御剣×冥④

時を同じく生きていても、隔てられた『場』は時として苦しめる。
寂しくとも、辛くとも…触れられずとも生きなければならない。

『彼女』は色あせず、『彼』は立ち止まらず。

-依存-

だるい……
目覚めて一番始めに思った事が、それだった。
外界はけたたましい車のクランクションで溢れ返り、下品な笑い声まで聞こえて来る。
眉をしかめながら、狩魔 冥は上体を起こした。
ここ最近、ずっとだるい。
体調的に言えば、何ら問題は無いのだが、何と言うか覇気が出て来ないのだ。
日本を去り、アメリカに戻った時から。
(今日の予定……)
ぼんやりとした頭で、冥は枕元に置いてあったスケジュール手帳に指を延ばした。
普段は長袖によって隠されてしまって見られない、白くしなやかな腕、これまた普段は
お世辞にも清楚さを感じさせるような物は無い黒の革手袋によって隠されていた細い指を、
シーツに這わせながら、冥は目的の手帳を手に取り、ぼんやりとその内容に目を通した。
タンクトップ姿の彼女はその無防備でしなやかな肢体を見せていた。
(……)
予定に目を通しながら、冥はうんざりしたように溜息を吐く。
毎日毎日、同じような事ばかり。
彼女がまだ日本に居た頃は、こんな事は無かったのに。
それは、あの騒がしい弁護士が居たから?
違う、絶対に違う。
冥は首を振りながらスケジュール帳を閉じ、洋服ダンスへと歩いた。
そして、今日着る服を手に取り、手早く着る。
彼女にとっては無駄に時間を浪費する事はそれこそ愚かであり、
一分一秒でも仕事に専念させていた。いや、仕事に専念する事で、
この正体不明のだるさをかき消そうと思っていたのかもしれない。

「………」
冥はちらり、と彼女のプライベートデスクの方に目をやる。
そこには一枚のカードが在った。
(・……成歩堂…龍一)
彼に勝った事は遂に無かった。
彼は裁判の結果でも、人間としても彼女の上を行っていた事を、痛感したのだから。
「…やっぱり、だるいわ」
そう呟きながら、冥はそのカードを手に取り、じっと見る。
サザエの絵に描かれた水性マジック(としておこう。どちらにせよ油性か水性かはさほど問題ではないのだから)の線。
そして、女性の書体でそこには『なるほどくん』と書かれている。
こんな絵を描く事が出来た人物は、ただ一人。
「綾里 真宵…」
ぽつり、と冥は呟いた。
彼女はどうやら自分と同じ歳らしいと言う事が分かった。そして、彼女はまた誘拐されたとも聞く。
それが本当だと言うのなら、彼女の芯の強さに敬服してしまうだろう、と冥は思った。
自分がもしも誘拐されて、殺されそうになっていたら?
恐らく彼女ほど冷静に居られなかっただろうし、絵を描くなんてもっての他だろう。
冥は、自身が弱い事をやっと理解した。いや、直面出来たと言っても良い。
今まで彼女は偉大な、脅威にも近い『狩魔 豪』言う、偶像を頼りに生きていたのだから。
それは、『依存』と言う形で彼女を支えていた。
だが、今の彼女は違う。
彼女はその『依存』から抜けたのだ。
『彼』のお陰で。
「レイジ…」
目を細め、少し心細そうに彼女はその名を呟いた。
彼は、アメリカへは付いて来なかった。当然だ。アメリカに進む事を選んだのは他でもない冥であって、
それに対して彼、御剣 伶侍は何の関わりも無いのだ。
(少しは……手紙や電話くらいくれたって良いじゃない)
すねたような表情で冥はプライベートデスクから目を逸らした。
普通ならこちらから電話を入れられるなら入れるのだろう、と彼女は思った。
だが、彼女がそうしないのには訳が在った。
御剣は、あの空港で、自分が今どんな立場に居るのかをあの後教えてくれた。
あの、思わず冥が泣いてしまったあの後。
彼はこれから諸外国を渡り、勉学に励む、と。
となると、住所は分からなくなってしまうのだ。
今彼が居る国さえ分かれば検事局に連絡でも入れるのだろうが、流石に公私を混合させる訳には行かない。
そして、彼の住所が分からないから電話も入れられない。
いや、携帯を彼は持っているはずだ。
が、プライドの高い冥は、どうしても自分から手紙を書いたり、電話を掛けたりする事を許さなかった。
冥はうんざりと首を横に振って雑念を払ってから、朝食の食パンに手を延ばした。

