御剣怜侍が午前中に狩魔冥の執務室を訪ねた時、部屋の隅にある有名デパートの紙袋が目に入った。
そっと見ると、その中には派手な包装紙に包まれた小さな包みが、いくつも入っている。
御剣はそしらぬふりで用件だけを述べ、必要な書類を受け取った。
そのままつっ立っていると、早くも別の仕事に取りかかろうとした冥が、御剣を見上げる。
「まだ、なにかあるかしら」
御剣は首を横に振り、そのまま執務室を出た。

…もらえなかった。

あいかわらず忙しい、2月14日の検事局である。
予定の時間に検事局を出てくる御剣の肩が寂しげに見えたのは、糸鋸刑事の気のせいだっただろうか。


その日、夕方まで事件の捜査を指揮した御剣は、糸鋸のオンボロ車で検事局まで戻ることにした。
出発したとたん、冬の短い日が沈んだばかりだというのに、糸鋸の腹が驚くほどでかい音で鳴る。
じろりと横目で見ると、困ったように肩をすくめる。
相変わらず、ろくなものを食べていないのだろう。
計ったように車はのれんを出したばかりの寿司屋の前を通りかかり、御剣はそこで車を止めるように指示した。
「寿司なんて、十年ぶりっス!検事に後光がさして見えるっス!!」
「誰も、ここに入るとは言っていない」
子犬が飼い主を見るような目をした糸鋸が、涎を垂らさんばかりの様子でエンジンを切る。
「わかってるっス!御剣検事は腹を鳴らした自分にそんな意地悪はしないっス」
御剣は一つだけ釘を刺した。
「寿司屋で検事、と呼ぶな。いろいろ面倒だ」
遠慮なしに、糸鋸が十年ぶりの寿司を腹に詰め込む。
常に食生活の貧しい糸鋸に、土産の折を注文してやる頃には、御剣も冥の部屋にあった紙袋のことを忘れかけていた。

店を出て車に乗ると、御剣は運転席でご機嫌にハンドルを握る糸鋸の薄汚れたコートのポケットから、赤いリボンがはみ出しているのを見つけた。
「…なんだ、これは」
リボンを引っ張ると、見覚えのある青い包装紙に包まれた小さな箱がぽろっと落ちた。
「あ、あ、落としちゃダメっス!狩魔検事にもらったチョコレートっス!!」
「…なに?」
御剣の表情が厳しくなるが、前を見て運転している糸鋸は気づかない。
「あれ、忘れてるっスか?今日はバレンタインデイっスよ。狩魔検事はちゃんと日本の風習を勉強してるっスねぇ。
自分、今年はマコくんからももらったから2個っス。もちろん、御剣検事には遠く及ばないっス。
あ、検事あてのチョコレート、ダンボールに入れて総務に置いてあるらしいっスよ?」
寿司など食わせてやるのではなかった、と御剣は後悔した。
世間がにぎわうバレンタインデイなど、この男には無縁だろうと同情したのがバカバカしい。
「糸鋸刑事。来月の給与査定を楽しみに…」
御剣の決めセリフは、対向車のやかましいクラクションにさえぎられて、糸鋸の耳には届かなかった。
「あ、でも今日が何の日か忘れてるってことは、まだ狩魔検事からチョコレートもらってないっスか?
自分にはでっかい紙袋から一個出して渡してくれたっス。きっと、本命チョコは別に隠してあるっスねぇ」
…そうかもしれない。
少なくとも、糸鋸と同じ扱いだとは思えない。
きっと、さっきはタイミングが悪かったのだ。
仕事終わりに渡してくれるつもりだったのかもしれない。
出かけてしまうと伝えておいた方がよかっただろうか…。


