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さよならありがとう(再)◆WwHdPG9VGI


 暗い部屋の中で、しんのすけは一人たたずんでいた。

 ――帰ってきた。

 足の裏から伝わってくる踏みなれた床の感触から、鼻腔から伝わる匂いから、
 体を包む空気から、それを実感する。

 だから、呼んでみる。

「とーちゃん……」
 返事は返ってこない。
「かーちゃん……」
 返ってきたのは静寂。
 しんのすけは、目を閉じた。
 分かっている。
 もう呼んでも答えが返ってこないことを。
 でも。それでも。

 ――しんちゃん。もうすぐご飯だから、手を洗ってらっしゃい。

 かーちゃんがいつものように台所から、弾んだ声でそう言ってくれる気がして。

 ――おう、しんのすけ。一緒に風呂入るか。

 頭を撫でながら、とーちゃんが暖かな声で言ってくれる気がして。
 だって――居間も、食堂も、いつものままだから。
 たった二日前まで当たり前だった日々が、そのまま残されていたから。
 グッとしんのすけは拳を握り締めた。

 ――とうちゃんとかあちゃんとひまわりとシロともっとずっと一緒にいたかった

 ――ケンカしたり、頭にきたりしても一緒がよかった。

 叫びたくなる。
 こんなはずはないと。こんなのは嘘だと。こんな醜いだけの現実なんていらないと。
 5歳の少年が向かい合わなくてはならない現実はあまりにも辛すぎた。
 背を向けたいという誘惑は本当に天上の桃のごとく甘美だった。
 だけど、あの時選んだから。
 前を向き、真っ向から立ち向かう道を。
 だから繰り返す。あの時、母の墓に向かって言った言葉を。

「お寝坊はしない。菅原分太時計と高倉健時計とバブルス時計に起こしてもらわなくても起きる。
野菜だって庭に植えたりしないでちゃんと食べる。
お片付けだってする。 おやつも食べすぎたりしない。毎日、ちゃんと歯みがきをして寝る。
幼稚園にも毎朝バスに乗って行く。シロの世話だって絶対忘れない。
いっぱい食べて、勉強して、いい学校に行って――。
とーちゃんみたいな、とーちゃんよりすごい男になる……」
 一言一言噛み締めるように言いながらしんのすけは、
 ひまわりの寝ている部屋に向かって歩を進めていく。
 そして襖を開けた瞬間――

 涙がしんのすけの頬をつたった。

 布団の位置がいつものままだったから。
 違いは一つだけ。
 ひまわりの周りに当然いるべき人たちがいない。
 ただそれだけの違い。
 その違いだけが、本当に、本当に大きくて。

「……た?」

 薄目をあけて小さな手を伸ばしてくるひまわりを、しんのすけはそっと抱きしめた。
(オラが、しっかりしないとダメなんだゾ)
 もうとーちゃんも、かーちゃんもいない。
 ひまわりを守るのは『お兄ちゃん』である自分の役目だ。
「とーちゃん、かーちゃん。心配しなくていいからね。
オラ、ひまのお兄ちゃんだから。ひまはちゃんと、オラが面倒みるから。
キョンお兄さんや君島お兄さんみたいに大事な人をちゃんと守れるカッコいいお兄ちゃんになって、
ひまのこと、ちゃんと守るから。だから大丈夫。
きっとひまは、さとちゃんみたいにカワいくておませな小学生になって、
魅音おねーさんみたいなしっかりした高校生になって……。
そんで、エルルゥお姉さんみたいに優しくて綺麗な、トウカおねーさんみたいに凛々しくてカッコいい、
かーちゃん以上のイイ女になる。
だから、全然、心配しなくていいから。心配せずに寝てて、いいから
今までいっぱいお仕事してきたぶん、ゆっくり、休んで、いいいから……」
 ぽたり、としんのすけの頬をつたったものが床に落ちて小さな音を立てた。
 しんのすけの奥歯が鳴った。
 泣いていてはいけない。この涙は最後にしなくてはならない。
 夢の中でとーちゃんと約束したから。
 最後だから、最後にするために、この言葉を言わなくてはならない。

