オカシイ世の中覚え書き

創価学会の昭和史



海外の書籍で日本の現代史を扱った本を眺めるともなしに眺めていると、必ずといっていいほど、ローマ字書きで創価学会と書かれた単語に出くわして面食らう事がある。翻って日本国内で発刊されている昭和史の本は余り創価学会について触れているものは少ない、いや創価学会が昭和史に果した大きな影響に比して、その扱いは非常に小さいと言ってもいいだろう。誰もが名前は知っているが、その中身はどういうものかはほとんど知られていない創価学会、その創価学会を絡めた昭和のもう一つの顔を覗いてみようと思う。

 創価学会、およそ宗教らしからぬ名前だが、それもその筈、戦前は創価教育学会を名乗り、創立当初は純然たる教育者の団体だったのである。初代会長の牧口常三郎は、柳田国男などの影響を受けた地理学者で、小学校の校長などを勤めていた人である。かねてから教育改革に燃えていた牧口は、昭和3年、日蓮正宗(日蓮宗ではない)に出合い、仏法による「人間価値の創造」をめざし、昭和5年に創価教育学会を設立した。創価学会とは、人間価値の創造をめざす教育学会という意味なのだ。戦前は新興宗教といえば天理教全盛の時代で、創価教育学会は信者も1万人に満たない小さな団体であった。その後、伊勢神宮の神札の下付を拒否した牧口は、昭和18年に逮捕され、昭和19年に獄死した。これは反戦思想ではなく、日蓮正宗独特の、他の宗教は形だけでも受け入れてはいけないという教義によるものである。これが牧口時代で、創価学会前夜ともいうべき時代であった。

 組織としては壊滅した創価学会を再興したのが、戸田城聖である。戦前に「推理式指導算術」という、いわば参考書のようなものを書いて大ベストセラーとなるなど、学究肌だった先代の牧口とは打って変わって、元学会信者だった志茂田景樹に折伏鬼と評されるほど、行動力と抜群のカリスマ性を備えた人間だった。ある暑い最中の日、集会の会場には扇風機が1台しかなかった。壇上に座った戸田は、その扇風機を自分に向けて、おもむろにこう語りだしたのだと言う。「皆さんも、はやく、こういう立場の人間になりなさい、信心すれば必ずなれる」。普通の宗教家だったら、会場にいる人たちの方に扇風機を向けるだろう、しかし戸田は違った。この品が無いといえば無さ過ぎるパフォーマンスが、気迫に満ちた人間性とあいまって、戦後まもなくの躍動感溢れる粗削りの世相にマッチしたのである。事実、この扇風機のパフォーマンスに圧倒されて、戸田に人生を託そうと入信した人間は実在するのだ。昭和26年にようやく5000世帯であった創価学会は、戸田の会長在任中、わずか7年後の昭和33年には75万世帯という驚異的な信者数の激増ぶりを示したのであった。創価学会というと池田大作の個人商店のように、何も知らない若い世代には思われがちだが、およそ宗教家らしからぬ人間の欲望を堂々と肯定し、豪放磊落を絵に描いたような戸田というカリスマがいたからこそ、今の巨大教団創価学会が存在するのである。なお、現在の聖教新聞など、創価学会がビジネス集団として機能するためのアイディアを発案したのも、この戸田であった。

