その日は誰しもがいやな気分になるような日だった。
 振り続ける雨、轟く雷。
 カラスは叫ぶように泣き続ける。
 まだ昼前なのに窓から入る日は暗い。
「……」
 エマは一人、バーのカウンターに座って足をぶらぶらさせながらぼおっとしていた。
 バーの主であるブライアンは買い出しに出かけ、セリアは暗い顔で出かけると言って出ていった。
 話し相手もいないし、エマはずいぶん暇をしていたのだ。
 自分も一応はブライアンから各種酒の扱いやカクテルの作り方は教わっているのだし、いっそのことお客でも来てくれれば話し相手になって暇も潰せるはずだ。
「すいません」
 そう言って一人の男が店に入ってきた。ナイスタイミングだ。そう思いながらエマはカウンターの奥に回った。
「初めてなんですけれど、おすすめは?」
 男はカウンターに着くなりそう言った。
「そうですね――」
 エマが答えようとした瞬間、男と目が合った。
 短く、茶色く染めた髪。肌は白く、あまり健康そうではないが平凡そうだ。
 だが、その赤錆のような瞳を見た瞬間、エマは恐怖を覚えた。
 なにが、というような具体的な恐怖ではない。刺すような、根源からの恐怖だった。
「……っ?」
「おすすめは?」
 顔に笑みを浮かべながら男は言う。笑ってはいる。笑ってはいるがその眼は笑っていなかった。
「その前に、あなたは、誰です?」
 恐怖で錯乱するのを必死に抑えながらエマは気丈なふりをして言う。
「どういう意味です?」
「言葉通りの意味です」
「ふむ」
 男はそういうとカウンターに手を置き、頬杖をついて言う。ちらりと白い犬歯がみえた。獣のようだった。今もなお感じる恐怖は、この世の食う食われるという絶対的な関係を凝縮したもののように思えた。
「やはり、レインディアーズの元神徒は一筋縄じゃいかないみたいだな」
 急に口調の変わった男が言う。その雰囲気も強気なものへと変わった。
「どうして、そのことを?」
「お、引っ掛けに乗ってくれてどうも。神徒だった人間か……。因果律の崩壊は俺が来たくらいじゃ止まらないみたいだな」
「……っ」
 エマは男の単純な引っ掛けに乗ったと知って歯を食いしばった。なんとなく悔しかった。
「あなたは、誰――」
「エマッ!」
 バーの扉を蹴破るように入ってきたのは健太郎だった。先行する健太郎を追って入ってきたのはアイリーンだ。
 健太郎は入るなり腰の刀を抜きエマの目の前にいる男を斬った。
「おッ?」
 にやりと薄気味の悪い笑みを浮かべた男の頭がずれ、地面に転がった。
 頭がゴロゴロとバーの床を転がる。だが、血は一滴も流れない。
「俺が誰か知りたいみたいだな」
 と、声がした。地面に転がる頭と体が粒子になりながらさらさらと消える。
 それは、人類史上未だ一人にしか、ロバートにしか許されていない人体の粒子化だった。その上、エルドラドを失った今のロバートでは人体の粒子化も不可能だという。
「俺は、第四の特異点。そこにいるアイリーンさんくらいはわかるだろ?」
 アイリーンの斜め前に粒子が集まり、人を形作る。
「私は、あなたみたいな老人知らないわ」
 アイリーンが微笑しながら言う。その笑みは氷のように冷たく、鋭い。
「そうかい。しっかし、なんでそんな格好してんだ? お前の性別は……」
 と言いかけ、男はくるりと後ろを向いて少し歩き、壁に寄り掛かった。
「まあいいや。俺の名前が知りたいんだったな。俺は全知全能にして無知無能! 日下 明日也様だ。よく覚えておけ!」
 日下は天井を指差しながら誇らしげに言った。
「……」
 健太郎とエマは彼に白い眼を向ける。
「あぁ? くそぉ、誰も俺のすごさをわかんねぇのか? くっそ、特異点の連中と先に会えばよかったな。やっぱり最初に興味本位だけで行動するのはやめよう……」
 独りぶつぶつと呟く明日也。彼がただ者ではないことは人体の粒子化や特異点、という言葉から察することができる。
「おぉ、そう言えば、そこのスパゲッティのおもちゃにされたの、名前は?」
「……蓮田、健太郎」
「元神徒は?」
「エマ、チャーチ」
「よし、憶えた。んで、アイリーンさん」
 なぜアイリーンの名前だけ知っていたのかはエマたちには聞けなかった。彼の纏う雰囲気は自分の望まない質問を言わせないような奇妙な空気があった。
「なぜ、ここに?」
 小さな声でエマが健太郎に訊いた。