「とーちゃん、かーちゃん……。お疲れ様」




「この壁紙の仕上げは何でしょう? クロスですか?」
「いや……オラ、よく知らんのだけど……」
「そうですか……。天井は、塩ビクロス。下地はコンクリート……だな」
 ぶつぶつ言いながら一人の執行官がチェック項目を埋め、
 もう一人が家のあちこちを歩き回って、写真の撮影を行っている
 野原銀ノ助はためいきをついた。
 その表情には疲労の色が濃い。
 自慢の息子の失踪とそれに伴う一連の事態は、
 お世辞にも若いとはいえない銀ノ介の精神と肉体にはあまりにも酷であった。
(何でじゃ? 何でこんなことになったんじゃ?)
 繰言とは分かっていてもつい繰り返してしまう。
 浮かんでくるのはいつも同じ問い。
 あの日、警察から息子とその伴侶である野原みさえの失踪を聞かされたときは、
 新手のオレオレ詐欺なのではないかと本気で思った。
 だが、二人が失踪したというのは厳然たる事実だった。


 旧姓小山みさえと野原ひろしは、ある夜忽然と失踪し、その行方はようとして知れなかった。
 警察は当然の如く、失踪と事件の両面から捜査を開始したが、捜査は難航した。
 預金を引き出した形跡はなく、車は車庫にはいったまま。
 衣類、現金、カード、貴重品、携帯電話も全て家の中から発見された。
 部屋には争った形跡はなく、それどころか外部から人が入った形跡自体が皆無。
 携帯電話および電話の通話記録のどちらを洗っても、不審な人間からの通話記録はなし。
 息子から事情聴取するも、得られたのは眠っていたので覚えていないという答えのみ。
 まったくもって不可解極まる、というのが捜査関係者の共通した見解だった。
 物盗りによって殺害されたというという説、自発的に失踪したという説、
 怨恨によって誘い出されて殺害されたという説、室内から連れ去られて殺されたという説――。
 多くの仮説が挙げられたがどれも決定打にはならなかった。
 結局、二人の人間がある夜消え、幼い息子とまだ赤ん坊の娘だけが残されたという事実だけが残った。


 ネタ枯れの時期だったことが災いし、マスコミはこの不可解な事件を大きく取り上げ、騒ぎ立てた。
 テレビ局員はえさに群がるアリのごとく、野原家に、双葉商事に、アクション幼稚園に押し寄せ、
 関係者に執拗にマイクをつきつけ、週刊誌には、『現代の家庭崩壊はここまできた! 幸福な家庭の裏側で起きていた悲劇』
 というような見出しが躍った。
 外へ一歩出ればマイクを突きつけられ、テレビをつければ『野原みさえの親しい友人』と称する人物が、
 憶測と中傷交じりのコメントを発し、訳知り顔のコメンテーターによって『無責任な親』『子供を捨てた人でなし』
 と断罪するのを目にし、耳にする。
 ただでさえ娘、息子の安否で身を引き裂かれるような思いをしている親族達の精神が臨界を突破するのに、
 そう時間はかからなかった。
 まず、元々謹厳実直な性格であった野原みさえの父、小山よし治が、
 みさえのことを『浪費家で子供に暴力を振るう鬼母』などと決め付けた週刊誌記者を怒りに任せて殴ってしまい、
 妻である小山ひさえと実家に戻らざるを得なくなった。
 続いて野原つるが精神的疲労がたたって倒れ、実家での療養を余儀なくされてしまう。
 ただ、この一連の出来事によってマスコミ関係者の行き過ぎが指摘され始めたことから、
 過熱報道は収まる気配を見せ始めたのは不幸中の幸いと言っていいだろう。


