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答えはいつも私の胸に ◆7jHdbD/oU2


あたしは、ある部屋にいた。
本が敷き詰められた棚があり、アナログゲームが格納された棚があり、壁にはメイド服を始めとした衣装が掛けられている。
元文芸部部室、現SOS団部室。
見慣れたその部屋にいるのは、同様に見慣れた、しかし決して見飽きてなどいない人たちだ。
部室の隅、本棚の前に置かれたパイプ椅子に座り、本を読む有希。
忙しなくパタパタと駆け、お茶を入れて回るメイド服姿のみくるちゃん。
部屋の真ん中にある机を挟んでゲームをしている、古泉くんとキョン。
あたしはいつものように、団長席に座っている。
そんな日常風景の中、あたしはぼんやりと部室中を見渡していた。
平和だと、あたしは思う。
何事もなく、静かで、穏やかで、そして、退屈だ。
だというのに、憂鬱じゃない。
退屈な日々に飽き飽きして、面白いものを求めるために、あたしはSOS団を作った。
そのはずなのにあたしは、今のような何事もない時間に浸っていたいと、そんなことを考えている。
どうしてだろう。
もっと胸が躍るような時間を過ごしたかったはずなのに。
普通の人間では体験できないような、面白くてワクワクする、非日常的な経験をしたかったはずなのに。
こんな退屈が、何故か妙に心地よく感じられる。いつまでも続けばいいと、そんなことさえ望んでしまう。
自分のことが、分からない。
心地よいのに、不安だった。何か、大切なことが変わってしまったような感じだ。
何がどう変わったのだろう。どうして変わってしまったのだろう。
あたしは頬杖を付き、もう一度部室中を眺めてみる。
キョンがいる。有希がいる。みくるちゃんがいる。古泉くんがいる。
やっぱり、いつも通りだ。
そう思い直した直後、不意に、扉が外側から勢いよく開かれた。
反射的にそこへと視線を移すと、足元まで届きそうな長い髪の女生徒が、眩いくらいの笑顔で立っていた。
「やっほーぃ! 遊びに来たよーっ」
底抜けに明るい声をした彼女、鶴屋さんは大きく手を振りながら部室に入ってくる。
キョンと古泉くんが鶴屋さんに挨拶をし、みくるちゃんが湯飲みを取りに行く。
あたしはただ見守るように、みんなの様子を眺めていた。
そんなあたしを前に、鶴屋さんは首を傾げて口を開く。
「おやおや、どうしたんだいハルにゃん? 元気ないみたいだけど、具合よくないの?」
その声に、あたしはふと我に返った。
気が付けば、みんなの心配げな視線があたしに向いている。そんなに不景気そうな顔をしていただろうか。
あたしは表情が緩むのを自覚しながら、内心で小さく息を抜く。

考えるのは、やめよう。
何かが変わっていようと、そんなことはどうでもいいじゃない。
大切なのは、楽しむことだ。今このときが心地よいと感じられれば、それを楽しめばいい。
みんながいるんだから。
あたしが選んだSOS団員と、名誉顧問がいれば、どんなことだって楽しいに決まっている。
そう、こんな日常だって、退屈すら楽しいに違いないんだ。
あたしは、手付かずだった湯飲みに口を付ける。
熱かったはずのお茶はすっかり冷めていたが、構わずそれを一気に飲み干す。
面白くもない不安を、全部流し込んでしまうように。
あっという間に空になった湯飲みを、机に置く。
乾いた音が、ことりと鳴った。
「みくるちゃん、お代わ……」
絶句せずには、いられなかった。
甲斐甲斐しくお茶を汲んでくれるSOS団のマスコットの姿は、跡形もなく消失していたから。
足元から虫が這い上がってきたかのように、あたしの背筋に怖気が走る。
墨汁が半紙に染み入るように、あたしの胸に不安がじわりと広がっていく。

――何かが、変わっているような気がする。

押し流したはずの思考が、蘇ってくる。
忘れることなどできはしないと、そう嘲笑うように。

あたしは、思わず立ち上がっていた。その勢いで椅子が後ろに倒れるが、構ってなんていられない。
慌てて、部室中を見回す。縋るように、求めるように。
その行動は、あたしの不安を瞬く間に増大させた。
消えていたのは、みくるちゃんだけではなかったから。
ついさっきやって来たばかりの、陰りのない笑顔を持つ鶴屋さんも。
そして。
いつも気だるそうに、面倒臭そうにしていながら、それでも付き合ってくれる、キョンも。
忽然と、姿を消していた。
背骨を直接ヤスリか何かで削られたかのような、強烈な悪寒があたしの背筋を駆け抜ける。
胸の奥が、黒い塊に押し潰されていく。胸に入り切らないその塊は、気管支にまで及び、呼吸を妨げているようだった。
体が震え始める。声が出せない。
せっかく楽しめると思った日常が、退屈が、幻想であったかのように感じられる。
離れていく。何もかもが、すり抜けるように、消えていく。
あたしは、声にならない叫びを上げていた。
抗するように。逆らうように。
まるで、泣きじゃくる子供のように。