一体、自分はどうしてこんなに弱くなってしまったのであろうか。
『父』と言う依存できる物を失ってしまったからであろうか。
それとも……空港で御剣に出逢ってしまったから、であろうか。
どちらにせよ、以前は一人で過ごせていたアメリカ生活も心苦しく、そして耐える事にも
苦痛を感じてしまうほどの物となってしまっていた。
それが、誰かが傍に居れば何か気を紛らわせる事も出来ただろうが、あいにく彼女は家からも独立し、
一人暮らしをすると言う道を選んだのだ。
それを、今更「寂しいから話を聞いて」何て言うのは気が引けた。
だから、彼女は仕事を選んだ。
仕事量で、公務員は給料が増える訳ではない。
だが、彼女は何とかして気を紛らわせたかった。だから、以前は時間の浪費と言って、
しなければならなかった場合以外はしなかった残業もするし、進んで審理も受け持った。
それが逃げだと言う事は、冥自身にも分かっていた。
けれど、すがり付く事が出来ない今、何か他の物に逃げなければ、きっと自分は何も出来なくなってしまう。
冥はそれを恐れ、ひたすらに仕事に集中した。
「Mei, What's the matter with you recently? You seem to work very hard.」(最近どうしたの、メイ? あなた少し仕事しすぎじゃない?)
「……Not at all. I only want to do my business work.」(別に。ただ仕事がしたいだけよ)
「mmm…It might be a lady to live solely for working?」(んー、仕事に生きる女、って事?)
「Yes」(そうね)
同僚の言葉にさらりと答え、冥はデスクに顔を向けた。
そこには大量の書類、そして冥の所持品が在った。
この大量の書類も、気を紛らわせるために処理をする冥にとっては数日も掛からないような仕事ばかりであった。
「バカね、本当に」
ぽつり、と冥は呟き、デスクの上に置いてあった自分の所持品の内、鏡を手に取って、そこに映る顔を見た。
疲れたような表情。
毎日をほぼ無駄に生きてますといわんばかりに、その瞳は疲れの色を隠さずに居た。
「どうして私は…こんなにも情けない顔をしなければならないの?」
冥にしては珍しく弱気な発言であった。だが、それを聞けた人物は恐らく冥以外には居ないだろう。
本当に独り言のようにぽつりと言っただけなのであるから。
それから彼女は机の上に乗った書類に手を延ばした。
「Hey. A fiend for work,Miss.Karuma.」(やあ、必殺仕事人)
「I don't like that name. Stop your calling.」(その呼び方止めなさい)
同僚に茶化され、冥はムッとしながら答える。それを見て同僚は苦笑する。
「Sorry, sorry. Please not to anger so.」(いやあ、ごめんごめん。そう怒るなよ)
肩をすくめながら同僚が冥の表情を伺う。
アメリカ人は日本人と違って率直な意見を言い合うのだ。だからこそこう言う冗談混じりの会話も出来る訳で。
「It might increase a wrinkle if you devoted all your energy to.」(あんまり根を詰めると、シワが増えるぞ)
「Leave me alone. 」(うるさいわね、自分の仕事でもしたら?)
同僚に半ば皮肉混じりに笑ってやると、同僚は声を立てて笑った。
「Miss. Karuma. You have changed a lot. Had you worked so greedy?」(随分と変わったな、狩魔検事。そんなにがっつくほど仕事をしてたか?)
曖昧に肩をすくめると、同僚も流石に心配そうな表情になる。
その表情を見て、冥は手をヒラヒラと振る。
「Don't mind. I feel not to be bad occasionally.」(気にしないで。たまにはこう言うのも悪くない)
そう言った時、冥は検事局長に呼ばれた。思わず顔を上げ、同僚と顔を見合わせる。
「Our Attorney General seems to be anxious too.」(検事総長も心配の様子だな)
「Nonsense.」(バカね)
フッと軽く笑ってから、冥はデスクを立ち、総長室へと向かった。

