吉田経長

吉田経長


  • 延応元(1239)~延慶二(1309)年6月8日
 父は吉田為経、母は二条定高の娘。葉室定嗣の娘と異母弟の権中納言冷泉経頼の娘を妻とする。彼が二十四歳の時、同母兄経藤と異母兄経任が争い、敗れた経藤が出家する。母を同じくする経藤に同情的だったためか、経長は終生経任に対し、強烈な対抗意識をもっていたようだ。蔵人・弁官を経て建治三(1277)年に参議。亀山上皇に仕えて伝奏・評定衆を務め、弘安六(1283)年に権中納言。後深草上皇も経長を評価したらしく、正応元(1288)年には中納言に進む。わずか一ヵ月でこれを辞しているが、失意の亀山上皇に遠慮したのだろうか。ただし朝政から退いたわけでは決してなく、後深草・伏見上皇のもとでさかんに実務官として活動し・ている。正安三(1301)年、後宇多院政が開始されると中納言に復帰し、再び伝奏を務め、院の執権となった。翌年、亀山上皇に不敬があったとして二十日間蟄居(1)。亀山上皇に対しさかんに不平を鳴らし、後宇多上皇になぐさめられている。嘉元元(1303)年、ついに念願の権大納言となる。同年十月、執権をやめて官を辞し、出家して一線を退いた。
  1. 『吉続記』乾元元年十一月二十二日

(本郷和人)
最終更新:2009年05月27日 12:51