 また、これと前後するように、マスコミ関係者の車に落雷が立て続けに落ちる。
 野原一家を中傷したコメンテーターの車が見えざる神の槌によって叩き潰されたような状態になる、
 などの怪異が相次いだこともかれに拍車をかけた――と言われている。
 ――なにせ噂の域を出ないものが多数ではあり、このことに関して関係者の口は重いので真偽は明らかではない――
 ただ不可解なことが起きたのはどうやら事実のようで、その怪異は報道関係者の心胆を少なからず寒からしめたようで、
 過熱報道は急速に終息へと向かった。

「――さん。……野原さん?」
「はっ……はぁ」
 執行役の言葉に銀ノ介の意識は井戸の底から浮上した。
 そんな銀ノ介に頓着することなく
 ――おそらく同じような事態に何度も立ち会って慣れているのだろう――
 執行官は淡々と言葉を続けた。
「この家は来月には競売にかかります。
野原ひろしさんは、債務者ですからご自身で落札することができませんが、
もし身内などで優先して落札してくださる方がいらっしゃるなら、裁判所に相談してください」
 銀ノ介は無言で頷いた。
 その眉間には深い苦渋の皺が刻まれていた。

 そんな人間はいない。

 月々のローンを肩代わりできる人間すら、親戚中を見渡してもいなかったのだ。
 ローンの肩代わりも、競売への参加もできない。
 そうなると、息子、ひろしの築いた一国一城は他人の物になってしまう。
 息子がこの家を守るためにしてきた苦労、そしてこの家に対する思いを考えると断腸の思いだが、
 どうすることもできない。
 銀ノ介は部屋の隅でひまわりをあやしているしんのすけを見やった。
(許してくれ……ひろし、しんのすけ)
「何かご質問は?」
「……ありません」
「そうですか。では、私達はこれで」
 最後まで淡々と言うと、執行官たちは出て行った。
「……終わった?」
「なんとか、の」
 銀ノ介は嘆息しつつ答えた。
 これでなんとか後始末の目処はたった。
「しんのすけ、じいちゃんは明日の新幹線で一度秋田へ帰る。
おまえとひまわりのことは、隣のおばさんに頼んである。
いい子にして――」
「オラ、じいちゃんと一緒に明日、秋田へ行くよ」
 思わず銀ノ介は目をしばたたかせた。
「……けどまだ、幼稚園の友達にお別れもしとらんじゃろ?」
「いい。みんなには秋田へ行ってから手紙書くから」
「遠慮せんでいい。大した手間じゃないからの」
 するとしんのすけは、わずかに逡巡するそぶりをみせた後顔を上げ、
「新幹線代だってただじゃない、違うの?」
「……子供はいらん心配せんでいい!」
「本当にそう? 畑、早くなんとかしないといけないんじゃないの?
お金たくさんかかったのに、これからもたくさんかかるのに、
本当に大丈夫なの? ほけんきんも降りなかったんでしょ?
無駄遣いしちゃいけないよ」
「し、しんのすけ……」
 銀ノ介は言葉を失って黙り込んだ。

 確かにしんのすけの言うとおりだった。
 東京でのゴタゴタで大分支出があった。
 今後二人の子供を育てていくことを考えると、一円でも惜しい。
 そして何より畑だ。
 農作物は見かけによらずデリケートなもの。
 しかるべき時にしかるべき世話をしてやらなければ育たない。
 これ以上、東京で後始末に奔走している暇は――正直言って、ない。
 そんな祖父の心を見通したかのように、しんのすけが口を開く。
「オラ、お兄さんだから」

