御剣×冥(6)


金糸鳥(カナリア)事件

「じゃあ、今日はお疲れ様ー」
 吐麗美庵から出てきた面々は口々に別れの言葉を交わしながら、幾度となく頭を下げている。冥はそれをぼんやりと遠巻きに見ていた。
 最後の裁判、成歩堂弁護士の勝訴祝い。冥はその明るい面子の輪に
最後まで馴染むことが出来ないまま、今も輪から外れ、ワインで火照った頬を冬の外気で冷まそうとしていた。
 ただ突っ立っているだけの冥に最初に気づいたのは、綾里真宵だった。
「冥さんも、お疲れ様!」
「あ? ええ……」
 真宵が人懐っこい笑顔を浮かべて、冥の側へ寄ってくる。
 その背後には――成歩堂龍一。
「冥さんは私を助けるためにからくり錠と格闘してくれてたんだよね、なるほどくん」
「うん、そうだな」
「昨日の敵は今日の友ってヤツだねぇ。冥さん、本当にありがとう!」
「わ、私は別に、検察の捜査に協力しただけよ」
 深々と頭を下げられて、冥は何だか照れ臭くなる。
 本当はあってはならないことなんだわ。検察と弁護士が協力するなんて。
 気まずくて、視線を泳がしていると、
「僕からも改めて礼を言うよ。ありがとう、狩魔検事」
 その男と目があった。
 成歩堂は屈託のない微笑を浮かべながら、冥に片手を出してくる。
「何よ、その手は」
「握手ぐらいしておこうかと思って。君とは色々あったけど、上手くやっていけるならその方がいいからね」
「調子に乗るんじゃ……」
 得意の鞭で不埒な掌に制裁を与えようとしたその時。
「人の好意は素直に受けておけ、狩魔冥」
 いつの間にか側に立っていた御剣怜侍が、冥の手と成歩堂の手を掴んだ。
抗議しようとする冥をよそに、二人の手を強引に重ね合わせる。成歩堂の大きな掌が、手袋越しにもわかる冥の華奢な指を掴んだ。
「こういう女なんだ、今はこれで許してやってくれ。成歩堂」
「な、何よ! あなたに言われる筋合いは……あなたも離しなさいよ、成歩堂龍一!」
 冥は振り解こうとするも、一回り大きな成歩堂の手は冥の手をすっぽりと包んでしまっている。
「まぁまぁまぁ」
「……あなた、酔ってるわね」
「まぁまぁまぁ」
「酔ってるな、成歩堂」
「……最悪だわ、こんな……」


 納得いかないまま初めて触れられた成歩堂の手は、とても温かった。まるで、父親の様な――。
 いけない。冥は頭を振る。
 もうあの人はいないのだ。それをちゃんと理解しなければいけない。私のためにも。まして、この男にあの人の面影を求めるなんて、惨め過ぎる。
「じゃあ、電車も無くなっちゃうしそろそろ帰らないと、真宵ちゃん」
 言いながら、成歩堂の手が離される。人肌から離れた右手は妙に寒いと冥は思った。
 そうだ、わかっている。
 冥は心の中で呟いた。
 わかっている。この男には、既に大事な存在がいるという事ぐらい。
「また一緒にご飯食べましょうね、御剣検事!」
 真宵が朗らかに言う。
「ああ……しかし、店は変えて貰いたいな」
「お前はこれからどうするんだ、御剣」
「私か? 私は……」
 チラリと盗み見るように、御剣の視線が冥へ向けられた。一瞬、その物言いたげな目と目が合う。
「このじゃじゃ馬を送ってから、自分のホテルに戻るとしよう」
「は!?」
 思わず大きな声で冥は聞き返してしまった。
「どうして私があなたに送り届けてもらわなきゃいけないのよ! 大体、方向が全然別じゃない!」
「という訳で、今日は楽しかった。ありがとう成歩堂」
「うん、僕もだ。気をつけて帰れよ」
「無視するんじゃないッ!」
「はみちゃーん、帰るよー」

 既に人気の無い道の端を、御剣と冥の二人はゆっくりと歩いていた。
明らかに歩幅は御剣の方が大きく歩くのも速い筈なのに、彼は冥の前へ出ようとしない。
ボディガードのつもりなのかしら。冥は一人歯噛みした。
 冥は彼のこういう所が好きになれない。昔から、彼は冥を子供扱いする。実際7つも年下の娘など
26歳になる彼からしてみれば子供同然なのだろうが、そんな扱いを自尊心の高い冥が許す筈も無い。