…部屋に入って来た冥の姿を見てから、検事総長は深い溜息を吐いた。
「When have you became thin,Miss Karuma?」(狩魔検事。何時からそんなにやつれたのかな?)
「No problem,sir. And what is my task?」(ご心配無く、総長。それより話とは?)
「I take you the plan that you should go to Japan.」(実はとある理由から君に日本に行くように向かって欲しい)
「To Japan?」(日本へ?)
いぶかしげな顔を擦ると、総長は手続きの書類を冥に見せた。
「Perhaps there is less the people why you are called.」(君が日本に呼ばれるとは…大した人材不足なのだろう)
総長はそう言ってから、「And finish.」(以上だ)と言って冥を部屋から出した。
冥は書類に目を通しながら、難しい顔をする
「? 弁護士欄が空白じゃない」
空白になった弁護士の欄を見ながら、冥はそんな事を呟いた。
弁護士欄の埋まっていない書類を見るのは初めてだった。だが、国選弁護人も居るはずだし、別に気にしなくても
良いと冥は思った。大体、あの何でも在りのあの国の事だ。こうした書類もアリかも知れない。
だがしかし、もう少し何とかならないだろうか。幾らいい加減な国とは言え、国選弁護人の受け手も無いのに
検事だけを、しかも外国から呼ぶなどとは。非常識にも程が在ると言える。
冥は自分のデスクに戻り、はー、と溜息を吐いていた。
日本に渡る手続きをしなければならない。面倒臭いが、仕方の無い事である。
「……日本に今更行っても…」
冥はうつぶせになる。
(今更、行っても…レイジは居ない……)
彼は、諸外国を渡り歩く男なのだから。
冥はうんざりしながらしばらくの間デスクにその身を預けていた。
やはり、だるかった……

日本に着いた冥は、何処か一種の思慕を抱きながら約一年ぶりの日本の光景を楽しんだ。
楽しむ暇が無い事くらいは分かっているものの、自分が自分として立つ事が出来たこの国を、
いとおしく思わずには居られなかった。
(そう言えば、この時期にレイジも日本に帰っていたのよね…)
一年前の、自分が受け損ねたあの事件。あの事件も、そう言えばこれくらいの気候であった。
ただ違う所と言えば、その事件は3月で、今は2月だと言う事だ。
「……」
立ち直って、新たに歩き始めた自分の姿を、見て欲しかった。
特に、見知った顔が居るこの国では。他の誰よりも、御剣に冥は自分の姿を見て欲しかった。
心配しなくても、もう一人でやって行ける、と。
プルルルル……プルルルル……
突然、電話が鳴った。冥は顔を上げ、携帯を取り出す。
そして、画面を見て目を見開いた。
急いで冥は通話ボタンを押す。
「……」
声が出て来ない。
『ム……もしもし…?』
電話の向こうから、男性の声がした。それは、画面に移った物と同じ名を持つ男の声。
「…レイ、ジ?」
『もしもし、メイか?』
一瞬、めまいがした。
この電話の向こう側に、あの男が居る。
「何よ、何か用でも在ると言うの?」
こっちには何も無いわ、とそう冷たく言って、冥は電話を切ろうとした。
『待て。用事が在る人間に対して、一方的過ぎではないだろうか、メイ?』
「私は色々と周らなくちゃならないの。暇人のあなたと違って。そうでしょう、ミツルギ レイジ?」
皮肉を交えて電話の向こう側の人物……御剣 伶侍にそう言うと、
『暇人か、そうだったら良かったな』と向こうで苦笑する御剣の声が聞こえた。

