亜内×千尋①

亜内武文は一流のベテラン検事である。

今日はいつになく署内は忙しそうだ。
みんな脅迫観念に駆られるかのように机に齧り付いて書類とにらめっこしていた。
思わず脅迫罪を適用したくなるほどのにらめっこだ。
亜内は来客用の椅子に腰掛け、刑法222条をなぞりながら被害者兼被告人達を眺めていた。
と、気づけばすまし顔の婦警がお盆を携えて亜内の前に影を落とす。
「亜内検事、コーヒーどうぞ」
「あぁ、ありが…」
「仕事ですから。では」

 言葉尻は思い切り噛み砕かれた。

「…ありがとう」
 婦警はもう明後日にいたが、一応噛み砕かれた言葉尻を反芻した。
(いつぞやに検事モノのドラマが流行った時は、少しは人受けも良かったんですけどねぇ。)
 相撲番付入りの湯飲みに淹れられたインスタントコーヒーを啜りながら色んな苦味に口をすぼめる。
 きっと御剣検事になら、豆から挽いて小洒落た磁器に淹れて出すのだろうと考えれば、
 ご自慢だったあの髪を取り戻せばワタシだってと育毛剤をまぶす作業にも気合がみなぎるというものだ。

「まだ出てないんですか!人の一生がかかっているんですよ!」
 急に、張り詰めた空気を壊すかのような一際高い声が響く。
 何か揉め事だろうか。
 厄介な事には関わりたくないので気にせず番付表を目でなぞりながらもう一啜りした。
 そこで随分と年代の入った湯のみである事が発覚したが余り気にしない。
 そんな事なかれ主義を批判するかのように強く打ち鳴らすヒールの音が近づいてきてしまう。
 「まったくもう…」
 声の主は少し頬を上気させ憤懣やるせぬといった表情のまま、亜内の前に腰を下ろした。

 綾里千尋だった。
 コーヒーに新たな苦味が加わる。
 それでもそこは年長者かつゼントルメン。
 法曹界の大先輩として、目の前で熱くなっている後輩に声を掛ける。
「どうしたのですかな、綾里千尋クン」
「え、あ、はい」
 掛けられてようやく気づきましたと言わんばかりに彼女はこちらを見てきた。 
 一瞬、彼女の眉間に山脈が隆起する。
「えっと、亜内検事……ですよね」
「え、えぇそうですよ」
 ちょっと胃が痛むのはコーヒーの飲み過ぎなのかもしれない。
 うん、今度からはお茶に切り替えて貰おう。
 そう無理やり解釈をする亜内に視線を合わせる事無く、千尋は周囲にわざと聞こえるよう理由を述べた。
「昨晩の密室パラパラ殺人事件の解剖記録が、まだ出てないんです」
 朝からお茶の間を濁らす世にも恐ろしき怪奇事件だ。
 被害者の死に様は壮絶の一言に尽きたらしい。
 どうやら、彼女は容疑者の弁護を受けて必死に事件をあらっている最中なのであろう。
「それならもうすぐ糸鋸君が持ってくる筈ですよ。暫くお待ちなさい」
「ええ、そうします」
 怒気の溜まった息を吐き出しながら千尋は頷く。
 深い椅子の為か背もたれに身を任せず、しゃなりとした姿勢で平静を取り戻そうとしながらも
 軽く弾ませる息遣いが亜内の耳を撫でる。
(……綾里千尋、か。)
 自称家事手伝いのパラサイト娘と大差無い年齢であるにも関わらず、亜内の目にさえ彼女は魅力的に写る。
 どこか初々しさの残る面立ちでありながらも、法廷で見せるあの力強さは本物だと認めざるを得ない。
 もう塩を送らずとも、亜内にしょっぱい味付けを突き出してくるので少し塩加減を調整して貰いたいくらいだ。
 何故、初対峙した時彼女に目を向けられなかったのだろうか。