「遠慮せずに横に立ったらどう?」
 苛立ちを込めて冥は言った。
「気にするな」
「するわよ」
「苛立っているようだな」
「あなたが私を送っていくなんて言い出すからよ」
 冥は言いながら、密かに自嘲した。違う。苛立ちの理由はもっと他にあるくせに。
「成歩堂か」
 思わず足が止まった。
 その思いがけない名前を、思いがけない人物の口から、このタイミングで聞くことになるなんて。
 冥は振り返ると、見開いた目を御剣へ向けた。御剣は普段通り、嫌味なぐらい冷静な目でこちらを見返している。
「何であなたが……、いえ、どうして……」
「――好きなのだろう?」
 羞恥と怒りで冥の顔が赤く染まる。
 あまりのことに身体が強張り、鞭を振るうことさえ出来なかった。

 **

 ――姉さまの小鳥が逃げた……大切なカナリアが……

「私じゃないわ!」
「アリバイが無いのはお前だけだ、メイ」
「あ、ありばい……?」
「不在証明……事件が起きたと推定される時間内に、事件現場にはいなかったという照明の事だ。
恐らくカナリアが逃がされたのは最後に餌をやった午後1時から、いなくなったところを発見される
午後2時までの1時間。お前以外家にいた人間には全員アリバイがある」
「自分のお部屋で勉強してたわ! お部屋から外には出てない!」
「それを証明出来る人物はいるか? 証人は?」
「そんな……そんなの……いない……」

 ――パパ……怖い……どうして? 私のパパなのに……


「い、犬よ! リュウがやったんだわ!」
「犬がこんなに器用に鳥籠の扉を開けられるか?」
「で……でも……だって、私じゃないもの……、私じゃ……」
「疑わしき者を罰せよ。――それが検事の宿命なのだ。メイ」
「パパ……」
「メイ、両手を前に出しなさい」
「…………」
「怜侍」
「……はい」
「この鞭でメイを打つんだ」

 ――私のパパなのに……パパは……

「私が?」
「お前はまだ被疑者への冷徹さが足りん。この狩魔の技術を全て学びたいのなら、一刻も早く狩魔の精神を
その身で覚えるべきだ。……今ここで、メイを打て」
「…………」
「…………」
「……はい」
「……レイ……」

 ――パパは……私よりもレイの方が大切なの……?

 **

「着いて来ないでよ」
 うつむいたまま、冥は自分の中にわずかに生き残る気丈な部分をフルにして、まだ背後に着いて来る御剣へ語気を強めて言った。
「下を見ながら歩くと危ないぞ」
「顔なんて上げられる訳、ないじゃない!」
 本当ならば走り出したいところだ。走ってホテルへ駆け込んで、自室に鍵をかけて閉じこもっていたい。
 迂闊だった。見透かされていたなんて。しかもよりによってこの男に。
 どうして気づかれたのか。自分の態度に何か不自然なものがあったのだろうか。
 まさか、彼も気づいているのだろうか? この私の無様な横恋慕に。


「きゃっ――」
「!」
 アスファルトの凹凸にヒールが引っ掛かり横転しそうになった所に、御剣の腕が素早く伸びて抱えられる。
「だから言っただろう、闇雲に歩いていると危ないと……」
「うるさい! 離して!」
 力を込めて、密着してしまった御剣の身体を突き飛ばす。しかし御剣の体躯に対して
その力は逆に自分への衝撃にしかならず、反動で冥は勢いよく尻餅を突いてしまった。
「あうっ」
「お、おい、大丈夫か?」
「……見ないでよ」
「む?」
「見ないで、お願いだから……」
 冥は道に座り込み、立ち上がることが出来ない。
「あなたにはいつも、駄目な所しか見せられない」
「メイ……」
「だから、見ないで。お願い。お願いだから、一人にさせて……」
 惨めだった。
 弁護士。検事の敵。しかも父親を有罪に陥れた男。
 大したキャリアも無い、殆ど無名にの弁護士に、挑み破れ、そして心を奪われた。
 決して叶うことのない片想い。
 惨めだった。こんなこと、誰にも言えない。決して誰にも口外せず、死ぬまで心に秘めておくつもりだった。その筈だったのに。
「どうしてあなたなのかしら……レイ」
「…………」
「どうしてあなたしか……私をわかってくれないのかしらね」
 沈黙が続く。