◆◆

チャイムの音が、酷く遠くで響いているように聞こえる。
がたがたと、椅子と机が耳障りな音を立てている。
喧騒が徐々に広がり、周囲を満たしていく。

あたしは、突っ伏していた顔を上げた。
瞼を持ち上げると、やけに視界が滲んでいて、あたりの様子がよく見えない。
だがそれでも。ぼやけて滲んで不明瞭な視界でも。

あたしの前の席が空だということは、分かってしまう。

歯を食い縛って鞄を引っつかむと、あたしは立ち上がる。
これ以上、その空席を見ていられなかった。
悪夢の欠片は、残滓と呼ぶには大きく色濃く、あたしの瞼の裏に焼きついている。
それを頭の中から追い出そうとしながら、あたしは早足で教室を後にした。

◆◆

放課後の空気が満ちる、北高の部室棟。
その一室、SOS団によって支配された部屋にあるのは、二つの人影だ。
「“彼”からのメールを見たときは肝を冷やしましたが、涼宮さんとあなただけでも帰ってきたことは僥倖でした。
 ……いえ、あるいは、“彼”が帰らぬ人となった事実を鑑みれば、
 涼宮さんの帰還は警戒すべき事態だと考えるべきでしょうか」
腕を組んで壁に背を預けた、秀麗な顔立ちの少年が口を開いていた。
彼、古泉一樹が神妙な面持ちで言葉を投げかける相手は、パイプ椅子に腰掛け、
膝の上に分厚いハードカバーの本を広げている少女だ。
少女はしかしハードカバーに目を落としてはおらず、そのガラスのような瞳を古泉へと向けている。
「涼宮ハルヒは彼女自身の特異性にも、我々の特異性について知った。
 そのことも考慮しながらも、涼宮ハルヒの行動には従来通り注意すべき」
「長門さんはこれからどうするつもりです?」
「情報統合思念体がわたしに下した指令は、従来同様涼宮ハルヒの監視」
淡々とした長門の言葉に、古泉は大仰に頷いた。
演技然とした古泉と、瞬きを確認することすら困難な長門の様子は非常に対照的だ。
「なるほど。真実を知った彼女がどのようなアクションを見せるか、あくまでも静観すると言うわけですね。
 僕も機関に指示を仰いだ方がよさそうです。個人的には、僕もあなたと同じようなスタンスでいたいものですが」
古泉はそこで言葉を切ると、ポケットから携帯電話を取り出す。
だが、そのまま何処かへ連絡を取ろうとはせず、それを手の中で弄ぶだけだった。
「あなたとも僕とも立場が違う彼女たちなら、どうするでしょうね?
 そもそも未来人である彼女が、本来存在すべきでない時間軸で亡くなった今、もう一人の彼女はどうなったと思います?」
いつものような試すような口調ではなく、単純に疑問を口にする古泉。
長門が返答を口にする前に、彼は視線を移した。
その先にあるのは湯沸しポットと急須、茶葉の入った缶と湯飲みだった。
「それはわたしのあずかり知るところではない。彼女らには彼女らの考えがある。
 確実に言えるのは我々の知っている朝比奈みくるが極めて特殊な、隔離された時空内で死亡したということのみ。
 それが朝比奈みくるの異時間同位体に与える影響まで推測することは不可能」
長門の声音に、古泉は震えのようなものを感じた。いつもとは違った長門の様子を、自分の錯覚だとは思わない。
「……僕は、無力ですね」
思わず、ぽつりと呟きが落ちていた。
古泉の表情には、笑みが浮かんでいる。だが、彼がいつも浮かべている爽やかなそれとは異なる笑みだった。
口を片端だけ吊り上げた歪なその笑みから読み取ることができる感情は、強い自嘲の念だ。
「あなた方の巻き込まれた状況を外から知っていながら、何もできなかった。本当に、無力だ」
押し殺したようなその声は悲痛で、彼の感情が漏れ出ているようだった。

