とある公園で起きた殺人事件。
事件はニュース報道でも大きく取り上げられ、現場付近には報道陣と野次馬がつめかけている。
そんな血なまぐさい殺人現場に全く似つかわしくない黄色い声が、一人の男に絶え間なく浴びせられていた。

ーーその男の名前は、牙琉響也。
ガリューウエーブのリーダーと敏腕検事の二足のわらじを履く彼は、どこにいても目立つ存在であった。
颯爽と事件現場にバイクで現れ、テキパキと現場検証をこなし、帰り際には詰めかけたファンへのサービスも怠らない。
そのスタイリッシュな彼の姿に魅了される女性は、日々増え続ける一方である。

この日も響也は現場検証とファン対応をこなすと、足早にバイクの元へ向かう。
再度ファンに捕まるのを避けるため、手際よくジャケットのポケットからバイクのキーを取り出す。

「すみません」

響也がバイクにキーを差し込もうとしたとき、背後から一人の女の子に声をかけられた。
しまった、と心の中で舌打ちをする。
一人のファンに構ってしまうと、その間に次々とファンは集ってくる。
一瞬、気づかないフリをしてしまおうかと脳裏をよぎるが、ファンを蔑ろにできない響也は咄嗟にファン向けの笑顔を作った。
「ごめんね、サインはまた明日でもー…」
そう言いながら振り向いた目の前に立っていた女の子の姿を見て、響也は少し驚く。
その女の子は響也を取り囲む今時の若い女子高生といった感じとは違う、どちらかといえば古風な姿であったからだ。


年齢は15、6くらいであろうか。
見慣れぬ学校の制服を着て、大きなバッグを小柄な体で精一杯抱え込んでいる。
色素の薄い髪を頭の上でくるりとまとめ、大きな瞳はぱちくりと響也を不思議そうに見ていた。
美人というよりは愛くるしい感じだが、よく見る取り巻きの女子高生とは雰囲気が違う女の子だった。
どこかで見た顔のような気もするが、思い出せない。

「あのー…、道をお尋ねしたいのですが」
響也に凝視された女の子は、少しオドオドした様子で言う。
てっきり自分のファンだと思った響也は、その言葉にきょとんとしてしまう。
有名人である自分に、まさか道を尋ねてくる人がいるなんて最近ではない光景だったからである。
自分も随分と天狗になったものだな、と小さく苦笑する。

「ああ、ごめんね。で、どこに行きたいのかな?お嬢ちゃん」
「成歩堂法律事務所なんですけど、確かこの辺りでしたよね?」
「!」

予想だにしなかった返事だ。
「成歩堂」といえば7年前、自分の手で弁護士バッジを奪った男の名前である。
まさかその名前を、こんな若い女の子の口から聞くことになるなんて予想できるはずもない。
だが、弁護士としての成歩堂龍一はもう存在しない。
法律事務所も、とうの昔に『成歩堂芸能事務所』へと成り代わってしまった。

「成歩堂法律事務所は、もう存在しないよ」
「えっ…えええーーっ!?」
その事実がよほど衝撃だったのか、女の子は抱えていた荷物を地面に落とした。
落としたバッグを全く気にも留めず、ひたすらオロオロしている。
そのリアクションからして、どうやら成歩堂法律事務所に何か重要な用事でもあったのだろう。
女の子が落としたバッグを拾い上げ、パンパンと土を払って手渡す。
「ありがとうございます」
女の子は響也からバッグを受け取ると、両手でギュッと抱え込んだ。
「もう7年も前のことになるんだけどね、知らなかったのかな」
「知りませんでした……。わたくし…ずっと里にこもっていたものですから…」
「里?」
「はい、里で霊媒の修行を。でも真宵さま、成歩堂くんが事務所を閉めたなんて一言も……」
がっくりと肩を落としながら、女の子は小さく呟く。
その言葉を響也は聞き逃さなかった。


