*     *

ひんやりとした空気が、春美の感覚を研ぎ澄ます。今日は雪が降るかもしれないと天気予報が告げていた。
従姉に傘を忘れないように告げたのは自分なので、間違いはないはずだった。
その従姉のお遣いで、春美は「成歩堂なんでも事務所」までやってきていた。そして、白い息を吐き出して事務所の前に立ちつくしている。
冷たい空気は、霊感を研ぎ澄ませるのだ。こんな時の春美の予感は、絶対に外れない。

出会う気がするのだ。彼に。

事務所の主なのか、その娘なのか。扉越しの気配はひとつだけだ。常識的に考えて、室内の気配は事務所の主のはずなのに、それでも春美の霊感は「彼だ」と告げていた。
梅雨から一向に会わないままなのに、抱えた感情は消え去ることはなかった。
毎日男のことを思い出しては、彼と思いを通わせる妄想に思いをはせ、現実に返って自己嫌悪に陥る日々を繰り返す。
そんな日々を過ごしていると、もうただ会いたいだけなのではないかという気がしてくる。ただ会って、あの怜悧な瞳で自分を見つめてくれたら──ああ、また彼のことを考えた。
今、あの端正な顔を見たら、自分はどうなってしまうのだろう。この、紛いものの恋情を抱えたまま、彼とまともな会話ができる気がしなかった。
それでも、従姉の頼まれごとを達せずに帰るという選択肢は端から春美にはない。意を決して、事務所の扉を開いた。

曇天から粉雪でも舞い降りそうな、きんと空気の冷えた日。こんな日は、絶対に春美の予感は外れない。



扉から見えた姿は、ワインレッドのスーツだった。

不用心にも鍵のかかっていない事務所の扉を開けたのは、事務所の主ではなく、セーラー服姿の少女だった。
久しぶりにその頼りなげで可憐な姿を見て、御剣は胸を刃物で突かれた気になった。少女は、今にも泣き出しそうな表情をしていたから。
「みつるぎ、検事さん……」
「春美くん……」
揺れる瞳を見たくなくて、今すぐにでも抱きしめたい衝動が沸き上がり、御剣はそれを必死に抑え込んだ。
だから、だめなのだ。こんな気持ちを抱き続けるから、これを渡しに行けずにいたのだ。反省の念を心の中で何度も唱え、努めて平常を装って、手のひらのものを少女に差し出した。
「……ちょうど良かった。今日は、きみへのプレゼントをここに置いていこうと思っていたんだ。……私たちは、いつ会うかわからないから、な」
「……ええ……そうですね」
少女の小さな声は、自分と同じように平静を装うとしたものだった。だが、それは完全に失敗していて、苦しみや悲しみ──歓喜の色が漂っていた。
ならば、自分も同じような声をだしているのだろう。とても、今の感情を上手く制御できているとは思えなかった。
久しく見ない間に、少女はまた大人びたような気がする。美しい顔に、苦悩と期待がないまぜになった表情を浮かべ、大人の色気を醸し出していた。
男を狂わせるその怪しい美貌にこくりと生唾を飲み込みながら、御剣は強引に欲望を脳内から切り離す。そして、春美の手を取って、ささやかな贈り物を手のひらにのせた。
淡い色に光る透明色の玉がきらきらと光る、赤い髪紐。
「この前の看病のお礼というわけではないのだが……街を歩いていて、偶然見つけたのだ。きみに、似合うのではないかと思って」
春美は、髪紐をぎゅっとにぎりしめて、無言でうつむいてしまった。御剣は焦った。女子高生に、この髪紐は少し渋いシュミだったろうか?
「気に入らなければ、捨ててしまって構わない。ただの私の気まぐれだから」
「……どうして……」
静かな事務所内では、春美のどんな小さな声もこちらに届いてしまう。彼女の悲痛な声音を聞くくらいなら、今すぐ事務所を飛び出したいと思った。
「どうして、そんなに、優しくしてくださるんですか……?」
「どうして、と言われても……」
彼女は幼いころから知る、友人の一人だ。古い友人が可愛がっていることもあって、自分も随分長い間彼女を見守ってきた。そこに、理由なんてない。

