Catcher in the mine field (地雷畑でつかまえて)

 御剣怜侍の深いため息が紫煙と共に吐き出される。
 もはや昔の話だが、証拠の偽造も証言の操作もお手のもので、悪徳検事とすら呼ばれた自分が、たかが人ひとりを騙すことに暗澹たる気分になっている。
 それは、その騙す相手が自分の知り合いだから、という理由だけでもないことを、成歩堂に言われるまでもなく彼は自覚していた。
「あ、こんにちは! ここに顔出すなんてめずらしいですね」
 成歩堂法律事務所の自称「副所長」は、前もって訪問を知っていたため、手際よくお茶を出してくれた。
 応接間で御剣が腰掛けたソファの向かいに、成歩堂も大仰に腰を下ろした。
 アイコンタクトをよこした彼の顔つきは、すでにいっぱいいっぱいだったが、それは御剣も似たようなものだったろう。
「何か用件があるんじゃないのか、御剣」
「まあ、そうなんだが」御剣はお茶を飲み干した。緊張で喉が渇いていた。
「じつは、真宵くんになのだが」
「えーっ! あたしですか」真宵が当惑と期待の混じった表情を浮かべるのを見ると、更に罪悪感に打ちのめされそうになる。
「いや、メイがだな、もう着なくなった水着があるから、真宵くんにあげてほしいといって、これを。夏にぐらい海には行くんだろう? 着るといい」
「かるま検事が?! えーっ、なんか意外」
「ほ、ほら」と成歩堂。「狩魔検事って、女の子には結構優しいから、きっと、な、なかよしになりたいんじゃないかな」
「そっか~……じゃあ、お礼の手紙、エアメールで書かなきゃな」
「それは、私がアメリカに帰ったときに渡しておこう」
「それにしても、かるま検事のお下がりって……サイズ、合うのかな」
「あ、そうだ!」成歩堂はしらじらしくぽんと手を打った。「真宵ちゃん、今ちょっと試着してみれば?」
「えーっ!! やだよそんなのっ。恥ずかしいに決まってるでしょ!」
「そんなの、どうせ海じゃ同じカッコになるじゃないか。なあ御剣」
 唐突に話を振られて、彼はビクッと飛び上がった。
「御剣だって、早く、真宵ちゃんの水着姿見てみたいだろ?」
「えっ……あー」視線が泳ぐ。「うん……まあ、そうだな」
「御剣検事」真宵は軽く唇をとがらせて睨んだ。「……むっつりスケベ」
「ぐうっ」
「じゃ、着替えてくるけど、のぞいたらトノサマンキックだからね」
 真宵は少しはにかんで笑って、奥の部屋へと消えた。
「わ、私は軽く同意しただけなのに……なぜ私だけ名指しで、む、む、むっつり……」
「しょうがないよ、耐えるんだ、御剣。先が思いやられるぞ」
 やがて御剣の唇の震えもおさまった頃、着替え終わった真宵が恥ずかしそうに戻ってきた。
 男性陣はほっと胸を撫で下ろした。お披露目されたのが、意外なことに、褒め言葉に困るような体ではなかったからだ。
 水着の色は黒。首の後ろと背中で紐を結ぶ三角ブラと、同じく両脇で結ぶボトムのビキニだ。
 肌はまぶしさに目を細めてしまいそうなほど白い。
 アイドルのように細いわけではないが、少なくとも、あれだけ何でも別腹に収めているわりには贅肉に無駄がない。
 胸の膨らみのボリュームも平均だろうし、ワイヤーブラではないため、その形の良さがしっかり確認できる。
 隙間から向こうが見える太ももの発育ぐあいにも、年相応の健康的な色気があった。
「可愛い!!」
「わっ、びっくりした! なるほどくん、何?」
「だから、可愛いって」
「え、そうなの? 大声で、指をつきつけながら言うから、あたしてっきり『異議あり』って言ったのかと……なるほどくんがそんなこと言うの珍しいね」
「いや、だって、ほら、なかなかのもんじゃないか。なあ御剣」