彼女が口にした「霊媒」、「真宵」、そして「成歩堂」という単語。
それらのキーワードは昔よく耳にした。
過去に起こった霊媒をトリックとした奇異な事件は、法曹界に身を置くものなら誰もが知っている。

何やら訳アリという感じだが、響也自身には関係のないことだ。
とはいえ、成歩堂龍一から弁護士バッジを奪取した張本人として多少の罪悪感は感じる。
と同時に、女の子の異様なまでの落ち込みようはどうも引っ掛かるものがある。

「厳密に言うとね、成歩堂【弁護士】はもういないんだ。事務所の形跡は残ってるらしいけどね、今や芸能事務所さ」
「芸能事務所!?」
「まぁ話すと長くなるけど、今ではおデコく……いや、新米弁護士と成歩堂龍一の娘が跡を継いでる」
「なっ、な、な、な、成歩堂くんの娘さまっ!?!?」
女の子は全く訳が分からないといった様子で混乱している。
無理もない。その背景には、一言では到底説明できない複雑な理由が渦巻いているのだ。

「というわけで、成歩堂法律事務所は厳密に言うと存在しない。跡地でよければ教えられるけど」
どうする?と、響也はクルクルとバイクのキーを指に引っ掛けて回しながら尋ねる。
「…………」
少しの沈黙のあと、何かを決意したように女の子は俯いていた顔をあげて響也の目をじっと見つめる。
「もしご存知でしたらー…何があったのか教えて頂けないでしょうか?」
その目は真剣だった。
「ぼくに聞くより、直接本人に聞くのが早いんじゃないかい?」
「そ、そうなのですが…そうにもいかなくなりまして…あの…」
「何か聞けない理由があるのかな?」
「…………はい」

気まずそうに頷く姿を見て、響也はやれやれと首を振る。
面倒ごとは御免だが、多少の罪悪感と彼自身の性格の優しさが手伝ってNOとは言えなかった。
腕の時計を見ると、時刻は昼過ぎ。
検事局へ戻るには、まだ時間に余裕がある。


響也はメットインからスペアのメットを取り出すと、女の子へ投げてよこした。
「ここじゃあ色々とマズいから、場所を変えよう。バッグはショルダーで体にかけて、後ろに乗って」
そう言ってバイクの後部座席へと促す。

とその時、遠くから再び黄色い声が上がる。
「キャーーー、響也ァァァァー!!!」
「ガリュー、握手してぇー!!!」
熱烈な追っかけファンたちが、響也めがけて一目散に走ってくる。

「おっと、見つかったか。お嬢ちゃん、早く乗って!」
女の子は急な展開に戸惑うが、「いいから、早くッ!」と急かす響也に言われるままバイクへ股がる。
「オーケイ、しっかり捕まってて!」
エンジンを吹かし、響也は勢いよくバイクを走らせたーーー。

辿り着いた先は、響也の住む高級マンションのラウンジだった。
ここならば誰に邪魔されることもなく、落ち着いて話ができる絶好の場所である。

広々としたラウンジに設けられたソファに腰掛けた女の子は、キョロキョロと辺りを物珍しげに見渡している。
「紅茶でよかった?」
「はい、ありがとうございますっ」
響也は自販機で購入してきた紅茶を女の子に手渡し、次に自分用の缶コーヒーのプルタブを開けた。

「凄いですね、こんな素敵な場所に住んでらっしゃるなんて!」
「こういう場所は初めてかい?」
「はいっ!ソファもふかふかですっ」
よほど気に入ったのか、女の子は嬉しそうにソファの感触を何度も確かめている。

「そういえばお嬢ちゃんの名前をまだ聞いていなかったね」
「わたくし、もうすぐ18ですっ。お嬢ちゃんではありませんっ!」
ぷぅ、と小さく頬を膨らませて怒る様子が微笑ましい。
その可愛らしい主張に思わず響也は小さく笑ってしまうが、レディーは尊重するというのが彼のモットーだ。
「それは失礼、訂正するよ。ぼくは牙琉響也、キミの名前を教えてくれないかな?」
「わたくし、綾里春美と申します」
「綾里…。やっぱり、あの倉院の里の子だったんだね」
「えっ、倉院の里をご存知なんですか!?」