違う。

彼女がそんな答えを求めているのではないことはわかっている。だからと言って、何を告げればいいのか。告げるべきことは何もなかった。
彼女が今にも泣きそうな顔をしていても、自分の胸が張り裂けそうでも、そんな理由を探究してはいけなかった。
「……私が、きみに優しくしてはいけないかな」
ずるい言い方だ。聡明な彼女には、男の苦し紛れがわかっているに違いない。それでも、それ以上を自分の口から言うことはできなかった。
だが、顔を上げた春美が涙を流しているのを見て、自分は今すぐ死ねばいいと思った。
こんな少女を泣かせるくらいなら、全てぶちまけてしまえばいいのだ。「今すぐにきみを抱きしめたい」と。
「……質問の仕方を、変えますね。……街で何気なく歩いている時にまで、わたくしのことを考えてくださっていたのですか」
御剣の身体は硬直した。まさに、その通りだからだ。春美の瞳は、まだ大粒の雫がこぼれているのに、覚悟の色を宿していた。覚悟? いや──狂気かもしれない。
「みつるぎ検事さん。毎日、わたくしのことを考えているのでしょう? だから、こんな贈り物をしてくださるんです。違いますか?」
目の前の可憐な少女は、大粒の涙をこぼしながら禁忌を力づくで乗り越えようとしていた。その瞳は、自分の言葉で自身を傷つけているように見える。
「みつるぎ検事さんは、ずるいです。大人だから、わたくしのことを女性として見られない、なんてふりをしていて、検事さんはわたくしのことを女性として見ているじゃないですか」
「……春美くん……」

御剣は言い返せない。全くその通りだったからだ。自分の保身と感情の平定のために、目の前の少女を犠牲にしている。そんなつもりがなくても、彼女を傷つけている。
本当に、そんなつもりではないのに。
「わたくしは、どうすればいいんですか? わたくしは……っ、わたくしだって、期待してしまいますっ……! わたくしだって、女なんですから」
その言葉に、御剣は何かの堰が切れたと思った。
彼女の傍にいると、どうしようもなく安らかな気持ちになれるだけだった。
彼女の笑顔を、もっと見たいと願っただけだった。
それ以上が欲しいと、願ったのはいつからだったんだろう。

御剣は、春美の身体を力任せに抱き寄せて口づけた。


*    *

何もかもが苦しかった。はじめての口づけは、酸欠になるまで続けられて、それからも貪る様に御剣の舌は口腔をまさぐっていく。力の限りに抱きしめられて、背骨が折れるかと思った。
それでも、何もかもがどうでも良くなるくらいに、満たされた。
それがこのひと時だけだったとしても、もうどうでも良い。
首筋に熱い舌を這わされて、身体が震える。太ももを撫で上げる節くれだった男の指に、背筋がぞくりとした感覚が走り抜けた。
ソファの上に押し倒されて制服を乱され、気がついたら下着まで脱がされていた。胸を揉みしだかれて、その力強さに切なくなる。
小さく声を漏らすと、御剣は春美の声ごとむさぼろうと深く口づけてきた。吐息ごと春美を味わいながら、御剣もいつの間にかスーツを脱ぎ棄て、シャツを乱す。
汗ばんだ肌に指を這わせて、春美は愛おしさがこみ上げてきて、涙が溢れた。
「みつるぎ、検事、さん……」
「春美、くん……」
互いに名前を呼ぶだけで、それ以上は何も言わなかった。言えなかった。この感情を、言葉にするよりも繋がった方が早いと思った。
こんな切ない気持ちを、どう表現すれば良いというのだろう。結局互いに何も言えず、また深く口づけ合った。情熱が込められた口づけは、息ができないほどだ。
春美は息ができなくても構わないと思った。息よりも、目の前の男の唇と舌が欲しかった。この甘い感覚さえあれば、呼吸ができずに死んでも構わない。
早く一緒になってしまいたかった。身体中に太い指が這う感覚はたまらなく甘美だったけれども、それよりももっと男の熱を感じたいと思った。
御剣の股間へと手をやると、そこはすでに凶暴なほどの熱と固さを持って存在を主張している。春美はぼんやりとその熱を手のひらで弄んだ。
スーツから取り出し、下から上へと指を這わせ、頂きに指をそっと擦りつける。すると先端から粘液があふれるので、指に良く絡ませてから、また熱い塊をそっと握りしめた。
そうやって遊んでいると、男に手のひらを掴まれて制止されてしまった。不思議に思って男の顔を見ると、男は額に汗をかきながら、なにかをこらえるように眉を顰めているではないか。
「みつるぎ、検事さん……?」
「……どこで、そんな悪戯を覚えてきたんだ?」
私が教えるつもりだったのに、と耳元でささやかれて、ようやく春美は自分が何をしたのか把握した。顔を耳まで真っ赤に染める。
「……これ以上は、ダメだ。……すぐに、限界になるから」
男の低くかすれた声を耳元で聞いて、それだけでもう春美は限界だと思った。腰がしびれて仕方ない。身体が熱くほてって、まるで熱に浮かされたようだった。
息ができないくらい苦しい。早くキスして。あなたの呼吸を分けてください。
涙をにじませた瞳で、そんな意志をこめながら男を見つめると、春美の霊感で繋がったのかまた深く唇を重ねられた。
口づけながら、男の指は春美の頑ななつぼみにそっと触れてくる。かすかに濡れるそこを、男の指が丹念に揉み解していった。
他者に秘所を探られるという経験のない感覚に、春美は身体を震わせた。
男はその震えに気が付きながら、行為を止めることはなかった。そのことに、春美はひどく安堵する。
「やはり処女を相手にすることはできない」と、こんな中途半端で止めてほしくなかったから。
これほど情熱的に口づけを交わし、抱きしめあって、互いの身体に触れているのに、なぜか切なさは増すばかりなのだ。この心に空いた“寂しさ”という穴を、早く男の温もりで埋めて欲しかった。
「は……はや、く……」

