:注意事項:
・成歩堂×真宵
・多分3後と4前の間ぐらいの時間
・最初あたり真宵のネガティヴっぷり異常


 ―― お姉ちゃん、お母さん。 初めて好きになった人は、近すぎて、そして遠い人です。 そして今、あたしは失恋しに彼に会いに行きます。


カンカンカンカン――……。 踏み切りの音が耳に届いた。 物思いにふけっていた真宵はそこで現実に引き戻されて溜息を一つつく。
午前五時。 空はまだ少しうす暗い。 始発が時間丁度に来た合図。 掌をこぶしに変えて、胸をどんと叩けば勾玉が揺れた。 綾里家の人間がぶら下げる勾玉。 それは母や姉が見ているということにつながっている気がした。
思えば、綾里家は恋愛とは無縁なのではないだろうか。 男運が悪いとか? そんなことを真宵はふと考えた。
立証するのは、実に安易なことだ。
まず、第一に倉院の里には男の姿がない。 家系図にも、男の名前は極端に少ない。 霊力を持っているのが女だから、男は出稼ぎにでるしかない。
倉院の里では完璧なまでの女尊男卑が確立され、外の世界とも隔離されている。 世の中男女平等が謳われているというのに、倉院の里は時間がとまったように、昔から「そう」だ。
父についての記憶はほぼないといって間違いはないだろう。 男に対しての認識も真宵は薄いほうだ。
姉が愛した人は、姉を愛して自分を護ってくれた。 けれど彼らは悲恋の道を辿っている。 ほかに身近な人間のロマンスといえば両親が思い浮かぶが、両親のロマンスなど真宵は知らない。
教えてくれる人間など、いなかったのだから。

これらのことを掛け合わせ、真宵自身の今後を自分自身で見つめなおし――彼女は嘆息した。
これから自分が行うことに関して、恐らくは彼には受け入れてもらえることはないだろう。
その理由は既に彼女は理解している。
彼にとっての自分というのは妹に等しい存在であり、師の妹であるから、という理由も其処に付加されただけ。 気持ちを打ち明けたところで、100%の気持ちが返ってくるわけがないことなど分かっている。
―― けれど、じっとしていられるほど真宵は物分りがいいわけじゃない。

真宵は電車に揺られながら、窓の風景をじっと見つめ考えた。 倉院を飛び出すような形で出てきてしまったけれども大丈夫だろうか、だとかそんな今更なことばかりがグルグル脳内を駆け巡る。
後先考えない性格であることは今に始まったことではないけれども、さすがにまずかっただろうか。 けれども先走る感情は仕方がない。
いざとなれば、春美がきっと弁護してくれるだろう。 そんな他人任せ極まりないことを考えて真宵はふふ、と小さく笑った。

“弁護”
その単語を思うだけで、胸がこんなにも締め付けられる現状。 その理由は明白で、どこか壁一枚分ほど隔てられている。 切なくて、その感情を認めることが彼女にはどうにも出来ずに居た。
……だから、今日。 彼女は一つの区切りをつけに行く。
電車のシートはいつも以上にやわらかく、どこか眠気を誘う。 朝早かったからしょうがない。 そっと瞼を閉ざせば、彼女はあっという間に夢幻に誘惑され、そのまま静かに眠りについた。

二時間もある電車の中、彼女は誰かが笑って自分を呼ぶ夢を見た。
それが誰かは理解できない。 けれども、それが「なるほどくん」であればいいのに、と彼女は目覚めた矢先に思い遣る瀬無いため息を吐き出す。
馴染み深い駅名を車掌があげる。 気づけば時間はあっという間に過ぎ去ってしまっていたようで、重たい体を引きずるように起こしホームへ飛び出した。
いつもと同じ一番線。 向かいの二番線は、いつもの帰り道。 ああ、そういえば昔あそこで彼と別れたっけ。 あの時の彼は笑ってくれたっけ。 あの時彼は大きく手を振ってくれていたっけ。
数年前の自分たちの幻影を横切る。 ふわりと、風が頬を撫ぜたが、彼女は振り返ろうとはしなかった。

いつもと同じ中央口から出れば、始発に飛び乗ったにもかかわらず通勤の人々が駅へと我先にと早足で歩いてくる。 和装の真宵に、彼らはまるで気にも留めない。
時刻は既に七時を回っており二時間かかったことを知らしめていた。 階段を下りると駅が、町が彼女を待っていたかのように懐かしい香りがする。 それだけのことで彼女の中にこみ上げてくるものがあった。