目を大きく見開いて驚く春美。
かれこれ9年前に倉院の里で起きた「外科医師殺人事件」は有名である。
その事件からわずか2年で起きた「童話作家殺人事件」と合わせて、綾里の一族の血は呪われていると
検事局内では今でも語り継がれている話だ。

「そういえば牙琉さんは、何をされてる方なのでしょう?多くの女性から追いかけられておりましたが…」
春美の純粋な質問に思わずガクッとなる。
まさかこの世代で、自分を知らない子がいるなんて思いもしなかった。
「ガリューウエーブって聞いたことないかい?」
「がりゅう…うえいぶ……? それは何かの機械の名前とかでしょうか?」
その答えに再度ガクッとする。
もしかしたら名前だけでもと思ったが、その淡い期待は響也のプライドと共に一瞬で砕かれた。

「いや、知らないならいいんだ…」
「すみません、わたくし横文字は苦手なものでして…」
春美は申し訳なさそうに肩をすぼめる。
ミリオンヒット連発の天下のガリューウエーブも、春美の前では単なる横文字にしか過ぎない。
なんだか調子狂うな…、と響也は苦笑する。


「ぼくは一端の検事さ。同時に音楽業もやっている、と言えば分かってくれるかな?」
見た目が派手なせいか、響也が初対面で検事だと思われることはまずない。
その理由からか、懐から身分証明書を取り出して相手に見せるのがいつしか癖となっていた。
「まぁっ、検事さんだったのですね」
差し出された身分証明書をまじまじと見つめながら、春美は感心したように言う。
「そう、だから成歩堂龍一のことは幾らか知ってる。綾里のことも多少は、ね」
「では成歩堂くんに何があったのか教え…」
「その前に」

響也が春美の言葉を遮る。
「1つ、キミに確認したいことがあるんだけど」
「なんでしょう?」
「キミさ、もしかして…家出少女かい?」
「!!!!」
ビックリした様子で春美は大きく開いた口を手で覆う。
図星ですと言わんばかりの、なんとも分かりやすいリアクションだ。

「…はい、わたくし悪い子です。勝手に里を飛び出てきてしまいました」
今度はしょぼんと項垂れる。
コロコロと変わる春美の表情を面白そうに眺めながら、響也は「やっぱりね」と笑った。

「なぜお分かりになったのです?」
「世間の学生は夏休みに突入したばかり。慣れない土地で大きなバッグを抱えてウロウロする女の子。
 行く当てだった場所が、自分の知らぬうちになくなってることを知って狼狽する…。
 こんなカードばかり並べられたら、安易に「家出少女」という役が出来てしまうよ」

まるで法廷で被告人を追いつめるかのような調子だ。
「やはり検事さんにはバレてしまうのですね……」
「何か事情があるんだろうけど、仕事柄、家出少女を放っておくワケにもいかなくてね。
 尋問のようで悪いけど、どういう経緯で家を飛び出てきたのか聞かせてくれるかい?」
甘いマスクと優しい口調で少しずつ相手ににじり寄っていく手法は、響也の天性の才能だろう。
じりじりと追いつめられた春美は、事情を白状するほかはなかった。


春美の家出事情は、響也が思っていたよりもずっと複雑なものだった。
原因はどうやら、綾里家の血筋問題らしい。

発端は7年前に起こった、倉院流の血縁をめぐる事件。
事件が解決した後、本家の血を継ぐ綾里真宵が倉院流師範代を無事に襲名したという。
すべては終わったかのように思えたが、血の争いというのはそう簡単には円満解決しないもの。