 ――ひまのこと守るってとうちゃんとかあちゃんに約束したから。

 その言葉は心の中だけで呟く。
 誰にもあの世界のことは話していない。祖父達にすらも。
 これは生き残った仲間達の忠告によるものだった。
 下手なことを言えば、『しんのすけが両親に言わされている』と邪推される可能性がある。
 だから一切覚えていない、を通すのが最善、そう仲間達は考えたのだった。
 その忠告にしんのすけは従った。
 本当に辛かったけれど。
 じいちゃん達に嘘をつくのが。テレビでとーちゃんやかーちゃんが悪く言われるのを聞くのが。
 泣きたくなるほど辛かったけれど。
 でも――我慢した。
 それが一番良いことだというなら、そうしなければならないと思ったから。
 そうするのが『立派なお兄ちゃん』、だと思ったから。
(じいちゃん……。本当のこと言わなくて、ごめんね)
 しんのすけは、これで何十度目になるか分からない言葉を心の中で呟いたのだった。




 朝、いつにない沈痛な面持ちでよしなが先生はドアを開けた。
 そのまま一言も発せずに黒板の前へと向かう。
 空気で何かを察した園児達は、無言で席に座り先生の言葉を待った。
「――今日はみなさんに、悲しいお知らせがあります。
しんのすけくんが、おうちの都合で幼稚園を辞めることになりました」
 よしなが先生の言葉に教室にざわめいた。
 ある子は目を伏せ、ある子はため息をつく。
 しかし、どの子にも共通した感情が見て取れた。

 ――やっぱり。

 という感情が。
 子供といえど、連日の報道、そして大人たちの言葉から大体の事情は把握できる。
「せんせい……。しんちゃんは、どっちのおうちへ行くんですか?」
 ネネちゃんの質問に、よしなが先生の眉がわずかに上がった。
 幾つかの苦いものを飲み込みながら、
「……秋田のおじいちゃんのところへ行くことになりました。
だから今日は、しんのすけ君にお別れのお手紙を書きましょう」
「――先生、おわかれ会はいつやるんですか?」
いつぞや、父親の転勤話が持ち上がったとき、お別れ会を開いてもらったことを思い出したながら、
 風間くんが尋ねてくる。
「……お別れ会は、できません」
「え!? どうしてですか?」
「しんのすけ君は今朝、秋田に向かいました。だから……」
 そう言ってよしなが先生は唇を噛んだ。

 ――そんな! せめて、みんなとお別れくらい。

 ――しんのすけ君のお願いだそうです。最後くらい、みんなの迷惑になりたくないから、と。

(しんちゃんが、そんなこと……)
 確かにマスコミ攻勢に晒されたことで、
 園児の父兄の中には遠まわしにしんのすけのことを批判した人間もいる。
 けれど、それはしんのすけが本来考えるべきではない。考える必要はない。
(天地がひっくり返っても、そんなこと言う子じゃなかったのに)
 マイペースの権化とも言うべき野原しんのすけが言う言葉ではない。
 確かにしんのすけの行動には散々は振り回された。
 腹が立つことも……それはもうかなりたくさん、あった。
 けれど、けれど――。
 思考の海に沈むよしなが先生を、園児達は困惑の眼差しで見つめるのだった。

 ほとんどの園児達が先生を見つめる中、一人机をにらみつけている少年がいた。

 ――あいつ。

 シャープペンシルを持つ手に力が入った。
(何だよ……。顔もみせずに行っちゃうなんて。
ちゃんとあいさつしてやろうと思って考えておいたのに、無駄になっちゃったじゃないか)
 文句の一つも書いてやろうと思って――やめる。
(いけないいけない。これは、お別れの手紙なんだしな……。
ええと……。
しんのすけ君、君はとっても、下品で、自分勝手で、わがままで――)