―― ただいま。


彼女の出身地ではないのに、何となく真宵はその言葉を紡ぎたくなった。
ごちゃごちゃした駅前を抜けて、真っ直ぐデパートに沿って歩く。 右側にはバスターミナルがいくつも並んでおり、少し遠くの駅まで彼らをつないでいる。
新聞を持った男、携帯を弄くる女子高生、イヤホンで音楽を聴いている女、携帯ゲームを狂ったようにボタン連打している中学生――たくさんの人々がバスを待って並んでいる。
時代が変わっても、風景が変わっても、そこに居る人々が成長しても、根底は変わらないということを知らしめているような構図だった。
それらを横目に真っ直ぐ行くと、“いつもの店”だ。 かつてそこで、二人で、時には三人や大人数で足を運んだ。 今は準備中なのだろう、人の姿が見えない。

「――えー! 休みいいいいい!?」
「しかたないだろ、休み、なんだから」


記憶の欠片が、またこぼれた。 ちらりと真宵が横を見れば、青いスーツの男と修行用の装束を纏った少女が見える。 何気ない会話だ。 どうということのない会話。 真宵はそこで足を止めて、緩やかに目を閉ざす。
騒がしい車の音、人々の声。 雑音が一瞬だけカットアウトされた。 無音状態の真宵の耳に届くのは、かつての自分たちの会話。
けれど、真宵は小さくその朱を塗った唇で呟く。 「ありがとう」と。 緩やかに、二人の姿は霞んで、そして消えた。 再び現実に引き戻されて雑音が戻る。 真宵は暫しじっと店を見つめていたが、草履の向きを変えて、やがて歩き出す。
たくさんの幻想、幻覚、幻影。 それらは「思い出」となって真宵の前に現れては消えていく。 まるで走馬灯のようだ。 けれどもそこで彼女は足を止めとどまるということはしない。
真っ直ぐに歩き、そしてようやく一つのオフィスにたどり着くと大きく溜息を零した。

姿勢を正して、見慣れたオフィスを見上げる。 かつて姉が選んだこの場所は何も変わっていない。 じっと見つめていると「いってきまーす」という少し高い女の子の声が響いた。
春美と同じぐらいの年頃だろう。 漫画の世界でありがちなトーストを口に咥えたまま階段を転げ落ちるように降りてきて、真宵に気づかず走り去っていく。 彼女は振り返りはしなかった。
既に米粒以下に小さくなった少女の背中を見つめ続けていた真宵だが、視線を変えてゆっくり、かみ締めるように一段一段意を決して階段を上っていく。
扉の前の看板は「成歩堂法律事務所」では既になかっことが悲哀を感じさせたけれど、それ以上に気持ちが急く。 ああ、はやく彼に会いたい、と騒ぎ立てていた。
ノックをすべきか躊躇ったが、ドアノブを掴むとドアは開いていた。 無用心なことこの上ないと呆れながらもゆっくり扉を開けて部屋を見渡す。 そこにはもう「事務所」の面影はない。
入り口付近に立つ観葉植物のチャーリーは真宵がそこから出て行ったときから少し成長していて、久しぶりの来客に喜んでいるようだった。
ごちゃごちゃした部屋を真っ直ぐ突っ切って、かつての仮眠室のドアを開ける。 これじゃあ不法侵入だよ、なんて心内でツッコミをいれた。
けれども、そもそも鍵をかけずにいるほうが悪いんだ、しょうがないんだと無理やり言い聞かせて、恐る恐る真宵は部屋へ足を進めていく。
本当なら、もっと物音をたてて「なるほどくーん」と呼びたいのだが、そういうわけにもいかないのでゆったりとした足取りで部屋に入る。
――男が、寝ていた。
ニット帽を握り締めて、猫のように丸くなって、静かな寝息を立てている。 後ろに伸びるつんつん頭、固く閉ざされている瞳。 無精ひげこそあるが、それは間違いなく真宵が先ほどからたくさん見た幻影の元である人間であり、目的の人物だ。
少し痩せただろうか。 ゆっくりと近づいて、頬に触れる。 ざらりと髭の感触が伝わった。