擦れた声で呟いて、身体にまたがる男の頬を撫でると、男は眉根を寄せて一瞬考え込んだ。
「……まだ……きっと痛い」
そう言って、春美の足を大きく広げさせた。春美が羞恥に顔を染めた一瞬後、御剣は性急に秘所を舌で舐めあげた。
「あ、あ……!」
指でほぐされた蜜壺は、舌の刺激を受けて愛液をとろとろと流し始めた。やがて、御剣の舌技に合わせてぴちゃぴちゃと水音を奏でるようになる。
男から与えられる刺激に、春美は背筋をぴんと張って耐えた。
「ん、あ……! はぁんっ!」
ソファにしたたるほどの蜜がこぼれたのを確認して、御剣はすっかり硬直した自らを春美の蜜壺へ押しあてた。
「……痛いと思う……すまない」
謝罪の言葉とキスに、春美は涙を流して首を横に振った。男の首に抱きついて、耳元に唇を寄せる。
「……わたくしが欲しいのです……あなたを」
そう小さく告げた瞬間、男が荒々しく自らの剛直を少女のとけた場所へと埋めていった。熱く、固い異物が自らの中に入り込んでくる痛みは、春美の予想を超えていた。
それでも、待ち望んでいた瞬間に歓喜の感情に包まれる。
「あ、あ、あ……っ!」
自然と涙がこぼれる瞳で男を見上げると、意外と冷静な表情をしていた。しかし、それが表情だけであることに、春美はすぐに気が付く。瞳は獣のように猛っていたから。
唇は獲物をとらえて血をすする肉食獣のように、春美の唇や首筋、胸を味わおうとする。
やがて、自分の中が男でいっぱいになったと感じた。男の熱も、高ぶりも、感情さえも伝わりそうなほど、自分たちの距離はゼロになっていた。そこのことに、春美は笑みを浮かべる。
「ひとつ、ですね。検事さん……」
「……ああ」
もう何もいらない、と春美は本気で思った。男もそうだったに違いない。春美にとって、肉体のゼロ距離は、心のゼロ距離に等しかった。
男の心が透けて見えて、自分と一つにまじってしまったように感じる。非日常な体験に、霊力が暴走しているのだろうか。
御剣が感じる快楽まで体感できるほど、男との境目があいまいになっていた。狭い膣内で絞られた雄が、震えるほどの官能を感じている。
その感覚をダイレクトに受け取って、春美は初めてだというのに恍惚の表情を浮かべた。
「ああ……検事さんっ、気持ちいいのですね……」
「……そう、だ。すごく、すごく気持ちが、いい……」
擦れた男の声は、快楽と恋情と、罪悪感が入り混じっている。それでも、求めてやまない思いが伝わってきて、春美は心が震えた。
「わたしくも、です。……もっと、気持ちよく、してください……」
うわ言のように告げると、男がゆっくりと自分の中で動き出した。自分の身体は確かに痛いと感じているはずなのに、男が脳もとろけるほどの悦びを感じていて、それを共有してしまう。
鳥肌が立つほどの快感が、春美に容赦なく降り注いだ。
「あ! あんっ!! 検事さんっ、もっと、気持ちよくなって……! 我慢、しないでっ……!!」
春美のその言葉に、身体の心地よさに、御剣の理性は完全に崩壊した。荒々しい愛撫と腰の動きに、春美は飲み込まれる。
「あ、あ、ああっ! はぁん、けんじさんっ……! すごいっ……んあぁ!!」
古いソファがぎしぎしと悲鳴をあげるほどの激しさは、二人をあっという間に快楽の頂点へと導いた。強い快感に、春美は意識がもうろうとする。目の前が白い光に包まれた。
「ふ、あ! けんじ、さん……あつい……おくまで、して、きもちいいっ……! も、もう、わたくし、は……」
「……っ……は、はる、み……、うっ……くああ!」
男は少女の狭い膣内からもたらされる深い悦びで、とうとう熱い欲望を吐き出した。御剣の絶頂をそのまま感じた春美は、身体を震わせて意識を手放した。