真宵を心から慕う春美は、補佐役として真宵の役に立てるように修行に明け暮れる日々だった。
だが、春美の実母であるキミ子の意思を継ぐ分家のものたちはまだ多い。
分家の血筋でありながらも、真宵よりも高い霊力を持つ春美を倉院流の師範代に就かせたいという願いはもはや執念だ。

「いつか春美さまが師範代になる日が来ますわ」
「真宵さまよりも、春美さまのほうが師範代に相応しい能力を持っていらっしゃるのだから」

まるで洗脳のように言われ続ける言葉と、春美の純粋な気持ちなどお構いなしの修行三昧の日々。
それでも真宵の力になれるなら、と修行に励む春美に転機を与えたのは、他ならない真宵本人であるーーー。

それは偶然の出来事であった。
本家の家に住む真宵を尋ねてきた春美は、真宵の部屋から漏れる会話を思い掛けず立ち聞きしてしまったのだ。
ハッキリと聞こえた、真宵の言葉。


「………だから私、はみちゃんを自分の側に近寄らせたくないの…」


春美は一瞬で頭の中が真っ白になった。
いつも優しく接してくれる、大好きな真宵。
実母のキミ子が手をかけようとしたことに負い目を感じた春美を、笑顔で許してくれた。

だけど本当は自分のことを疎ましく思っていたなんて気づかずもせずに、のうのうと過ごしていたなんて…
自分の能天気さが嫌になる。

気づけば春美は手当り次第に荷物をバッグに詰め込み、逃げるように里を飛び出していた。
滅多に里を出たことがない春美の行くアテは、ただ1つだけーーー。


「で、成歩堂法律事務所を尋ねてきて、今に至るというわけかい」
「…はい」
「勢いだけで飛び出してくるなんて、とんだおてんば娘だねえ」
響也からすれば「家族の揉め事が原因のよくある家出」に分類されるのだが、春美にとっては青天の霹靂である。

「わたくし、真宵さまにとって邪魔な存在なのですね…。
 それどころか成歩堂くんが弁護士を辞めていたなんて、更にショックです…」
「…………」
響也の胸がズキリと痛む。
「検事さん、成歩堂くんに一体なにがあったのですかっ?」

響也はソファに深く座りなおすと、ふぅ…、と軽く一息ついた。
真実はこの少女を更に傷つけることになるかもしれない。
だが例えそうなったとしても、真実は曲げられないのだ。

「…法廷でね、彼は捏造した証拠品を提出したんだ。それが原因で弁護士を辞めた」
「えっ……」
「そして彼から弁護士バッジを剥奪したのが、ぼくさ」
「!!!」

衝撃の事実を受け入れることが出来ず、春美は俯き、黙り込んでしまう。
まるで時が止まったかのような、長い沈黙のあと。
華奢な手を力一杯に握りしめながら、春美は声を振り絞る。

「…成歩堂くんが証拠品を捏造だなんて、そんなの嘘ですっ!」
「信じる、信じないはキミの自由さ。でもキミは知りたがった、だからぼくは真実を伝えた」
「で、でもっ!!」
「真実を追求するということは、同時に真実を受け入れる覚悟をするということだよ」
響也にピシャリと指摘され、春美はしゅんとなる。
「…そうですね、申し訳ありません。わたくし、動揺してしまいました」

響也は必要以上のことを春美に語ろうとはしなかった。
「真実は自分の力で追求するからこそ意味がある」というのが信念にあるからだ。

「真実の先には、更なる真実が隠れているものさ。
 納得がいくまで追究することをオススメするよ…自分自身の目と、耳でね」

どこか含みのある言い方だった。
春美はこくんと頷くと、「有り難うございました」と丁寧にお辞儀をする。


「それじゃあ、次にキミの家出についてだけど」
話はこれで全て終わったと思っていた矢先に、春美は不意をつかれた。
えっ、と驚く様子の春美などお構いなしに、響也は喋り続ける。