検事局に到着すると、糸鋸は押収物や資料の入った箱などを運んでから警察署に戻っていった。
さっき、職員出入口で確認したところによれば、冥はまだ検事局に残っているようだ。
…しかし、そこまでして私は冥からチョコレートが欲しいのか?
御剣は、誰もいない執務室でそうつぶやいてみた。
答えは、考えずともわかっていた。
欲しいのだ。
デスクの脇には、糸鋸が運んできた検事局の女性職員からのチョコレートがダンボールに山と入れてあった。
ふう、と息をついた時、ドアがノックされた。
「御剣検事」
冥の声だ。
御剣は、返事と同時に立ち上がる。
開いたドアの向こうで、ちょっと照れくさそうに冥が一人で立っていた。
両手で、赤い包装紙の箱を胸に抱えている。
期待していたとはいえ、御剣はどぎまぎし、それに気づいていないふりで冥を執務室に入れた。
「捜査に出ていたのですってね、御剣怜侍?」
執務室に御剣以外誰もいないのを確かめるようにして、冥は口調を変える。
「ウ、ウム。糸鋸刑事と一緒だった」
「そう。順調にいって?」
よく見れば、冥はうっすら頬を赤くしている。
「ウム…、そうだな」
御剣は冥の抱えている箱を見ないように、なにげなく運び込んだ資料の箱に視線を落とし、一番上に積んである折詰
に気づいた。
糸鋸に渡すのを、忘れていた。

つられたように床の上のダンボールに目をやった冥が、その脇にあるチョコレートの箱に気づいてさっと顔色を変えたことには、気づかなかった。
「ああ、さっき糸鋸刑事と寿司を食べたのだが、キミも夕食はまだだろう。よかったら」
折詰を差し出そうとして、この上なく不機嫌な顔をした冥と目が合う。
「め、冥?」
いきなり様子が変わったのを見て、御剣はたじろぐ。
「そう、さぞかし見ものね。バレンタインに男二人でお寿司を食べるなんて。デザートもたくさん届いていることだし」
そこで初めて、御剣は自分が失敗したことを知った。
冥は胸に抱えていた箱を、乱暴に御剣に押し付けた。
「みんなに配った義理チョコが余ったから、あなたにあげるわ。たくさんあって、もういらないでしょうけど」

…もらえた。

手放しで喜べないこの状況で、思わず御剣はニヤつきそうになった。

「キミが義理チョコなんていう習慣を守るとは思わなかったな。アメリカにはないだろう」
叩きつけた言葉を、御剣が難なく受け止めたことで、冥は勢いを削がれる。
「し、失礼ね。私だって、国の風習や伝統を頭ごなしに否定するわけではないわ。これくらいで今後の人間関係が潤滑に進むなら安いものよ」
御剣が受け取ったチョコレートの箱は、糸鋸のコートから落ちたものとは比べ物にならないほど大きく、重かった。
「ありがとう。とても、嬉しい」
箱を手に持ったまま、御剣は素直に冥に気持ちを伝え、冥は耳と首まで真っ赤になった。
「あ、余ったからよ。勘違いしないでちょうだい」
真っ赤になった顔で強がりを言っても、効果がない。
「ウム。それでも、嬉しいものだ」
返事に困った冥が、空いた両手の置き場所に困って、御剣がデスクに置いた折詰の箱に印刷された店名を指でなぞった。
「ど、どこにあるお寿司屋さんだったの?」
御剣は簡単に場所を説明した。
「初めて入った店だったが、なかなか良かった。今度、キミも連れて行こう」
あまりにさらっと言ったせいで、言ったほうも言われたほうも照れた。
「…ヒゲが一緒じゃ、イヤよ?」
これ以上赤くなれないほど赤くなった冥が、それでもまだ口を尖らせるようにして言うのがあまりにかわいくて、御剣は冥の代わりにチョコレートの箱を潰れそうなくらい強く抱きしめた。
「ウム。週末にでも、出かけないか?」


今度は、冥がどぎまぎする番だった。
御剣には、冥が義理チョコの、さらに余り物だと強調した上に、誘われて明らかに動揺しているのまでがかわいらしい。
そういえば、冥と二人でプライベートで出かけたことはない。
そもそも、13歳で検事になった冥は、今までまともに男性とデートなどしたことがないのではなかろうか。
「じゃあ、あのね」
わざとそっぽを向いて、冥が言った。
「行ってみたいカフェがあるの。新しく出来たんだけど、ちょっとのぞいたらインテリアが素敵で。あと、見たい映画があるし、美術館に好きな画家の展示が来ていて」
そこで、はっとしたように口をつぐむ。
すらすらと出てきたところを見ると、以前から考えていたのだろうか。
冥が一度伏せた目をそっと上げるまで、御剣は微笑んで冥を見つめていた。
「わかった。そして、最後に寿司だな」



