『囚われた烏』

シーナはテーブルの上に置かれたシャンパングラスをそっと手に取った。
見ただけでわかる。フランスのある会社が作っている高級品だ。
その隣にあるシャンパンのボトルにはこれまた、品質と権威を示す良く知られたラベルが貼られている。
テーブルの上には他にみずみずしい果物が盛られたボールがあった。
珠のような露に濡れる果実も、多分滅多に見ることが出来ない上等なものなのだろう。

そもそも、今いるこの部屋自体もかなり豪華な、しかし落ち着いた場所だった。
定員は二名のはずだが、どう考えてもその十倍の人数で会議が出来そうな広さだ。しかもそれが二間。つまりスイートルームになっている。
うるさくない程度に主張する瀟洒な調度品。
そして、レースのカーテン越しに広がる夜景の大パノラマ。
まさにどこを切り取っても非の打ち所が無かった。

ここは国内一を誇るホテルの一室なのだから、この程度の風格があるのは当然だろう。
それはわかる。
しかし何故、自分はこんなところにいる?
一ヶ月前に罪が暴かれ拘留中の身である自分が、檻の中とはまるで正反対の別天地ようなこの場所に……。

「よぉ、シーナ。待たせたな」

自問自答していたシーナの思考は、良く通る低い声に中断された。
「これはどういうことだ。狼士龍」
部屋の戸口にもたれるように立つ狼に、シーナは視線と疑問を投げかける。
狼はいつもの、人を喰う様な笑みを浮かべてシーナを見つめた。
獣のような視線が遠慮なくシーナの身体に注がれているが、シーナは顔色一つ変えない。
一緒に捜査をしているときに幾度と無く見た、獲物を捕捉する目。
普通の者なら射抜かれただけで震え上がるほど、鋭くて熱い。
しかしその視線をしばらく受け止め続けていると、ふと、荒々しさが消えた。

「相変わらずポーカーフェイスだな。折角綺麗な格好してるんだから、もっと愛想良くすりゃあいいのによ」
戸口にもたれたままだった狼は部屋の中に足を進め、傍らの椅子に腰掛けた。
お互いの息遣いが聞こえそうなほど二人の距離が縮まる。
「その服、良く似合ってるぜ。選んだ甲斐があった」
狼はシーナの手をそっと取った。
身体に沿ったシンプルなワンピースが、胸と腰のラインの綺麗なところだけを拾ってくれている。


シーナが監視員に、拘留中の部屋から出るように言われたのは夕方だった。
聴取の要請が出ているので別の場所に移送すると言われた。
身体検査の際に別の服に着替えるように言われ、渡されたのが今身につけている服だった。
そもそも、自分が拘留されたのは一ヶ月前だ。大体の事情聴取は済んでいる。
夕方に急に呼び出されて聴取されるような事柄など本来ならもうないはずだ。
そこで少しおかしいと思ったが、所詮は囚われの身。
黙って言う通りにしていたら、最終的には黒塗りのリムジンに乗せられてここにつれてこられた。

シーナは自分の手を軽く握っている狼を振り払った。
「これは、ロウが仕組んだことなのか。何故私をこんなところに連れてきた。そしてなぜ、こんな対偶を……」
シーナに振り払われた狼は、片方だけ眉尻を下げ、困ったような顔をする。
狼とパートナーを組んでしばらくして、シーナは自分と雑談している狼のこんな表情に気付いた。
さらに、この子供のような表情を自分だけにしか見せない事にも気付いた。

「この部屋とかその服とか、気に入らねぇか? だったらもっと、良い物を用意するぜ」
「そういうことではない。私は、こんなもてなしをあなたから受ける理由がわからないと言っているのだ」
シーナは改めて部屋の中を見回した。
国際捜査官として赴いた地では、各国からそれなりの対偶は受けたが、今いるここはそのどれよりも豪華で高級だろう。
少なくとも、心から歓迎する者に対して尽くされる、最大級の厚意であることに間違いはない。
似つかわしくない。自分には。
自分は数え切れないほどの犯罪を重ねてきた。
どんなに言い訳をしてもそれは自分の保身のためだ。
そのために、初めから、目の前の男を裏切り続けていた。
「こんな場所に、私は場違いだ。だって私は……」

「シーナは、オレの部下だ」

シーナを遮ったのは、力強い断定の言葉だった。
言葉と態度に現れる、有無を言わせない雰囲気と威厳。
この男は無骨で粗野だが、何事にも負けないこの強さで部下を引っ張ることが出来る。
部下はみんな彼が大好きだった。
自分も時々偽りの身分と言うことを忘れ、彼を尊敬することさえあった……。
しかし所詮、偽りは偽り。
「私はあなたの部下ではない。一度は部下になったと言えなくもないが……。
少なくとも、犯罪が明らかになった時点で部下の資格などない」

