・逆転検事5話後
・ネタバレ
・長い割にエロ少ない


気づけば、窓の外に見える狭い空は、うっすらと白み始めていた。
つまりは、カーネイジ・オンレッドの罪を暴くのに、まるまる一晩かかってしまったということだ。
相手は一国の全権大使たる男だ。その後の処理にもかなりの時間を要したのは言うまでもない。
ロウ捜査官の優秀な部下たちの迅速な対応をもってしても,こればかりはどうしようもないことだろう。
しかしそれも、やっと終わった。

「ホテルに戻るわ」

そう言う狩魔冥の声は、いくぶんか疲れているように聞こえた。
表情には見せずにいる疲労が声に出るのも、無理からぬことだ。
彼女は恐らく、ここ数日はろくに睡眠もとらず調査に当たってきたのだろうから。
しかし、処理を最後まで見届けるといった10分後にはソファで寝息を立て始めていた一条美雲と、たいして年が離れていない女性とは思えないタフさだ。
その体力と気力の並外れた彼女のために、御剣玲司はすでにハイヤーの手配を済ませていた。

「ああ、車を用意してある。今日はゆっくり休むといい」

恩着せがましさなど一つもない様子で言う彼に、冥は笑う。

「あら、あなたやそこのヒマそうな刑事ならともかく、この事件の担当検事である私がそう簡単に休めると思って?」

言われてみればその通りだ。
御剣はあくまで自身の意思のみでこの事件に関ったのであり、そのために彼女の部下にまでなったのだから。
彼自身がこの事件の担当となるかどうか、それもまだ明確ではない。
すんなりと事実を受け入れた御剣の横では、糸鋸刑事がションボリと肩を落としている。
せっかく声をかけたのに報われない御剣をおもんぱかってのことだが、ここで冥に反論しようものならムチの餌食になるのは目に見えている。
その様子に満足げに薄く笑みを浮かべて、冥はクルリときびすを返した。

「でもまぁ、部下としては当然のあいさつね。一応は受け取っておいてあげるわ。
あと……この件はあなたが担当するんでしょうから、そのときには見に行ってあげてもいいわ。
あなたが狩魔の名を汚すようなみっともないことをしないように、上司としてチェックしてあげないとね」

あの男の愕然とした様子も見てやらないと、と付け加えながら、ひらりと黒い皮手袋を振って、彼女は大使館を後にした。

「はぁ……狩魔検事も相変わらずッスね。せっかく御剣検事が声をかけたのに、あの言い方はあんまりッス」

十分に離れた後でそういう男に、御剣は口元を緩めて答える。

「いや……彼女も疲れているのだ。休めないというのも言葉どおりだろう。それに……」
「あぁあぁーっ!」

言いかけた御剣の声をさえぎって響き渡ったのは、一条美雲の声だった。

「狩魔検事さん、ひょっとして帰っちゃったの!?」

布団代わりにかけられていた糸鋸のコートをつかんで起き上がった彼女は、あたりを見回して肩を落とす。
トボトボと御剣の傍に寄ってきた彼女に、御剣は首をかしげる。

「ああ、ついさっきホテルに戻ったが……どうかしたのか?」
「どうかしたのか、じゃないですよ!ありがとうございましたも、さようならも言ってないじゃないですか!」

寝起きとは思えない剣幕の美雲のもっともな意見に、つい眉間に皺が寄る。

「ム……そう言えばそうだな」
「それにそれに、あたし、お姉さんに渡すものがあったんです!」
「渡すもの?」

狩魔冥がホテルに着いたのは、もう早朝といっていい時間だった。
後ろ手にドアを閉めた瞬間、力が抜ける。深く息をつき、頭を振った。
許されざる犯罪者を法廷に引きずり出すことはできた。それは同僚であった男の敵を討てたことにもなる。
では彼女の端正な顔立ちを緩めたのはその安堵の表情かと思うと、そうでもない。