 池田大作「人間革命」後継の章には大石寺の大講堂落慶総登山に戸田城聖が峰首相を招待するが、ドタキャンされるくだりがある。これは実話で、作中では峰首相のドタキャンは外交問題の突発を口実にしたものの、与党の山田誠之輔議員が「首相ともあろうものが新興宗教のお先棒をかつぐようなことがあっては大変だ」と猛反発したためと解説されている。そして峰首相の代わりに秘書の河部幸太郎と西条敏男議員が出席したとしている。現実には昭和33年3/16に岸首相が戸田城聖の招待を「外交問題が忙しくなったから」と断ったのは事実だが、その岸首相に圧力をかけたのは宿谷栄一元参院議員と池田正之輔議員で、それら議員のバックには創価学会と対立する日蓮宗が控えていた。そして岸首相の代わりに当日やって来たのは、南条徳男前建設相、安倍晋太郎秘書、そして東京都の安井都知事であったが、戸田は南条に「あんたは岸首相の四天王と言われているそうだが、八天王ぐらいだろう」と嫌味を言っている。戸田は4/1に帰京、4/2に死去、付き添いは夫人だけだった。その後、創価学会は小泉隆理事長(51)が暫定的に仕切る形となったが、毎週土曜午後6時に行われた大石寺の質問座談会では4/12、戸田に代わった小泉の登壇に「ソツがない」と批判が上がった。戸田の頃の質問座談会では、戸田は酒が入ったままやって来て、迫力ある押し出しでおもしろおかしく臨機応変に回答し、難しい質問には「あんまりいじめるなよ」と返してその場は大爆笑といった雰囲気だったため、人の心をつかむという点で小泉は不利であった。創価学会の後継者はこの頃、未定。戸田の息子は三菱銀行社員で世襲は本人も周囲も否定していたため、誰が後を継ぐのかが話題となっていた。戸田に負けないほど人心掌握に長けた池田大作が表舞台に姿を出すのは、しばらく先の話となる。

 大変なカリスマだっただけに戸田の急逝は、まさに創価学会の正念場だった。昭和33年、戸田の死を知った当時の日本人誰もが、創価学会はこれでお終い、と固く信じて疑わなかったのである。しかも戸田は明確に後継者を指名しないまま死んでしまったので、学会内部も混乱を極めていた。そんな中、急速に頭角をあらわしてきたのが、当時は幹部でも若手であった池田大作である。大森海岸出身で大世学院(東京富士大)を苦学して休学の末、何年も経ってから卒業した池田は本来、文学志望だったのだが、創価学会のビジネス面で才能を発揮、政治力にも優れ、その持ち前の迫力で戸田の後継者の地位を確実なものとした。池田は戸田にも負けぬカリスマ性を発揮し、戦後の高度成長に乗り遅れた人々の不満を一身に救う形で、創価学会800万世帯を達成、公明党を組織して政界にも橋頭堡を築き、いまや首相指名などにも影響力を行使するまでになったのは周知の事実である。平成に入ってからは、日蓮正宗と喧嘩別れをしたが、信者数に特に変化もなく現在に至っている。創価学会は戸田というカリスマのすぐ後に、池田というカリスマ指導者を得て、ステップジャンプの形で飛躍的な教勢拡大に成功した。戸田と池田という傑物を二代続けて指導者として持てた創価学会の強運。この2人のどちらが欠けても今の学会はなかっただろう。

 創価学会は死後の救済よりも現世でいかによりよく生きるか、が教義である。特にうるさい戒律などもなく、唯一、他の宗教に関係のある行事やしきたりに参加したり、従ってはいけない、毎日、題目を唱えるなどといった事さえ守っていれば、何の問題もない。学会信者に風俗産業や芸能関係の信者が圧倒的に多いのは、身分や門地を問わないという事もさる事ながら、この教義による部分も大きい。キリスト教では同性愛や娼婦は背教であるが、学会では別に構わない。また肉食を禁止する宗教などもあるが、学会は別にそうした禁止事項は一切、ない。また、よく書店などでキャンペーンをやっている「人間革命」というのは、池田大作が聖教新聞に連載している創価学会の歴史を書いた小説のタイトルになっているが、元々は、自分の心の持ちようをポジティブに変える事で、自分の運命や自分の周囲の人間もプラスの方向へ変わっていく、などといった意味合いを持つ。なお小説「人間革命」の山本伸一とは池田本人をモデルにした人物で、学会員なら、この山本伸一という名前や「♪濁悪の、この世ゆく学会の」という学会歌、威風堂々の歌は誰でも知っている。写真は丹波哲郎が戸田城聖を演じた映画「人間革命」。