 ――何を書いてるんだ。

 慌てて便箋の上の文字を消しゴムで消す。
(もっと、イイこと書かなきゃ。しんのすけのいいところ、いいところ……)
 虚空をにらみながら、風間くんはしんのすけとの日々を思い出していく。
(しんのすけは、テスト勉強しなきゃならないって言ってるのに、人の都合も考えずに遊ぼうとか言うし、
居留守使ったら、宅配便と一緒に入ってくるし、勝手に水羊羹食べちゃうし、
こっちの台本無視して勝手に殿様役やっちゃうし、共有ロッカー1人で占領しちゃうし、
給食の時にシチューの缶倒したらフランス風フルーツ・ド・ライスシチューにして誤魔化そうとするし、
下ネタ大好きだし、すぐに変な格好したがるし、鬼のいない鬼ごっことか、アルカリイオン捜索とかわけわかんないことするし、
すぐに耳を甘噛みしてくるし、息吹きかけてくるし、
文句言っても、『いやぁ、それほどでもぉ』とか言って全然こたえないし……)

 ――キリがないな。

 風間君は思わず微苦笑を漏らした。
 野原しんのすけは、マイペースで、下品で、わけわかんないやつだ。
 それは間違いない。
 でも――それだけじゃなくて。

 ――風間君がもっと遊びたそうだったから。

 家の鍵をなくして困っていた時、一人だけ気付いて、焼き芋を持ってきてくれた。

 ――明日僕とどっちボールしてくれる?

 ――やだ。

 ――え……。そうだよね、僕となんか……

 ――オラ、サッカーがいい。

 友達じゃないって言ったのに許してくれた。

 あの時だけじゃない。
 いつだったか、映画の世界に入った時、自分はひどい事をしてしまった。
 その時も、許してもらった。
 熱いものが込み上げてくるのを風間君は感じた。
(ちゃんと、ありがとうって言うつもりだったのに……)
 このまま何も言わないまま、分かれていいのか?
 その思った瞬間、胸の中の熱いものは一瞬で心を満たしつくした。

 ――いいわけあるか。

「先生! 僕、早退します! 頭が痛いんです」
 はっきりした声で堂々と風間君は言い放った。
 よしなが先生の視線と、風間くんの視線が宙で交差する。
 先生の視線はすぐに緩んだ。
 チラリとよしなが先生は手元の時計に目を落す。

 ――まだ、間に合う。

「じゃ、先生と一緒に行こっか」
 驚きの色をありありと顔に浮かべて立ち尽くす風間くんを尻目に、
「今から東京駅に行って、野原しんのすけ君のお別れ会をやります。
行きたい人は、手を挙げてください」
 朗らかによしなが先生は言った。
 教室にざわめきが満ちた。
 いきなりの事態の急転に園児達が顔を見合わせるばかり。
 その時、さっと手が上がった。
「ボーちゃん、行くのね?」
 鼻をたらした少年は、コクリと頷いた。
「ぼ、ボクも……」
「ネネも……」
 するとマサオ君とネネちゃんも手を上げ、
 それにつられるように一本、二本と手が上がり始め、瞬く間に全ての手が上がった。
「――分かりました。
それじゃあ、先生、バスを回してくるから、みんなは外で待ってて」
 その言葉に弾かれるように、園児達は教室を走り出て行く。
 最後の一人の背を見送り、よしなが先生は職員室に向かって歩き出す。
 やってしまったという思いはある。
 けれど、同僚のために園児達をのせた送迎バスで成田まで行った時に比べればマシな動機だろう、とも思う。
 きっと園長先生なら分かって――
「……何してんの?」
 よしなが先生は思わず飛び上がりそうになった。
 振り返るとそこには、まつざか先生の姿があった。
「……外でドッチボールやるから、ボールを取りに行こうと思って」
「あんた、何言ってんの? 今の時間、グラウンドはバラ組が使うことになってたでしょ?」

 ――しまった。

 言葉に詰まるよしなが先生に向かって、まつざか先生はため息を一つつき、
 ポイと何かを放った。
 ゆるい放物線をかいて飛んだそれは、よしなが先生の手の中に納まった。
「こ、これ……」
 よしなが先生の瞳孔が一気に拡大した。
「子供達の面倒をちゃんとみてくださいね、だってさ」
「……勿論よ」
 ぐっと、よしなが先生は手の中の送迎バスのキーを握り締めた。
「ほらほら、さっさと行かないと間に合わないわよ!」
 多少意外なものを感じ、
「まつざか先生も行くの?」
 よしなが先生の問いかけに、ふんと鼻を鳴らし
「上尾先生に代わってもらったわ。
まったく……これも一つの手のかかる子ほどカワイイって心理なのかしらね?」
「あはは、そうかもね」
 苦笑しつつ、二人の先生はパタパタと廊下を走りぬけた。