「また、やられたわね」

吐き出した声は憎々しげと言うよりも、どこか懐かしむような温かみがあった。
そうして、薄い唇の端を引き上げる。

『やられた』という表現がさすのは、もちろん今回の御剣の活躍のことだ。
担当検事として、国際警察と協働で捜査を進めてきた彼女でも気づかないような証拠品を見つけ出し、ロジックを組み立てた。
もちろん、彼女の協力なくしては成功しなかった部分も多々あったのだが、それはしょせん助力に過ぎない。
彼の検事としての能力の高さを、見せ付けられたに過ぎない。

しかし、彼女には不思議だった。
彼女にとって御剣は、負けることの出来ない相手であり、越えなければならない相手であった。
彼女は常に完璧でなければならず、それを打ち崩されることは何よりも屈辱的なことだった。
その思いはもう、10年以上も持ち続けていたというのに、自分は。

「何故、笑っているのかしら」

扉によりかかったままだった彼女はしばし思案し、頭を振る。
疲れているのだ。まともな思考などできるはずがない。
薄暗い室内でわずかな荷物を片付け、バスルームに向かう。
足が重くとも、肩や腰が痛みを覚えようとも、仕事着のままベッドに倒れこむなど、彼女には考えられないことだった。

国際警察で用意した部屋は、最上級とはいかないまでも小奇麗で快適に整えられている。
浴室も、十分に足が伸ばせる浴槽がついているのだが、湯を張るような余裕はこの部屋に来てから一度もない。
いつもどおり、心地のよい水流に打たれながら、今一度つぶやく。

「何故、わたしは笑ったの」

御剣に負けたという自覚は、イコール苛立たしく、許せるものではないはずだ。
実際、2日前にはその苛立たしさを露わにもした。
にもかかわらず、彼女の頬は緩んだ。

彼の上司、という立場を得て、少々上機嫌になっていたのは事実だ。部下の活躍であれば、確かに上司としては喜ばしいかもしれない。
けれど、そんな単純な問題だろうか?上司の”フリ”にそこまで執着するほど、彼女は子どもではない。
彼の活躍を、己の敗北感を、心地よく感じる理由など一つもないはずだ。

ほどよく温まった体をバスローブに包んで髪を乾かしながら考え込んでいると、控えめにドアをノックする音が聞こえた。
このような早朝に自分を訪れてくる者などいただろうか。仕事であれば直接ここに来る前に携帯電話に連絡が入るはずだ。
かといって、プライベートでこの場所を知る者などごく限られている。
頭に浮かんだのは、彼女を悩ませるあの男の顔。

ノックは数回、控えめにされはしたものの、その後は物音一つしない。
帰ってしまったのではないかと、あわててドアの前まで行って、息をつく。

まずは、このような時間に訪問した失礼を叱らなければならないだろう。
自分がどのような状況か理解できなかったのかも、問い質す必要がある。
それでも来た理由は何なのか?はぐらかすようであれば容赦はしない。
そこまで考えて、ドアを開けると、目の前の男は意外そうに目を見開いていた。

「……起きていたのか」
「バカらしい問いね。寝ているとわかっていて訪問してくるバカもいないでしょう?大体……」

言いかけて、ふと御剣の手元に目をやる。あまりにも彼には不似合いな、唐草模様の風呂敷をかかえている。
その様子から、どうもこれが自分への、しかもあの少女からの、届け物だとわかる。

「……廊下で立ち話も迷惑ね。入りなさい」
「うむ。だが、その……」

わざわざ彼女が身を翻し迎え入れようとしたのに、御剣は眉間に皺を寄せ、一歩も動かず口ごもる。
冥は言葉が続かない男をにらみつけ、鞭を手にしていなかったことを思い出す。
しかし、鞭などなくとも彼女の鋭さは変わらない。

「もったいぶらずにハッキリ言ったらどうなの?」
「いや……そのような格好で、男を部屋に迎え入れるのはいかがなものかと」

言われてようやく、冥はバスローブを纏っただけの格好で彼を迎え入れようとしていることに気づいた。
彼を追及することばかりに気を取られて、そこまで気が回らなかったのだ。
そのことに気づき、一瞬悔しそうな、羞恥を押し隠すような表情を浮かべはしたが。