土曜の朝、冥のマンションの前に車を止めて5分ほど待っていると、中から白いコートを羽織った冥が走り出してきた。
「待った?コートを赤にするか白にするか決まらなくて」
御剣が運転席から降りて手を上げると、冥が駆け寄ってきて心配そうに御剣を見上げる。
コートの中は、淡いオレンジ色のワンピースだった。足元は、いつもより少しヒールの低いブーツ。
御剣は助手席のドアを開け、冥を上から下まで眺めて言った。
「とても、かわいい」
冥が、嬉しそうに笑う。
きっと、前日からなにを着ようかさんざん悩んだに違いない。
どんな服も冥自身の魅力にはかなわない、という言葉を、さすがに御剣は照れて口に出来なかった。

ゆっくりと美術館を見て歩く途中で、自然に冥は御剣の腕に自分の腕をからめてきた。
御剣は冥に画家の作品を使った絵葉書を買い、インテリアの素敵なカフェでランチを取り、映画館で寄り添うようにして映画を見た。
御剣の隣で、冥は終始嬉しそうだった。
この笑顔の大安売りはいったいなんということだろう。
夕方になると、気温が下がってきた。
御剣は表通りのショップで、カシミヤの柔らかなストールを選んで冥の肩にかけた。
ひとつひとつが楽しく、時間があっという間に過ぎた。

最後に、小さな寿司屋の前に車を止めるまでは。

引き戸が開きっぱなしになっており、割烹着姿の女性があわただしく出てくる。
「あ、あの」
女性は御剣と冥を見て足を止め、声を掛けた。
ただ事ではないな、と一瞬御剣は検事の顔になる。
「すみません、ご予約してくださったお客様でしょうか」
御剣が名前を告げると、女性は申し訳なさそうに頭を下げた。
「今、ご予約いただいたお客様にご連絡をしていたところなんですが、店主が今日、交通事故にあいまして」
ひどい怪我ではないが、今日は寿司を握ることができないと言う。
当人たちには不幸な出来事に違いはないが、事件性がないということに御剣はほっとした。
しかたないな、と物分りの良いところを見せて車に引き返そうと冥を見た。
何度も頭を下げる女性から見えない角度で、冥はぷんぷんにむくれていた…。

「不測の事態ではないか」
「そうだけど」
車のドアを開けて、御剣が小さくため息をつく。
「だって、今日はあなたがここへ連れてきてくれるって言うからっ」
見ると、冥はうっすら目に涙までためている。
「たいした怪我ではないというし、店を再開したらまた次に来ればよいではないか」
また次、の言葉に冥は黙ってうつむいた。
「それ、いつよ…」
なるほど。
冥は別に、寿司が食べたかったわけではないのだな。
楽しくて嬉しくてたまらなかった一日が、こんな風に終わってしまうのが悲しかったのだ。
御剣は携帯を取り出し、電話をかけた。
電話を終えると、しょんぼりと膝に置いたバッグをいじっている冥に言う。
「イタリアンの店だが、席が取れた。行こう」
冥は驚いたように顔を上げた。
「怒ってないの?」
「なにをだ?」
車を発進させながら、御剣はつい笑った。
こういうところは、冥もまだまだ齢相応の女の子だ。
「…だって」
「キミがすねたり泣いたりするたびに、怒っていてはこっちの身がもたない」
「なによ、子ども扱いしてっ」
冥がストールに顔をうずめ、御剣は黙って微笑んだ。

車で来ているから、とワインを断った御剣の目の前で、冥はソムリエからメニューを受け取った。
オードブルが来る前から、どんどんグラスを空にする。
「大丈夫か?そんなに強いほうではないだろう」
「フランスじゃ、ワインなんか子供でも飲むわ」
日本の風習を大事にするのではなかったのか、と言うのを諦めて、御剣はただ冥を見つめた。
目元をほんのり赤くして、運ばれてきた皿を見ては盛り付けがきれいだと喜び、焼きたてのパンを細い指でちぎって口に運び、おいしいと笑う。
フルーツ盛り合わせが来ると、御剣の皿に乗っているイチゴまで欲しがったり、最後のコーヒーが濃いと顔をしかめたりする。

