喫茶店シリーズ#2

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『喫茶店の人々』 #2

その日の夕方、住宅街の奥にある喫茶店は、ドアが開け放されていた。

ドアの前に立つと、ムッとした熱気があふれてくる。
「よう、悪いな。今、豆を焙煎してるんでな」
客に気づいたマスターは、マスクに流れ落ちそうになる額の汗をぬぐった。
旧型のエアコンがフル回転しても、残暑と焙煎の熱には歯が立たないようだ。
「ご機嫌ではないか」
客は熱気を避けるように、焙煎機から遠いテーブルに腰を下ろした。
「そりゃ、いい生豆が手に入ったからだろうさ」
「お手軽で良いことだ」
「まったくだ。ところで、あと30分待てるなら挽き立てで飲めるぜ」
御剣怜侍は手にしていた一般紙の夕刊を広げた。
「どのみち、焙煎が終わるまでは手が離せまい。私は急がない」
「すまねえな」
10分ほどで焙煎が終わったらしく、冷却が始まる。
「法廷だったのかい?」
「・・・ム。結審した」
「おめでとう、だろうな」
「・・・ム」
マスターは冷めたコーヒー豆をスプーンですくい取り、二人分を挽いてドリップした。
二つのカップに注ぎ、まず自分が味をみる。
「ほらよ。煎りたて挽きたて淹れたてだ。うまいぜ」
一口飲んで、御剣は眉間にシワを刻む。
「ウム。うまい」
マスターは満足げに笑った。

「・・・明日は、5日だな」
御剣が言うとマスターはちらりと9月のカレンダーを見る。
「そうだな。臨時休業させてもらうぜ」
「気をつけて行って来てくれ。よろしく頼む」
「ああ」
御剣はなにかを思い出すように、苦すぎるコーヒーを飲んだような顔になった。
「あなたに初めて会ったのも、あの法廷だった」
「・・・・」
思い出話は嫌がるかと思ったが、マスターは御剣の話題を案外すんなりと受け入れた。
「前評判どおり、アンタはなかなかの新人だったな」
初めての法廷。
御剣はカップに目を落とす。
「私にとっても、忘れられない裁判だ。あの人と法廷で会ったのは最初で最後だったが・・・、しばらく後になってからは検事局でも噂になっていたよ。怖い弁護士が出てきた、と」
「俺が眠っている間だな。アンタは、ずっとアイツを気にかけていてくれたのかい」
他に客のいない気安さか、テーブルを挟んで御剣と向き合って座る。
御剣は指先でカップのふちをなぞる。
「成歩堂が、彼女の事務所に入ったと聞いた時は驚いた。あんなことになってから再会したんだが、まるで」
・・・彼女の法廷を見ているようだった。
最後の言葉は、口の中でつぶやく。
すっかり喫茶店の店主におさまったこの男は、大きなマスクの下にどんな表情を隠しているのか。
「・・・俺は、俺の最後の法廷で、あの男の中にアイツを見たぜ」
「・・・」
「生きていてくれた、と思ったよ」
「・・・」
「それでも」
顔を上げる。
ドアの向こうに、新しい客が歩いてくるのが見えた。
「それでも、俺は・・・、アイツ自身に生きていて欲しかったぜ」