「―― なるほどくん」

起こしてはいけない。 頭では分かっているのにもかかわらず心がいうことを聞いてくれない。 ぼろぼろと零れ落ちる感情に、我先にと言葉がぽつぽつ雨のように落ちていく。 その大半が「逢いたかった」といったものや「ごめんね」という言葉ばかり。
そして、その感情の波に耐え切れず真宵の頬を涙が伝った。
泣き声をもらしてはいけない。 左手で口を覆い必死に嗚咽を漏らさぬように唇をかみ締める。 けれども涙は塞き止められていたダムが「もう限界です!」といったばかりに決壊して、止めることは不可能に等しかった。

「ごめんね……なるほどくん……ごめん、ね……」

一番大切なときに傍に居れなくて。
一番つらい時に傍に居れなくて。
一番悲しい時に、手を握ることが出来なくて。
ごめんなさい。 ごめんなさい。 ごめんなさい。


零れ落ちる謝罪の言葉と、そんなことしか言えない自分に嫌気がさして仕方がない。
そして、一番必要な時にいなかった自分がこうして今になってノコノコ出てくるなんてムシがよすぎることに気づいて、真宵は涙を指でぐっとぬぐい、まだ尚も眠り続ける彼の顔を見つめた。
もう、彼に自分は必要ないだろう。 もう、彼は自分を必要としないだろう。 彼の支えになってくれる新たな存在に出会えたのだから。
それを寂しいなんて思ってはいけない。 それを切ないとは思ってはいけない。 笑って「おめでとう」と「がんばれ」を言わなくては。 だから、泣き止めと必死に心に言い聞かす。 はやく、彼の瞳が開くよりも、はやく。
けれど、その気持ちと相反するように何処かで思う。
ここで、目が覚めてくれたら。 ここで、自分の存在に気づいてくれれば。 彼は抱きしめてくれるだろうか。 あやしてくれるだろうか。 自分の名前を呼んでくれるだろうか。
浅ましい、醜い歪んだ感情が気持ち悪くて、真宵は小さな体をさらに小さくさせた。 彼の「娘」に嫉妬するなんてばかげている。 くだらない愚行だ。
頭では分かっているのに、心がごねる。
嫌だ、嫌だと駄々をこねて何かをわめき散らして、感情のコントロールを鈍くさせた。
胸がツンと痛んで、伏せ目がちに溜息を一つ零すと、男は少しかすれた声で何かを呟いた。 最初は寝言かと思ったが、もう一度、彼は今度ははっきりとした口調で言う。

「――……真宵、ちゃん」



ぞくり、と背筋が粟立った。 その声の主を間違える筈がない。 恐る恐る、視線を落とすとうすぼんやりとした眼で、彼は此方を見据えていた。 その人は、確かに――成歩堂龍一だった。
その瞳は底の知れない色をしており、かつての面影は姿を潜めている。 けれども、彼女を彼はその両目で見据えていた。
全てを見抜かれているのではないか、と思うほどの目つきは相変わらずで、彼女の背筋は粟立ったままだ。

「――なる……ほどくん……お、おお、お、おはよう」

出来るだけ、平静を保つように、やわらかい笑顔を浮かべるように心がけて無理やり弧を描く。 今、自分が綺麗に笑えているのか真宵は心底不安だったが、そこは三年間共に法廷に立ち続けた仲だ。
相手の特技を盗むのも立派な一手。
成歩堂お得意の自信満々のハッタリを思い出して、それを実践し、笑う。 大丈夫、なるほどくんが気づくわけなんかないよ。 そう言い聞かせて。
けれど返ってきた彼の返答はハッタリ返しでも、恐怖のツッコミでもなく、昔と何一つとして変わらないその腕と厚い胸板と、心音。
抱き寄せられたという現実に目をひん剥き現実を受け止められず混乱するが、久しぶりに嗅ぐ成歩堂の匂いはまるで変わらなくて、自然と気持ちが緩み、今にも泣きたくなった。
それを必死にこらえて、悟られないように笑顔を作る。 言い出せない弱気な自分を内心で叱咤をしながらも、今はその時ではないと引腰になってしまう。
いびつな笑顔を浮かべて、その手をばたばたと振り、彼女は考えるよりも先に口が動く。