「それで? 用事は何よ?」
『ム? 色々と周らなければならないのではないか?』
「ついでだから聞いてやるって言ってるのよ」
精一杯虚勢を張って言ってやると、電話の向こう側で御剣が「フッ……」と笑うのが聞こえた。
かなり癪に触ったが、こんな所で小さないざこざを初めても、互いにメリットが無い事くらい分かっていた冥は、
言おうと思っていた文句を喉の奥に押し留めた。
『今、キミは日本に来ている、そうだな?』
「そうよ。人材不足の日本が検事要請の書類を送って来たの」
『そうか、人材不足、か』
心無しか笑いを堪えているような声である。冥は眉をしかめた。
『泊まる場所は確保してあるのか?』
「まだよ。ビジネスホテルでも取ろうかと思っているけど」
『その事だがな、メイ……』
御剣が少しそこで言葉に詰まる。だが、それもたった一瞬の事であった。
『メイがもし良ければだが……私の家に寝泊まりしても良いと思っているのだが』
「……」
一瞬、携帯を投げ捨てようかと思った。
誰が、誰の家に、何をすると?
『いや、メイが嫌ならば、別に良いのだが』
その沈黙を拒否と取ったのだろう、焦った御剣が慌ててフォローを入れる。
「別に、嫌とは言ってないでしょう!」
そのフォローについ反射的に冥が叫ぶ。
少し言ってから冥は焦ったが、ここで平常芯を取り戻さなければ、どんどん自分のペースを失ってしまう。
「どうせ、空家同然なんでしょ? レイジも居ない訳だし。丁度良いわ」
『ム……』
「嫌だと言うと思った?」
『思った。少々』
「バカね、本当に」
あなたも、私も。
口に出さず、冥は唇を動かした。
「所で、私がもしも嫌だと言ったらどうしてたの?」
『別に……キミが嫌ならば仕方ない。いや、だが……』
「何よ」
『嫌よ嫌よも好きの内、とは良く言うからな』
何よそれ! と言ってから、冥は一方的に電話を切った。
『好き』。
ただその一言を、単語だけでは何でも無い言葉を、御剣が言った。
茶化しながらでは在るけれど、間違い無く冥に対して。
それが例え、冥に直接降り掛かる言葉でなくても。
後から頬が紅潮する。
「バ、バカはバカな考えにバカのバカらしさを知った方が良いみたいね!」
御剣のわりと呑気な口調を思い出し、冥は頭を激しく振った。
それからまた、黙ってしまう。
(……レイジが今何処に居るのか、聞くの忘れたわ…)
まあ、良いか。冥はそう思った。
どうせ外国から通話をしたに違いない。
そう冥は決め付けて、御剣が住んでいた家へと向かった。

……検事局の手続きだの何だのが在ったで、御剣の家に冥が着いたのは、もう日が暮れた時刻であった。
冥は荷物の中から御剣の家の鍵を取り出す。
実はあの空港で、御剣は冥に自宅の鍵を手渡していたのだ。
-私は諸外国をこれからも渡り歩く-
-その時に……私が鍵を万が一落としてしまったら、自宅に二度と戻れない-
-だがメイ、キミはアメリカに滞在している-
-だから、この鍵はキミに持っていて欲しい-
-万一キミが日本に行く事になった時に、無駄な金を使いたくないだろう-
-それに……-
そう言って、彼が少し照れて目を逸らした、あの表情を忘れない。
-私が日本に帰る事になった時に……少しでもキミに逢えるように…持っていて欲しい-
(バカ、バカなんだから、本当にっ!)
思い出すだけで、冥は顔が熱くなるのが分かった。
実を言うと御剣から電話を貰うまでは、今まですっかり御剣から鍵を預かっている事など忘れてしまっていたのだ。
鍵と、ドアノブ部分の金属の擦れる音が響く。
乾いた音を立てて、掛けられていた鍵はあっさりと解かれた。
その手で、開ける事は恐らく無かったであろうと思っていた、御剣の家の扉を開いた。
冥はスーツケースを抱え、家に上がった。
さて、これから夕食の買い物に行かなければならない。
急ぎの用であったので、スーツケースを持ったまま検事局には行ったが、
流石にコンビニやスーパーにまでスーツケースを転がしながら歩く勇気は持てない。
(……何、この匂い?)
冥は眉をしかめ、鼻孔をくすぐる香りをしばし探求した。
どうやら食物の香りらしい。しかも、それが腐敗しているような香りではない。
スーツケースを置いたまま、冥は内部へと侵入する。