狩魔 冥が店の前に立った。
御剣がふりむくと、白い大きな花束が目に飛び込んできた。
「どうしてドアが開いてるの?エアコンの冷気が全部逃げてるじゃないの」
御剣が、両手をふさがれている冥の代わりにドアを閉めるために立ち上がる。
「よう」
マスターが立ち上がり、いつもの口調で客を迎えると、冥は白いアレンジメントの花かごをカウンターに置く。
それを見たマスターが、ふっと口元を緩めた。
「これは、ヒゲからよ」
「アイツの好きだった花だ。あの薄給刑事にしては、随分がんばったんじゃねえか?」
冥が黙って肩をすくめた。
もちろん、糸鋸刑事の希望を聞き入れて、花を用意したのは冥自身だ。
冥は直接彼女と面識はないが、その後にかかわった事件から、彼女を知らずにはいられない。
マスターはカウンターに入ると、冥がいつも注文するマキアートのために、エスプレッソ用のタンバーを手に取った。
「あ、私はすぐに失礼するから」
椅子に腰を下ろすことなく、冥が言った。
「急ぐのかい、ご令嬢」
「ええ。また来るわ。花を持ってきただけ」
「わざわざすまねえな」
くるりと背を向けて、冥は御剣を見た。
そのまま店を出る途中で、一言つぶやく。
「あれ、不起訴にするわよ」
御剣は返事をしないまま、ドアを開けて出て行く冥の後姿を見送る。
聞こえたはずのマスターも、なにも言わない。
この店では、仕事の内容は話さないのがルールだった。
冥が手がけていた事件の内容を思い出して、御剣はコーヒーを飲み干した。
不起訴か。以前はなにがなんでも起訴して、有罪に持ち込もうとしていた冥も。
「・・・人は、変わるものだな」
ひとり言のように、御剣怜侍が言った。
そして。
「あなたはこの先の人生を、後悔するためだけに生きるつもりか」
マスターは、冷めたコーヒー豆を保存容器に移していた手を止める。
御剣も、大切な人を失ったことがあるのは、同じだ。
それが恋人だろうと、父親だろうと、師と仰いだ男であろうと。
「・・・厳しいコトを言うんだな、検事さん」
カウンターの上の花が、まぶしかった。
マスターは黙ってエスプレッソマシンのスイッチを入れ、御剣は新聞に目を落とした。
少しのあと、スチームミルクを入れたエスプレッソが御剣の前に置かれた。
「アンタは・・・、大事な女を手放すんじゃねえぜ」
冥の好きなマキアート。
「・・・いや、私は」
「コイツはオレのおごりだ」
なにか、誤解されたような気がする。
それでもマキアートは美味かった。


ブレンドコーヒーの代金を置いて店を出たところで、前から歩いてくる女性が見えた。
ノースリーブのサマーニットに細縁のメガネ。長い髪を後ろで一つに結わえている。
「あ、御剣検事・・・」
華宮霧緒がほっとした顔をした。
手に提げた紙袋から、白い花束が見えた。
「どうしたのだ?」
「成歩堂さんに、喫茶店にお花を届けるように頼まれたのですけど、見つからなくて・・・」
花は、彼女が好きだったとマスターが言った白い花。
なぜ、彼女が成歩堂の使いでやってきたのか。
御剣が眉間のシワを深くした。
「あの、私、みぬきちゃんのマジックショーをマネージメントすることになったんです。お話してなかったですけど・・・」
「みぬきの?」
霧緒は手帳に挟んだパンフレットを取り出して開いた。
ビビルバーの名前の入ったそのパンフレットに、みぬきの写真とショーの開催時間が印刷されている。
仕事が立て込んでいてしばらく会っていなかったが、霧緒も忙しいようだ。
「喫茶店ならそこだ」
御剣が通りの奥を指差した。看板もない、ごく普通の家に見える建物。
「まあ、わからないはずだわ」
御剣は霧緒が喫茶店に花を届けてくるのを通りで待った。
しばらくして店から出てきた霧緒は、御剣が待っているのに気づいて嬉しそうに駆けて来た。
並ぶと、細い腕が御剣の体に触れた。
「・・・これから、どうするのだ?」
しばらく歩いてから、御剣が言う。
「今夜はみぬきちゃんのショーがあるので、そこに。その後はみぬきちゃんを家まで送って、帰ります」
パンフレットに載っていた開演まで、もうあまり時間がないようだった。
少し大きな通りまで出て、御剣はタクシーを目で探した。
「私は、このまま家に帰る」
右手を上げると、目の前にすべるようにタクシーが止まった。
霧緒を促すように背中を押すと、彼女は笑いを含んだ目で御剣を見上げた。
「来い、とは言ってくださらないの?」
・・・・大事な女を手放すんじゃねえぜ。
マスターの声が耳の奥で響く。
御剣は霧緒の乗り込んだタクシーのドアが閉まる瞬間に、言った。
「待っている」