その直後、閉ざされていた扉がゆっくりと開く。
二人の会話が止まる。自然と、彼らの視線は開いた扉へと向いていた。

◆◆

部室のドアが、なんだかいつもより重く感じられる。
さっきの夢のせいか、あたしの気分は暗雲に包まれていた。
憂鬱な気分を引きずって、あたしはドアノブに力を込めた。
体重を掛けるようにしてドアを開けると、真正面にある団長机が目に入った。
ちょっと来ていなかっただけなのに、随分懐かしさを感じる部室を、あたしは見渡す。
中にいる、古泉くんと有希。二人しかいない、部室。

部室って、こんなに広かったっけ。
そう思いながら、扉を閉める。
キョンとみくるちゃんのことを、あたしは口にできなかった。
あたしは黙って部室を横切ると、そのまま団長席に座る。いつもの椅子が、少しだけ軋んだような気がした。

「涼宮さん」
ふと聞こえた呼び声に応えるように、古泉くんの顔を見る。
古泉くんは申し訳なさそうな表情で、あたしを見下ろしていた。
「……大筋は、長門さんから伺いました。僕は、あなたに謝罪しなければなりません」
そう言う古泉くんは、本当に恐縮しているようだった。
「まず、僕の素性と涼宮さんの能力のことをあなたに黙っていたこと。
 こちらにも事情があったとはいえ、あなたを裏切っていたことに変わりはありません。
 そしてもう一つ。
 僕は、涼宮さんたちが巻き込まれた事件を知っていました。“彼”が、メールで知らせてくれましたから。
 それなのに、僕はあなたたちの力になれなかった。あなたたちが苦しんでいるのに、苦しみを共有することができなかった」
そう一気に言って、古泉くんは深々と頭を下げた。
「涼宮さん。本当に、申し訳ありませんでした」
今あたしが見えるのは、古泉くんのつむじだけだ。だけどきっと、目を閉じて自分を責めているのだと思う。
そんな古泉くんの顔を想像すると、怒る気にはなれなかった。
「気にしなくていいわ。内緒にしてたのはちょっと気に入らないけど、団員のことに気付けなかったあたしにも問題はあるし。
 それに、あのことは仕方ないわよ。あたしが言うのも何だけど、滅茶苦茶なことだったと思うしね」
告げる。すると、古泉くんはそっと顔を上げ、眉尻を下げた微笑をあたしに向けてくる。
「そう言って頂けると助かります」
そして、パイプ椅子に腰を下ろす古泉くん。すると、部室から音が消える。

仕方ない、か。
あたしは、古泉くんに言ったことを内心で反芻する。
そんな言葉で済ませられるようなことなんかじゃない。
そうやって流してしまうには、余りに大きすぎる。そんな簡単に、納得できるはずがない。
あたしは認めない。認めたくない。SOS団員が二人もいなくなったなんて、考えたくない。
だけどそれは厳然と、目を背けられない事実としてここにある。
メイド服を着てお茶を用意してくれるマスコットの姿はない。
いつだってかったるそうにした雑用係の姿は、ない。
会えない。声を聞けない。もう、二度と。
これが悪夢ならと、あたしは願ってしまう。悪夢なら、いつか覚めることを期待できるから。
もしも揺ぎない現実ならば。
夢を見ることを望んでも、罰は当たらないはずだ。
面白くて楽しい夢を。
憂鬱も退屈も溜息も、そんなことすらも楽しめる夢を。
みんながいる、そんな夢を。
あたしは、望んでしまう。

静かな部屋に、小さな音が届く。紙が擦れるその音は、有希がページを繰る音だ。
何かパーッと、楽しいことをして遊びたかった。今、あたしの周りにいるのは宇宙人と超能力者だ。
そんな普通じゃない人たちと遊びたいと、ずっとあたしは思っていた。
一緒に遊べればきっと、とても楽しくて愉快なはずだ。
そうすれば、こんなブルーな気分だってどこかへ吹っ飛ばせると思うのに。
それなのに。
今のあたしは、何をしても楽しめそうになかった。
広いと感じる部室にいるのが、辛かった。
足りない部員を見ているのが、苦しかった。
だから。
「……帰る。今日はもう、解散」
あたしは、そう口にしていた。