 ――しんちゃん。

 誰かに呼ばれた気がして、しんのすけは新幹線の窓から外を見た。
「あれ……?」
 見慣れた顔がバタバタと走り回っている。
「ひょっとして……。お見送りに来てくれた?」
 嬉しさが怒涛の如くこみ上げてくる。
 窓から飛び降りようとして――しんのすけはその行為を中断する。
(ダメダメ……。オラ、いい子になるんだから)
 銀ノ介に視線を送る。
 昨日までの疲れがたたり、銀ノ介は泥のように眠っていた。
 ひまわりも眠っている。
 しんのすけは、銀ノ介にそっと上着をかけると、ドアへと駆け出した。


「しんちゃんだ!」
「しんのすけ!」
 しんのすけの姿をみとめた園児達からわっと歓声があがった。
「ほっ……」

 ――ほ、ほ~い!

 いつものようにその歓声にこたえようとして、
 しんのすけは大慌てでその言葉を口の中に閉じ込めた。
「みんな、どうしたの?」
 しんのすけの問いかけに、
「しんちゃんが、黙って行っちゃうからみんなでおっかけてきたのよ」
 よしなが先生がおどけて答える。
「そうよ、水臭いじゃないの」
 チョンと、まつざか先生はしんのすけの額をこずいた。
「そうだったんだ……」

 ――ん?

 よしなが先生の顔にわずかに困惑の皺が刻まれた。
 しんのすけの様子がおかしい。
「よしなが先生、ちゃんとご挨拶できなくて、ごめんなさい。
先生には、本当にお世話になりました。ありがとうございました」
「……あんた、何か悪いモンで食べたの?」
 気味悪そうにまつざか先生は顔をひきつらせた。
 すると、しんのすけはまつざか先生に向き直り、
「まつざか先生。今まで散々失礼なこといってごめんなさい。
先生にも、色々お世話になりました」
 無言でまつざか先生はしんのすけの額に手を当てた。
「熱はないみたいだけど、一応病院に連れて行った方がいいかもしれないわね」
 半ば以上、というかなり本気でまつざか先生は言った。
 この上もなくマジメな表情でよしなが先生も頷く。
「……オラ、何か変なこと言った?」
 心配そうにしんのすけが尋ねてくる。
「え? あ、う~んと、ごめんね。とっても立派な挨拶だと思うんだけど、
ちょ~っとしんのすけ君らしくないかなって、思って」
 慌ててよしなが先生が答えた。
 するとしんのすけは安堵のため息をつき、
「よかった……。
オラ、立派なお兄ちゃんになって、ひまのことちゃんと面倒みてやんなきゃいけないから……」
 その言葉で全てを把握した二人の教師は、思わず目を閉じ、唇をかんだ。
 数瞬の沈黙の後、
「そっか……。えらいね、しんのすけ君」
「立派よ、しんのすけ君」
 無理矢理笑顔をつくり、二人の教師は言った。

 ――妹のために自分がしっかりしなければ、

 まだ5歳の少年の悲壮ともいえる決意に、いじらしさとやりきれなさを感じながら、
 二人はしんのすけの頭を撫でた。
 大きく頷き、しんのすけは友達に向き直った。
「ネネちゃん、色々ありがと」
「ううん、しんちゃんもね」
「マサオくんも。遊んでくれてありがと」
「そんなぁ。ボクのほうこそ、しんちゃんのおかげで楽しかったよ……。
元気でね、しんちゃん」
 いつもと違うしんのすけの態度に戸惑いつつも、二人は別れの言葉を告げた。
 その時――