 なんで、こんなに創価学会は短期間で信者を激増させる事に成功し、また信者でない人間には悪口を盛んに言われているのか。日本は敗戦により、絶対的な価値観を失ってしまった。その喪失感の隙間を埋めたのが創価学会の求心力であった、という側面と、戦後の急速な高度経済成長の恩恵を受けなかった人々、いわゆる取り残された人々に生きがいを創価学会という「一社会」が与えたという側面がある。公明党と共産党は昔から仲が悪い。それもその筈で、本来なら共産党が取り込む筈だった政権への不満層を創価学会=公明党がほとんど吸い取ってしまったのだから、仲がよかろう筈がない。日本に革命が起きなかったのは、左翼に流れる筈の大多数の人々が創価学会信者になってしまった、というこの一事に尽きるのだ。それ以外にも学会の急成長に見落としてはならない事がある。それが折伏大行進といわれた、強引で執拗な勧誘である。昔の学会はやくざより怖かった、というのは四宮正貴だったかが書いていたが、今の新聞勧誘の比ではない、凄まじい勢いでの折伏が日本中で行われていたのである。勝手に家に上がりこんで、神棚を壊しただの、他宗の仏壇を破壊しただのといった話が広まるほどなのだから、半端じゃない勧誘であったのだろう。この折伏戦を体感している世代で学会信者ではない人たちに、学会への反感があるのは当然の事でもある。もう一つは学会は、公明党を作って政界進出してしまったという事がある。公明党は元々、王仏冥合などと言って、国立戒壇設立などをスローガンにしていた経緯もあり、日本が宗教国家になってしまうのではないかという恐怖心が、信者でない人たちに広まった。その後、学会は強引な勧誘もやめ、公明党も祭政一致のスローガンは放棄したのだが、その当時の後遺症は、そうした時代の学会を肌で知らない世代にも、学会の悪口を言わせる遠因として残ってしまった。親の世代や週刊誌などの力も大きい。

 公明党のネーミングの由来をご存知だろうか。公明正大の公明ではなくて、あの公明党、なんと「三国志」フリークの池田大作が諸葛亮孔明をもじって、そのまま孔明党ではちょっと具合が悪いので、公明党と読み方だけ同じで違う字をあてはめたのが初めなのだそうだ。池田が「三国志をはじめようではないか」と檄を飛ばして創価学会は政界に本格的に腰を据えるために孔明党ならぬ公明党を結成した。創価学会の政界進出は戸田城聖の時代にさかのぼる。昭和31 年7/11の朝日新聞朝刊には「爆発的進出の『創価学会』」と題して、参議院に3人の議員を送り込み、地方議会に52人の議員を送り込んだ創価学会についての記事がある。この頃はまだ公明党を名乗っていない、戸田の存命中には創価学会の議員らは会派に公明の字を使用していなかった、むしろ選挙キャンペーンなどでお役所が「公明選挙」などとクリーンな投票を訴えるのに公明の字を使用していた。

 記事では参院選の選挙違反で戸別訪問にからむ摘発の8割が創価学会関係であったと指摘、病人や家庭内に悩みを持つ人を会員が訪ねては「会に入会して創価学会推薦の議員に投票すれば病気や悩みはたちどころに消える、もし拒めば仏罰で一家は滅びる」などと言ってまわったり、地域の有力者や地方議員には「会に入会すれば多数の会員が次の選挙であなたの手足になって働くようになる」などと勧誘、戸田会長自ら「金は使わないのだから逮捕されるいわれがない」と親類や知人宅への戸別訪問への檄を飛ばしているとしている。

