ここは、どこだ。
何もない、一面が黒と青のグラデーションで塗りたくられたような、薄暗い空間。
時折、気泡のようなものが目の前を通り過ぎていったが、それもやってくる方向が出鱈目で、
足元から上ってきたと思えば、今度は右手側から垂直にふよふよと漂ってきて、左手側の奥の闇へと消えていったりした。
呆気にとられたまま黙っていると、耳元でぐりゅう、という音が響き、全身に感じる水のような感触が、かき回されたかのように奔流として渦巻き、のたうった。
いんちきな動きをする気泡たちが引き裂かれ、さらに小さな沢山の気泡の子となって、またそれぞれ出鱈目な方向へと漂っていった。
奇妙な光景にしばらく狐に包まれたようなさまになっていたが、
全身に感じる、生暖かい液体のような感じに改めて気づいたとき、彼の本能は急激な危機感を、今さらのように感じ始めた。
それが何だかは解らない。この状況で、解る術もない。
だが、暗く無限のような空間の中で、この異様なありさまの真っただ中に存在することになっている自分の状況を、彼はやっと「異常」だと判断した。
「僕は、僕は、どこにいる」
口に出しても、誰も答えない。というより、答える者がいない。
それよりも、水らしきものが自分の開いた口の中へ容赦なく流れ込んできても、
肺が全く苦しさを覚えず、普通に話せることに彼は恐怖した。
「ここは……ここは、どこだ!僕はどこにいる!誰か!」
窒息の可能性はおそらくはないことに一瞬安堵はしたが、異様な事態であることへの認識を更に深めただけなことに気付くと、
彼は細い手足を必死に動かし、青黒い、どこまで続いているのかも知れない空間の中を、前へ前へと泳ぎ出した。
体から、流れが後ろへと通過していく感触が、彼に「少なくとも進んではいる」という儚い安堵を与えた。
前へ。前へ。とにかく前へ。前、へ。
「……?」
後ろから、奇妙な音がする。
ぐもももも、というような、大きな何かが流れを押し広げながら近づいてくるような音。
思わず振り返った彼の視界の奥、自分がつい先ほどまで居たあたりの更に奥。
闇の向こうから、大きな球体のような何かの影が近づいてくるのが、ほんの僅かに見えた。
「――うわああああっ!!」
一拍置いて、全く意味のわからない状況に押し潰されそうになっていた彼の理性が、ついに砕けた。
絶叫しながら、細い腕と足をがむしゃらに動かし、近づいてくる「何か」から必死で逃げる。
しかし後ろからのぐももも、という音は、一切の容赦なく彼のいる方向へ、それもあり得ないほどの速さで突き進んでくる。
まるで抵抗がないかのように闇の中を駆けあがってきた気配は、何ともあっけなく、彼のつま先のすぐ後ろまで来てしまった。
「――っ!!」
恐怖のあまり、思わず後ろを振り返った彼は、そこで「それ」が何なのかを見た。
しかし、それはなんとも見慣れない、形容がし難いものだった。
「それ」は基本的には球体で、大きさは直径が彼の体の縦三つ分。有機的な見た目で、表面は滓のような筋のような、もしくは皺のような立体的なもので覆われていた。
無理矢理にでも一番近いものを挙げるとするなら、肌色をしたメロンだった。
彼が何かの行動を起こす間もなく、事態は容赦なく進んでしまった。
先ほどから感じる流れが逆流し、彼の体は流れごと、すぐ後ろの球体に引き寄せられた。
もがく彼の足が球体の表面に触れ、ぐちゅり、と音を立ててその表面に僅かにめり込んだ。
混乱した視界がとらえたのは、先ほどの出鱈目な気泡たちが、無数の群れとなって彼のように球体めがけて突っ込んでくる光景だった。
その数はまるで数えきれない。百などは裕に越えている。下手をすれば万か億か。青白かったはずの世界は、視界をうめつくす気泡の群れで濁った。
「――」
喉元まで出かけた声は悲鳴になる間もなく、彼の体はそのままずるん、と球体の中へと引きずり込まれてしまった。
気泡たちは意思をもっているかのように彼に続こうとしたが、既に遅かった。
メロンのような見た目だった球体は、彼を飲みこんだ瞬間、銀色の鉄球のような姿に変わり、
気泡たちに群がられながらも、まるでびくともしなかった。

引きずり込まれた彼の視界には、球体の中の光景が広がっていた。
窓ガラスのように、球体の外側が見える。球体を食い破ろうとばかりに異様な動きをする無数の気泡たちが、三百六十度、どこを見ても視界を埋め尽くしていた。
「うわああああああああああっ!あああああああああ!!」
発狂寸前となり、彼は頭をかきむしりながら絶叫した。しかし間もなくして、その叫びは唐突に止んだ。
ふと前を見た瞬間、その目の前に、誰かがいたのだ。それは、彼にとって忘れもしない、見覚えのある姿だった。
黒く短い髪。
まだ発達しておらず、僅かに膨らむばかりの乳房。
棒のように細い手足。
彼を捉えて離さない、青黒い瞳。
「あ――きみ、は」
彼が、その名前を口に出す前に、眼前の少女は彼にゆっくりと近づくと、
そのままふわりと、雲を抱くかのように彼の細い体躯を抱きすくめた。
きゅ、と小さな音がして、奇妙な少女の細い腕が、彼の背中に思いのほか強い力でしがみついた。
その時だった。
「……ぐ、」
彼のうめき声と同時に、少女の腕が、彼の背中にめりこんだ。
そのままずる、ずる、と音を立てて、腕はゆっくりと更に奥へと入り込んでいく。
「あ――あ、あああああああ!!」
異様な感触に、彼の絶叫は再び始まった。
見れば腕だけではない。彼の薄い胸板に押し付けられた小さな乳房は、くぷ、と音を立てて、彼の胸と癒着しはじめていた。
足が自由に動かないことに違和感を感じて、見てみると、自分の両足の間に絡められた少女の足が、既にひとつのものとなっていた。
「うわあああああああああああああああああああああああああああ!!」
全身を喰われながら上げた叫びは、彼の声ではなく少女のものとなっていた。
既に理性が完全に崩壊した彼の耳元で、少女が熱い吐息をかけながら、まるで勇気を振り絞って呟くかのように、震えた声で囁いた。
「大、好き」



「――ああああああああああっ!!」
絶叫と同時に、彼は跳ね起きた。
時計の針は既に真夜中、二時四十五分を差して、絶叫の終わった静かな部屋の中でちく、たくと秒を叩いていた。
「はあっ……はあっ……」
ベッドの上で息を切らすその姿は、夢の中の少女と全く同じ有様だった。黒く短い髪、発達の遅い乳房、棒のような手足。
彼の面影を残すのは、襟足にわずかに残る跳ねた髪だった。
息が戻ってくると同時に、夜の闇に包まれた部屋の中で、静かにその両肩を自分の腕で抱いた。
かちかちと奥歯が鳴り、前髪で隠れた瞳から、涙がとめどなく溢れた。
「違う……ボクは、違う……」
誰もいない部屋の中、彼はベッドの上で、震えながら泣いた。
ステタル・ガッポを名乗る彼は、窓の向こうに朝が来るまで泣き続けた。