食事が終わり、そろそろという空気になると、冥はちょっと失礼と断って席を立った。
化粧室に向かって歩き出す前に、くらりと体を傾ける。
ウェイターが駆け寄るより先に、席を蹴って御剣が立ち上がって冥を抱きとめた。
「…言わんこっちゃない」
酔いの回った冥が、御剣に体を預けて、目を閉じていた。
抱き上げた体は、思ったより軽く華奢で、暖かかった。



ソファで寝たせいで、体が痛い。
御剣は近くのパン屋で買ってきたベーグルサンドをテーブルにおいて、寝室のドアを見た。
冥はまだ眠っているようだ。
夕べ、イタリアンレストランで酔いつぶれてしまった冥は、呼んでも揺すっても目を覚まさず、やむを得ず自分の部屋に連れ帰り、ベッドへ寝かせたのだ。
出かけたのが土曜でよかった。
もし酔いつぶれたのが日曜の夜だったら、欠勤届を出さねばならないところだった。
しばらく新聞を読んでいると、静かにドアの開く音がした。

振り向くと、ぶかぶかのパジャマを着た冥が、不機嫌そうにドアに寄りかかっていた。
「おはよう。大丈夫か?」
声を掛けると、冥はぎゅっと眉根を寄せた。
「頭、いたい」
「それは、二日酔いというのだ」
額に手を当てて、冥はそこにしゃがみこんだ。
新聞を置いて、隣に膝をつき、背中に手を乗せる。
「自分の部屋に帰るのなら、送っていく」
弱弱しく、首を横に降った。
「今、車に乗ったら、酔うわ」
それもそうか。
パジャマのままソファに座らせて、薬と水を取ってくる。
「パンを買ってあるんだが、少しでも食べてから薬を飲むといい」
「…二日酔いのお薬?」
「ただの頭痛薬だ」
隣に腰を下ろすと、芯のない人形のように倒れてくる。
「きもちわるい…」
まったく、世話が焼ける。
しかし、それも嫌な気がしない。

しかたなく薬だけを飲ませると、冥はそのまま横倒しになって御剣の膝に頭を乗せた。
手を伸ばさなくても触れられる位置に、冥がいた。
「…まだ痛い」
冥が不満そうにつぶやき、御剣はそっと髪を撫でた。
「そんなにすぐは効かない」
本当に具合が悪そうに冥は目を閉じる。
顔色が悪いせいか、白い肌がますます透き通るようだ。
「…私の服は?」
眠っているのかと思っていたら、冥が呟くように言った。
御剣のパジャマに着替えた記憶がないらしい。
「クローゼットのドアに吊るしてあっただろう」
「……」
疑わしそうな目で冥が見上げてくる。
「見ては、いない」
それは本当だった。
…見たかったが、見なかった。
御剣は、なけなしの理性を振り絞ったのだ。
冥は返事をしなかった。
またそっと冥の髪を撫でた。
別に、むやみに触れているわけではない。
膝をふさがれては身動きできないではないか。
両手を下ろすと、自然に触れてしまうのだ。
御剣が自分の中でしきりに言い訳していることなどお構いなしに、冥はじっと身を横たえていた。

30分ばかりも御剣が冥の寝顔を眺めていると、やがて冥は手を上げ、口元を押さえて小さなあくびをした。
「…効いてきたわ」
「そうか、良かった…」
正直なところ、少し残念なくらいだ。
体を起こすのに手を貸すと、暖かで柔らかな塊が御剣から離れていく。
「ん…」
冥が両手を上げて伸びをした。
パジャマの袖口が落ちて、か細い二の腕までがあらわになる。
目が合って、御剣は思わず視線をそらした。
この無防備さはどんなものなのだろう。
まったく男として扱われていないということなのだろうか。
「シャワー借りていい?」
いきなり聞かれて、御剣があいまいにうなずくと、冥はさっと立ち上がってバスルームに入って行く。