「言っただろ?仕事柄、家出少女を放っておくワケにはいかないって」
「み、見逃してください…」
「ダメだよ」
「うううっ…」
表向きは爽やかな笑顔でも、譲れないことに対して容赦はしないのが響也だ。
春美の願いもアッサリと払いのける。

「家出して成歩堂のところへ行こうとしたものの、予想だにしない展開になっていて行きづらくなった。
 しかも自分の信頼する人物から成歩堂に関する話を一切されなかったことがショックで、余計にね。
 今の気持ちは、そんなところじゃないかい?」
「!!」

探偵のように春美の心情を推理していく響也。
そしてそれは、恐ろしいほど的確に当たっていた。

「なんで分かるんですかっ?」
「長年培ってきた、カンってやつかな。
 で、キミは行く場所がなくなってしまったワケだ。でも家には帰りづらいし、帰りたくない」
「…心が読まれているようで、恐いです」

流石と言うべきか、響也の推理は的を外さない。
けれど彼にとって大事なのはそんなことよりも、家出少女の対処だった。

「聞いた感じだと、家庭内暴力などの問題はないようだね。
 今日は警察に泊まって、明日にでも帰れるようにぼくが手続きをとっておくよ。
 捜索願が出されてるかもしれないけど、そっちも処理はしておく。
 今からぼくが警察まで送っていくからー…」
「お願いしますっ、わたくしを検事さんのお家に置いてくださいっ!!!」

缶コーヒーを口に運ぼうとした響也の手が一瞬止まる。
春美の申し出は予想の範疇にあったが、受け入れるわけにはいかない。

「随分と無理を言ってくれるね」
「無理を言っているのは承知の上です。でも長居はしませんし、迷惑もかけませんから…!」
「いま家に連れ戻されるのだけは回避したい、って?」
「はい」

どうかお願いします、と春美は深々と頭を下げる。
軽い気持ちで言っているのではないことは響也にも分かった。
だがしかし、自分にも立場というものがある。


「キミをかくまうのは立場上、色々とマズいんだよ」
「お願いしますっ、お願いしますっっ」

いくら言っても、春美は食い下がってくる。
どうしてそこまで必死になるのだろうかと不思議に思いながら、響也は缶コーヒーを口に含んだ。

「お金はあまりないですけど…。足りない分はわたくしの体でお支払いしますからっ!」
「ぶはッ!!」
イケメン台無しのごとく、響也は盛大にコーヒーを吹いた。

「なにを言って…」
「掃除に洗濯にお料理、なんでもいたしますっ!」
「…あ、ああ。なんだそういうことか、ぼくはつい…」
「え?」
「いや、なんでもないよ…」

うっかり変な妄想をするところであった。
気を取りなおし、響也は春美に尋ねる。

「ねえ、どうしてそこまで家に帰りたくないんだい?」
「…検事さんが仰っていた、真実の追求をしたいのです。
 成歩堂くんのことも、真宵さまのことも…知るのが恐い部分も正直ありますけど…
 それでも「真実の先に隠された真実」を、自分自身の目と耳で知りたいと思ってます」
「…なるほどね」

どうやら、先ほどの自分のアドバイスが起動力となったらしい。
春美が向けてくる真剣な眼差しは、真実を追究する者の目だった。
響也は、そういう目が好きだ。
真実を知るために、響也は検事になった。弁護士と検事の勝敗よりも、常に真実の追求をしてきた。
それ故に、春美の言い分も痛いほど分かるのだ。

響也は少し考えたのち、1つの決断を出した。
「わかった、とりあえず今日はぼくの家に泊まっていっていい。今日は警察にも引き渡さない。
 だけど、ぼくにも1日だけ考えさせてくれ。キミを家に置くかどうかは、また明日返事するよ」
その言葉に、春美はパアッと顔を明るくさせる。
「本当ですかっ、有り難うございますっ!!」