*    *

「見てください、みつるぎ検事さん! 今日は満月ですよ。お昼は曇っていたのに、夜になると晴れましたね」
柔らかな声で話す少女の横顔をちらりとのぞきこむと、とても可愛らしく笑っていたので、御剣は目を細めた。
今、御剣の運転する車は、春美を乗せて駅へと向かっている。本当は家まで送っていくつもりだったのだが、春美は「真宵さまがびっくりしますから」と断った。
後ろめたさのある御剣は、無理にとは言えなかった。
「きみの、その髪紐についている石は、ムーンストーンというらしい。たしかに、虹色に光って月みたいだと思ったよ」
御剣は片手だけハンドルを放して、春美の髪に触れた。髪には、虹色に光る石が付いた朱色の髪紐が踊っている。春美はくすぐったそうに男の指を受け止めて微笑んだ。
「昔のひとたちは、この石に月の魔力が宿っていると考えていたんですよ。今でも月は人の心に影響すると考えられていますし、超心理にも欠かせないものです」
「そんなものなのか」
深く考えてのものではなかったが、春美の生業に通ずる石であるならば、やはりこの髪紐を選んで間違いはなかったのだろう。
それに、薄暗い中でも目立つその髪紐は、春美の美貌を強調している。とても、美しかった。
他愛のない話を続けているうちに、車は駅に着いてしまった。ターミナルの端に車を寄せて、停車する。扉のロックを外す指が、震えた。
このまま、彼女を攫ってしまおうか。
自宅に囲って慈しみ、ひたすら愛情をかけて、この美しく、愛しい少女と二人で暮らしていければ……。
ただの妄想だ。そんなことは不可能だ。実行するつもりにもなれない。
「月は」
小さく、春美が話し始めた。誰に告げるつもりもない、独り言のような声。
「月は、昔から“人を狂わす”と言います。特に、欠けていない、丸い月は」
それは、今、夜空で光る月のことか。それとも、彼女の髪で光る石のことか。──それを身に付ける彼女自身のことなのか。
「だから、今のみつるぎ検事さんも、きっと月に心を惑わされているんです」
惑わされているとしたら、それは少女の存在そのものだろう。だが、御剣は反論する気にもなれず、ただ春美の透明な声を聞いていた。
彼女は、暗に「忘れてください」と言っているのだろう。今日は、月が2人を狂わせたのだと。
忘れるものか。魂が叫んでいた。そして、本当にそう叫べない己の不自由さを呪った。
「帰ります、ね」
春美は自分でドアのロックを解除して、扉を開けた。ホームまで見送ろうと御剣も外に出ると、春美に「ここでいい」と制された。

「春美くん……」
「……みつるぎ検事さん。すてきな髪紐、ありがとうございました。……最後に、もうひとつだけ、お願いを聞いてくれませんか?」
「……もちろん。何だろうか」
「目を、瞑ってください」
少女は、能面のように無表情だった。その大きな瞳から、表情を読み取ることができない。先ほどまであれほど近くに感じた少女が、途方もなく遠い場所にいる。
御剣は目を閉じた。冷えた空気が、身体の体温を奪っていく。吐く息が白いことが想像できた。少女の唇からも白い息がこぼれているだろう。
その様は、きっとひどく神秘的で美しいに違いない。……さみしさを紛らわせるために、そんな空想に浸る。
そして、唇にふと温かなものが触れた。たった一瞬の接触は、数カ月前に触れた瞼に残る感触を思い出させる。
「さようなら、検事さん」
空気に溶けて消えそうなほど小さな声を聞いて目を開けると、春美はセーラー服をひるがえして改札を通り抜けていた。
── 一度も、こちらを振り返ることもなく。
そして御剣は、この恋の終わりを知ったのだ。