ある扉で、冥は立ち止まった。
(この部屋から、ね)
意を決して冥はその扉を開いた。
途端、ふわっと調理された物の良い香りが広がった。
だが、それに酔いしれる前に、冥は愕然としていた。
男性の後ろ姿が、その部屋に在った。
背は170センチ台。
がっしりとした肩幅。
「レイジッ!?」
冥が思わずその後ろ姿にすがり寄った。
「メイか?」
だが。
振り返ったその男性の、あまりにも似つかわしくない姿に、思わず冥はうろたえてしまったのだ。
エプロン。
切れ長の、伶利そうな瞳を持ち、顔も整った、そして極め付けは、数年前までは鬼検事と呼ばれていた男が。
調理の為によれよれになって汚れてしまった、元・純白の(しかし真中にクマのアップリケが付いている)
エプロンを着ているのだ。
「随分と早く着いたものだな」
しれっと言う御剣の足元に、牽制の鞭が叩き付けられていた。
……
「大体どうしてあなたがここに居るのよ!」
諸外国を渡り歩いているはずじゃなかったの!? と半ばヒステリックに叫ぶ冥に、御剣は「フッ…」と笑った。
「いや、誰もたった一つの鍵を預ける訳が無いだろう。合鍵だ、合鍵」
「そ、そう言う事を言ってる訳じゃないのよ! どうしてあなたがここに……」
「自分でも中々の出来だと思うのだが。このちらし寿司」
「そうね、あなたにしては中々…って、違う!」
「錦糸卵には一苦労したが」
「薄く焼かなくちゃならないからそれはそうで…話を聞きなさいって!」
「まずは食べた方が良いのではないか? 箸が泳いでる」
「~~~っ!」
冥の空腹を察知したのか、御剣はそんな事を言いながら目の前に広がるちらし寿司に箸を入れる。
「……で、何でちらし寿司なのよ。一人身のクセに」
「ム……?」
御剣はきょとんとした顔になった。
「それは勿論、メイが日本に来るからに決まっているだろう」
「私がレイジの家に泊まる気が無かったらどうするつもりだったのよ」
「だがキミは来た」
「結果的にでしょう! それに、まだ質問に答えて貰ってないわ。どうしてあなたが日本に居るのよ!」
苛立ちながら言う冥の姿を見て、御剣は思わず吹き出す。
「やれやれ……キミはちっとも変わっていない」
「なっ…!」
「そうした口うるささだけは相変わらずだな、メイ」
「う、うるさい! 私が変わったか変わらないかは……」
「日本に居た理由、聞きたくないのか?」
御剣の言葉に冥は思わず箸を折ろうかと思った。
(全然人の話を聞かないんだから!)
唇を噛みしめながら、冥は御剣の事を睨んだ。
「実はとんでもない厄介な男に呼ばれてな。急遽この日本に来る事になった。私も今日着いて色々していた次第だ」
「へえ。私と同じね。人材不足の検事局まで行って、明日の裁判の手続きまでしたのよ」
「ほう」
随分と面白そうに御剣は感嘆の声を上げる。
「信じられる? 明日の裁判よ? まあ、時差が在ったし、ジェット機をチャーターして来たから
まだ余裕を持って来たけど」
そう言って、冥は肩をすくめる。
「本当に驚いたわよ。向こうで書類を受け取った時、受け取った日付の翌日に日本で裁判って在るんだもの。
時差の事をすっかり忘れて大慌てしたわよ」
「そうだな。出したのは昨日の夜だからな」
「……何の話よ?」
「いや、こちらの話だ」
そう言って、彼はちらし寿司を頬張った。