「この格好だからよ。いつまでもドアを開けておくわけにはいかないでしょう?」

すぐにまた、相手をやりこるめるような薄笑いを浮かべる。
その様子に御剣もうなずき、室内に歩を進めた。

「それもそうだな。では、失礼する」

御剣に椅子に座るよう促して、冥は追及を再開した。

「それで、こんな時間にやってきたのはどういうこと?私が十分に休息をとれる身ではないことは、さっきも伝えたつもりだったけど?」
「あぁ、申し訳ない。だが……これを渡すよう、美雲くんに頼まれてな」

御剣が差し出したのは、ピンクの(!)唐草模様の風呂敷包み。

「やっぱりあの子からなのね。その風呂敷、あなたに全然似合っていないもの。
……で、それを今、私に届けなければならなかった理由はなんなのかしら?」
「あぁ、また会うことがあれば渡してほしいと言われたのだが、君の様子では明日にでも国外に出てしまうのではないかと思ってな。
それに、君が部屋に戻ってそのまま寝てしまうようなだらしないことをしないということもわかっていた。
ならば、君が確実に日本いる今日、眠る前にと思ったのだ」

御剣の説明は整然としていた。本人の表情もいつもどおり、とはいかないが、少々のバツの悪さはあるものの、平静を装っている。
だが、いつものように腕組みしてそれを聞いていた冥は、質問を続けた。

「……じゃあ、私が眠っているはずがない、という確信を持ってきたわけね?」
「うむ。そういうことになるな」
「ではなぜ、私がドアを開けた瞬間、あなたは驚いたのかしら?何かあなたにとって計算外のことがあったのではなくて?」

してやったり、とばかりに微笑む冥の追求に、御剣は口をつぐむ。
そう、彼は確かに、彼女が起きていると考えてここまでやってきたのだ。
だが、ドアの前までやってきたとき、彼女が寝ていてほしい、と思ったのも事実だ。

美雲からの預かり物は、渡そうと思えば、実際のところ、明日でも渡せた。
たとえ彼女が明日日本を発つとしても、その見送りに行く時間がないわけではない。
それでもすぐに彼女のもとへ行きたいと、失礼を承知でここまできてしまった。
落ち着いて考えればそうなのだ。今日彼がここに来る理由など、ない。
だからこそ、ドアをノックするのがためらわれた。
自分自身にも不可解で、失礼極まりない行動だ。
それを、彼女に知られずに帰れるものなら帰りたかった。
だから心のどこかで、自分自身の推理を打ち消し、彼女が寝ているかもしれない、そうであってほしいと、そんな逡巡を胸にドアをノックしたのだった。

このような理解に苦しむ行動を、また自身の胸のうちを、彼女に打ち明けることはできない。
それに、驚いた理由は他にもある。
ふ、と口元を無理につりあげて、まるでその理由が全てであるかのようにみせる。

「それは、そうだ。君のように完璧を求める女性が、あのような格好で男を出迎えたのだから」

かっと冥の頬が赤らみ、青い瞳ににらみつけられる。
御剣は肩をそびやかして首を振る、お得意のポーズで彼女を煙に巻く。

「私も突然訪問した失礼は承知している。要件は早めに済ませた方が君のためでもあるだろう」

言って、ピンクの風呂敷包みを冥に差し出す。
いまだ怒り覚めやらぬ様子の彼女は、ひったくるようにそれを手にしたが、あくまで丁寧に風呂敷を紐解く。
白いバスローブの上で動く冥の手を、御剣も興味深そうに見ている。

「あなたは、中身を知っているの?」
「いや、私もこの状態で渡された。中身までは確認していない」
「そう……あら?」

風呂敷の中から出てきたのは、ヤタガラスのカードと、”とのさまんじゅう”だった。
カードには、若い娘独特の文字で、びっちりとメッセージがつづられていた。

『狩魔検事さん、こんにちは。今日はありがとうございました。それと、7年前のときも。
ミツルギさんとノコちゃんには御礼を言えたけど、狩魔検事さんには言えなかったので、手紙を書きました。
それと、狩魔検事さんの大事な”真実”を盗んだので、それをお届けしちゃいます!
きっとビックリしますよ!あ、でも喜んでくれるかな?よーっく考えて、見つけてくださいね!』