やれやれ、とんだ拾いものをしたもんだ…と響也は思ったが、満面の笑みで喜ぶ春美の姿を見ると拒絶できなくなる。
「今日、成歩堂のところへ行くのかい?」
「…いや、その…今はまだ心の準備が…」
「そう言うと思ったよ。じゃあ部屋に案内するから、着いておいで」

ひょい、と春美の荷物を持ち上げ、響也はエレベーターへ向かって歩き出す。
「あっ、はいっ」
スタスタと歩いていく響也の後ろを、春美は急いで追っていった。

 

響也は高級マンションの高層階に住んでいる。
モデルルームのような部屋は、春美にとって未知の世界であった。

だだっ広いリビングの窓の外には、都内を一望できる景色が広がっている。
壁にディスプレイされた響也愛蔵のギターコレクションたちを見て、春美は目を輝かせた。
「すごいだろ?ぼくの可愛い恋人たちなんだよ」と自慢げに言う響也に、
春美は「音楽業とは、楽器屋さんのことだったのですね!」と、素でボケをかます。
世間知らずもここまでくると、響也は笑うしかない。

響也の住むマンションは、一人で暮らすには広すぎる物件だった。
そのため部屋は幾つか余っており、ゲストルームという名目になって放置されている。
春美が案内された部屋も、余ってる部屋とは到底信じられないほどに綺麗で広い部屋だ。
「ちゃんと鍵はかけられるから安心しなよ」
「あの、有り難うございます…。無理を聞き入れて下さって、わたくしなんてお礼を言えばいいのか」
春美は今さらモジモジと恐縮している。
あれだけ食い下がった割には謙虚な一面もあるんだな、と思いながら響也は春美に鍵を渡す。

「ぼくは今から職場に戻らなくちゃいけないんだ。何か困ったことがあったら、ここへ電話しておいで」
電話の横に置かれたメモに自身の携帯ナンバーを書き、響也は家を出ていく。
その後ろ姿を見送った春美は、1人になった途端に脱力してその場へとへたり込んでしまった。

勢いでここまできたものの、不安は拭いきれない。
今日は置いてもらえることになったが、明日は帰されてしまうかもしれないのだ。
もしそうなったとしても、その前に成歩堂に会わなければいけない…。

よしっ!、と意気込んで勢いよく立ち上がる。
とりあえず置いてもらったお礼に家事でもしようと辺りを見回すが、掃除も洗濯も必要なさそうなほど
綺麗に整頓されていたし、炊事しようにも冷蔵庫の中には酒か水かつまみしか入っていなかった。

「お仕事、なにもなさそうです…」
タダで居座るのは、なんだか気が引けた。
何か仕事はないかとリビングをうろうろすると、ローテーブルの上に散乱した雑誌や本、書類や楽譜を発見する。
大した仕事ではなさそうだが、せめてそれらを片付けようと春美はテキパキとまとめ始めたのだった。

「これは…?」
その最中、雑誌や楽譜の下から開きっぱなしのファイルが顔をのぞかせていることに気づく。
どうやら新聞や雑誌のスクラップファイルらしい。
普段だったら気にも留めないものだが、春美はどうしてもスクラップされている記事が気になってしまった。
なぜならば、その記事はビリビリに破いたあとにセロハンテープで丁寧に繋ぎ合わせてあったからだ。
いけないと思いつつ、好奇心が勝って記事を読んでしまう。

「ーー!!」
衝撃の文字が春美の目に飛び込んできた。
見出しに書かれていたのは、『有名弁護士、七年越しの殺人計画!!~衝撃の事実』の文字。
それだけで既に嫌な予感はした。しかし、目が離せない。
春美は夢中になって記事を読みあさった。
記事に出てくる「牙琉霧人」の名前は、響也の親族であることは春美にも容易に想像できる。