やや痺れのきた膝を手のひらで撫でながら、御剣は息をついた。
遠くで、シャワーの水音が聞こえてきた。
昨夜、冥を抱きかかえて帰ってきた時は、一瞬よからぬ誘惑に駆られた。
それをなんとか抑えて、ワンピースの背中のファスナーに手を掛けたときに、思いがけず目にした白い背中とピンクの下着。
あわててパジャマで覆い、ボタンを留めてからワンピースを下に引き抜いた。
冥は安心しきったように眠っており、ズボンをはかせようと足首をそっと掴んだときも目を覚まさず、掛け布団を掛けるにいたっては、気持ちよさそうに膝を抱えて丸くなった。
かわいかった。

バスルームが開いて冥の出てくる気配に、御剣は表情を引き締めた。
「ドライヤーがどこかわからなかったのだけど」
「ああ。それなら…」
そこで、言葉を失う。
洗い髪の冥は、昨日の化粧もすっかり落とし、少し子供っぽくも見える素顔で御剣を見ている。
大きなバスタオルをざっくりと胸に巻きつけて手で押さえているだけのせいで、脇から背中まで滑らかな素肌が丸見えになっていた。
「ふ、服はどうしたのだ?」
「クローゼットにかかってるのだったかしら?でも」
冥はぷくっと頬を膨らませた。
「下着の換えがないわ」
あるわけなかろう!!
がっくりと肩が落ちた。
「洗濯すればよかろう」
「手洗いコースついてる?」
しかたなく、御剣はバスタオルを半分引きずるようにした冥を洗面所へつれて行き、彼女が下着をタオルに包んで洗濯機に入れるのを見ないようにして、スイッチを押した。
「どれくらいかかるの?」
終わるまで、この格好でいるつもりだろうかと不安になりながら、御剣はちょっと考える。
「乾燥までいれて2時間くらいではないか」
「乾燥はだめなのだけど」
「…なに?」
「だって、ブラが型崩れしちゃうもの」
そういうものなのか?
動き始めた洗濯機を見下ろしながら、冥が唇を尖らせて頬を染めた。
もしかして、大事なものなのだろうか。
いわゆるその、勝負用なのだろうか。
見ておけばよかった、と御剣はよこしまな後悔をした。


「まあ…、いずれ乾くだろうが、その」
リビングに引き返しながら、御剣は目をそらしたまま言葉を濁した。
「なに?」
隣にならんで、冥が御剣を見上げてくる。
御剣と同じシャンプーが香った。
「いや、その格好は、ちょっと」
「だって」
ああ、昨日から、過去10年分くらいに匹敵するほど、冥は頬を膨らませているのではないだろうか。
まずい。
かわいい。

「ガウンを持ってこよう。そのほうがいいだろう」
感情を顔に出さないように、寝室のドアに手を掛けると、背後で冥が何か言った。
「なんだ?」
「…でしょ?」
ぷっくりと頬を膨らませたまま、冥がうつむいていた。
「え?」
「…見たって、平気なんでしょ?」
どういう意味だろう。
「いや、見なかった」
「うそつき」
「見ていない。目をつぶっていた」
言いながら、ずり落ちるバスタオルを両手でかき合わせている冥を見つめる。
ドライヤーも貸してやらねばならない。
近づいて、湿った髪に指を入れる。
そのまま、両手で冥の頬をはさみこんだ。
「本当だ、見ていない」
「……」
「…見たら、襲ってしまうではないか」
冥が目を上げた。
もう、だめだ。
御剣は冥の頬をはさんだまま、軽く唇を重ねた。
柔らかく、ぷるんとした感触が伝わってきた。
下唇を挟み、舌を這わせると冥が逃れようとする。
一度、離した。
「…い、息できない」
冥が恥ずかしそうに言う。
「鼻で」
背中と腰に腕を回して引き寄せ、今度は深く口付けた。
舌を押し込むと、びくりと震えたものの、おそるおそる差し出してくる。
それを絡めとる。
片手で、むき出しになった背中を撫でた。
唇を離して、真っ赤になった冥の顔を見つめる。
洗濯が終わるまでに、まだ時間はたっぷりある。
御剣はバスタオルの隙間からのぞく冥の胸の谷間に、唇を押し当てた。
「言っただろう。見たら、襲ってしまうと」
そのまま抱き上げ、寝室のドアを開けた。