 先に動いたのは冥だった。タイトスカートについた砂埃を払いながら
ゆっくりと立ち上がり、再びホテルへ向かって歩き出す。御剣もまた、それに何も言わず着いて行こうとする。
「もういいって言ってるじゃない。何? 同情してるの?」
「わからない」
 御剣は正直に返した。
「ただ、君を一人にしたくない」
「…………」
「ホテルの部屋の前までだ。そこまで君を送り、君が素直に部屋に入っていくのを見たら、私も帰る」
「……部屋の中で自殺したりするかも知れないわよ」
「君はそこまでプライドの低い女じゃない」
「…………」
「もう少しの辛抱だ。行こう」
 二人は再びゆっくりと歩き出した。まるで行き先がわからないかの様に。

 **

 冥が泊まっているホテルはもう真夜中なためかロビーにも廊下にも人気が殆ど無かった。
 フロントで冥が鍵を受け取るのを待ち、御剣は一緒にエレベーターへと乗り込む。
 二人は終始無言だった。少なくとも冥には、御剣に言いたい言葉も、掛けてもらいたい言葉もなかった。
だからずっと黙っていたし、黙っていてもらえることが救いになっていた。
 ――だけど、不思議だわ。
 冥は思った。自分が深く悲しんでいる時には、いつもこの男が横にいる。成歩堂に敗れて
検事をやめようとした時も、姉さまのカナリアが逃げて、犯人とされてしまった時も。
 あの日、鞭に打たれた両手を濡れたタオルで優しく冷やしてくれたのは、鞭打った本人である御剣だった。冥がまだ6歳、御剣が13歳ほどの時の事である。
 例のD6号事件以来、幼くして狩魔業の元に検事の勉強をするため引き取られた御剣は、数年間狩魔のアメリカの実家に滞在し、幼少時代の冥と時を過ごしていた。
 初めこそなぜ別の苗字の人間が同じ家に住んでいるのか理解出来なかった冥だったが、大きくなって事情を把握するにつれ、一つのことが理解出来た。
 御剣怜侍は、特別な少年だということを。


 狩魔の名を冠していないにも関わらず、その精神を継ぐ者として狩魔家に受け入れられた少年。
 例えそれが御剣家に対する狩魔業の姦計によるものだったとしても、この事実は変わらない。
物心ついた頃、既に冥の場所である筈だった「狩魔業の一番弟子」の座が奪われていたという事実は変わらないのだ。
 それにしても。
「……誰が逃がしたのかしら」
「何だ?」
 急に沈黙を破った冥に御剣は怪訝な顔を向けた。
「カナリアよ。覚えていない? 昔、うちの姉さまのペットのカナリアが鳥籠から逃げてしまった事があったでしょう」
「ああ……あったな、そんな事も」
「パパは私を犯人だと言って、私は結局疑いを晴らせることが出来なくて、あなたに鞭で打たれたのよね」
「いや、あれは」
「パパには逆らえなかったんでしょう。わかってる。あの家でパパに逆らえる人間なんていなかったもの。
別にそんなことはどうでもいいのよ。ただ、私は本当に逃がしていないのよ、姉さまのカナリア」
 丁度その時、エレベーターが目的の階へ到着した。ドアが開き、相変わらず御剣は
冥の後ろに着きながら、冥の部屋へと向かった。  高級感の漂う絨毯が敷かれた廊下を進みながら、
「なぜ、今頃になってその話を?」
 御剣が言った。
「……前にも何度かこんな事があった、と思ったのよ」
「こんな事とは?」
「言ったでしょう……あなたには私の駄目な所しか見せられないって」
 冥はそう言って感情の無い笑いを浮かべる。
「あなたに子供扱いされるのも仕方ないわね。私はどうせあの頃から少しも成長していないんだから。
……パパが有罪になって、側からいなくなってしまっても、私は結局狩魔の呪縛から解けていないし……」
 御剣は、何も言わなかった。
 暫く廊下を進み、一つの部屋の前で立ち止まる。
「ここよ」
「そうか」
「……お別れね、レイ」
「…………」
 冥が鍵穴へ鍵を入れようとした手を――御剣が止めた。