「ロバートから電話が来た。パンスペルミアらしいのがいるような気がしたらしいが……」
 エマはごくりと息をのんだ。ロバートの情報は殆ど間違いがない。
 つまり、目の前にいるこの男は……
「ロバート? ロバートって特異点のか?」
 明日也がエマたちの方へ歩み寄った。その眼は純粋に好奇心であふれている。
「……」
「そうよ」
 エマたちが黙っているとアイリーンが言った。
「やっぱりか」
「《現在》の特異点。……正確には、今はルディという修道女が」
「アイリーン!」
 珍しく健太郎が怒鳴った。
「あら? ロバートっていうやつだと俺は未来彗星さんから聞いたが。ロバートは死んだのか?」
「いいえ。詳しくは本人たちに訊いてちょうだい」
「そうか。《未来》と《過去》は?」
「セリア・オルコットと、ディオ・白樺よ」
 入口をふさぐように立ち、べらべらと情報を喋るアイリーンに、エマと健太郎は焦った。何がというわけではないがこの男に情報を言うのは何か危険な気がした。
「アイリーン」
 健太郎が名前を呼んだ。見るからに怒っている。
「……健太郎、彼はね、……パンスペルミアに近い、というロバートの見解は正しいの。……彼は、パンスペルミアと同等の存在。次元そのものを歪ませ、破滅を振りまく男なの」
 健太郎は息をのんだ。ただでさえいいもの、わるいもの、様々な物を振りまくパンスペルミアと同等の存在。その話はにわかには信じられなかった。
 しかし、そういう超常的なものだとすれば、すべてのつじつまは合う気がした。
「俺は、この次元を助けに来た予定なんだけどな」
「そのことも知ってるわ」
「そいつはありがたい。あと正確に言えばおれはパンスちゃん以上だよ」
 男の堂々たる宣言にその場にいる者全員が息をのんだ。
「……どうして、あなたはそれほどなのに、パンスペルミアを放っておくんです?」
「……あいつの成り立ちを見れば、そんなことも言ってられなくなるよ。お嬢さん」
 急に悲しい顔をして明日也は言った。
「さて、特異点の面々と会いに行こうかな。殺すか殺さないか決めないと」
 また余裕綽々の顔になって明日也は言った。
 それを聞いてエマは身を震わせた。
「こ、殺す……?」
 殺されるかもしれない。仲間が。ついでにロバートも殺されてしまうかもしれない。そんなの、許せない。
「そうだ。時空のゆがみを直すにはゆがみの根本を直すべきだ」
「ゆ、歪み?」
「エマ・チャーチ! 思ったことはないか? 特異点と名乗る者たちを見て、怖いと思ったことは。くるっている、と思ったことは?」
「そんなこと……」
 不意に、エマは北御蓮での戦闘を思い出した。三人の特異点が集った戦い。頼もしいと思った。しかし、その反面――
「あれは本来この世に存在してはならない者たちだ」
「……それでも、それでも、ロバートや、セリアさん、ムスたんにルディは、私たちのたいせつな仲間で、殺すとか、殺さないとか――」
 エマが叫ぶ中、それを哄笑が遮った。見ると、明日也がげらげら笑っていた。
「あ、あなたッ……!」
「いや、すまん。わかった。そんなに大切な相手なら殺すのは保留しよう」
 さらりと撤回された宣言に、エマは拍子抜けした。
「じゃあ、そろそろ鳴竹ちゃんが来そうだし、俺は帰る。また酒でも飲みに来るよ」
「二度と来ないでくださいね」
 さらりと言うエマに明日也は苦笑した。
「さて……。エマ、最後に、教えておいてやる。……船団の旅立つ日、気をつけろ。みんな、死ぬぞ」
 明日也はそれだけ言うと入口に向かった。エマはわけがわからずぽかんとしている。
「……アイリーンさん」
 入口の前に立つ女に明日也は声をかけた。
「この星の、終わりは近いの?」
 小さな声で、二人はやり取りをする。
「ファイティングポーズが動き出しています。あれは、文明を、次元そのものを消し飛ばすためのアームヘッドですから」
「そう……。あなたでは、止められない?」
「あれを止められるのは未来彗星さんだけです。あの人の顕現したる日の光の矢がなければ……」
「そう。……もう、会うことがないと良いわね」
「本当ですね。トリニティ」
「……」
 アイリーンは哀しげに微笑んで入口を譲った。

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最終更新:2011年07月27日 19:57