* 長文
* 前振りが長い
* 2-4後




数日振りに彼女の特徴的なちょんまげを目にしたあの瞬間を、ぼくは一生忘れないと思う。

飲まず食わずでいたせいで少しやつれていたけれど、彼女はそんなことを微塵も感じさせ
ずに、安堵でヨロヨロとへたり込みそうになったぼくの元に、真っ直ぐに駆け寄ってきた。
裁判が終結してもどこかふわふわと現実感に欠けていたぼくを、ほんの一瞬で現の世界の
引き戻してくれた。
彼女が余りにも普通だったものだから、涙が出るより先に笑っていた。
笑い過ぎて涙が出るんだと自分を騙しながら、ぼくはこっそり目尻を拭った。

イトノコ刑事の計らいでホテル・バンドー・インペリアルでの夕食を楽しんだ帰り道。
ぼくと真宵ちゃんは皆と別れて、上弦の月が浮かぶ空を見ながら閑静な住宅街を歩いてい
た。

「はみちゃん大丈夫かなあ……」
「大丈夫だよ。イトノコさんが一緒だからさ」

真宵ちゃんの無事を誰よりも喜んだ春美ちゃんは、安堵とこの数日間の疲れから食事中に
うつらうつらとし始めた。
じゃあぼく達も帰ろうかと言い出したところ、

「主役がいなくなったらダメッス! 自分、明日は朝が早いッスから、ついでにこの子を
連れて帰って一晩泊めてあげるッス」

とイトノコさんが申し出てくれた。
真宵ちゃんは一緒に帰ろうとしていたけれど、寝惚け眼にも関わらず、いつものように
「お二人の愛の邪魔をするわけには参りません……」と譲らない春美ちゃんに根負けして、
イトノコさんに託したのだった。
彼の大きな背中に負ぶわれた時には、春美ちゃんはすっかり寝入っていた。

******

「月がとっても青いから~♪」

上機嫌に口ずさみながら、真宵ちゃんはぼくの数歩前を行く。

つい数時間前まで、監禁されて命の危機に晒されていたとは思えないほど元気だ。
監禁されてた3日間飲まず食わずだったとは言え、いくらなんでもそれは食べすぎだろう
と、こちらが胃もたれしそうになるほどの量をガッツリ食べていた真宵ちゃん。

あれだけ食べれば、そりゃ満足だろうな……。
そりゃ、ゴキゲンだろうな……。

ぼくもまだまだ若いつもりだけど、彼女の若さには敵わない。彼女のタフさが羨ましい。
何にせよ、無事に帰って来てくれて良かった。
ぼくの前を行くこの子が死ぬかもしれなかったなんて、今でも……いや、今だからこそ信
じられない。

──彼女が王都楼の屋敷に残した置き手紙を読んだ時、正直、その場でひっくり返るんじ
ゃないかと危険を感じたほどに気分が悪くなった。

『じゃあ‥‥またね、なるほどくん。さよなら。』

──さよなら。──

置き手紙に記されていた4文字の言葉。それが持つ意味。

地面が、天井が、視界がぐるぐると回る。背筋を伝う冷や汗が全身の体温を奪って行く。
色褪せる視界。聴こえない耳。苦しい呼吸。遠ざかる意識。

……文字通りに血の気が引くという体験は初めてだったが、それ以上に彼女が死を覚悟し
ていることが恐ろしかった。


「今日はトノサマン、歌わないの?」
「え、聞きたいの? 真宵ちゃんの歌はちょっと高いよ?」

ニヤニヤとからかうぼくを振り返って、キミは得意気に笑う。
その笑顔をもう一度見ることが出来て、本当に良かった。

いつも洗脳でもするかのように繰り返されてすっかり覚えてしまったトノサマンの歌を、
ぼくも一緒に口ずさむ。
身体はぼろぼろに疲れていたけど、ぼくは真宵ちゃんと同じように上機嫌だった。

******

「じゃあ、ここで。本当にありがとね、なるほどくん」

アパートの前で、真宵ちゃんが立ち止まった。
こうして彼女の家の前まで送るのは以前からの日課だったけど、そんな些細なことが、日
常を取り戻したという実感を与えてくれる。

「ゆっくり休めよ」
「うん、ありがとう!」

部屋の前で手をヒラヒラさせてる真宵ちゃんの視線に見送られて、ぼくは歩き出す。

真宵ちゃんはわりとあっさりしてるから、ぼくが見えなくなるまで見送る……なんてこと
はなく、背中を向けると大抵すぐにバタンとドアを閉めてしまって、それが実は少し寂し
かったりするんだけど、当の本人にはそんなことは言えなかった。
だから、アパートが見えなくなる位置でいつも後ろ髪を引かれたように振り返って、彼女
の部屋に明かりが灯ったのを確認する。
そして本当に安心して家路を急ぐ。それがいつもの癖にもなっていた。

それは今日も同じで……。……いや、本当は気になったのかもしれない。
あんなことがあったばかりで、またいなくなってしまうんじゃないかと。
不意に不安に襲われて、いつもの場所よりも数メートル早く振り向くと、アパートの前で、
自分の部屋のドアに向かって立ち尽くしている真宵ちゃんの姿が目に入った。

(……?)