何だかんだと言っておきながら、結局冥は御剣の家に滞在する事にしたのは変わらなかった。
大位置、彼と冥は好敵手として、姉弟同然にそだったのだから。今更、とやかく言うような意識は無い。
表向きは、ではあるが。
ただ、ちょっとした気の回しは彼もするもので、家事などは気にしなくても良いとか、風呂は出来ているとか
(要するに、先に入浴するように、と言う事なのだ)、そうした気の使われ方をされるたび、
彼の優しさに従いながらも何処かで不満を感じていた。
(どうして気を使うのかしら?)
脱衣所で服を脱ぎながら、冥はそんな事を思う。
こんなバカ丁寧な関係なのであろうか。自分達の関係とは。もっと……
(『もっと』何よ! 私のバカ!!)
思わず冥は頭から雑念を払うべく、首を横に振った。
そして、そのまま冥の身体の秘めた部分を隠していたその下着を脱ぎ捨てた。
それから、まじまじと自分の身体を見詰めた。
白い肌に、二つの胸の膨らみ。恐らく、体型を考えれば並、いや人並み以上には在るのではないだろうか。
きゅっと引き締まったウエストが、ふくよかなその胸を支え、なおかつヒップとのバランスも保っている。
すらりと伸びた、必要な筋肉を残しながらも、贅肉などの無駄の無い足。
その足で、冥は浴室へと入る。
身を包む濃い湯気が、冥の肌をじっとりと濡らして行く。
冥は切な気にその湯気をまとわせながら、湯舟から湯を掬い、自身に振り掛けた。
熱い湯が、この寒い季節には心地好い。
心身の冷たさが一気にほぐれて行くのを、冥は感じていた。

何時の間にか、ここ最近感じていただるさも無くなっている。
だが代わりに、どうしようもない苛立ちを感じていた。
冥は黙って洗う作業に入る。
そのつややかな髪を、身体を。
そして、洗われた物は全て、後に掛けられた湯によって流されて行った。
「……」
冥はそっともう一度、自身の身体を見詰める。
湯を被り、その柔らかな肌は、てらてらと輝いていた。
思わず自分でもぞくりとするのは、自身を自分の目で犯しているからであろうか。
その輝きを消すため、冥は浴槽の中に入った。
(…この姿を見ても、レイジは何もしないのかしら)
ぼんやりとそんな事を思ってから、はっとする。
「バカみたい…何でそこでレイジが何かするかを考えなくちゃならないのよ」
馬鹿馬鹿しい、と思いながら、冥は上気したまま湯に顔を付け、湯から顔を出すとふるふると振った。
そして、何気なく自分の鎖骨から下部を見詰めた。
白い肌に、起伏が見える。その上半身の膨らみの先端には浮き上がっているような薄桃色。
その色の中心部を、冥はそっと指で撫ぜる。
すると、そこはにわかに膨らみ、堅いしこりとなって指に形を伝える。
「ふ……ぁ、うっ…」
先端を指先でいじりながら、冥はあえぎ、ふう、と熱い吐息を吐いた。
どうしようもなく身体が熱い。
「ぁ…ん……はァッ………」
これはきっと、湯のせいだと冥は何とかそう思いながら、それでも自身の身体に指を這わせた。
指先は、胸元から腹部へと移動する。
「……ン…ぅっ」
そのぎこちない動きに、思わず冥は微かにあえぎ続ける。
何故、突然こんな事をしてしまっているのか。冥はぼんやりとそんな事を思いながら指を動かし続けた。
その腹部に在った指先が、下腹部へと移動した時。
「メイ、ここにタオルを置いておくぞ」
「っ!!」
脱衣所から御剣の声が響いた。思わず冥は息を呑み、びくりと身体を震わせた。
「……メイ?」
「あ、その……良いわよ、何処だって!」
再度御剣に呼ばれ、冥は思わず声を張り上げた。
何たる痴態だ。人様の家で、その……自身の慰みを行おうとするなど。
一方声を張り上げられた御剣はしばし驚き黙っていたが、やがて「ム……そうか」と言って出て行った。
冥がそろそろと脱衣所を覗き込むと、そこにはバスタオルとバスローブが残されていた。
彼なりの気の使い方だったのだろうが、逆に冥は顔を青くする。
(もしかして、今の……聞かれた!?)
自分としては声を抑えていた。いやそもそも他人の家でそうした行為を行う事がまず常識に
のっとって考えればおかしいのでは在るが。
だがそれを抜きにしても、今の行為を冥は御剣にだけは聞かれたくなかったのだ。
何故かは自分にも分からない。
ただ、御剣に聞かれてしまったのかと思うと、嫌な冷や汗が流れるのと、それに相対して
身体中が熱くなる感覚がするのだ。
(バカッ、バカバカッ! こ、こんな所で…っ)
今でも思い出すだけで恥ずかしい。何故、あんな痴態を晒してしまったのか。
もし聞かれていて、軽蔑でもされていたら?
(そんなの、絶対イヤッ!)
ぶんぶんと冥は顔を左右に振る。水気を含んだ髪が遠心力で振り払われては肌にべっとりと付き、
振られた拍子に水滴がぱたたっ、と浴室の床に音を立てて落ちる。
「………最悪」
冥は呟き、浴槽内につっ伏した。
恥ずかしくて死にそうであった