さっきまで眠っていたベッドに下ろされて、冥が不安げに御剣を見上げる。
バスタオルはほとんど用を成していなかった。
大きすぎず、形のいい胸がこぼれだす。
その下に、すらりとした体とウエスト、腰が続く。
脇のラインを指先でなぞると、冥がくすぐったそうに身をよじった。
もう一度キスをしてから、御剣は自分の服を脱いだ。
冥の耳から首筋、鎖骨へと唇を這わせながら、片手で乳房を包み込んだ。
「や、ん…」
下から揺さぶると、冥の手が御剣の腕を押さえた。


確認するまでもなく、初めてだろうと思われた。
もしかして、これから何をされるのかもよくわかっていないかもしれない。
抵抗しようというほどでもない冥の手をあっさりと押し戻して、御剣はその乳房に口付けた。
周囲からねっとりと頂上に向けて舐め、乳首を捕らえる。
もう片方の手も同じように全体を揺らしつつ、先端をつまんだ。
まだ柔らかい桃色の突起を、舌先でつついたり押したりする。
時間をかけて体中を愛撫していくと、強張っていた冥の体から力が抜ける。
冥の額にこぼれかかる髪の一筋を御剣がそっと払ったとき、冥が閉じていた目を開けた。
はにかんだような、笑みが浮かんだ。
その目元に口付ける。
御剣がそのまま頬に口付け、耳たぶを甘噛みすると、冥が御剣の腕に手を掛けた。
「ね…、怜侍」
冥の耳を食みながら、御剣は息を吹きかけるようにささやいた。
「なんだ」
「あの…、私、どうしたらいいの?」
一瞬、意味がわからなかった。
つまり、冥は本当によくわかっていないのだ。
このままセックスをするのだろう、ということは察していても、自分が何をすればよいのかわからないのだ。

「そのままでいい。力を抜いて」
背中に手を入れて抱き起こし、座ったまま抱きしめた。
「怜侍?」
「少しこうしてくれ」
とにかく、冥を感じたかった。
抱きしめて、腕と体全部で冥を確認したかった。
冥の腕が、そっと御剣の背中に回された。
御剣が冥の肩に伏せていた顔を上げると、冥が唇を御剣のそれに当てた。
初めて、冥がしたキスだった。
体の奥に火がついたような気がして、御剣はまた冥を押し倒した。
腰を撫でた手が太ももにさしかかる。
内側を撫で上げ、薄い茂みに触れる。
膝に手をかけて少し開かせると、そこに指を差し入れた。
初めて他者の進入を許すその場所を、縦にゆっくりとなぞる。
何度も繰り返すうちに、かすかに濡れてくる。
片手で乳房をつかんだり、かたくなってきた先端を舐めたりしながら、染み出した愛液を広げるようにこすりつける。
だんだんとあふれ出る量が増えてはきたものの、指先で入口に触れると、そこはまだ固く閉じている。
じっくりと弄っていくと指先が埋まるようになった。

顔を横に向けて目をぎゅっと閉じている冥の耳元で、御剣が言う。
「痛いか?」
冥の顔が泣きそうにゆがんだ。
開いた目が、うるんでいる。
「…痛いこと、するの?」
なにか、とてもいけないことをしようとしている気分だ。
思わず苦笑して、御剣は冥の頬を撫でた。
「いい子にできたら、新しい下着を買ってやる」
「…バカ」
奥まで入った指が、中で動く。
「んっ」
冥がぴくんと震えた。
その場所をずっと擦っていると、中からあふれてくる。
「あ……」
冥が甘い吐息を漏らす。
その恍惚とした表情は、指を二本にしたところで、また苦痛にゆがむ。
挿入は無理かも知れないと思いつつ、御剣自身はすでにパンパンに張っている。


指を抜くと、ねっとりと愛液が流れ落ちた。
「冥…、いいか?」
「ん…」
わかっているのかどうか、けなげに頷く。
脚を大きく開かせ、先端を当てる。
わずかに怖がるような表情を浮かべた冥を、一度抱きしめてキスをする。
「無理ならやめるから」
先端をあて、しばらく周囲を刺激してから挿入を試みる。
冥が枕に顔を伏せるようにしてこらえる。
押し広げるようにして、ゆっくり少しずつ進み、カリの半分くらいが入ったところで一度止まる。
「大丈夫か?」
冥は進入が止まったことでほっとしたのか、顔を上げて御剣を見た。
「痛い…」
すねたような言い方に、御剣はふっと笑った。
「やめるか?途中だが」
「途中なの?」
わずかに広げられただけで相当痛みがあったものか、驚いたような顔をする。
「途中、というより序盤だ」
「そうなの?」
「だが、キミが痛いというなら」
冥が腕を伸ばして御剣の首に絡めた。
「…がんばる」