シーナの言葉に、狼はまた、あの子供のような表情を浮かべた。
「……確かにな。シーナ、お前は今日付けで、国際捜査官の身分を剥奪された。つまり明日からはオレの部下ではなくなる」
「今日付け……明日から?」
「ああ。警察組織はお役所仕事みたいでな。物事を処理するのに時間がかかるんだ。
で、今日付けってことになった」
「……そうか」  
今日まで。
あと数時間で今日が終わる。
そうすれば、シーナは書類上でも狼の部下ではなくなり、残る肩書きは『ただの犯罪者』。

「でも、言い換えれば、今日まではお前はオレの部下だ」
残り数時間だけの上司が、シーナに微笑みかけた。
「だから、これはオレからお前への"お礼"ってやつだ。シーナには今まで一番世話をかけたからな」
「お礼……」
「まぁ一応立場があるからな。こういう場を設けるのは手間がかかったぜ。コネクションをフルに活用させてもらった。
あの検事さんも含めてな」
シャンパングラスに透き通った液体が注がれる。
狼はグラスの片割れをシーナのほうに差し出した。
液体の内部で、小さな泡が生まれては消えていく。

「短刀直入に言ったらどうだ、狼」
シーナはグラスを受け取る代わりに覚めた視線を返した。
「今日は事情聴取と聞いている。私から聞き出したいのだろう? 組織の内部事情を」
狼はかぶりを振って否定する。
「……シーナ、それは違うぜ。オレはただ……」
「何が違うの。こんな手の込んだ方法を取って私を油断させるつもりなんだろう。その手には乗らない。
カーネイジの逮捕で組織は大きく崩れたが、まだ残党がいると聞いている。
あなたは組織を根こそぎ壊滅したいんだろうが、私は何も喋るつもりはない」

そう。その手には乗らない。
目の前に差し出された甘い誘惑はただの罠。手を出したら最後。
今まで自分は、いつ誰に裏切られるかわからない世界で生きてきた。
裏切られる前に裏切って、身を守ってきた。それが生き残るたった一つの術だったから。

互いに見つめ合ったまま緊迫した時間だけが流れていく。
先に口火を切ったのはシーナだった。
「事情聴取は成立しない。帰らせてもらう。移送のための人員を呼べ」
シーナの言葉に、狼は動かなかった。
仕方なく、自ら人を呼ぶために備え付けの電話を探す。
いくら狼が用意した特別対偶といえど、フロントには警察の者が待機しているだろう。

「待てよ」

受話器を上げたシーナの腕を、狼が掴んで止めた。
「離して。何度も言うが、私はあなたに話すことなんてない」
「お前から話を聞きたいんじゃない。オレからお前に話すことがあるんだ」
「……何ですって?」
狼の言葉に少し驚いた。
その隙に、狼はシーナから受話器を取り上げて元の位置に戻す。
「あなたが私に、何の話があると言うの」
シーナは狼に改めて向き直った。
狼はシーナの視線を真っ直ぐ受け止める。


「単刀直入に言えといったな。シーナ。じゃあ言わせて貰うぜ。
オレはお前を、口説き落としにきた」

 全く予想だにしなかった言葉に、どこかへ置いてきたはずの表情が蘇るのを感じた。
それを押し留めながら、シーナは口を開く。
「何を言っているのかわからない……」

「わからなくていい。ただ言っておきたかっただけだ。
今までは部下として常に一緒にいたが、明日からはそうじゃなくなる。
一人の男としてオレはお前の側にいたい」

真っ直ぐ見つめられて、狼狽えた。
先ほどは何とか押し留めた感情が、今度は抑えられずに顔に出る。
「わかるか、シーナ。オレはお前が……」
狼の瞳に押し負けそうになり、シーナは首を横に振った。
「私がそんな陳腐な言葉を信じると思う? 
第一、仮に本当にあなたが私を愛しているというならそれこそ嘘だ。
私は組織の人間。人格を変え顔も変え、身を潜める。それがやり方。
あなたが私を愛しているといっても、それは『シーナ』としての私であって、本当の私ではない」

本当の自分が一体どんな人物だったのか。
そんなことはもうとっくに忘却の彼方だった。
最後に『本当の自分』として感情を出したのはいつ?
カズラもシーナも、他の人物も、それは全て偽者の私であって、私じゃない。 
本当の自分など、曝け出したところでどうなる。
犯罪に手を染め、いつ裏切るかわからない自分など、誰が受け入れてくれる……?