「……なんのことかしら?」

カードのほかには、とのさまんじゅうの箱しかない。
冥はカードを御剣に渡し、とのさまんじゅうの箱を開ける。が、そこにも美雲の言う”真実”は見当たらない。

「うむ……いまいち、要領を得ないな。そのとのさまんじゅうの出自も……いや、おそらくヤハリあたりからもらったのだろうな。」

カードに目を通した御剣も、むぅ、と考え込む。

「あなた、本当に中を見ていないの?」
「失礼な。私が預かり物を勝手にあけ、しかも抜き取ったとでも?」
「……考えてみれば、あなたにこんな包装ができるはずがないわね」

ぐ、と言葉に詰まった御剣に冷ややかな笑みを向けて、冥は眠気を払うように頭を振る。

「いいわ。機会があれば、彼女に直接聞いてみましょう」

いい加減、体力は限界に近づいていた。切れ長の目も眠たげに細められ、一度腰を下ろしてしまっては、立ち上がる気力もわかない。
冥よりは体力があるとはいえ、疲れているのは御剣も一緒だった。
腰をあげ、息をつく。

「うむ。カーネイジの公判には来ると言っていた。おそらくはそのタイミングで会う機会もあるだろう」
「ええ、そうね……」

言いながら、二人は同じことに思い至る。
そうだ、美雲には、冥と会えるチャンスがまだある。
それなのになぜ、この荷物を御剣に預けたのだろうか?
冥の頭を覆っていた眠気と、彼女には肯定しがたい胸の内を隠していた無意識の霧が、消えてゆく。

「真実……私の、真実」

ドアに向かいかけた御剣の背後で、冥が呟く。
その声に、御剣も足を止める。

「メイ?」

冥は椅子に腰かけたまま、考え込んでいる。御剣の問いかけにも反応しない。
いぶかしみ、彼女のもとに歩み寄った御剣に、彼女の視線が刺さる。
それは、いつもの丁々発止のやり取りをする時のような目つきではなく、どこか憂いと、不安に揺れているように見えた。
そして、言葉こそいつもどおりだったが、その声も揺れていた。

「レイジ、答えなさい。あなたはなぜ、今、ここにいるの?」

再度の問いかけに、一瞬御剣はぎくりと身をこわばらせた。
この問いは、自分でも不可解で失礼な行動の原因を追究されているのと同じだ。

「……それはさきほど答えたはずだが?」
「意義あり。あなたの発言にはムジュンがあるわ。それに気付かないとは愚かなことね」

矛盾。そう言われてしまうと、なかなか説明が難しい。
難しいが、ここで彼女に追及されるまま、矛盾した心中を吐露することも、彼にはできない。
それが年長者としての威厳なのか、もっと別の何かなのか、それもまた、あまり考えたくはなかった。
だが、気になった。
彼女の様子がおかしい。その彼女の胸の内を、のぞいてみたい。

「矛盾を指摘するなら、正確に、完璧にお願いする」

いつもの彼女ならば、ここで笑みを浮かべて、嬉々として彼を追い詰めるはずだ。
だが今は違う。
疲れや眠気のせいではない、もっと彼女の奥底で波打つ感情が、誰よりも鋭いはずの視線を、か弱く歪ませている。
薄い唇は震えるように、小さく動いたが、声は必死に、平静を装っているようだった。

「……レイジ。あなたは、私に会うチャンスがあったはずだわ。あなたの裁判で。
いくらあの子にお願いされたからって、すぐに――こんな、気の利かない訪問をする理由にはならないわ。
答えなさい。今こうして、私に会いに来ているのは何故?」

御剣は、どくりと、心臓が跳ねる音を聞いた。
その自問は、さきほどドアの前で、ほんの一瞬彼自身の頭をかすめた。
そして、もう少しで答えに手が届きそうだったのに、それを手にすることをやめてしまった。
それはきっと、その答えが。