「ちょっと机お借りします」
 そんな亜内の考えをよそに千尋は前置きした上で机に書類を広げ、ペンを走らせる。
 手に持った湯飲みが置けなくなったが、そんな憂慮は一気に吹き飛んだ。
 軽く前屈みになった千尋のスーツからこぼれんばかりな胸の谷間が亜内の目を奪う。
 「……」
 どうして、今まで気付かなかったのか。
 法廷の広さは人間同士の距離に溝を開けてしまう悪築だ。 
 暫く眠り込んでいた海綿体がむっくりと起き上がりそうになりつつも平静を装い、
 湯飲みを口に運ぶ偽装工作をしながら、目に蜘蛛の巣を張らせ双丘を凝視する。
 目の前に広がるのはちょっとしたアルプス大自然の恵みだ。
 これに比べれば亜内の娘は豪族の古墳位にしか思えない。
 妻のは贔屓目に見ても公園の崩れかけた砂山程度だ。
 しかし、目の前の大渓谷は谷間どころではないが……、ノーブラなのだろうか。
 一昔前に流行ったヌウブラという奴かもしれない。
 マンネリ生活に刺激を加えようと妻が以前付けた時は有り難味に欠けたが、今は眼球を突き刺すような刺激だ。
 正直、触れてみたいと思うのはゼントルメンであろうと致し方無い。
 あの突付けば弾き返されそうな膨らみに見とれ、湯飲みで跳ね返る鼻息が少し眼鏡を曇らせる。
 触れてしまったら最後、一気に三面記事と被告席にのってしまうだろう。
 亜内は今すぐにでも彼女と満員電車に乗り込んで車体が揺れるたびに体のラインを感じたり、
 サラサラとした髪の匂いを過呼吸になる寸前まで吸い込みたくなる衝動に駆られる。
 勿論、触ったりなんかはしない。満員だからしょうがない事ってあるのだ。

 暫く凝視しながら妄想に耽っていた亜内だが、ハッと気付いて慌てて視線を逸らす。
 いくらなんでも見続けるのは怪しまれる。
(ベテラン検事たるワタシとした事が……日ごろの疲れが溜まっている証拠ですかね。)
 やれやれ、と意味も無くニヒルな笑みを浮かべ、少し落ち着こうじゃないかと視線を下のほうに落とす。
「……」
 どうして、今まで気付かなかったのか。
 足が見えないよう弁護席の前に机を置くのは人間観察こそが重要な法廷において悪築でしかない。
 千尋の白くスラッと伸びた足が目に眩しいが、それだけじゃない。
 彼女は前スリットの入ったスカートだったのだ。
 亜内は踝ふくらはぎ膝裏太腿を滑るように何度も見返す。
 カモシカの足というのはこういう時に使うのだろう。
 これがカモシカなら亜内の娘は食欲旺盛なロバだ。
 妻のは自慢じゃないがカピパラのような足だ。
 細いのだけには無い胸を張っているが、加えて短いのでカモシカには及ばない。
 もしこのカモシカが書類を落としたら、下心の塊で拾い上げる男が群がるだろう。
 急に野球の練習がしたくなってスライディングに精を出すかもしれない。
 亜内も例外無く、魅惑の三角地帯を拝みたい衝動に駆られる。
 椅子により深く沈むが、眼鏡が少しずれて思うようにいかない。
 いくら現場の死体写真でしか若い女性のパンツを見ていない亜内と言えども、それ以上の行為は踏みとどまった。
(…でもちょっとだけなら。)
 姿勢を直すフリをしながら見てて哀れなくらいジリジリと懸命に沈む。

「お待たせしたッス!お待ちかねの解剖記録ッスよ!」
 急に背後から体育会系の声が響き、ビクッと亜内は椅子から落ちる。
「イトノコ刑事!それっ、早く下さいっ」
 思わぬ衝撃に脂汗が浮いて薄ら寒い頭皮の毛穴が開ききる。
「それじゃ、失礼します!」
 起き上がろうともがく亜内を尻目に、千尋は受け取るや否や颯爽と立ち去る。

「あれ、亜内検事どうかしたッスか?」
「……」
(糸鋸刑事、今度の給与査定を覚えておきなさい…)
 勿論亜内にそんな権限は無い。
「そういえば明日の裁判、亜内検事の相手は綾里千尋ッスよね。その、大丈夫ッスか?」
 少し窺うようにして糸鋸が気を使うが、亜内は千尋の歩く姿を見やりながら軽く笑みを浮かべる。
 スラリと伸びた足が小気味良い音を立てながら遠ざかっていく。
「ふふふ、楽しみですよ」
 法廷には、検事として有罪判決をもぎ取るよりも大事な事がある。
 齢五十を前に、心新たにした亜内であった
最終更新:2006年12月12日 20:15