「えー、あー」
「もっと近くに来て見せてよ」
 真宵はよほど照れたのか、うつむいて体を小さくまるめながら、ひょこひょことソファの前まで歩いていった。
 御剣はというと、知らずに眉間にしわを寄せて、とうに空っぽの湯飲みを口につけて飲もうとしては離すのを何度も繰り返している。
「一回転してみてよ」
「なるほどくん、顔がすごいオヤジになってる」言いながらも、彼女は段々いい気持ちになってきているのだろうか、素直に言うことをきいた。
「きれいなおしりだ。なあ御剣」
「むー、うー」
「なあ御剣! そうだよな!」
「う、うム!」
 実際、成歩堂の言葉はうそではなかった。ウエストのくびれから腰、そして臀部、太ももにかけてのラインは、上から下へ思わず手を滑らせたくなるほど誘惑的だ。
「ほんと? 御剣検事」
「……ああ、本当だ」彼は大きく咳払いしたあと、小さく付け足した。「きれいだ……と思う」
 真宵は真っ赤になった。
 それからも成歩堂は法廷で鍛えた口の上手さであれこれと彼女の体を褒め、うながされて御剣も時々同意した。
 そのうちに、真宵の顔には、たんなる恥じらいとも喜びとも違う表情が時おり見え隠れするようになった。
 女の顔だ。半裸で人前に立ち、男二人になめ回すように見つめられ、一箇所ずつ愛撫を受けるがごとく魅力をささやかれる。
 そういう状況が、まるでその被虐を快とする「女」の顔をさせるのだろうか、と御剣が思い当たったとき、彼は下半身が臨戦状態になる例の感覚をおぼえ、あわてて足を組まなければならなかった。
 目で犯す、という言葉を思い出してから一瞬で、二人がかりで真宵を目ではないもので犯す情景を思い浮かべてしまった自分を激しく恥じた。
「やっぱりさあ、真宵ちゃん、霊媒師以外にも天職があるような気がしてきたよ」
 やっと成歩堂が本題に入って、彼はとりあえず一安心した。
「あ、やっぱり? なんかね、実はあたしもうすうす」
「うん、真宵ちゃん、きっとモデルに向いてるよ」
「そうそう……って、え? モデル? あたし今、考えてたの、トノサマンの監督とか」
「まあまあきっと似たようなもんだよ、モデルも監督も。なあ御剣」
「うーム……」
「まあ、さすがに転職はしないとしても、ためしにやってみるといいんじゃないかな。若いうちにいろいろやっておかないと」
「そ、それはそうだけど、監督とモデルは全然ちがうよ!
 だって、今だってこんなカッコしてるの恥ずかしいのに、モデルなんかやったら、もっと大勢の人の前に出るんだよ?!
 あたし、恥ずかしくて死ぬよ! そんなの!」
「いいじゃないか、こんなにきれいな体してるんだもの。見せないと損だよ」
「その理窟わかんないし! だって、だってだって、ようするに、体を見せてお金とるお仕事でしょ? そんなの、とてもじゃないけどあたしにはつとまんないよ」
「つとまるっ! なあ御剣!」
「あ、ああ、そうだな」
「ぼくなら真宵ちゃんの写真集が出たら絶対買う! なあ御剣!」
「うム」
「ぼくは1冊買うところを、御剣なら3冊買う! なあ御剣!」
「うム……ん?」
「その内訳は、保存目的、閲覧目的、使用目的だ!」
「あのさ」真宵の顔からは先ほどまでの上機嫌さは消え失せていた。「かくしゴト」
「えっ」
「かくしゴト。しないほうがいいんじゃない? さっきから思ってたんだけど、二人とも、法廷の外ではウソもハッタリもぜんぜんダメダメだよね」


 沈黙。
「い、いやその。けしてそのようなことは」
「うーん、ばれてしまってはしょうがないな」
「な、成歩堂、そんな簡単に認めては、今までの努力が」
 彼女の頬はついさっきまで羞恥と快感のために紅く染まっていたが、もはや今は、それが怒りのためとなっている。