「何をするの?」
「メイ。もう君は完全に狩魔の人間な訳ではない筈だ」
 御剣は真っ直ぐに冥の瞳を見つめてくる。そのあまりに正面から向けられる視線に冥は動揺した。
子供の頃から端整な顔立ちだった美少年は、暫く見ない間に立派な男の風貌に成長していた。
 今までずっと二人きりである事を意識していなかったのに、急に恥ずかしくなる。同時に、何が起こるかわからない恐ろしさを冥は感じていた。
「私が、狩魔の人間じゃない?」
「君は成歩堂に心を開いた」
 再びその名が言葉に出され、冥は瞬間的に頭へ血が上る。
「わ、私は……別にあの男にほだされた訳じゃないわ。心を開いたって何よ」
「あの男に任せれば大丈夫だ。きっと君を助けてくれる。あの男なら」
 何を――何を言ってるの、この男は。
 冥の堪忍袋の緒が切れた。
「勝手な事言わないで! 私が今更成歩堂龍一に何を頼れるって言うの!? そうよ、あなたの考えてる通り、私はあの男が好きよ。
でもどうしようもないことなのよ! だってあいつは……あいつには綾里真宵がいるじゃない! あいつの側に私の場所は無いのよ!」
 冥の大きな瞳から涙が溢れてきた。感情が昂っているせいだ。けれど涙を拭う気にもなれない。
御剣にまた涙を見せてしまうことになった、その事が腹立たしく、また惨めだった。
「成歩堂龍一のパートナーは綾里真宵と……あなたなんでしょう、レイ。異性として恋人にもなれない、同性として相棒にもなれない、私にどうやってあの男に全てを任せろって言うのよ!」
 このホテルにどれだけの人間が泊まっているかはわからない。廊下でこんな大声を出すのは迷惑に決まっている。
 でも止められなかった。涙と一緒に今まで堪えてきた感情が吹き出してくる。
「大体、あなたばっかりずるいのよ! パパだって結局あなたが持っていったんじゃないの! 
パパはアメリカに残って検事をやっていたって良かったのに、結局あなたと一緒に日本に帰ってしまった」
「メイ」
「あなたと同じ年に私だって検事になったのに、パパは私に会いに来てくれなかった。そして私の知らない日本で、あなたと成歩堂龍一がパパを有罪にしたのよ!」


「メイ、メイ、落ち着け」
「成歩堂龍一だって信頼しているのはあなたの方で私はおまけみたいなものよ」
 自らを嘲った笑いを冥は浮かべる。
「私は成歩堂龍一の親友になんてなれない。みんな、みんな……みんなあなたが持っていってしまう……
あなたはいつだって私より先に行ってしまう……。私が欲しいと思っているモノを全部奪って……」
「……メイ」
「何なのよ! ずるいわよ! あなたと私、何が違うって言うの!? あなただって私と同じになる筈だったのに!
狩魔の呪縛から解けないまま、裁きの庭で孤独に戦う人間になる筈だったのに!」
「…………」
「ずるいわよ……私は成歩堂龍一の様に助けてくれる友達なんていない。ずっとずっと独りぼっちなのよ!」
 突然、御剣が冥の鍵を奪った。
「!?」
 驚く冥を尻目に御剣は部屋の鍵を開け、戸を開くと、冥の右手を掴んだまま部屋の中へ入っていく。
後ろ手に戸を閉めるとオートロックがかかった。殴られる――冥はそう思った。
子供の時に打たれた鞭の音がはっきりと耳に甦る。冥は目をつぶった。どんな衝撃も起きなかった。
 ただ――再び目を開いた時、冥は御剣の腕の中にいた。一瞬何が起きたかわからなかったが、御剣の
逞しい腕が冥の細い身体をがっしりと抱いている。大きな掌が冥の頭に回され、涙に濡れた頬を指で撫でた。
「な……なに? なによ……」
「カナリアだ」
「え?」
「あの日、カナリアを逃がしたのは、この私だ」
「……何ですって!」
 身じろぎしようとする冥だが、御剣の抱き締める力がそれを押さえ込む。
「私は確かに狩魔の家に迎えられた。犯罪者を葬る検事になるために。しかし、私は所詮部外者だ。
いつでもそこはかとない疎外感を感じていた。そして……メイ、君もだ」
「私……?」
「君が狩魔業の娘として相応しい検事になるために、私と張り合うように頑張っていたことが、私には居た堪れなかった」
 御剣の腕にますます力が込められる。痛いぐらいだった。だが冥は正体不明の心地よさを感じていた。