「本当のお前のことをオレは知らない。名前さえも知らない。
でも、だからなんだ?」
狼の手が肩に置かれた。
「え……?」

「オレはお前と組んでから毎日楽しかった。部下として、一人の女として失いたくないと思った。
あの時、バドウさんに撃たれそうになったときは代わりに死んでもいいと思った」

この男は、馬堂の銃弾から自分を守ってくれた。
自分はこの男を裏切ったのに、それが明らかになっているのに、それでも庇ってくれた。
当たり所が悪かったら死ぬかもしれなかったのに、この男は……。

自分はこの男を裏切った。それだけじゃない。
自分の感情さえ、ずっと裏切り続けてきた。
狼の側にいて、楽しかった。失いたくない日々だった。
しかし本心とは裏腹に、カーネイジの犯罪に加担して自らそれを手放してしまった。
本当は、本当は私は……。  

「『シーナ』が本当のお前じゃないって言うなら、これから本当のお前を見せてくれればいい」

ノースリーブの腕に暖かさを感じた。
遠慮がちに自分を包む、無骨な腕の感触。
「本当の私なんて、もう忘れてしまった……」
「なら、オレが探し当てて捕まえてやる」
「本当の私はあなたが考えているより、卑劣で愚かで愛するに値しない人間だ」
シーナは自分を優しく包む檻を解いて、窓際へ歩み寄った。
ガラスを覆っていた薄いレースの膜をそっと引くと、そこには夜景が広がっている。 

「あなたは本当に、間抜けな男だわ。こんなに警備が手薄なところに私を連れてくるなんて」
「そういやお前は"怪盗・ヤタガラス"だったな。空でも飛ぶか」
「そう。なんならこのガラスを叩き割って、下に飛び降りてでも逃げおおせる。そうしたらどうするつもりなの?」
眼科に広がる夜景を、窓ガラスに手を突いて覗き込んだ。
そのシーナの背後から、狼は彼女を閉じ込めるように包み込む。


「だったらオレも飛び降りるさ。お前がどこへ行っても必ず見つけ出して、捕まえてやる」


シーナの心に僅かに残っていた迷いの感情は、深い口付けとともにかき消えた。
唇を合わせながら、心の中で呪文のように同じ言葉を繰り替えしていた。

バカみたい。
バカみたいに強くて、優しくて、大きくて……間抜けな男……。  



****************

そっと抱えられて寝室へ運ばれた。
まぶたと頬に口付けを落とされながら、衣服を解かれる。
急いてどこかに引っ掛けることも、どこかを無理に押さえつけられるようなことも無く、所作の一つ一つがまるでガラス細工を扱うときのように優しかった。
「寒かったりしないか?」
露になった素肌に触れながら狼が聞いた。

「見かけによらず優しいのね」
「そりゃあそうさ。『女性はいつまでもお姫様ですよ』」
「本気で言ってたの、それ」
「オレはいつだって本気だぜ。特にお前の前ではな」

少しだけ不安だった。
今まで数多くの組織に潜入しては、いろいろな情報を盗んできた。
潜入した先で女の武器を使ったことだって何度もある。
そういう時、いちいち感じていては肝心の情報を聞き出せない。
そんなことを繰り返すうちに、肉体の反応を感情で押さえつけるのが癖になってしまっていた。
自分が穢れきって反応もしなくなった女だとわかったら、狼はどう思うだろうか……。

「どうした?」
狼は手を止めて、シーナを見下ろした。
「嫌なら今すぐやめるぜ。遠慮なく言えよ」

自分でベッドに運んでおいて、嫌がったらやめるという。
万が一「やっぱり嫌だ」と言ったら本当にやめてくれるのだろう。そして何事も無かったかのように笑ってくれるのだろう。 
いつだって彼は、本音しか言わない。本気で自分を守ってくれた。
最後の不安を、自分の身体とともに狼の胸の中に投げ出した。
「……嫌ではない。続けて」


素肌の上を優しく滑っていた狼の指が、胸の頂を捉える。
ゆっくりと確かめるように丹念に愛撫されると、やがてその部分は硬く感触を変えていった。
「もっと堪能してもいいか?」
シーナが頷くのを待ってから、狼は彩づいたそこを口に含む。
どの部位もそうだった。
丁寧に解きほぐし、シーナの了解を得てから攻める。
狼が触れた部位には、心地よい余韻が残り、紅い痕が散っていく。

