんですか?鼻、かんじゃった・・・」
ふっと笑って御剣は、茜の手をとった。
「ひゃあっ」
脚をさらわれて茜の体が宙に浮く。
「みみみみつるぎけんじっ?!」
すとん、とソファに降ろす。
デスクの後ろにある棚から紅茶の缶を取り出す。
電気ポットがシュンシュンと音を立て、すぐに紅茶のいい香りが部屋中に満ちた。
「カモミールだ。気持ちが落ち着く」
茜の目の前に、ティーカップを置いた。
「ありがとうございます・・・」
隣に腰掛ける。
「な、なんですか・・・」
御剣が、茜をじっと観察すると、茜はわずかに頬を染めた。
目元と鼻、顎のラインが彼女によく似ている。
唇は、茜のほうが少し小ぶりだ。
御剣は、ちらりと時計を見た。
あいにく、これから出かけねばならない。
「では、今夜ハンカチを返してもらいに行こう」


狭いながらにきちんと片付いたワンルーム。
本棚の上段には、通販で買ったらしい怪しげな化学薬品が並んでいる。
小さなテーブルの上には、きちんと洗ってアイロンのかけられたハンカチが2枚。
そして、ベッドの上に、茜。
茜の上に、御剣。
「どうしてですか?」
シャワーの後の上気した体は、なにもつけていない。
「どうして、あたしに、こんな」
御剣はそれに答えず、自分自身を抱くようにしていた茜の腕をほどいた。
「嫌なら、断ればよかった。君には、それができた」
「・・・・・・」
茜が目をそらした。
「わかってます。あたし。・・・お姉ちゃんの代わりだってこと」
御剣が目を細め、茜の顎に手をかける。
「・・・では、私はなんだ。成歩堂の代わりか」
答えを聞く前に、口づけた。


かつて、彼女にそうしたように。
・・・私を、困らせないで。
目の前の『彼女』は、今度はそう言わなかった。
茜の体に手を滑らせる。
これは、彼女ではない。
彼女の体ではない。
胸も、腰も、脚も。
しだいに熱を帯びてくるそれは茜のもので、彼女ではありえなかった。
もし、彼女をこの腕に抱く機会があったなら。
今、自分にすがりついている茜のように反応しただろうか。

「・・・・あ」
この吐息のように、声を上げただろうか。
ほっそりとした腕が、背中に絡みつく。
彼女は、こんなふうに抱きしめてくれただろうか・・・・。
膝を割り、そこに手を差し入れる。
声にならない息遣いだけが、茜の反応だった。
丹念な指使いで、息を乱す。
御剣は、記憶の中の彼女を手に抱いているかのような錯覚を覚えた。
その名を呼んでしまいそうな、かつて、彼女を抱いたことがあったかのような、錯覚。
乳房を乱暴に揉みしだき、桃色の突起を舌で責め、腰を抱く反対の手で蜜壺をかきまわす。
敏感な芽を押しつぶし、中に入れた指を探るように動かすと、声が漏れた。
「ああっ・・・」
違う。
彼女の声ではない。
彼女の声は、もっと、胸を突くような響きで。
「ああ、あっ、や、あん・・・」
違う。
これは、彼女ではない。
一箇所に集まるような熱と、思いがかなえられない苛立ち。
御剣は、それを茜に押し込んだ。
振り切るように、動きに集中する。
喉を反らせて声を上げる『彼女』を組み敷いて突き上げる。
違う。
違うのだ。


望んでいたのは、こんなことではないのに。
「ああああっ」
強く締め上げられて、御剣は自分自身を引き抜いた。
茜の白い腹の上に、御剣の欲望が吐き出される。
後悔に似た感情。
体を細かく痙攣させた茜の目から、涙がこぼれる。
白濁した液体をぬぐったあとで、御剣はその目尻を指で拭いた。
「・・・すまない」
「あ、謝らないでください」
茜は、御剣の胸にそっと頬を寄せ、回した手に力をこめた。
「あたし・・・、アメリカから帰ってくるとき、お姉ちゃんと話したんです。お姉ちゃん、どうしても困ったことがあったら必ず御剣検事に相談しなさいって。」
「・・・・私に?」
「必ずあなたを助けてくれるから、って。そう、約束したから」
「約束・・・」
覚えがなかった。
ふと、自然と胸の中に抱く形になった茜の髪を撫でているのに気づいた。

茜を、おねがい。

彼女の声が聞こえた気がした。

私を、困らせないで・・・・。

御剣は、ふっと自嘲気味に笑う。
結局自分は、彼女を追いかけているつもりで、逃げられてばかりいたのだ。
すべては、彼女の思い通りに。

腕の中には、彼女の宝物が残っている。
この先、御剣にとっても宝物になるだろう彼女が。

 

おわり

最終更新:2020年06月09日 17:49