「実はその。ある人物から頼みごと……というか、取り引きを持ちかけられてて」
「何それ?」
「このあいだ会ってきた、写真家の先生を覚えてる? こんど担当する再審法廷の、事件の重要な関係者とされている」
「ああ! あのガンコオヤジ」彼女は思い出し怒りでさらに頬をふくらませた。「なだめてもすかしても、なんにもしゃべってくれなかったケチのオヤジでしょ」
「こんどの依頼人は序審で既に有罪判決が出てる。それをくつがえすには新証言がぜったい必要なんだ。そこで」
「取り引き……」
「僕についてきた真宵ちゃんを覚えてたらしくてね。昨日、急に連絡が来て、つまり、彼女を撮らせてくれたら、証言台に立ってもいいと……」
「ちょ、ちょちょっと、そんな、バカなっ! も、もし、あたしが実は着痩せするタイプで、こう見えても三段腹だったり、ものすごい剛毛だったりしたらどうするの!」
「それは、素人モノは被写体のレベルが低いところが逆にいいって言ってた」
「そんなの程度によるでしょーが!」
「うん、そうなんだ。ぼくもそう思った。
 そこで、こうやって、体をとりあえず見せてもらって、その結果、えーと、あまりにも……『ラーメンっ腹』だったりしたら、話を通すまえに断って、何か他のことで手を打ってもらおうかと……」
「……。なんか、それって、すっごい失礼な話だね」
 怒っている。
 真宵は普段怒らない。たまに頬をふくらませたり、顔を上気させることもあるが、百面相のように、すぐ怒りを忘れていつもの顔に戻る。
 ところが、今は、そうそう機嫌を直しそうにないくらいへそを曲げている。まるで真宵が真宵ではないかのように。
「うう……ごめん。ほんとごめん、真宵ちゃん!
 でも、真宵ちゃんにどうしても一役買ってもらわないと困るんだ。そのために、事件の担当検事じゃない御剣にまで協力してもらったんだよ。
 ほんっと、頼むよ」
「そんなこと、引き受けるに決まってるじゃない」
「え?」
「あたしが怒ってるのは別のことだよ。
 つまり、あーやって本当のこと黙っておいて、おだてなきゃ、人様に見せる気になれないような体の持ち主だって思われてたってこと」
「うっ……そ、それはしょうがないだろ、あんなにいつもいつも、アイスクリームとケーキとみそラーメンとお好みやきをそれぞれ別の胃に収納してるんだから!」
「しかも、御剣検事まで、そう思ってたなんて。すっごいショック」
「ぐ、ぐうっ」
「だけど、実際、真宵ちゃんきれいな体なのに、モデルなんて嫌だって、さっき言ってたじゃないか」
「依頼人の人生がかかってるなら別に決まってるでしょ!」
 御剣も成歩堂も、こんどこそ何もいえなかった。
「……すまない、真宵くん」静寂に耐えかねて、御剣がやっと口火をきった。「われわれがもっと、きみのことを信頼していれば済んだ話だった」
「べ、べつに、謝ってもらっても、あたしはただ」真宵はあからさまにどぎまぎしたように視線を泳がせた。「ただ、二人とも、抜けてるなって呆れて……」
「抜けている?」
「そうだよ。裸が見たいんなら、こんなまわりくどいことしなくてもさ、御剣検事もなるほどくんも、『北風と太陽』知らないの?」
「どういう話だったかな」
「服を脱がせるには色々方法があるってこと」
「たとえば?」
「たとえば……ベッドの上でとか」
 御剣はむせた。
 真宵自身も、言ってから、しまった、というように顔を歪めたっきり、うつむいて黙った。
 その場で、成歩堂だけが、感慨に瞳を震わせていた。
「ま、真宵ちゃんが、ついに下ネタのジョークを飛ばす年頃になったなんて……。
 しかも、ちょっとセクハラ気味でもある!