足を止めてしばらく見ていたけど、一向に動く気配がない。
さすがに何かおかしいと、ぼくは真宵ちゃんの元へ駆け戻った。

「──どうした?」
「あ……」

ビックリしたようにぼくを見上げた真宵ちゃんは、見開いた瞳に涙を浮かべ、小刻みに震
えていた。

「ここ開けたら真っ暗だなって……なんか……閉じ込められてた部屋を思い出しちゃって
……」
「そっか……」

当然のことだった。
真っ暗な闇に閉じ込められる不安と孤独、殺されるかもしれない恐怖と緊張。
そんな状態が3日も続いたのだから、無理もなかった。

春美ちゃんをイトノコさんに預けてしまったことを、今更ながらに後悔していた。
小さな春美ちゃんでも、闇の中で真宵ちゃんには心強い存在でいてくれるはずだったから。
今からでも引き取りに行こうかと腕時計を見るが、もう11時を回っている。
恐らく、イトノコさんの少しかび臭いせんべい布団で、完全に寝入っているだろう。
数日振りに安堵して眠っているであろう少女を起こすのは忍びなかった。
事務所に連れて行って泊めても良いんだけど、誰もいなければ真っ暗なのは同じだし……。

ぼくとしても、今日は彼女を一人にしたくなかった。

またどこかに行ってしまうのではないか。
一人で恐怖に怯えているのではないか。

このまま彼女をここに置いて帰れば、自宅に戻っても気になって落ち着かないことは目に
見えていた。

…………。

ちょっと、迷った。
それでも、色々考えた上でやっぱり最善の策はこれしかないと思った。

別にやましいことはない。
目の届くところにいてくれたら安心だしな。

自分に言い訳するように言い聞かせながら発した言葉は、緊張のせいかちょっと早口にな
ってしまった上に、咽喉がカラカラに渇いて妙に掠れてしまっていた。

「良かったらウチに来る……?」

その時、真宵ちゃんはちょっとだけ身体を強張らせた気がする。
そして、小さく頷いた。

「うん……」

******

「汚いけど……」
「お邪魔しまーす」

数日振りの我が家。
やっぱり家は良いなあ……。

食べかけのポテトチップスの袋。
脱ぎっぱなしの服。
事件前日の夜、野球中継を観ながら振り回していたメガフォン。
開きっぱなしのCDケース。ケースしかないけど、中身はどこに行っただろう? 確か「ギ
ャラクシーデビル・キラーパンサーズ」とかなんとか、すこぶる頭の悪そうな名前のアー
ティストだったけど……まあいいか。
根城となっているフローリングに直に敷いた万年床。
そこから手を伸ばせば届く位置に配置されたリモコンの類や小説、書類。
そして、ゴミ箱には何か正体のよく分からない、ちり紙の山。

この散らかり具合が落ち着くなあ……。

「なんか……男の1人暮らしって感じだね……」
「実際男の1人暮らしなんだから仕方ないだろ……」

余りの荒れように、真宵ちゃんは心底呆れ果てた顔をしていた。
読みっぱなしの雑誌を脇に除ければ、座るスペースなんていくらでも出来るのに……。

ぼくは「よっこらせ」と荷物を置くと、休む間もなく再び靴を履いた。

「え。なるほどくん、どこか行くの……?」
「ああ。飲み物とかないからさ、ちょっと買いに行って来るよ」
「あたしも行く!」
「いや、良いよ。疲れただろ? 休んでなよ」
「えー……」
「あ、じゃあさ。お風呂にお湯入れといてくれない? 先に入ってて良いから」
「……わかった」

不審者が入らないように念入りに鍵を閉めてから、近くのコンビニへ向かう。
真宵ちゃんは一人になるのが怖いのだろう。不安げな真宵ちゃんの顔が脳裏にチラつく。
だから出来るだけ早く帰ろうと、足を速めた。