みぬきのショーについて楽しげに語る霧緒の声を聞きながら、御剣は今日の新聞をスクラップしていた。
興味深い事件や裁判の進展を報道する記事を切り抜いて、ジャンル別に整理する。
習慣となっているその作業も、隣で切りくずを集めたりファイルを開いてくれたりする霧緒がいるだけで、少し楽しくさえ感じた。
あの事件の後、なにかと霧緒の相談に乗っていた冥が、一時渡米する際に「よろしくね」と言った意味はたぶん、こういうことではないとわかってはいたが。
裁判にも法律にも、特別な知識をもたない霧緒が、ただ無邪気に話す、他愛ない話。
自分が入れたのではない紅茶や、自宅で作られる家庭料理。
ただ隣に座って、そこに居てくれる暖かい存在。
そのすべてが、御剣には愛しかった。
スクラップを終えてファイルを本棚に収め、穴だらけになった新聞を片付けて戻った霧緒の腕をつかむ。
しばらくぶりの二人だけの時間に、すでに霧緒が目を潤ませていた。
霧緒の体を引き寄せたところで、インターフォンが鳴った。
「誰かしら、こんな時間に・・・」
「かまわない。放っておこう」
「でも・・・」
モニターが切れる直前に電子音が聞こえて、御剣は霧緒の体に沿わせた手を止めた。
ロビーのオートロックを解除する、暗証番号を押す音に聞こえたのだ。
「どうしたの?」
「いや・・・」
霧緒が腕を御剣の首にからめてきた。
華奢な体を抱き寄せて、指を長い髪の間に差し入れた時、玄関のほうで鍵を開ける音がした。
「え・・・?」
霧緒がそれに気づいて目を見張る。
御剣は人差し指を唇に当てて、ソファから立ち上がった。
リビングから廊下へ出るのと、冥が玄関のドアを合鍵で開けるのとはほぼ同時だった。
「あ、いたの?」
御剣を見て、冥が驚いた顔をした。
「うム。どうした?」
「どうしても今夜中に借りたい資料があって・・・」
言いながら、ふと足元を見た。
「なんの資料だ?」
「・・・もういいわ」
ふいに、冥はドアを開けて飛び出して行った。
「冥!」
追いかけようとして、御剣は玄関にそろえてある霧緒のハイヒールに気づいた。
まずかったか。
追うべきか。しかし。
少し迷って、御剣はドアに鍵をかけ、リビングに引き返した。
後ろめたさが残る。
今、自分ははっきりと片方を選んだのだ。
「今の、冥さん?」
霧緒が心配そうな顔をしていた。
「ああ、たいした用ではなかったらしい」
「・・・でも」
霧緒の言いたいことがわかって、御剣は隣に腰を下ろす。
「冥にはここの合鍵を渡してある。ロビーの暗証番号も教えてある」
「・・・」
霧緒は先ほど、ロビーでインターフォンを鳴らし、鍵を開けて迎え入れてもらった。
「冥は、家族だ。冥の父親は、早くに父を亡くした私にとって師匠であり父でもあったし」
「・・・」
「その後、今度は冥が父親を失った。彼女が私を頼るなら、力になってやりたいと思っている」
「・・・」
「だが、あくまで本当の妹のように思っている。キミが心配することはない」
言葉を尽くして、霧緒を納得させようとする。