「あ、え、えっと、うん、あれだよ、四時に起きちゃって! で、丁度向こう出れば逢えるかなとか思ってね、うん、まぁそんな感じで来ちゃったんだよ!」

あたふたと言い訳じみた口調で事情を説明する間も彼は手を彼女の背から離すことはなかった。 寧ろ力をさらに増す。
どこから彼が起きていたのか、真宵は知らない。 だから必死に話を誤魔化そうと有耶無耶にしようとアレコレ言葉を濁すが、結局眼光に負けて随所随所で尻尾を出すハメになる。
―― どのくらい、そんな会話を繰り返していただろう。 真宵はちらり、と視線を成歩堂に上げると彼はふわりと甘く笑ってみせた。
笑顔を見るだけで、知らずして顔が熱くなった。 なんだか恥ずかしくて、笑ってくれたことが嬉しくて全てがごちゃごちゃになった感情をむき出しにして、真宵は彼をにらみつける。


「……なるほどくん、聞いてないでしょ」
「まさか、ちゃんと聞いてるよ」
「うっ、嘘だー! もう、まじめに話してるのに!」


ぷいとそっぽをむいた真宵に彼は笑った。 腕の力を緩めると、真宵は慌ててそこから離れた。
まだ顔が熱いのは気のせいではないだろう。
そんな真宵の反応が楽しくて、背中から抱きとめると彼女は彼の腕の中で暴れて文句を言ったが、成歩堂の体はぴくりとも動かない。
久しぶりに見た男の姿に困惑している自分に内心叫び散らしたい心持になったが、真宵は結局押し黙った。
丁寧に結い上げられた髪は先ほど暴れたせいで崩れており、あっという間に解れそうだ。
あたふた精一杯言い訳とごまかしとついでにハッタリをかましているが、彼女は根本的に気づいていない。

―― まず、どこから彼が起きていたか、ということ。
そもそも成歩堂が足音で気づかないわけがない。 つい先ほどまで娘が出かけるのを見届けていたのだから、二度寝をするにしたって少しは時間が必要だ。
起き上がるのが面倒で目を閉じていれば不法侵入者が現れ、警察を呼ぶべく携帯電話を握り締めていたら聞き覚えのある声が自分に向かって謝罪の言葉を繰り返してきた。 しかも、泣きそうな声で。
その時の彼の言いようのない感情を彼女に説明するのは些か面倒で些か難しい。 自分自身ですら、うまく説明が出来ないというのに、それを他人に告げるというのは恐らくとても難易度の高いことだ。
キーキーと文句を言う真宵に笑って、その長い髪の毛を掬い取る。 絹のように肌触りのいい髪は手にとってもスルリ、と落ちる。
彼女の和服に燻らせた梅香が鼻をくすぐって、どこかほろ苦い。
夢と現実の境目のような、そんな非現実の中に身を置いている錯覚に陥りそうなほどで髪に顔をうずめて成歩堂は笑った。


「じゃあ、僕から質問」
「な、なに?」
「今こうしてるのは、夢じゃないよね」
「……何言い出してるの、なるほどくん」

たかが夢のために二時間かけて、それも早朝にくる馬鹿がどこにいるというのだろうか。
真宵にとって、奇妙で不可解な時間が訪れた。 不意に目の前に霧が現れ薄いヴェールで包み込み、出口も、入り口もない孤独の中へ閉じ込めるようであった。
目の前の男は何も言ってくれない。 ただ、じっと彼女を見つめるだけで、イエスもノーも、己の意志も。 それが余計に感情を惨めにさせ、孤独にさせた。

「――僕としては、夢じゃないといいんだけど」
「もう! そんなにこの真宵ちゃんの存在が信じられないわけ、なるほどくん! あたしがここにいるのはゲンジツだよ!」
「……」

彼女の肩に吐息がかかる。 寄りかかるようにして、成歩堂は彼女に縋った。 唐突の行為に目を丸める真宵にそんなことも御構い無し。
成歩堂は安堵と落胆のハザマのような声で「そう」とだけ言うのだ。
その言葉が少し、遠く感じた。
恐る恐る、振り返ろうとすれば振り返らせないとばかりに力を込められて痛みに顔が歪む。
くぐもった声で、切なそうに彼は吐息を漏らす。 それだけのこと。 たったそれだけのことだというのに、数年前とはまるで違う。
冗談でもその姿は「弟」とは言えない何かが存在していて、真宵は言葉を失った。