 政界進出と合わせて、爆発的な会員数の伸びにもカラクリがあった。これも同日の朝日新聞に掲載されている。特に目的を告げず伝言ゲームのようにして大学生を狩り集め、信濃町駅に集合させ、そこからタクシーに乗せて土建会社の寮へ。そこでいきなり創価学会の御本尊御下附願という紙に住所、氏名、生年月日を書かせ、そこからまた車で日蓮正宗の寺へと向かい、数珠、巻物、経本などを渡されて「南無妙法蓮華経」と三遍唱える。これが終わると車に再び乗せられて銀座のバーへ。そこで大学生らは土建会社の青年信者らの奢りで閉店までビール飲み放題。件の青年信者らいわく、本音ではこういう馬鹿げた勧誘は止めたいのだが、一般への勧誘も頭打ちで、無言の会員獲得の圧力もあってついやってしまうのだという。熱血型だった戸田城聖は新聞記者に身振り手振りを交えて熱弁する。「あやふやな信者がふえるより熱心な一人の信者の方が貴重だ。全く馬鹿な話だ」。

 昭和32年6/26の朝日新聞朝刊には、創価学会と左翼との直接的な対決ともなった、九州や北海道での炭鉱労働者への学会の浸透についての記事が掲載されている。炭労の側では、組合員に学会信者が激増、組合自ら推薦する左翼候補ではなくて学会の候補にこれら組合員が投票してしまう事で、盛んに反学会のデマなどを飛ばしていた。筑豊労組の古河山田では組合員1000人の中で200人が学会員。麻生には100人、住友忠隈には60人の学会員がいた。ほかにも三井山野、三菱鯰田、日炭高松、明治赤池、日鉄二瀬などの大手鉱だけでなく、共同石炭の島廻、日吉、久恒などの小さい炭鉱にまで創価学会は勢力を広げており、炭労主婦会には1万人の信者がいるとされた。麻生炭鉱の主婦連の会長は学会員だったという。三井山野には学会婦人部が出来ていた。昭和32年4月に福岡市で行われた学会総会には観光バスを連ね、筑豊から2万5000人が参加した。北海道は地方警察によれば、道内に学会員は2万5000世帯で7万5000人。これは炭労組合員の数と五分だったが、北海道炭労の中に1万人の学会員がいたという。人生の豊饒を宿命転換に求め、左翼革命より人間革命、というこの労働者の末端に位置した炭鉱労働者たちの選択が、左翼陣営に打撃を与えたのは言うまでもない。他には警察にも警視庁に10数人、神奈川県警に 20人など警察には全国で200人の学会員がいた。日本共産党にも学会員はいたという。逆にアジア民族協幹部などは右翼活動のために組織を学ぶなどとして、学会員になっている。6/12には青森のキリスト教会を学会員5、6人で囲み、「邪教だ」と祭壇を壊し、聖書を踏むなどの動きもあった。学会員はこの頃、150万人であった。

 昭和34年6/4の朝日新聞朝刊には創価学会が参議院に9議席を占めた事を受けて「国会に新小会派、創価学会」と大きく報じている。識者の意見とされる学者や評論家の意見は、創価学会の政界進出は一過性のもので10年ももたないなどと現在から見るとかなり的外れな事を言っている。この時の参院選で東京地方区で47万票を獲得した柏原ヤスの得票のうち、記事では半分が非信者の票と分析され、柏原が元教師である事から教職員票の一部が流れた事、そして山の手の女性らの市川房枝票と競る形で、下町の女性らは同じ女性候補でも庶民的に見える柏原ヤスに票を入れた事、創価学会信者の勧誘票が柏原の得票を底上げしたとしている。