法廷ではあれほどよどみなく出てくる言葉が、このときばかりはもどかしかった。
無罪を主張する殺人犯も、嘘をつく証人も、屁理屈をこねまわす弁護人もねじ伏せる自分が、目の前で不安げに目を伏せる一人の女性を安心させることができないのか。
「・・・私が愛しているのは、キミだ。それだけでは、いけないか?」
言ってしまって耳まで真っ赤になった御剣に、つい霧緒は小さく噴出した。
「なんだ?」
幸せな気分になって、霧緒は御剣の肩に頭を乗せた。
「いいえ、なんでも」
「人の真剣な告白に、失礼ではないか」
霧緒の腰を抱きながら、御剣が不平を言った。
「私、不安だったんです。もしかして、また貴方に・・・依存、してしまうのではないかって」
一呼吸の間に、さまざまな記憶が御剣の脳裏によみがえる。
「そしたら、また貴方が・・・、貴方もいなくなってしまうのではないかって」
霧緒もまた、大切な人を失ったことがあるのだ。
自分は決していなくなったりはしない。
そう言える人間が、いるだろうか。
どうしたら、彼女の不安を取り除けるのだろう。
霧緒を抱き寄せ、髪を撫でる。
胸に顔を寄せてくる霧緒を強く抱く。
「さっき初めてお会いした・・・、あの喫茶店のマスター」
「・・・ム」
「・・・うらやましいと思いました。亡くなってからも、あんなに想われている人が」
ユリエのことを考えているのだろうか。
御剣は霧緒の顎に指をかけて上向かせ、その唇にキスをした。
「だめだ」
「・・・え」
「どれほど想われても・・・、死んではだめだ」
大事な女を、手放したくはない。
御剣は、霧緒を抱き上げて寝室へ連れて行く。
期待に頬を高潮させた霧緒をベッドに横たえると、ノースリーブを脱がせ、下着を取る。
柔らかな胸に手を伸ばし、首筋に唇を押し当てる。
霧緒のつけている香水が香る。
スカートを引き下ろすと、霧緒は御剣の背に腕を回した。
「お願いがあるの・・・」
胸の頂に口付けられて、ピクリと肩を震わせながら、霧緒はささやいた。
「約束して。守れなくてもいいから・・・」
体中を愛撫されて、息を乱す。
御剣の手が、唇が、霧緒の全身を這う。
「いなく・・・ならないで」
失いたくない。
その思いは、同じ。
もう、誰も。
大切な誰も、なくしたくはない。
霧緒が体を反らせ、一瞬それが白い花が動いたように見えた。
御剣は花を愛でるように優しく触れ、花弁にそっと指を差し入れた。
「あ・・・・」
花は、蜜をたたえていた。
中を探るように進むと、そこは熱く締め付ける。
御剣は、乞われるままに言葉を唇にのせた。
「私は、どこにもいかない・・・」
破るつもりのない、約束。
守れると言い切れる者などいない、約束。
せめて、今だけでも。
「は・・・・あん・・・」
答えを聞いて、霧緒は乱れた。
「嬉しい・・・」
大きく開かせた脚が御剣の腰にからみつく。
目の前で薄く朱に染まってゆくしなやかな肢体に、我を忘れてのめりこむ。
ベッドサイドの小さな灯りを受けて、霧緒の体が揺れる。

ふいに、白い花を抱えた冥の姿がよみがえった。
『・・・もういいわ』
声が、聞こえた気がした。
バカな。
御剣は自分でも説明のつかないそれを振り切るように、霧緒の体に自分自身を突き入れた。
「ああ・・・」
耳元で、霧緒が声を上げる。
その声だけを聞くために、御剣は目を閉じた。
自分の体で、霧緒を感じる。
どくどくと脈打つ感覚と、切なげにあえぐ声。
「・・・はぁっ・・・」
幾度も幾度も打ち込み、霧緒が折れるのではないかというほど激しく攻め立てるうちに、御剣の思考が止まる。
「あああんっ!」
霧緒がビクビクと体を痙攣させて強く抱きついてきても、御剣はさらに深く突いた。
「あ、ああ、も、もう・・・っ」
涙を浮かべた霧緒が懇願するように訴えてぐったりし、両手でその腰を抱えたまま御剣はようやく霧緒の中に精を放った。
霧緒に覆いかぶさるように倒れこむと、じっとりと汗ばんだ背に腕が回された。
「・・・好き」
私もだ。
そう言おうとして、開いた唇から、なぜか思うように言葉が出ず、御剣は黙って霧緒を抱きしめた。

・・・大事な女を手放すんじゃねえぜ。

なにか心に小さなしこりを抱えたまま、腕の中に寝息を立てる霧緒を抱く。
その熱さが、重かった。


#3へ続く

最終更新:2020年06月09日 17:56