「君は私に嫉妬していたんだろう? 狩魔業に教えを受ける部外者の私に」
「それが……それが、何なの? それがカナリアを逃がした動機なの?」
「私達はカナリアの様なものだった。あの家に、狩魔業に執着するあまりに捕らわれていた」
「私達が……」
「確かに私は日本で最高クラスの検事である狩魔業の教えを受けられる事を誇りに感じていた。
……だがその一方で説明の出来ない孤独を感じていた。そんな頃だった……あのカナリアを逃がしたのは」
「パパに捕らわれていた私達の代わりに、鳥籠に捕らわれていたカナリアを逃がしたって言うの?」
「まさか君に疑いがいくとは思わなかった。そして私は自白する勇気も無かった。
あの家で部外者の私があんな事件を起こしたとわかれば、完全に見捨てられていただろうからな」
「…………」
「軽蔑しただろう。私を」
「……いいえ、別に。私の中ではもう時効だわ。……それよりも」
 冥は恐る恐る御剣の顔を窺い見た。視線がかち合い、慌てて目を逸らす。
「その、この状態の釈明をしてくれないかしら……」
「……君の言う通りだ。私にはたまたま成歩堂という存在がいたから、狩魔の呪縛から解放された。
だが君は……メイがまだ鳥籠の中に捕らわれたままだというなら……
そこから助け出してくれる存在が他にないと言うのなら」  一呼吸おいて、言葉が続けられる。
「私にその役割を担わせて欲しい」

 **

 御剣の腕の力が若干緩んだ。冥は少しだけ身体を離し、紅潮した顔で御剣を間近に見つめた。
「……あなたも酔ってるのね?」
「君よりは冷静だ」
 御剣の手が冥の頬に当てられる。成歩堂と同じ人肌の温もり。けれど、なぜだろう、前よりもずっと温かい。
「あなたが証明したんじゃない、私は……成歩堂龍一の事が……」
「ああ、了解している。それでもいい」
「私が駄目よ、そんなの……だって……私」
「私が嫌いか? メイ」
 冥は言葉に詰まった。本来ならば確実に言えた筈だった。「あなたよりも好きな人がいる」と。
けれど今はその言葉がすぐに口に出来ない。心が迷いを見せている。


「少しだけ試してみないか」
「な、何を」
「だから、その……」
 恥ずかしげに言い澱む御剣を見て、冥は思わず苦笑した。やっぱりこの男を心底憎むことは自分には出来そうにない。
「あなたがどこまで担えるか……試してみる?」
「メイ」
「悲しい終わり方になるかも知れないわよ。あなたを成歩堂龍一の身代わりにしてしまうかも知れない。それでもいいの?」
 冥は御剣の瞳を真っ直ぐに見た。その真剣さに応えるように、御剣ははっきりと頷く。
「構わない。君に鞭を打ってしまったことは、今でも後悔している。あの時の君の痛みに比べたら、マシだ」
「バカね」
 冥が微笑む。嘲笑でも苦笑でもない、自然の微笑みだ。
 僅かに離していた身体を戻し、御剣の広い胸板に頬を摺り寄せる。温かかった。掌などよりもずっと。
「……あの後、タオルでずっと冷やしてくれたわね」
「……そうだったな」
「嬉しかったわ……変よね、鞭打った本人だっていうのに」
「メイ……」
 冥の髪を撫でていた御剣の手が冥の首筋へ下りる。くすぐるようにそこを撫でられ、
そのまま顔へと滑り、顎を静かに持ち上げる。まだ涙が乾かない冥の睫毛が微かに震えていた。
「後回しになって申し訳ないが、きちんと言おう」
 部屋の照明は点いてないまま、明かりは大きな窓から入ってくる街並のネオンの光ぐらいしかない。その僅かな明かりの中でもわかる、御剣の上気した顔。
「君が好きだ。ずっと、前から」
 そして、静かに唇が重ねられる。
「ふ……ん……」
 唇が合せられるだけのキスから、顔の角度を変えて、深いキスへ。自然に開けてしまった冥の口の中に
容易く御剣の舌が入り込んでくる。奥の方で縮こまる彼女の舌と絡ませながら、御剣は抱き締める腕に力を込めた。
 ファーストキスだわ、と冥はぼんやりと思った。自分の口内で動く御剣の舌の感触に、胸がいっぱいになっていく。
 本当なら成歩堂龍一が相手であるのが一番だった筈なのに、こんなにも簡単に
レイの方へ心が動く自分は軽薄なのだろうか、と心配になった。しかし、長く丹念に続けられるディープキスに、些細な不安が流されてしまう。
「ん、は……」
 やっと唇が解放された。

最終更新:2007年12月28日 03:19