******

夜も11時を過ぎているのに、コンビニの店内は賑やかだ。
帰宅途中のサラリーマンやOL、未成年と思しき学生の姿もチラホラある。
思い思いに買い物を楽しむ中で、ぼくはここまでの道すがら考えていた商品をどんどんカ
ゴに入れて行く。

真宵ちゃんが好きなお菓子。真宵ちゃんが好きなジュース。トノサマンの食玩もあったか
ら、それも突っ込む。
ぼくの分の飲み物、そして新聞。
そこまでして、ぼくはハッとした。

真宵ちゃん、何着て寝るんだろ。
着替え、持って来てないよな……。

先ほど自宅に立ち寄った時に、洗面用具や着替えを準備させておくんだったと、今更なが
らに後悔する。

夜はぼくのTシャツでも貸すとして、パ、パンツとか……どうなんだろ……。

やっぱり彼女も一緒に来れば良かったと後悔しながら、そのようなアレが置いてありそう
な棚の前に立つ。

一応あるにはあるけど、……サイズとかどうなんだ……?
女の子の下着のサイズなんてサッパリ分からない。
人目を気にしながらパッケージを手に取りじっくり見る。
ウエスト?
そ、そんなの知るわけないだろ……!
多分、装束姿を思い返すに、相当細いけど……。
陳列棚の前でしばし悩むが、よく分からないのでとりあえず一番小さいのと、その一つ上
のサイズを買っておくことにする。

さて、この位かな…と腰をあげたぼくは、中腰の体勢でふと視線を止めた。
パンツの並びに陳列された、“うすうす”やら“イボ付き”と書かれた箱。

「…………」

い、要らないよな……。
どう間違えたってそんな色っぽい展開にはならないはずだ。
だけどもしその「間違い」が起きて、そんなことになってしまったら……?
大体、“うすうす”はともかく、“イボ付き”ってなんだよ。ちょっと気になるじゃない
か。
気になる……けど、買ったところで無駄な買い物になるだけに決まってる。
……いやいや、でも万が一ということもある。
もしそんなことになったらどうする?
相手は真宵ちゃんだぞ……?
まあ、その時はぼくが自重すればいい話だけど……。


しばし葛藤したぼくは、“うすうす”をさっとカゴに突っ込み、足早にレジに向かった。

******

「ただいま」

出掛けた時と同じように鍵が閉まっていたことにほんの少し安堵する。
玄関を入って左の風呂場のドアが半開きになっていて、そこから湯気が部屋の中に漏れ出
していた。覗き込むと、狭い湯船にお湯は張られていたが、使われた形跡はまだなかった。

真宵ちゃん、お風呂入ってないのかな……?

怪訝に思いながら奥に進むと、あれだけ散らかり放題だった部屋が妙にスッキリしていた。
乱雑に床を塞いでいた雑誌は綺麗にマガジンラックに片され、脱ぎ散らかした服や、畳ん
でいない洗濯物は綺麗に畳まれてる。

「ごめん、勝手に片付けない方が良いかなと思ったんだけど、とりあえず寝る場所の確保
だけしようかなって」

ぼくが立っている部屋の入り口からちょうど死角になる場所で、真宵ちゃんはちょこんと
正座して、ぼくの脱ぎ散らかしを綺麗に畳んでくれていた。

「ああ、それは構わないけど、風呂入らなかったの?」
「うん、着替えがないから服借りようと思って待ってた」

コンビニでぼくの頭にも浮かんでいた懸念事項。
さすがに3日も着続けていたものを着て眠るのは憚られるだろう。
せっかく風呂に入ってサッパリしても、台無しだ。

ぼくはクローゼットに乱雑に詰め込んだ長袖のTシャツから一番小さいものを引っ張り出
した。
白と黒のボーダー柄で、洗濯してる内に縮んでしまったものだ。

「ありがと」

そう言ってシャツを受けとる彼女に、コンビニの袋から買ったばかりのパンツを取り出し
て、パッケージごと2つ差し出した。

「サイズ分かんないから、良い方穿いてよ。洗濯物は洗濯機に入れといて、明日洗えば良
いからさ」
「あ、ありがと……」

真宵ちゃんは胸に大切そうにシャツとパンツを抱えると、今度こそ風呂に入って行った。

ぼくはと言えば、ふぅ……と一息ついて、スーツの上着を脱いでネクタイを弛める。

やっと全部終わった。
懐かしい家の匂いはぼくを安心させた。
あとは真宵ちゃんと入れ替わりで風呂に入って、眠るだけだ。

暇を持て余して点けた数日振りのテレビは何故か空虚に感じられた。
何とはなしにザッピングしていたけど、何を観ても面白いとは思えなくてすぐに消した。
すると今度は風呂場から水の音が聞こえて来て、なんとなく真宵ちゃんの入浴シーンを覗
き見してるような気になってしまって、慌ててテレビを点けた。
スポーツコーナーの結果を聞きながら、ぼくは思い出した。