「――夢の中で何回君に逢ったか、数え切れないくらいなんだよ」

彼は自嘲気味に言う。 逢いたかったという言葉ではない。 夢での遭遇の話を、ぽつりぽつりと蛇口から水が僅かに落ちるように僅かな言葉を紡いだ。
優しくも切ない、情熱的なのに冷めた言葉。 反比例で相反的な言葉なのに、説得力だけは無駄にある。 恐らくは彼のもともと得意だった「ハッタリ」がものを言っているのだろう。
髪を撫でて、表情を悟れないように顔を俯かせて顔をうずめて、彼は笑った。

「……夢の中でも、真宵ちゃんはやっぱり真宵ちゃんだった」
「……なるほどくん、あたし目の前にいるんだよ?」
「うん。 ……タイミングぴったりすぎて、驚いたよ」

夢の中だけ出会えれば満足だと思っていたのになぁ。 自分に呆れたように笑った成歩堂に真宵は目を何度か瞬かせた。
その大きな瞳を気恥ずかしさから右手で覆い隠して、成歩堂は言葉を紡ぎ続ける。

「真宵ちゃんのことを考えるだけで、幸せだったんだよ。 ……なのに、まったく、どうしてくれるんだ」
「どうしてくれるって! いやいやそんなこといわれても!」
「責任、とってくれよ。 ……夢の中でだけじゃ物足りなくなったじゃないか」

―― 斜め上にとんでもないことを今、言われたんじゃないだろうか。
頭をよぎった真宵の考えなどどこ吹く風、成歩堂は彼女を向き直させると、双眸を隠していた手もどけて彼女の大きな瞳を見据えた。
自然と真宵も顔を上げて、成歩堂の顔を、目を見据える。
前後の言葉を思い出せば思いを伝えるのは今しかないのだが、いかんせんネガティヴな自分の感情が足を引っ張って、言葉も思いも何も出てこない。 一分一秒の時計の針の音だけ、寂しく鳴り響く。

「うー……責任って言われたって、何したらいいか分かんないもん。 安眠できるように除霊ぐらいしか……」
「除霊ってね……あのね、真宵ちゃん。 僕、これでも結構まじめに物事言ってるつもりなんだけど」
「何よ、あたしだってまじめだもん。 そもそも! セキニンっていうならなるほどくんだって、頭から離れてくれないじゃない! だ、だからあたし逢いに来たんだもん、なるほどくんのせいで、頭もうぐちゃぐちゃしちゃって……そっちこそどーにかしてよ!」

唐突の「どーにかしてくれ」発言に成歩堂は目をぱちくりと何度か瞬きさせた。
当の本人は何かまずいことを言ったと思ったのかアタフタと手をふり、視線をそらし、顔を真っ赤にして「今のなし!」と叫んでいる。
朝日がカーテン越しから暖かく彼らを照らす。 彼女の顔はこれでもかと言わんばかりに真っ赤だ。
成歩堂は何故だかよく分からないが、とりあえずおかしくて噴出した。 何年越しかの再会だというのに、彼女との会話は常に時間が止まったような錯覚を覚える。
それがおかしくて、それでいてどこか切なかった。 笑い転げるのと同時にポロリとわずかに零れ落ちた涙は気づかれないように、そっと拭い取った。

「どーにかって?」
「ううう……」
「うーん、そうだなぁ……真宵ちゃんが好きです、大好きです、っていうのは「どーにか」になる?」
「! とととと唐突に何言ってるのなるほどくん!」

想像を絶するような砂を吐き散らしたくなる甘い言葉。 慌てふためく真宵に、成歩堂はおかしくてやっぱり、笑う。
髪の毛を撫で、すべるように頬を撫でる。 数年の時間が流れて初めてであった時にはまだ十代だった彼女も今では二十代だ。 姉の面影が出て、大人びたと思う。
……さすがにもう犯罪だ何だと言われることはないだろう。

「夢の中だけじゃ物足りないぐらい、僕は君が好きだよ」

両側の頬に手を添えて、顔を上げさせじっと瞳と瞳をかち合わせる。 僅かに震える瞳は何かを訴えていた。
この子はこんなに大人っぽかっただろうか。 この子はこんなに美人だっただろうか。
夢の中で見た十七歳の女の子が、どう成長しているのか想像もした。 考えもした。
けれども実際は此方の想像を遥かにつきぬけ美しく成長していて、どこか手の届かない雰囲気を醸し出していた。
けれどやっぱり中身は彼女のままで、楽しそうに笑う姿は十代のあの頃を思い出させた。
思っているだけで幸せだと言えた何か。 そんな陳腐なありきたりな言葉など詭弁なのだということを思い知らされる。
泣いて自分に謝罪する彼女を抱きしめたかった。 その優しい小さな手を護りたかった。
その気持ちは恐らく、恋と呼ぶには大きすぎて愛というには少しのズレがある。
だから、その感情を言葉にして成歩堂が彼女に伝えることはしない。 出来ない。
彼が持ちうる言葉は「好き」だとか、「大好き」だとか、陳腐でありきたりな、子供でも出来そうな告白ぐらいしかないのだ。