風呂から出た後、少々風に当たってから、冥は御剣の家のベッドの一つに寝転がる。
どうも調子が出ない。
アメリカに居た頃はだるかったが、それでも自分なりの調子は出していた。
それなのに、日本に来てから何かがおかしい。全ておかしいと言っても良い。
「……」
極め付けは、やはり浴槽での出来事だろう。あれを聞かれたにしろ、聞かれなかったにしろ、
今の冥にとっては致命的な出来事であった。
全てが嫌になり、冥は顔を枕に埋め、溜息を吐いた。
「嫌いよ……本当に」
うんざりしながら、冥はそんな事を一人呟く。
今の冥にとっては自分が嫌いだった。
有り得ない醜態をことごとく晒け出し、自分なりのペースすら出せずに居る。
「レイジ……」
こんなにかき乱されるのも、きっと彼のせいだと、冥は思った。
事実、御剣に逢ってから調子が狂いっぱなしなのだから。
こつ、こつ。
「メイ、起きてるか?」
「きゃあっ!」
いきなり扉をノックする音と御剣の声が聞こえ、冥は叫んだ。その悲鳴にたじろいだらしい。
回り掛けていたドアノブが、かちゃり、と元に戻された。
「あ、開けるのをためらわなくたって良いわよ、別に!」
冥が焦ってそう言うと、ドアが開かれた。
そこには、相変わらずの仏頂面が在った。
「何よ。レイジ」
「いや……その、何だ…キミがもしも良ければ…」
「嫌よ」
きっぱり言ってやると、御剣は絶句してしまった。
心無しか、その瞳には寂しさをたたえているような気がする。
その反応を楽しんでから、冥は肩をすくめる。
「冗談よ。むげに断る訳無いでしょう。弟弟子の言う事を」
「ム……」
少し不満気な、それでも少し嬉しそうな声を上げる。
「で、何の用?」
「その……ええと、そうだな…」
御剣は少し微妙な表情をする。その表情は、「非常に言いにくいのだが」と言う言葉の現れである。
「言わないでうじうじされるのは迷惑だわ」
「そうか…」
冥の言葉に、御剣はうなずいた。
「その、今日はキミと一緒に寝ても良いだ…うおっ!」
御剣の言葉が終わる前に、冥の鞭が唸っていた。間一髪の所で御剣は避ける。
「危ないではないか」
「狙ったんだから当然でしょう!」
「故意にしたと言うのか?」
「それ以外にどう言えると?」
「ジョークかと」
「良いわよ、ジョークでも」
「いや、でもまあこちらが危害を加えられた訳だから、ジョークでは済まないな」
「危害を加えて何が悪いと言うの?」
「何が悪いも何も、暴力は良くない事だぞ」
「フン、偽善的な事を言う内は、まだまだ甘いわ」
「いや、これは法で定められた事であってだな」
「知らないわよ、そんな事」
「ほう、検事のキミがそんな事を言うとは」
「違うわ、あなたの言い分なんか知った事は無い、と言ってるの」
「鞭を振るったのは事実だろう」
「あなたが変な事を言うからよ!」
「私は別に、変な事を言った覚えは無い」
「とんだお気落者ね。だから私の鞭がうなるのよ!」
「暴行罪で訴えるぞ」
「公然猥褻罪で起訴するわよ」
「何故だ」
「分からない!?」
「うム。何とも」
「………呆れた。それは気の悪いジョーク? それとも本気?」
「私は何時でも本気だが」
「タチが悪いっ!」
また再び冥の鞭がしなやかに動いたが、やはりそれを御剣は避ける。
「訴えるならそれなりの理由を聞かせて貰おうか。検事たる物、根拠無しには起訴出来ないからな」
「それは……ッ」