◆◆

空が、青い。
気が遠くなるほど広く真っ青で、太陽は世界を照らしているのに、空気は冷え切っている。
もう、冬も本番を迎えようとしているんだと、あたしは実感した。
春には綺麗な花を乱れさせる桜並木も、とても寒々しい。
三人で歩く並木道は、なんだか随分人通りが少なかった。
映画撮影をしたときに咲き誇った、季節外れの桜を思い出す。
あれも、あたしが望んだからそうなったんだっけ。
望めば、それが現実になる。とんでもなく現実離れしたことも、現実にしてしまえる。
そんなの有り得ないし、文字通り夢物語だ。
そう思っていた。でも、だけど。
あのとき、桜は咲いたのだ。

北風があたしの肌を撫で、有希のスカートをはためかせ、古泉くんの髪を揺らす。
冷たい風は、あたしを責め苛むように痛々しく感じられた。
こんなに気分が弾まない帰り道は、久しぶりだ。
「……僕は、ここで失礼します。バイト先に寄っていかなければならないので」
古泉くんが、口を開く。帰り道の中で、それは唯一の言葉だった。
「分かったわ。じゃあ、また明日」
答えるあたしの声が、なんだか遠く感じられる。
また明日。そのフレーズが、気味が悪くなるほどに現実感を伴っていなかった。
片手を上げ、立ち去ろうとする古泉くん。
少し歩いたところで、ふとその背中が止まった。
「涼宮さん」
肩越しに振り向く古泉くんの顔は、いつものような爽やかな笑顔だ。
「僕はあなたの、SOS団の団員です。ですから」
言葉を継げないあたしに、古泉くんは頷いて見せた。
「あなたを、信じています」
そう言い残すと、古泉くんはあたしに再び背を向ける。
古泉くんは、もう振り返ることなく歩いていく。その姿は、すぐに見えなくなった。
三人が、二人になる。
そのことが何故か怖く感じて、あたしは慌てて隣を見る。
いつもと変わらない、どこか無機質さを感じさせる有希の顔がすぐそこにあって、少しだけ安堵できた。
「帰ろっか、有希」
微かな有希の頷きを確認してから、あたしは再び歩き始めた。
二人分の足音が、冷たい空気に溶けていく。
随分気になるほどの、音だった。
単調な音は、あたしをまた思考の海へと誘ってくる。
その思考は、不安を伴う。
だから足を止め、あたしは有希に話しかけていた。

「……ねぇ、有希。あたし、よく信じられないの。ううん、信じたくないんだと思う」
そんな弱音めいたことを吐いたのは、同じ体験をした有希だけが隣にいたからかもしれない。
「さっき、夢を見てたの。
 部室にキョンがいて、有希がいて、みくるちゃんがいて、古泉くんがいて、もちろんあたしもいて。それで、鶴屋さんが遊びに来るの。
 そんな、当たり前で楽しい夢、見てた……」
悔しさが、悲しさが、切なさが、空しさが、胸中で渦を巻く。
言葉が、出せなくなった。その代わりとでもいうように、涙が滲み出ていた。
涙が枯れるなんて嘘だ。全てが終わってベッドで目覚めたときに、あんなに泣いたのに。
まだ、涙は止まらなかった。
「あなたなら夢を現実にできる」
有希の呟きに、あたしの鼓動が一際大きく高鳴った。寒いのに、掌が汗ばんでくる。
あたしは、呆然と有希を見つめる。有希の視線は、真正面からあたしを捉えていた。
「古泉一樹とわたしの意見は一致する。わたしもあなたを信頼している。
 あなたは、わたしたちの団長。団長を信じるのは団員の役目」
「有希……」
「もう一度言う。わたしはあなたを信頼している。あなたが、過ちを起こしはしないと」
思わず呟く涙声のあたしに、有希は告げた。
そして黙ったまま、真っ直ぐ、あたしを見てくれていた。

◆◆

有希と別れて、あたしは当てもなく町中をふらふらと彷徨っていた。
目的があったわけじゃない。
ただこうやって町を歩いていれば、何かが見つかるんじゃないかって思ったから。
色々、回った。
商店街に図書館、野球場やファミレス。映画の撮影のときに訪れた、神社に溜池。駅と、駅前の喫茶店。
それだけ回っても、あたしの気分がよくなるようなものは全く見つからない。
それどころか、新しい場所に行くたび、心が締め付けられるような感覚は増していた。
思わず、溜息が漏れる。白く煙ったその息は、既に暗くなった空に溶けて消える。
次は何処へ行こうかと考えながら、あたしはとぼとぼと歩く。
疲れなんて感じない。もしかしたら、それを感じるだけの余裕がないのかもしれなかった。
一つになった、足音。あたしだけの、足音。
アスファルトを叩く、靴裏の音。こつりこつりと、響いて消える。
等間隔に並ぶ街灯が道を照らしている。だけどそれでも、闇を払い切ることなどできはしない。
むしろ闇に屈したかのように、目の前にある街灯は明滅を繰り返していて、消えてしまいそうだった。
「全く、情けないわね」
呟いて、街灯に触れる。すると息を吹き返したかのように、街灯は眩い光を放ち始めた。
あたしは、再び歩き始める。
本当に情けないのは、誰だろうと思いながら。