2番線のホームに降り立った少女は、やってきた電車に飛び乗り、そのままうずくまった。
あれほどの快楽のあとなのに、身体は悲鳴しか上げなかった。所詮男の感情を共有していただけだったのだ。もう、春美の中には何も残っていない。何も……。
春美はうずくまったまま、涙を流した。男の前から去る時、決して泣かない、振り向かないと決めていたのだ。そうしなければ、優しい彼はきっとまた自分を思い出してしまうから。
ゼロ距離で感情を共有して、春美ははっきりと感じたのだ。

彼は、自分を愛していると。

その狂気のような感情に、自分も彼も流されてしまえばどれだけ楽だったろう。それでも、彼は誇るべき仕事を失うことはできないはずだった。
また、春美自身もそんなことを望んではいない。所詮、落ちてはならない恋だったのだ。
そう頭では納得しているのに、感情がついていかない。あまりの空虚感に、涙が止まらなかった。自分で告げた「さようなら」が耳に残る。
これほど辛い言葉だったとは、今まで思いもしなかった。こうなることは、はじめからわかっていたのに……。
春美はするりと髪紐をほどいた。長い髪が、はらりと背中に落ちる。
虹色に光る玉を見て、行為が終わった後、春美の乱れた髪を整えて髪紐をつけようと四苦八苦していた男の姿を思い出し、涙で頬を濡らしながら微笑んだ。
結局、不器用な男は自力ではできなくて、春美が自分で結んだのだ。その時、「きみは器用だな」と言われたことを思い出す。
全然、器用なんかじゃないです。
そして、不器用なだけに、とうとう最後まで言わなかった言葉を、髪紐に向かって告げた。


「あなたが大好きです」



おわる


*おまけ*



「と、いう夢を見たんです!!! なんてことでしょう!! わたくし、あまりのことに朝から泣いてしまいました!!」
寝起きに泣きながら抱きつかれて、御剣は犯人である妻に何事かと問うた。すると、随分長い物語が待っていたのだ。
……なんてありえそうな夢だ……。
妻の春美の見たリアリティーたっぷりの夢に、別次元の自分たちじゃないのかと思わず冷や汗をかく。
自分たちも、何か間違えればそんな結末を迎えていた可能性は十分にあった。あったが、しかし……。
「春美くん、それは夢だ。安心していい。私たちは、その、夫婦だよ。間違いなく」
まだ夫婦という響きが恥ずかしいらしい。そんな年上の夫の恥じらいにまったく気付かない春美は、まだぐずぐずと鼻を鳴らして泣いていた。
「そ、そうですが……。ひどいです! 好きなのに結ばれないなんて、おかしいです!!」
「いや、まあ、ひどい話なのだが……」
現実には、結構この手の“ひどい話”はよく転がっている。「好きだったけれど別れた」なんて恋愛は、歳を重ねれば誰でも一度くらいは経験があるはずだ。
だが、幼い妻にはそれがわからない。また、わかる機会はこの先一生ないだろう。……自分がいるから。
「どの道、きみが泣く必要はない。ほら、涙をふきたまえ」
指先で妻の涙をぬぐうと、春美は甘えるように身体を寄せてきた。同じアメニティーを使っているはずなのに、なぜ彼女はいつもいい匂いがするのだろう。
思わずそっと抱きしめると、春美がギュッとしがみついてきた。
「れいじさん、大好きです」
「む……わ、私もだ」
春美は涙をひっこめて、にこりと笑った。御剣はそのまま口づけようと顔を近づけたのだが、春美は大きな瞳をきらきらと輝かせて、宣言した。
「わたくし、夢の中のわたくしの分まで、たくさんれいじさんに“好きです”と言います!
そうすれば、夢の中のわたくしとれいじさんはうらやましくなって『やっぱり一緒がいい』と思うはずです!!」
どんな論理の飛躍だろう。御剣は正直ついていけない。この少女時代特有の感性は、御剣には未知のものだ。
さらに言うなら、妹分である冥はこのようなタイプではなかったので、免疫すらない。
「わたくし、れいじさんのこと、大好きです! 今日はお休みですから、一緒にいてくれると嬉しいです……」
まあ、いいか。
最後のあたりの妻の可愛いおねだりに、とりあえず夢は夢、と結論付けて、二人は意外にいつもと変わらない一日を過ごした。

最終更新:2020年06月09日 17:38