帰宅した瞬間に真宵ちゃんに袋を漁られたら大変だと、コンビニを出てすぐにスーツの内
ポケットに入れ直した“箱”のことを。

いや……ないよな。
でも万が一にもな……。
い、一応、準備だけはしておくか……。

もしそういう雰囲気になっていざとなった時、どこからかいそいそと未使用の箱ごと取り
出せば、いかにも「準備していました」と言わんばかりで、アレだ。
だから、箱を包む透明のフィルムをそそくさと開封して数cm四方の小さな個装を5個ほど
取り出し、布団の下へさっと隠した。

ふぅ……。
これで大丈夫だ……。

巧みな作戦を内心自画自賛して額の汗を拭っていると、真宵ちゃんが出て来た。
一番小さなTシャツなのに、やっぱり彼女には大きくて、唯でさえ小柄な真宵ちゃんには
丈のちょっと短いワンピースのようだ。
だぼだぼの長袖を腕捲りした湯上がり姿の真宵ちゃんは「サッパリした」と上機嫌で、余
りにも嬉しそうなので「良かったね」と声を掛けてやると、彼女は礼を言いながら屈託な
く笑った。

そんな彼女に何気なく視線を向けたぼくは、次の瞬間ある一点に釘付けになった。
彼女の胸の膨らみ。
そこに2つ、見えてはいけないものがポツリと浮き立っていたから。

それを見て初めてぼくは思い出していた。
全く考えが及ばなかったけど、女の子はもう1つ下着が必要なのだと。
でもそんなものはコンビニに売ってなかったし、それこそサイズなんて分からない。

気付かなかった振りで風呂場に逃げ込んだが時既に遅し。
一度目にしてしまったものは脳裏から離れない。
ぼくだって健康な成人男性だ。
股間のモノは正直で、いきり勃ってしまっていた。
もう何日も溜まってるし、異様な疲れと、裁判後の精神的な昂奮も手伝っているのだろう。
ここで抜けば、さぞスッキリするはずだ。

だけどぼくはそれを許さなかった。

いつからかなんて覚えていないけれど、なんとなく、真宵ちゃんをそういう対象にしては
いけないというルールがぼくの中にあったのだ。
上手く言葉では言えないけれど、彼女を汚してはいけないというか……。

つい今しがた布団の下にコンドームを仕込んで来たばかりの癖に、この矛盾は何なのだと、
我ながら失笑してしまう。

でも、それとこれとは別問題なのだ。
ぼくの脳内と現実。この二つには大きな違いがある。
脳内と違って相手がいるのだから、「備えあれば憂いなし」だ。

落ち着け落ち着けと、たぎる股間に話し掛ける。
妹みたいな子に欲情してどうするんだ。
彼女が知ったら軽蔑するぞ?
落ち着け、落ち着くんだ、成歩堂龍一……!



──浴室で物凄い葛藤があったことをおくびにも出さず、何食わぬ顔で風呂から出る。

てっきりぼくの布団を占領して寝ているだろうと思っていた真宵ちゃんは、部屋の隅に体
育座りしてテレビを見ていた。
濡れた髪を頭の天辺で一つにまとめあげているものだから、やけに大きなお団子が頭に乗
っかっているようだ。
そのうなじや、緩めの襟首から覗く白い胸元。それに短めの裾から覗く脚が妙に色っぽく
て、ぼくはさりげなく目を逸らした。
湯上りの女の子と一つ屋根の下にいるのは想像以上に厳しいものがあることに、その時の
ぼくはやっと気付き始めていた。
そんな動揺を悟られないように、努めてさり気なく話し掛ける。

「あれ? 先に寝てて良かったのに」
「うん。毛布かタオルケットを貸してくれると助かるかも……。そしたら部屋の隅ででも
寝るから」

ぼくは彼女の言葉に目をパチクリさせてしまった。
彼女のことだから、当然の如く布団を使うだろうと思っていたから。

「え。い、いや、布団使っていいよ。ぼくが床で寝る」
「そういう訳にはいかないよ。家主を追い出して居候が布団なんて使えないよ!」
「女の子を冷たい床で寝かせて自分だけ布団で寝ろと?」
「本当に平気だよ。あたしどこででも寝れることで有名な霊媒師だからさ」
「ウソ言えよ。 ……良いって。早く寝ろよ」

最終更新:2020年06月09日 17:26