「立派なお兄ちゃんになることと、枠に自分をはめ込むことは別のこと」

 低い声が響いた。
「ぼ、ボーちゃん?」
 ネネちゃんが頓狂な声を上げた。
 いつもぬぼ~っとしている、ボーちゃんとは思えないほどその声は迫力に満ち、
 その眼光には力があった。
「ぼ、ボーちゃんの言ってること、難しくてよく分かんないなあ」
 動揺が入り混じった声音でしんのすけが言う。
 ボーちゃんは無言。
「と、とにかくボーちゃん、ありがと。元気でね」
 それでも、ボーちゃんは無言でしんのすけを見つめ続けた。
 耐え切れないというように顔をそらし、しんのすけは風間くんに駆け寄った。
「風間くん……。今までありがと。
オラ、風間くんとはずっと友達で――」

「――何が友達だ!」

 風間くんのあまりの大声にその場にいた全員が飛び上がった。
 そして次の言葉で凍りついた。

「結局楽になりたいだけじゃないか! 
友達だとかいって、きれいな言葉で飾ったって結局――僕に飽きたんだろう?」

 ――は? ハ? はァ?

 疑問符を顔に張り付かせ、目を点にする周囲を置いてきぼりに風間君の言葉は続く。
「か、かざま君……。オラ、そんなつもりじゃ」
「はっ! 思い出はキレイなままでってわけか? お笑いだね。
違うっていうなら、証明してみせろよ!」
「……分かった」
 何故か瞳をうるませながらしんのすけが言う。
「これが、オラの気持ち……」
 二人の顔が近づいていく。
 唇と唇が触れ合おうとするの刹那――



 げん
 こつ





「だからそういうのは、気持ち悪いからよせっていつも言ってるだろうが!!」

 鈍い音に一瞬おくれて怒号が轟いた。

「んもぅ~。風間くんの愛情表現は激しすぎるゾ。
でもそこがまた、み、りょ、く、て、き~ん」

 ――シナもつくるなっていつも言ってるだろ!? 何度言ったら分かるんだよ、お前はっ!!

 いつものように喉から飛び出しかけた言葉を無理矢理のどの奥に引き摺り戻し、
「……やっといつものしんのすけになったな」
 どこか不敵な調子で風間君は言った。
「え?」
 目を丸くするしんのすけに、
「お前みたいに無神経で下品で分けわかんない奴が、
いきなりいい子になろうとしたって無理なんだよ! ったく気持ち悪いったらありゃしない!」
「なるほどぉ~。風間君みたいに演技するには年季が必要ってわけですな」
「まぁね、これでも苦労してるんだ。
オタク臭を完璧に消すためには熟練の技と細心の注意と迂闊に話題にのらない忍耐力が必要――。
って、何言わすんだよ!!」
 ゴホンと咳払いをし、真剣な表情をつくると、風間くんはしんのすけを正面から見つめた。

「しんのすけにいい子ちゃんは、似合わないよ」

 はっとしたようにしんのすけの眉が上がった。
「そうよ!」
 ポンと肩に手が置かれた。
「あんたは、言いたいこといって、欲しいものは欲しいっていうのが持ち味なんだから。
それを教えてくれたのは……あんたよ、しんのすけ」
「松坂先生……」
「そうそう。そりゃ、先生も腹立つことはあったけど、先生は、そのまんまのしんちゃんが好きだな」
「……よしなが先生」
「ね、ネネもいつものしんちゃんが好き!」
 ネネちゃんがそういったのを皮切りに、
「ぼ、ぼくも!」
 マサオ君が、
「僕も!」
 ボーちゃんが、
「俺も」
「僕も!」
 クラスの園児達が一斉にしんのすけに言葉をぶつけていく。
 みんなの言葉に、しんのすけは照れたように頭に手をやりながら、
「……う~ん、オラみんなに愛されすぎてて困っちゃうゾ。
ああ、一つしかないこの身がうらめしや~」
「すぐそうやって調子に乗る! それは間違いなくお前の悪いところだ!」
「え~、風間くん。君の全てが好きだって言ってくれたじゃない。あれは嘘だったのぉ?」
「言ってねーよ!!」
「そ、そんな。あんなに熱い夜をすごしたっていうのに……」
「だからそりゃいつだよ。何時何分何十秒。地球が何回回った時だよ!!」
いつものやり取りにどっと笑い声が起き、暖かな空気が流れた、その時。