冥はその理由を言うのをはばかれた。
彼の言った言葉は、冥にとっては、暗に『一夜を共に過ごそう』と言われていると認識された物である。
厳密に言えば、公然猥褻罪は猥褻な行為を行った事により成立する罪刑であり、
御剣はそうした行為を行った訳ではない。また、言動だけを取って『猥褻物頒布等罪』と見なそうとしても、
それは悪戯に性欲を興奮・刺激させ、一般人の正常な性的羞恥芯を害し、善良な性的道義観念に反する物にしか
適応出来ない。
御剣の言葉は、その条件に達してなどいないのだ。
「……」
黙っているのを降参と取ったのだろう。御剣はふふんと鼻を鳴らした。
「言いがかりで起訴をされては堪らないな」
「……っ!」
悔しさに、思わず冥は唇を噛み締める。
「それで、どうしてメイは私の発言に鞭など振るったのだろうか?」
「それは、レイジがっ!」
そこまで言って、冥はぐったりとなる。
駄目だ。この男には常識(?)は通じない。
「今度から、女性に対しての言葉をもう少し勉強する事ね」
「? 何故だ?」
「良いからっ!」
ぺっと言ってやると、流石の御剣も「ムぅ…」と唸り、しょんぼりとなった。
「で、どうして私と一緒に…その……寝るなんて言うのよ」
「その……恥ずかしい事なのだが」
そう言って、彼は苦い表情をしながら頬を軽く掻く。
「電球が切れてしまっていてな。電球の替えが無い」
「だったら部屋の明かりを全部消せば良いじゃない」
冥が言ってやると、「そうできたらどれだけ良いか…」と、ぽつりと御剣が言った。
「どう言う事よ?」
少し気になって、冥はベッドに腰かけるように御剣に言った。
言われるままに、御剣はベッドの淵に腰かける。
「……その」
重々しく、御剣が口を開いた。
「………怖い、と言った方が良いのだろうか」
「え?」
およそ似つかわしくない言葉に、冥は目を丸くする。
「暗闇が怖い、って言う事?」
「そう、だな」
御剣はうなずき、ふぅ、と溜息を吐いた。
「十数年前の、あの事件を知っているな?」
「……当然でしょ」
御剣はその事件の被害者であるのだから。そして、冥にとって、関わりが無いとは
言い切れない事件であったから。
「あの事件で……私は、明かり一つ無い暗闇が怖いのだ」
「!」
「いや、勿論地震の時のような、ガクガク震えて身動き出来ないと言うほどではなく、
微かに身震いする程度の、そんな恐怖心だ」
そうだな、お化け屋敷に入った者の気分か、と自嘲気味に御剣が言った。
「だから、出来る事なら私は豆電球を点けたまま寝たいのだが…私が寝る部屋は
切れてしまっていたのだ」
寝室は他に無いのだ。そう言って、しょんぼりとしている御剣の姿を見て、冥は微かに微笑んだ。
そんな気がした。
「そう言う事は先に言いなさい。全く」
溜息混じりにそう言ってから、冥は布団の中に潜り込んだ。

最終更新:2006年12月13日 08:29