 柏原ヤスは池田大作の「人間革命」に清原かつという名前で登場する。「群像」の章では清原こと柏原ら創価学会信者の女教師たちと「レーニン禿」と作中で書かれている日教組幹部との対決が描かれている。あれこれと清原らの活動に難癖をつける「レーニン禿」に、清原の仲間である大島英子は敢然と叫ぶ。「教壇で共産主義を子供に説く先生がいます。名前をはっきり申しあげましょうか。これこそPTAでも問題にしたがっていますが、誰も後難を恐れて言いだしません。これこそ問題です」。日教組の幹部らはこの指摘に恐ろしい見幕でわめき散らす。「人間革命」によれば「彼らは長いあいだ、他人を追及し、批判してきたが、いまはじめて自分が批判されて、狂気のようになったのである」。そしてなおも清原らに嫌がらせを続けた日教組の幹部らは次々に発狂したり病気に襲われて悲惨な最期を遂げる。

 創価学会の昭和史の中での最大の功績は、日本の社会主義勢力の支持基盤を創価学会信者として取り込み、社会主義政党の躍進を阻止した事であろう。議会内の政治勢力分野で与党多数による安定は、日本の高度成長を大きく後押しした筈である。公明党は野党ではあったが、社会不安を巻き起こす共産主義陣営とは常に一線を画していた。高度成長期に創価学会を支えたのは、経済的な発展から取り残され気味であった階層の人々であった。しかし一方では古くからの華族の家系の人も創価学会の信者となっている。戦国武将の北条家である。この早雲を家祖とする北条家は小田原落城と同時に滅亡はしていない。北条氏直の一族で北条氏規の子である北条氏盛が家督を継ぎ、河内で1万石を領する大名として江戸時代も存続した。明治維新後は北条家は子爵となる。そして戦後、この華族制度が廃止されて北条一族はどうなったのかというと、創価学会の名門家系として一部では知られるようになる。池田大作の側近であった創価学会4代目会長の北条浩はこの戦国武将の北条家の衣鉢を継ぐ人物だった。あの北条早雲と創価学会、意外な接点であるけれども、北条一族の多くが創価学会員となっているのは有名な話である。

 昭和42年1/31には公明党の衆議院進出を受けて毎日新聞で池田大作が細川隆一郎政治部長のインタビューに応じている。「西欧ではキリスト教倫理を土壌とした政治形態には矛盾を感じないが、日本はまだそこまでいっていない」と公明党のあり方に理解を求め、「日蓮大聖人の根本理念は“王仏冥合” にある」とも池田大作は語っている。さらには公明党の今後について「十年間で、第三党の地歩を占めるべき」「保守、革新のいずれとはいえないが、政治姿勢が確立されて国民大衆の安泰のためということであれば、連立という事態もありうる」「政権獲得の目標は一応二十年後におく」として、「政治は理想主義だけでは動かないものだ」といずれは自民党との連立についても是々非々の立場を強調、公明党は「社会主義という冷ややかな圧迫感のある形態でもない」福祉経済体制を目指すとしている。また池田大作は「保守党は二つに分かれた方がよいと思う」など現在の政治情勢を予見するような発言も繰り返し、公明党の現在の姿や政治姿勢も、すでに衆議院進出の時点で池田大作が考えていた形に近いものである事がわかる。池田大作はこのインタビューの中では創価学会の国教化については否定している。

 なんせ公称800万世帯、実勢は500から600万人の信者総数と言われているが、の創価学会であるから社会への影響力は物凄いのである。学会はSGI=創価学会インターナショナルの名前で世界各地にも信者を持ち、最も多い韓国にもおよそ80万人近くの信者がいると言われている。政界では公明党、メディアでは毎日新聞に影響力を持ち、創価大学、高校など自前の教育機関も持っている。主要取引銀行の東京三菱銀行などは、学会の聖地である信濃町をエリアに含めた支店には学会の仏壇を飾っていて、行員が題目をあげると噂されるほどである。雑誌では「潮」「第三文明」などを発刊、東京都なども、副知事1人は必ず都庁内の学会閥から出すという不文律があるとされ、東京郊外や大阪などには、自治体の職員がほとんど学会関係者というところも少なくないという。