内容は、牙琉霧人の企てによる殺人事件に焦点を当てた記事。
それ以外の人物…つまり、成歩堂や響也のことについては詳しく触れられていなかった。

ファイルをパラパラと捲ると、過去の牙琉霧人の栄光を讃えた記事らがスクラップされている。
しかし何枚かはやはりビリビリに破かれ、テープで補修されているのだった。

響也にとって、ここは他人に踏み込まれたくない領域だったかもしれない。
本人の知らない所で勝手にその領域へ踏み込んでしまったことを悔やみながら、春美はファイルを閉じたーーー。


一方、そのころ。
検察庁へと戻ってきた響也は、午前に行った現場捜査の報告書を早々にまとめ終え、資料室へと足を運んでいた。
過去の事件の資料を引っ張りだし、読みふける。

2019年、2月7日の「童話作家殺人事件」…ーー綾里の血をめぐった事件である。
記憶にぼんやりと残っていた程度で、響也は内容を詳しくは把握していなかった。

ファイルしてあった「美柳ちなみ」と「葉桜院あやめ」の写真を見て、響也は「ああ、これだったか」と呟いた。
初めて春美を見た時に、どこかで見覚えがある顔だと思ったのだ。
そっくりではないにしろ、半分血が繋がっているせいかどことなく雰囲気が似ている。
どちらにせよ、春美が整った顔立ちをしていることに間違いはない。
だが、事件の内容はそれに反比例して醜いものだった。
資料をめくるたびに、響也は胸くそが悪くなりそうになる。

自身のプライドの為なら、人を殺めることさえも厭わない。
そのためなら、身内だろうがなんだろうが手段遂行のための道具にすぎないのだ。
全くもって下らないプライドだーーー。

響也の頭の中に、実兄である牙琉霧人が浮かび上がる。
彼もまた自身のプライドのために身内を利用し、挙げ句に身を滅ぼした愚かな1人であった。
「クソっ…!」
ダン!!、と拳で壁を思い切り殴りつける。
「ぼくも所詮、あの子と変わらないってことか…。ははっ…」
薄暗い資料室に、響也の乾いた笑い声が吸い込まれるように消えていったー…。

 +++++++++++++++++++++++

その日響也は、いつもより早めに帰宅した。
リビングの灯りをつけると、響也お気に入りの広いソファでスヤスヤと気持ち良さそうに寝ている春美の姿が目に入る。
なんとも可愛らしい寝顔だ。

「あ…っ、おかえりなさいませ…」
響也の気配に気づいたのか、春美は眠気眼でのそのそと起き上がる。
「ごめん、起こしちゃった?」
「いえ、そんな…。はしたない格好で申し訳ありません」
「あのさ、キミを置いておくかどうか明日返事するって言ったけど…、今すぐするよ」

突然の展開に、春美は体をビクっとさせた。
そして不安げに、響也の顔を見上げる。心の準備なんて微塵も出来ていなかった。
「最初はやっぱり、キミを置いとくのはよくないかなと思ってたんだ。
 でも気が変わった、学校が始まるまでの間ならここにいてくれて構わない」
「えっ……、本当…です…か?」
「本当だよ、嘘じゃない」
はっきりと響也が言い切ると、春美はこれ以上ないほどの笑顔を作る。
「あ、あ、有り難うございますっ!」
「ただし、条件つきだ」

響也が提示した条件は以下の3つだった。
【家にすぐ連絡を入れ、滞在中も定期的に家に連絡をすること】
【親族以外には、牙琉響也の家にいることを内密にすること】
【もし万が一何かあった場合、すぐに家に帰ること】

春美はこれらの条件を快諾するも、響也の心変わりの理由がどうしても分からない。
それを尋ねてみたところ、「さあね、ぼくは気まぐれだから」とだけしか返ってこなかった。
響也の真意は計りかねないが、何はともあれ追い返されないことに春美は心の底から安堵する。

「あ、そうだ。もう1つ条件を言い忘れてた」
思い出したように響也が言う。
「プライベート空間で「検事さん」って呼ぶのは禁止だからね」

続き

最終更新:2020年06月09日 17:48