足音が、響く。こつり、こつりと、夜に響く。
どれくらい歩いたのかも、もう分からない。
ふと顔を上げれば、目の前には大きな建物があった。
門柱にある文字を見て、あたしは学校に戻ってきたことに気が付いた。
なんとなく校門を潜り、グラウンドに出る。
夜闇の中に聳え立つ学校。
その光景に、あたしは青い巨人の出てくる夢を思い出した。
ううん、あれは夢じゃなかった。

どうしてあの時、あんなにワクワクしたのか、ようやく理解できた。
きっと無意識に、分かってたんだ。
つまらない世界を壊して、もっと面白くて愉快な世界をあたしが作れるんだって、分かってたんだ。
でも、あたしはそうしなかった。

アイツが、キョンが、あたしの手を取って引っ張ってくれてたから。
でも、もういない。
もう二度と、キョンはあたしを引っ張ってくれない。
あたしは、掌を眺める。冷え切った手に、キョンの温かさが蘇ってくるような気がした。

――また、あの温もりを感じたい。

あたしは、右手をそっと唇へと持っていく。
乾いた唇に触れると、キョンの唇の柔らかさが戻ってくる気がした。

――もう一度、あの感触が欲しい。

そっと、目を伏せる。
あたしが願えば、みくるちゃんは戻ってくる。
あたしが望めば、キョンは帰ってくる。

だけど。
あたしは、願えなかった。望めなかった。
だってそれは、裏切りのように思えたから。

キョンが死んだと知ったあのとき、暴走したあたしを止めてくれたみんなを。
あたしを信じると言ってくれた、古泉くんと有希を。
あたしの手を握って走ってくれた、キョンを。

裏切るように、思えたから。

伏せていた目を、開ける。そこには、変わらないまま佇む学校がある。
そこは以前、無意識のうちに、世界を作り変えようとした場所だ。
その記憶に流されて、心に生まれた虚無感に引っ張られて、意図的に世界を作り変えようとした。
それが過ちだと、学んだはずなのに。
それは逃げだと、教えられたはずなのに。
情けないのは、あたしだ。
分かっていたつもりだったのに、また過ちを犯そうとした。
「……ごめん」
届かないと分かっていながら、あたしはそう呟かずにはいられなかった。
あたしは、深く空気を吸う。
よく冷えた空気が、あたしの頭をクールダウンさせてくれる。

もう、止めよう。
泣くのも、悩むのも、逃げるのも。
そんなの、勿体ないから。
この世界を、今ある現実を、心から楽しまなきゃ勿体ないから。
あたしとキョンが共にいたこの世界なんだ。楽しいに決まってる。
楽しくなくても、絶対に楽しんでやる。

まずはその宣言を、今ここでしてやるんだから。

あたしは、リボンを解いて髪を束ねる。
鏡がなくても、ポニーテールならきちんと結べる自信があった。
手早く髪を纏めると、あたしは体育倉庫へと走った。

鉄製の引き戸に、手を掛ける。中学のときのように周到な準備をしていないけど、鍵の心配はしなかった。
力を込めなくとも、引き戸は簡単に開いてくれる。
手探りで見つけた電気のスイッチを押してから、あたしは白線引きと石灰の袋を引っ張り出す。
石灰がいっぱいに詰まった袋は結構な重さだったけど、全然苦にはならない。
これは、あたしがやらなきゃならないことなんだから。

頭の後ろで、纏めた髪が揺れている。
それに心地よさを感じながら、あたしはグラウンドに白線で文字を書いていく。

バカキョンに分かるように、今回はちゃんと日本語で書いてあげるわ。

だから。
きちんと、見てなさいよ。
これからはずっとポニーテールでいてあげるから。

ずっと、ずっと、見てなさい。

――ありがとう、キョン。
――これからは、あんたの分までめいっぱい楽しんであげるから。
――だから、心配しないで。

                                 【アニメキャラ・バトルロワイアル 涼宮ハルヒの憂鬱 完】


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298:GAMEOVER(5) 涼宮ハルヒ
298:GAMEOVER(5) 長門有希




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