 この際、『北風と太陽』とはなんの関係もないところなんて、まったく気にならない!!」
「なるほどくんっ!!」真宵は叫んだ。「晩ごはん、なんかありえないぐらい豪華な食事おごってよ! あたりまえだからねっ!!」

 真宵は成歩堂の申し出をことわって、写真家との交渉を自分で行うことにした。
 電話口で彼女が何を言われているのかは、返事のしかたでだいたいわかる。
「あの、本当にこういうの初めてなんで、できれば水着までしか脱ぎたくないんですけど」
「はい……はい……そ、それはわかります、けど……」
「ええ……でも……はい……え、あ、あの困ります」
「だめです、だめです、ほんとに。困ります」
 真宵の眉が困惑に歪むたび、成歩堂が、今すぐにも電話を取り上げて交渉を替わりたいといった顔をするのだが、御剣もまったく同じ心境だった。
 なんだかひどいことに加担してしまった気がして、罪の意識が彼の胸を苦しめた。
「あの。下着姿なんて、ほんっと無理ですから。ほんっと」
 次に彼女が放った一言が、ただそう言っただけだったなら、御剣はそれほど気をもむ必要はなかった。
 しかし、幸か不幸か、真宵と彼は目が合ってしまった。目を合わせながら、彼女は言ってしまったのだ。
「無理です、だって、あたし、まだ、好きな人にそんなカッコ見せたこともないんですから!」
 御剣は、昂ぶるような気持ちといたたまれない気持ちを同時を覚え、心が分裂したかのように感じた。
 今すぐにでも帰りたいと思ったが、もちろん許されない。
 成歩堂が電話を替わって、なんとかこちらの希望通りに話がおさまり、三人は真宵のリクエストで鍋をつつきに行くことになった。
 真宵が手洗いに立ったところを見計らって、成歩堂が嫌になるほど爽やかに笑いかけてきた。
「言った通りだったろ」
「何がだ」
「脈ありなんてもんじゃないさ」
「……成歩堂」御剣は葉巻に火をつけ、灰皿を引き寄せた。成歩堂がけむたがるのをわかっていて、あえて、だ。「犯罪教唆も犯罪のうちなんだが」
「なんでだよ」
 真宵に対して気がひけるのにはいくつも理由がある。
 彼女に殺人者の汚名を着せるために、当然のように検死報告書に手を加え、証拠を隠匿したこともある。
 仕事上、身をくらませていた彼女の母親の連絡先を秘密裏につかんでおきながら、そしらぬ顔をしていたこともある。
 その行方知らずの原因になった事件には、自分も深くかかわっていたというに。
 そして、だ。
 いま彼女は、親友の成歩堂の亡き師である綾里千尋が一番気にかけ、彼に世話をたくした少女なのだ。
 成歩堂は、真宵が無事に成長することを、その姉と同じくらいに強く願っているだろう。
 かように、御剣自身と彼女をつなぐ道は、獣道であるどころか、いばらが生い茂り、しかもいたるところに地雷が埋め込まれている。
 除去作業をこなすどころか、思いっきり踏んで自分も真宵も爆発で木っ端みじんになる自信がたっぷりある。
 それになにより……
「彼女はまだ子どもだろう」
「正真正銘の18歳以上だよ」
「それもそうだが、そういう問題ではなくてだな……」
「知ってるかもしれないけど、彼女はああ見えて結構しっかり者だよ。御剣よりも、よっぽど大人なんじゃないかって思う時もあるよ。
 もし、彼女が子どもだとしたら、きみなんかきっと赤ん坊くらいだよ」
「悪かったな、赤ん坊で」
「そうやってすぐ拗ねるところとかな」
 真宵がもどってきた。男たちはとっくにごちそうさまをすませていたが、まだまだ、彼女の胃の中には食べ物が魔法のように消えていく。
 ふと、彼女は疑問を口にした。
「そういえば、御剣検事って、事件の担当じゃないんでしょ? なんで、来てくれたの?」
「ああ、そりゃ」本人より早く成歩堂が答えた。「もちろん、真宵ちゃんが、御剣の言うことだったらなんでもきいてくれるかなと思だだだだだ」
 掘りごたつの下で向こうずねをしたたか蹴られて、彼は悶絶した。
「犯罪の真相解明のためだと言われて、しょうがなく一役買っただけだ」
「へえ~。前から思ってたんだけど御剣検事って、なるほどくんの言うことなら結構なんでもきいてあげてるよね。
 わかった、弱みでも握られてるとか?」
「……だいたい、そういうようなものだ」