 「♪広き荒野に、我らは立てり」などといった学会歌というのは、実勢500万人を超すという日本人学会員の誰しも知っているのに、その他の人には全く知られていない、或いはシアトル事件、大阪事件などといった単語にも、500万人を超す日本人は必ず反応するが、その他の人は何事かまったく知識がない。これだけの情報の隔絶というか、落差というか、凄い事である。週刊誌の記事では一方的すぎる、かといって、学会員に書かせると池田先生などと敬語表記になってしまい、違和感のある事この上ない。そろそろ中庸な立場から昭和史の中に大きな地位を占める創価学会を分析する記事が多く出てもよい頃ではないか。

 創価学会のこれまでの歴史を簡潔に記そう。

 昭和3年  牧口常三郎が創価教育学会設立
 昭和18年  牧口常三郎、戸田城聖が不敬罪で逮捕
 昭和19年  牧口常三郎獄死
 昭和20年  戸田城聖が創価学会再興
 昭和22年  戸田城聖と池田大作初対面、後に池田大作入信
 昭和26年  聖教新聞発刊
 昭和27年  池田大作、香峯子(白木かね)結婚
       狸祭り事件、日蓮正宗の小笠原慈聞を学会が吊し上げ
 昭和28年  本部を信濃町に移転、それまでは神田にあった
 昭和29年  マスゲーム「世紀の祭典」スタート
 昭和30年  小樽問答、日蓮宗僧侶ら学会員に囲まれ立往生、その後、日蓮宗は学会との法論は禁止
 昭和32年  大阪事件、池田大作が選挙違反で逮捕、後に無罪「師弟不二」
       夕張炭鉱で労組と激突
 昭和33年  戸田城聖急逝
 昭和38年  シアトル事件、阿部日顕が売春婦とトラブルと学会は後で主張
 昭和39年  公明党結成
 昭和44年  藤原弘達の学会批判本に出版妨害工作
 昭和45年  共産党宮本議長宅盗聴事件、後に判明
 昭和47年  池田大作、トインビー会談
 昭和51年  月刊ペン事件、池田大作不倫報道で学会が出版妨害工作
 昭和54年  日蓮正宗との対立から池田大作、会長を辞任
       日蓮正宗の日達上人死去
 昭和56年  反学会で内部情報漏洩の学会元顧問弁護士山崎正友が恐喝で逮捕
 昭和58年  池田大作、国連平和賞受賞、以後、世界各国から表彰相次ぐ
 平成1年  1億7千万円入り金庫投棄で持ち主に学会幹部名乗り出る
 平成3年  阿部日顕の日蓮正宗と喧嘩別れ
 平成5年  細川政権で公明党初の大臣誕生
 平成7年  東村山市議転落死で遺族が学会関与と主張し裁判化
 平成8年  元学会員信平夫妻が池田大作に暴行されたと賠償訴訟起こす、後に学会勝訴
       池田大作暴行を報じた「週刊新潮」との対立決定的に
 平成10年  竹入義勝の朝日新聞連載回顧録が内部で問題化、竹入批判始まる
 平成11年  公明党、自民党と連立で池田大作、事実上のキングメーカーになる

 最後に日本の文学作品の中に登場する創価学会の姿について、幾つか取り上げてみたいと思う。普通に暮らしていれば誰しも自分の生活圏に必ず1人や2人、学会員が存在するものである。しかしなぜか小説をはじめ、ドラマにも芝居にも学会員は登場する事はない。現代日本を舞台にした作品を書くならば、端役でも典型的な学会員が出現しても不思議ではない、むしろ出現しない方が実は変なのである。戦前の小説には天理教信者がよく登場していた。なぜ戦後の小説には学会員は登場しないのか。筆者は日本文学だけでも優に2000冊超の小説作品に眼を通してきたが、その中から探し出した学会に関する記述で記憶のあるものは下に挙げた例をとどめるのみである。日本人の何パーセントかを構成している学会員家族を扱った作品があってもいいのではないか。現代を映す鏡として小説があるならば、創価学会を避けて通る日本文学はリアリティに欠けるのではないか。