<東北新幹線、間もなく発車いたします。ご乗車になりまして、お待ちください>

 突然夢から覚めた、そんな感覚が全員を襲った。
 鉛の如く重い沈黙が一同を捕えた。
 どの顔もさっきまでとは打って変わって暗く、沈痛なものが浮かんでいる。
「オラ……。いかなきゃ」
 悲しそうに、それでも決然と頭を下げるしんのすけに向かい、よしなが先生が口を開いた。
「しんちゃん……。悲しい時は泣いていいのよ? 我慢しなくて、いいんだからね」
 数瞬の間があって、
「オラ……泣かない。父ちゃんと、約束したから」
「しんちゃん――」
「それに……オラ……」
 しんのすけの答えに、よしなが先生が再度口を開くのに先んじて、しんのすけは続けた。

「オラ、みんなとは、笑ってお別れしたいから!」

 涙をこらえ、何とかよしなが先生は笑顔を作った。
「そうね……。うん、その方がしんのすけ君らしいよね!」
 マサオくんが、ネネちゃんが、みんなが、鼻をすすり唇を震わせる中、
「よしなが先生、まつざか先生、風間くん、ボーちゃん、ネネちゃん、マサオくん、みんな。
見送りに来てくれて、ありがとう……。そんじゃ……またね!」
 身を翻し、しんのすけは一目散に電車の中へと駆け込んでいく。
 その場にいた全員が、目でしんのすけの行方を追った。
 ――いた。
 窓を開けて顔を出し、手を振っている。

「い~つまでも、たえる~ことなく、と~もだちで、いよう~」

 突然、風間くんが大声で歌いだした。瞳を涙でうるませながら、一生賢明声を張り上げる。
 皆がそれに続く。合唱が大気を揺るがした。
「みんな、あのね……」
 幾らなんでもこれはまずい。
 思わずよしなが先生は止めようとして――絶句した。
 周りの、生徒達以外の人間の誰も、こちらの様子にきづいていない。
 いつもなら状況の異常さに総毛だったかもしれない。
 けれど何故かそんな感じはしなかった。
 これは、神様か誰かが与えてくれた奇跡なんだ、何故かそんな風に思えた。

 ――明日の日を夢見て、希望の道を。信じあう喜びを大切にしよう。

 ――今日の日はさようなら。また、会う日まで。

 発車のベルがなり響いた。電車がゆっくりと動き出す。
 風間くんの中で何かがはじけた。
 気がつくと体が勝手に電車を追って走りだしていた。

「しんのすけ――っ!」

 絶叫がその風間くんの口からほとばしった。
「しんちゃーん」
 マサオ君とネネちゃんがその後に続く。
「君の前途に幸あれ」
 ボーちゃんがその場にたったまま、低い声で言う。
「頑張ってね――っ!」
「しんちゃ――ん、元気でね――っ!」
「風間くーん! ねねちゃーん! マサオくーん、ボーちゃん、元気でねー!」
「しんのすけ――っ! 僕ら、ずっと、ずっと――!」

 新幹線の速度は無情だった。
 みんなの小さな体と声はあっという間遠ざかり、見えなくなってしまった。
 風間くんの最後の言葉も風の音にかき消されてしんのすけの耳には届かなかった。
 でも、心には、届いた。



  ――ずっと、友達だからな。


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298:GAMEOVER(5) 野原しんのすけ 306:今日までそして明日から




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