 シャワーの済んだあと、彼は、疲れて眠りにつくまで腹筋を鍛えるつもりでいた。
 運動で性欲が発散できるだなんて、もう信じてもいなかったが、他に気をまぎらわすいい方法も思いつかない。
 相変わらず目を閉じれば、真宵のあらわになった白い肌が浮かぶばかりだ。
 彼女は少女らしくはにかんで微笑む。まぶたの裏の情景の中の自分は、意識せずに真宵に手を伸ばし、彼女を引き寄せる。
 御剣は、硬く自己主張した分身をもてあます自分が、猛烈に情けなかった。見たくはない自分がそこにいた。
 自分は劣情を催している……よりによって、真宵くんに。
 視姦されながら、悦楽を押し隠しきれず瞳をうるませて自分を見やる真宵の表情が忘れられない。
〈いっそ〉と彼は思った。自分から堕ちてやるか……、そうだ、彼女にふさわしくないような、みっともない男に、自分から成り下がれば。
 そうすればきっと、嫌われることだってできるに違いあるまい。
 彼の思いつきはまったく自分の行為を正当化するための言い訳でしかなかったが、だが充分だった。
 ベッドランプ一つが部屋を照らす中、横たわっている御剣は、最初はためらいがちに陰茎を握り、首の根元をこすっていたが、やがてピストン運動に移った。
 恥ずかしそうに体をくねらせていた真宵に、ひょっとしてMの素質があるかもしれないと邪推した瞬間、知りうる限り残酷でいやらしい責め苦を課されて泣き叫ぶ彼女の姿が目の前にひろがった。
「あぁ……あっ」こらえる暇もなく、御剣の手の中のそれは何度も痙攣しながら裸の腹に自涜の証を吐き出した。
 遅れて、いつもよりも濃厚な匂いが鼻につく。精液はほんの少しだが胸のあたりにまで飛んできていた。
 始末したあと、彼はベッドランプを消した。忘れもしない2001年の年末からずっと、一度たりとも部屋を真っ暗にすることがなかったし、暗いところへ入ることもなかった。
 17年ぶりに包まれる完全な闇の中、その暗黒に溶けて消え入ってしまいたいと心の底から願った。
 彼は愚息の催促に耐えかねて、もう一度オナンの罪を重ねた。

 ロケ地は、地方の廃病院の中とのことだった。
 真宵は保護者の同行を、もう一つの承諾条件として写真家に提示し、OKを貰っていた。
 もちろん、成歩堂のことに決まっている。しかし。
「なんで私まで行く必要があるんだ」
「まあまあ」と成歩堂。
 当の彼女は、御剣の肩に頭をあずけて、車に揺られて気持ちよさそうに眠っている。体臭とシャンプーの混ざったいい香りが鼻腔をくすぐるのが彼を悩ませた。
「なぜ、貴様はそんなにも熱心に人の仲を取り持とうとするんだ」御剣は明らかに不機嫌だった。「親戚のおばちゃんじゃあるまいし……」
「うーん、そりゃ、真宵ちゃんは次期家元だから、もともと引く手あまただろ。
 どこの馬の骨とも知れない奴が寄ってきて、うまいこと言われて、コロッと騙されちゃうかもしれないじゃないか。
 まあ、きみだって、外ヅラと中身の差を考えればサギみたいなもんだけど、身近なところですませたほうが、千尋さんにも心配かけないだろうし」

「……。じゃあ、お前が首輪でもつけとけばいいじゃないか」
「まさか! ぼくだったら苦労させどおしに決まってるだろ。
 その点、きみは将来有望だし、収入は高水準で安定してるし、不自由な思いをしろっていうほうが難しいよ。
 ……なんか、言ってたら、ぼくが御剣と結婚したくなってきた」
「次期家元か……。気持ちはわかるが、まず絶対にありえないな」
「なんで!」
「自分が、綾里怜侍と名乗るところを想像するだけで、アイデンティティがまるごと崩れ落ちるのを感じる」
「……たしかに……」

 直前になって、モデルがごねだすという状況が、この業界ではそれほどめずらしくないことがありがたかった。
 写真家もスタッフたちも、とりあえず今はまだ苦笑いだけにとどまってくれている。
 廃病院の内部でドアの壊れていない部屋をさがして、割り当てられた更衣室の中から、真宵は声だけで要求したらしい。
 つまり、御剣を連れてきてほしいとのことだった。
「真宵くん? 聞こえるかね」壊してしまってはいけないと、ノックはやめておいた。「私だ。入らせてもらっても……」
「あ、あの、えーと。それは。……いや、そのー、やっぱり入ってきていいよ」
「では失礼する……、わあーっ!!」