否定するケース~作家・水上勉と筒井康隆の場合
テキスト「凩」(水上勉)、「末世法華経」「堕地獄仏法」(筒井康隆)
 水上勉の「凩」という長編作品は、死と静かに対峙する老人達の物語である。この作中には様々な老いの形が出てくるのであるが、最も不幸な死に方をする例として、主人公の知遇である老婆きんの話がある。きんは心教学会という、題目を唱える新興宗教団体の信者であるが、嫁との折り合いが悪く自殺してしまう。作者は主人公の眼を借りて、この心教学会をこれでもかと批判している。普段は顔を見せないのに、葬式だというと大勢で駆けつけて、大声で題目を唱和する。創価学会の会員葬を模したと思われる、信者が仕切る葬儀。そして香典を全部、学会が持っていってしまうらしいとのアパートの隣人の噂話。さらには生前、きんがこぼしていたという祈伏ばかりで心休まる間もないという学会批判の愚痴。主人公はきんの葬式を信者達の「自己満足の祭り」と断じて、野辺送りの方がどんなによいだろうかと思念するのである。作者は若狭の出で青年時代を京都に過ごした事もあり、「一休」「良寛」など名僧と呼ばれる人物を題材にした作品の一方では、既成仏教についてかなり批判的な見方をした作品もある。この作者の宗教観にとりたてて色はないのであるが、ある種の諦念を以って自若として死を迎えたいという姿勢は、こと近年の作品で明確になってきている。そこで作者の死生感の全く逆に位置する、生臭い人工的な存在としての新興宗教の胡散臭さ、という例の引き合いとして創価学会を模した心教学会なる教団を登場させ、主人公に散々に批判させているのではないかと思われる。
 筒井康隆の「末世法華経」には名前もそのままの総花学会と恍瞑党が登場、日蓮が現代にタイムスリップして、総花学会の集会に出席するのだが、自らの辻説法を講談屋の捏造であるとされ、「口から出まかせも、ほどほどにせい!」と激昂、信者らに暴行されて「桑田変じて滄海となる。末世とならば法華経も」と号泣するという話である。「堕地獄仏法」では総花学会と恍瞑党が政権を掌握し、統制委員会によって自由な言論が出来なくなるという近未来の日本を描いたもの。そこでは法主が絶大な権力を持っていて、作家である主人公は総花学会に批判的な出版社と総花学会信者らの銃撃戦に巻き込まれてしまう。ここまでストレートな話も珍しいが、「権威」を徹底的にパロディ化する作者ならではの作品だろう。作者は創価学会を「権威」として捉えて、それに反発している訳である。

傍観するケース~作家・中上健次と有吉佐和子の場合
テキスト「黄金比の朝」(中上健次)、「非色」(有吉佐和子)
 「黄金比の朝」では、アパートに住まう主人公の隣家に住む、家庭不和の男が朝から延々と題目を唱えるシーンが冒頭に出てくる。主人公はこの題目を近所迷惑だ、と感じているのだが、踏み込んで宗教そのものを非難する事はない。主人公の焦燥感や閉塞感を煽る、一つの舞台装置としてこの題目が使われているのであって、それ以上の、それ以下の意味もないのである。だが創価学会員を、こういう端役にせよ、登場人物として取り上げる作品は日本文学では希有なので、特筆してもよいであろう。
 「非色」の舞台は、一転してアメリカである。アメリカ人に向って、日本文化や日本仏教のレクチャーを行う老人が出てくるシーンがあるのだが、学会信者に言わせると、作中では禅宗となっているが、モデルは紛れもなく海外広布初期の創価学会の姿なのだという。正直言って、この作品には題目も出てこないし、世間一般に認知されている学会らしさは、登場人物の明治翁には皆無であるのだが、これは作者が徹底的に自己の作品をフィクションとして扱うために、学会色を消した効能なのだろうか。