 

冥は本当にがんばった。
何度も中断しながら、それでもようやく御剣は冥の中に自分自身をすべて収めた。
すでに、破瓜の血を見ている。
御剣はなるべく動かないようにして、額に汗をにじませた冥の顔に手を当てた。
「全部、入ったぞ」
「…おしまい?」
ほっとしたように言う。
御剣は小さく苦笑し、そのかわいいことを言う唇にキスをした。
「終わるか?」
「違うの?」
「ウム」
しかし、十分冥が辛い思いをしているのはわかっている。
ここで終わりにしても仕方ないと御剣は思っていた。
冥を傷つけたくは、なかった。
「じゃあ、続けて」
冥が御剣の手に自分の手を重ねた。
「しかし」
「いや、やめないで」
まるで、ここで終わってしまえばそのまま御剣がいなくなってしまうとでも思っているのか、冥は御剣にすがりついた。
その自分の動きで痛みがあったのか、きゅっと眉をひそめる。
御剣はゆっくり、動き始めた。


冥も御剣も疲れ果てた。
なんとか御剣は射精にこぎつけたが、痛がらせているという思いから時間がかかり、逆に冥に長く耐えさせた。
冥の顔に汗で髪が張り付いていた。
目が合うと、冥がぷっと小さく吹き出した。
「おしまい?」
御剣も、苦笑した。
「ウム。そうだな」
冥が御剣の汗ばんだ胸に顔を寄せた。
「こんなんだと思わなかった」
「…どんなだと思っていたのだ?」
抱き寄せながら、御剣が聞く。
「だって…、痛かった」
目尻にはまだ、涙の後が一筋残っていた。
御剣はそれを指でぬぐい、くしゃくしゃになった冥の髪に指を通す。
「そうか…」
「怜侍は、痛くないの?」
「む…」
冥の中の暖かさときつきつの気持ちよさを思い出す。
組み敷いた体、突き上げるたびに揺れる胸、こらえてもこぼれる声。
「…ずるい」
そういう問題だろうか。
髪を梳かれるのが気持ちいいのか、冥はうっとりと目を閉じる。
「あのね」
「む?」
「ずっと、初めては怜侍だったらいいなって思ってたわ」
動かしていた手を止めて、御剣は冥の頭を自分に押し付けるように抱いた。
「ほんとは」
冥が子猫のように、擦り寄ってくる。
「ずっと、怜侍がいいのだけど…」
胸がきゅんと音を立てる、とは、こういうことをいうのだと御剣は思った。
「……まだ痛むか?」
「…ん」
「その、なんというか…、すまない」
冥が顔を上げた。
息が掛かるほどの距離でその顔を見つめると、かわいそうではあるが欲望が沸き起こる。
「あの、でもね、痛かったけど、なんていうか、ちょっと、変な…、そういう感じ」
言って、また顔を伏せる。
「だから、きっと、あの。次はだいじょうぶだと、思うの」
御剣は冥の息がつまるほど、強く抱きしめた。
昨日、自分が「また次」と言って冥をすねさせたことを思い出す。
もどかしい、どうしていいかわからないほど愛しい。
まだ痛いと言っているのに、このままもう一度抱きたくなった。
いつかわからない、また次、など待てるだろうか。

くしゅ、と冥が小さくくしゃみをした。
汗が冷えて風邪を引くかもしれない。
シャワーを使って、なにか食べさせたほうがいい。
御剣は、冥を抱きかかえたまま体を起こした。
冥が、キスをねだった。

数日前に、チョコレートをもらっただけであれほど嬉しかったのが、遠い記憶のようだった。
御剣は今、腕の中に比較にならないほど欲しかったものを抱いているのだった。

最終更新:2020年06月09日 17:21