けれども、それだけでも、答えは簡単に導き出せる。
彼は瞬時に答えをはじき出し、弁護士時代何度も潜り抜けた時と同じ、自信に満ちた笑顔を浮かべ、彼女の髪を一房軽く掴んでキスを落とした。

「――…… で、真宵ちゃんは、どうなのさ」
「……うう、なるほどくんのくせに……」

もうすっかり、彼女の中にあった空虚感だとか、悲哀だとかは抜け落ちてしまった。
随分と都合よく人間は出来ているもので、成歩堂の言葉一つで真宵の気持ちは浮上した。
正しくは混乱しているだけなのかもしれないが、行きに感じた不安だとか、せつなさは影を潜め、ドクドクといつもよりも激しい心音だとか、自分を抱きとめてくれるたくましい腕だとか、目の前の現状を受け止めることで精一杯だ。
――それでも、彼の言うとおり為すがままというのは、なんだか悔しくて、真宵は成歩堂のパーカーを弱弱しく握ると、ふう、と小さな深呼吸を一つ落とした。

「言わなくたって、分かってるくせに」
「分かってても聞きたくなるもんなんだよ」
「ううう……あの、ね、笑わないでね?」

こつん、と頭を当てて、目を伏せて顔を俯かせて恥ずかしそうに彼女は成歩堂にしがみ付いた。


「……なるほどくんが、すきだよ。 弁護士じゃなくても、かっこ悪くても、なるほどくんが、好き」

初々しい、中学生日記のような告白だった。 言葉にするのが恥ずかしいのか、顔を背けて「あーもう!」とぶつぶつ文句を呟く表情は林檎のように赤い。
そんな彼女の表情を見るのは初めてで、成歩堂はたまらないと言わんばかりにがっちりと彼女を抱き寄せた。

「知ってるよ」
「しししし知ってるなら言わせないでよ!」
「知ってることでも何度でも聞きたくなるのは当然だろ?」

卑怯だ、と彼女は唇を尖らせて文句を言ったけれど、それをサラリと交わして、唇に吸い付く。
ふっくらと弾力のある唇は、口紅が薄く塗ってあるのだろう、つやつやと輝いている。 ちゅ、と音を立てれば口紅と同じくらいに彼女の頬が紅潮する。
そんな何気ないことが新鮮で、そんな何気ないことにゾクゾクする。
―― ああ、全くかわいいなぁ。

にやつく心中を悟られないように背中に手を回せば、真宵の手が恐る恐る首の後ろに回される。
最初は鳥が啄む様に、甘いキスを何度も交わし、角度を変えて触れ合う時間も変えて、何度も何度も口付ける。 時折漏れる言葉は甘く、そしてほろ苦い。
ちゅ、と再び音を立てて一度唇から離すと口紅が僅かにだけ残っていた。
そこをピンポイントで狙い、舌を這わすとびくりと真宵の肩が震える。 支えるように肩に手を置き、力を込めるとぐぐもった吐息が小さく漏れた。 舌を這わせ、下唇をなめ上げた。
成歩堂の目と鼻の先には、頬を赤らめて目をきつく閉ざした真宵の姿があった。 そういえば、彼女がこんな顔をするのを見るのは初めてだ。
何気ない、そんなことを思って成歩堂は己の唇を親指でぬぐった。
彼女はそんな成歩堂を見据えたまま、荒い呼吸をどうにか落ち着かせようと必死に息を吸った。
口の下でだらしなく落ちる、どちらの唾液か分からぬ透明なそれはどこか生々しく、色気を感じさせる。
それまで色々重ねてきた感情や渦巻いている欲望が全て勘定するときが来たのだろう。 成歩堂はふっと笑った。
ぞくり。 背筋が粟立って仕方がない。

―― 全く、どうしてくれるんだ。

聞こえないように、彼はもう一度呟いて、今度は触れるだけの口付けを彼女の唇に施した。

 

最終更新:2020年06月09日 17:26