脚を開かれ、その奥に指が伸びてくる。
不意にぴちゃっ、と水滴の爆ぜる音が響いた。
「……!!」
シーナは触れられて初めて、自分の局部が激しく濡れていることを自覚した。
思わず狼の手を掴んで止める。

今まで、何人もの男と感情を交えず寝てきた。
中にはそれなりの経験を積んだ者もいたが、決して心から感じることなんて無かった。
ましてや、心より先に身体が反応することなんて……。

「痛かったか?」 
腕をつかまれたままの狼が、シーナを見つめた。
掴んでいる腕の逞しさ、目の前の少し汗ばんだ熱い胸板。
それにまるで似合わない、優しいリード。
これから先、彼がもっと自分に踏み込んでくるところを想像すると、シーナは身体の火照りを感じた。
こんな感情はとっくの昔になくなってしまったと思っていた。自分がこんなに、何かを抑えられなくなるなんて……。

「続けるぞ」
狼は再びシーナへ指を伸ばす。 
「もうやめて……」
拒否の言葉に、狼はシーナを覗き込む。
「……何でだ。嫌か?」
「嫌じゃない。けど」
隅々まで触れられて反応を確かめられている手前、嫌とはいえなかった。
しかし、今までこんなことは無かった。このまま続けられたら……。
「意識がなくなりそう。……自分がどうなるかわからない」
「今頭で考えてることなんてみんな手放せばいいじゃねぇか。オレが抱いていてやるから安心しろ」
「でも」
「それにな……」
狼はシーナを抱く腕に力をこめた。

「そこまで煽られたら、いくらなんでももう無理だぜ」

十分に潤ったそこに熱いものが押し当てられ、筋に沿って擦られる。
それだけで身体に刺激が走ったように衝動が込み上げた。
「んっ……」
漏れ出す声を唇を噛み締めて耐える。
しかし開かれた場所が溢れるように濡れるのは防げなかった。
あてがわれたそれは熱さを増し、どちらのものともわからない液体で濡れそぼり、動かすたびに淫らな音を立てる。
「挿れてもいいか?」
聞かれたが応えられなかった。
落ちてくる唇を、ただ、目を閉じて受け止めた。

最初は静かに侵入してきて、そっと内部をかき回す。
熱く滾ったものがシーナの内壁を削るように擦る度に、唇から甘い声が漏れた。
その声と、指を噛んで耐えるシーナの恍惚の表情に、狼の理性も揺さぶられペースが増してゆく。

狼の行為は次第に荒々しくなっていったが、シーナはその中に何故か優しさを感じた。
押しつぶされそうなほど強く抱きすくめられても。身体の一番深いところを執拗に衝かれても。
それが激しければ激しいほど、身体の中から衝動が透明な液体になって溢れてくる。
自分の意思とは裏腹に、狼を受け入れている部位は彼を離すことを拒むように締まっていく。

耳朶を攻められてそこが自分の弱点だと気付いた。
背中に口付けを落とされてそこが感じるポイントだとわかった。
今まで背負っていた偽りの自分は解かされて流れて、残った濃い部分で一つに混ざり合っている。
そう思った。

次第に昇り詰めていって、不意に落ちるような感覚に誘われる。
上下左右もわからないまま薄れていく意識の中で、身体の中に注がれていく熱さだけをはっきりと感じ取る。
シーナは遠い昔に捨てた感情を取り戻した。
遠い遠い昔、一番最初に捨ててしまった感情。
――この腕に抱かれて、離さないでいてくれて、私はとても……。 

ベッドサイドのテーブルに、水の入ったグラスが置かれた。
「飲むか?」
狼はグラスを使わず、冷蔵庫から出したボトルに直接口をつけている。
シーナはゆっくり起き上がり、水を口に含んだ。 
「今日は事情聴取じゃねぇって言ったけど、一つだけ、訊いてもいいか?」
「何?」
「お前のこと、何て呼んだらいい。名前がわからないとさすがに困る」

既に日付が変わっていた。
昨日までは、隣にいる男の部下だった。
では、今日からは……。


「私はシーナよ。あなたに最初にそう呼ばれた、それが私の名前……」


答えを言い終わらないうちに、抱きすくめられた。
水の入っていたグラスが床に落ちる。

そのまま夜が明けるまで、何度も肌を重ね合った。
耳元で甘く囁かれる名前は心の奥底を掴み、逃れられそうにない。

『お前がどこへ行っても必ず見つけ出して、捕まえてやる』

文字通り、捉えられていた。
バカみたいに強くて、優しくて、大きい檻に。


何かに怯え、裏切り裏切られることしか知らない悲しいカラスは、もういない。


(終)

最終更新:2020年06月09日 17:34