「メイ、私は――」
「レイジ」

さえぎるように言って、冥はうつむいた。

「私、さっきあなたのことを思い出して、笑っていたのよ」

自分の言葉をさえぎってまで彼女が発した言葉が何を示しているのか分からず、御剣は首をかしげた。
かまわず、冥は言葉を続ける。
表情は、彼からは見えない。

「あなたの推理にすべてもっていかれたわ。今日も、2日前も。許せないわ」

冥が何を言わんとしているのか、皆目見当がつかない。
たしかに彼女からすれば、御剣に負けたということになるだろう。
そしてそれは、彼女には許せないことなのだろう。
しかしそれと、彼女の言う笑いと、何がつながるというのか。
困惑する御剣の前で、彼女はうつむいたまま言葉を続ける。

「許せないのに、おかしいのよ。私、あなたのことを思い出して笑っていたの。
自分でも不思議だったわ。でも、わかった……あの子の言う”真実”も。私が、笑った理由も」

顔を上げた冥は、驚くほど美しかった。
整った顔立ちがそう思わせたのではない。
不安や、憂いを残したままの目もとと、思いを伝えようとして薄く開かれた口元は、あまりにも儚げで。
その表情は、ただ美しいだけではなかった。
どんなに勢いのある追及や、鞭の痛みよりも強烈に、御剣の胸に、つかみそこねた”答え”をつきつけた。

「メイ」
「!」

気づくと、冥の体は御剣の腕の中におさまっていた。
どくどくと心臓の音が聞こえる。
これは、自分の鼓動だろうか、それとも。

「私がここに来た理由は、ひとつ」
「……何、かしら」

お互い、声がかすれていたが、そんなことに気付く余裕はなかった。
御剣は唾を飲み下した。
未だ、自分の中でも整理のつかないこの感情を、どう言葉にすべきなのか。
逡巡をしないでもないが、もう自分はこうして、自分の感情のままに動いてしまっている。
彼女は彼を拒絶しない。それだけで十分だった。

「君に、会いたかった」

冥の腕が、御剣の背に回された。

「……バカね。そんな答えで私が喜ぶと思ったの?私の発言の邪魔までして」

くすりと、冥が笑った気配を感じ、御剣はようやく息をつく。

「君も、私の発言を邪魔した気がするのだが……君の発言を中断させてしまったことは謝ろう。
では、君の発言も最後まで聞かせてもらおうか」
「も、もういいわよ。あなたがようやく素直になったのだから、許してあげるわ」

慌てふためく様子は、顔をのぞきこまなくてもわかる。
それに、こうして彼女の体を抱いていれば、その体温も、香りも、全てが彼のものだった。
そう思うと、改めて温かな感情が胸を満たす。
この腕の中にいる、生意気で、勝ち気で、扱いにくい彼女が、たまらなく愛おしい。

「よくはない。意味もなく笑われたままでは、わたしも納得できない」
「も、もういいと言ってるでしょう!いい加減離しなさい!」

さきほどまでしっかりと腕を回して抱きついていたくせに、今は細い腕で彼の体を押し返そうとしている。
普段鞭を振るっている腕は女性にしては強く鍛え上げられているのだが、この態勢では流石に男の力にはかなわない。
一歩間違えば訴えられそうではあるが、御剣は自身が優位に立っていることに愉悦を感じていた。
つい、彼女をやりこめようという悪戯心がわいてくる。

「それはできない相談だな。君が言おうとしたこと……聞かせてもらえるまで、この腕は離さない」
「!……わ、わかったわよ。言えば、いいんでしょう」

観念したのか、力を抜いてうつむいた彼女の表情を見てやろうと、彼は腕の力を緩める。
そして、かがみこんで彼女の顔を覗き込もうとして、顔面を手の平で押し返される。

「悪趣味よ」
「む……すまない」

ばつが悪そうな彼の胸元に顔をうずめて、冥はちいさく、けれどはっきりと言葉を紡いだ。

「……あなたのことを考えている時が、わたしには一番……幸せ、なのよ」
「!」

最終更新:2020年06月09日 17:22