大川平荒馬踊り

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大川平荒馬踊りとは



大川平とは


大川平荒馬踊りが伝えられている大川平という地区は、青森県のなかでもさらに北、津軽半島の先の今別町にあります。北海道と本州をつなぐ青函トンネルの本州側の入り口の町です。今別町は人口約3800人、大川平は人口約600人という非常に小さな集落で、日本の中でも特に過疎高齢化が進んでいる地域ではありますが、地域の人たちはみなとても暖かく、人の良いのんべえたち(笑)です。一度訪れた学生たちが、社会人になっても通い続けてしまうほど、人と土地の魅力にあふれる地域です。



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「大川平荒馬の歴史」

大川平荒馬保存会会長 宮越哲英

 大川子荒馬の起源を語るには、今から四百年余りの歴史を遡らなければならない。
 織田信長が天下統一に乗り出して間もなくの頃(大正十六年)大浦為信により津軽の統一がはたされたが、大正十八年三月秀吉が小田原城を攻めているとき、わずか五十騎の兵と共に戦場へはせ参じ、そこで秀吉より朱印状を受ける。
 そして名前も津軽為信と改め津軽藩を確立した。為信は、藩の財政確立の為に各地に開拓を奨励したが、事半ばにして京都の地で病の為この世を去る。
 慶長十二年二代目藩主となった信牧は、為信の意思を継ぎ弘前城の築城と開拓事業を強力に推し進め、農民であっても成果次第で武士にとりたてたり、年貢の免除など得点を与え、下級武士を先頭に農家の三男四男などに馬を与えチームを作り各地へと送り出した。
 動力や農薬が無い時代の頃、未開の地を開拓することは、劇的な困難があったことを想像できる。
 当時、津軽地方では虫送りサナブリなど、病害虫駆除や農作物の豊作を神に祈る魚隋が行われていたが、大川平に入ってきた人たちによってこの地にも伝えられた。
 長い歴史の中で少しずつ形を変え、地域の若者によりねぶたと共に門づけとなり、現在のような地域独特の大川平荒馬へと変わってきたもので、大川平荒馬は四百年前から始まった。
 形としては、一日の始まりに馬と共に田んぼに向かう様子を、そして農作業に精を出している様子、最後に一日の仕事が終わり喜びながら家路に就く様子を表していると言われている。




「大川平荒馬について」

大川平荒馬保存会 嶋中卓爾

 荒馬は青森県東津軽郡今別町大川平の伝統芸能です。
 荒馬とは、昔のさなぶり行事で田植えが終わり、田の神が天に昇るとき、農民が神に加護と感謝ため催される神送りの行事として伝わってきたもので、今ではネブタと共に8月4日から7日まで跳ね伝えられています。大川平荒馬保存会が伝える荒馬の由来は古く、天正13年、大浦為信が津軽を統一して藩の経済を保つため、馬と農耕を結びつけ農作物の増収を図ったことが起因であるとされています。
 それまで未開の山野だった土地を、汗とほこりにまみれながら、数少ない馬を頼りに共に切り拓いてきた農民達にとって、馬は宝であり労力として大事にされ、苦労を共にしてきた馬の働きと勇壮な姿を現し、跳ね継がれてきたのが現在の荒馬です。最近は北海道・京都・名古屋・大分などの大学生や、荒馬を愛してくださってくれる人達が県内外からたくさん訪れ祭りを盛り上げてくれています。


















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最終更新日 2010年07月20日
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