支持するケース~作家・宮本輝の場合
テキスト「春の夢」「避暑地の猫」
 「春の夢」は学会文学と呼んでさしつかえない作品である。事実、作者は過去にその信仰を語った事がある。作中に学会の二文字は決して出てこないし、また、題目を唱えるシーンも出てこない。しかし、主人公の青年の思考、あるいは周囲の人間の動きが、創価学会の教義そのままなのである。例えば、主人公が唐突に親鸞の「歎異抄」を非難するくだりがある。親鸞は「敗北の宗教」で歎異抄は「地獄の書」だと、ちょっとそれまでの筋運びからいくと、常軌を逸した断じ方である。創価学会は日蓮正宗を基盤としていた。現世での宿命転換を追求する教義の学会からすると、親鸞の浄土真宗の来世に幸福がある式の教義は絶対不可なのである。親鸞の教義は現世がいかに辛くとも来世で救われる式の、いわば運命論である。学会の教義は自分が変わる事で運命は変わる式の、現世肯定論である。相容れる訳がない。また「春の夢」の後半部では、主人公が懇意にしていた京都に住む老婆が苦しみに歪んだ死顔で死ぬシーンが出てくる。これも作品の前後からすると極めて不自然なのである。穏やかな余生を送っていた老婆が、なぜ唐突にこんな変な死顔になる必要があるのか。すると主人公は老婆は生前に悪業をしていて、それが死ぬ時に顔に出たのだと解釈を下すのである。これも創価学会の教義に一字一句違わない。基本的にこの作者の他の作品には、こうした学会色はまったく存在しないだけに、「春の夢」の突出ぶりが際立つのである。例外として「避暑地の猫」の冒頭にも学会ならでは、といったシーンが出てくる。これも本筋と関係がない少年が、寺の境内の落とし穴に嵌まって運悪く竹が突き刺さって死ぬのであるが、この寺の住職はなぜか禅宗なのである。しかも顔色のドス黒い、いんちき臭い態度を示す、などあからさまに住職に悪意をもった記述が続くのである。作品そのものにまったく関係ない、むしろ不自然過ぎて不要とも思えるこのくだりは、学会以外の仏教はすべて邪教とする学会の教義に基づいたものとして差し支えあるまい。こうした一般の読者が読むと極めて変なくだりは、作者の学会信者に対する隠しメッセージなのである。過去に「笑点」という番組で学会員である林家こん平が、同じく学会員であるジョージ・チャッキリスの指弾きは格好いいが、他宗の僧侶であるポール牧の指ぱっちんは無様だ、と何が面白いのかよくわからない発言をしたように。林家こん平のこの大喜利での発言は、遠回しな学会信者へのメッセージであった。

参考
アエラ編集部「創価学会解剖」 1996
朝日新聞東京版各記事など 1956~1959
有吉佐和子「非色」 1988
池田大作「人間革命」(聖教文庫版) 1971~1994
佐高信/テリー伊藤「お笑い創価学会 信じる者は救われない」 2000
塩瀬哲生「内側から見た創価学会」 1991
四宮正貴「創価学会を撃つ!!」 1988
筒井康隆「東海道戦争」(中公文庫版) 1978
筒井康隆「笑うな」(新潮文庫版) 1980
中上健次「岬」(文春文庫版) 1978
中嶋繁雄「日本の名門200」 1994
古川利明「カルトとしての創価学会=池田大作」 2000
古川利明「システムとしての創価学会=公明党」 1999
古川利明「シンジケートとしての創価学会=公明党」 1999
別冊宝島「となりの創価学会」 1995
毎日新聞東京版「公明党の衆院進出と今後」記事 1967
水上勉「櫻守」(新潮文庫版) 1976
宮本輝「春の夢」(文春文庫版) 1988
宮本輝「避暑地の猫」(講談社文庫版) 1988



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最終更新:2013年08月27日 00:13