「やっ、やだ、だからそんな見ないでってばー!!」
 御剣はあわてて回れ右をしたので、閉められたドアにおもむろに顔面をぶつけるところだった。
「な、なるほど」彼は咳払いした。「だいたい、話はわかった」
「……そういうことなんです」
 一瞬のことではあったが、充分に目に焼きつく光景だった。
 水着よりも紐といったほうがよっぽど近い。布地は必要最小限だけで、ほとんど裸だ。
 体の美しさを引き立てることやデザインを度外視して、とってつけたように胸の先端と局部を隠しているのが、猥褻というよりむしろ滑稽だった。
「あたしが悪いの。ど、どんなもの着るかってこと、話し合ってなかったから」
「きみは悪くないさ。おそらく先方はわざと黙って」
「そう……そうなんだけど、でも、う、うそをつかれたわけじゃないし」真宵の声が震えている。
「あたし、いまさら、嫌だなんて言えない、けど、こんなの絶対無理だし」
「真宵くん、落ち着きなさい。……そのぅ、すまない、私がついていながらこんなことに」
 言いながら、今すぐ真宵を抱きすくめたい衝動が突き上げてきた。
「うぅ、それで、しかも、言われてるの。打ち合わせで」
「何をだ?」
「撮影中、水をかけますって。全身に。あたし、水着だからいいかなってなんも考えないでOKしちゃって」
 御剣は愕然とした。水着の色は白だったからだ。もし、そんなことをしたら……。
 自分が生唾を飲んだ音が聞こえてしまったかと、ひやりとした。
 間をおかず、真宵が小さなすすり声を上げはじめた。
 その声に、こんな時に欲情してしまった自分が非難されているかのような錯覚を覚え、御剣はたまらず、意を決して振りかえった。
 真宵は顔をあげて一瞬びくりとした。マスカラの溶けた涙が頬を黒く汚している。プロのメイクアップを施されて、美しく彩られた顔も、今は台無しだ。
「みつるぎ検事ぃ……!」
 てのひらで涙を拭ってやると、彼女はいっそう顔をくしゃくしゃにして、御剣の腕の中へ吸い寄せられていった。
「みっ、御剣検事は」
「うん」
「あたし、どうすればいいの? 御剣検事は、あ、あたしに、どうしてほしい?」
 真宵を抱きしめる腕に力がこもる。
「どうしてほしいと言ってもなぁ……」
「んっ……」
「正直に言うと、検事としての自分は、きみに撮影を強行させたがっているが、男としての自分は、それを拒絶している」
「だったら」
「どちらも本当の自分に変わりはないんだ」
「でも、でも、あたし」真宵は激しくしゃくり上げた。
「なるほどくんが言ってたことあたってるんだもん。御剣検事の言うことだったら、きっとなんでもきけちゃうんだもん。
 だから、御剣検事が、もし、しろとかやめろって言ってくれさえしたら」
「そういう考え方はやめなさい」御剣は彼女の顔を両手で包んで、こちらを向かせた。
「真宵くん。自分のことは、ちゃんと自分で決めるんだ。私が力を貸すのはそのあとだ。いいね?」
「うぅ……ん。ごめんなさい」
 真宵は自分の顔に添えられた御剣の手を上から握った。
 はーっという大きなため息をつくと、少し落ち着いてきたようだった。
「まいったなぁ」彼女はクイッと大げさに眉を上げてみせた。「……こんなヘンな紐じゃ、ハダカのほうがまだましだよ」
「なるか? 裸」
「えーっ……」
「いや、私も、脱いで撮られるほうがずっといいように、いや、変な意味ではなくてだな、うム、君はせっかくきれいな体をしているんだし、う。あー、その」
「そうかな。なんか、その気になってきちゃったよ」
「そ、そそのかしてしまったんだろうか」
「お願い、あるんだけど」
「何かね」
「……あのね。撮影、する前に、好きな人に見てほしいの。なにもきてないとこ」
 御剣は大きく嘆息して、肩を落とした。「……なんか、そう来るような気がしてたんだ」
「えへへ」
「で」御剣はわざと顔をしかめて、手を放し、パッときびすを返すふりをした。「誰を呼んでくればいい。成歩堂か」
「御剣検事なんか死んじゃえ」
「ああ、今すぐ死にたいな」
 数秒間、両者はまんじりともせず睨み合ったあと、真宵が、
「脱がせて」
 と言った。「お願い」
 お願いされてしまった。
 御剣は絶望的な気分でブラジャーの肩ひもの下に指をすべらせた。

最終更新:2008年08月21日 18:04