「バカンス」



―――
日本の夏は、暑い。
この暑さに真っ先にやられたのは冥だった。
彼女は元々気温がそんなに上がらない地方で育ったため、日本特有の蒸し暑さにすっかり参ってしまっていた。
あまり湿度のないアメリカの暑さでさえも苦手とする彼女が、夏に働きたくないと主張するのはもっともな事であった。
しかしこれまた日本独特の勤勉さのおかげで、ゆったりとバカンスを取る習慣などもあるわけがない。
日に日に機嫌の悪くなる冥に、なんとか夏休みが取れるから、と言ってなだめたものの、今度はその日数の少なさにすっかりへそを曲げてしまった。
「せめてどこかへ旅行へ行こうか」
そう切り出したのは御剣だ。
「旅行?」
「そうだ。土日合わせて6日は取れるから、同じ日を一緒に取らないか」
「一緒に?レイジと?」
「‥‥そうだ。私とではイヤか?」
訊ねると冥はぶぶぶと頭を振って、そんな事ない!と顔を輝かせた。
「レイジと二人で旅行なんて!」
嬉しい!と歓声をあげて冥は御剣に飛びついた。
最近はろくにデートどころか会う時間も作れなかったから、なおさら嬉しいのだろう。
早速、どこへ行こうかとウキウキ考え出した冥を御剣は微笑ましく見ていた。
「レイジはどこに行きたい?」
「冥の行きたいところへ。どこへでも連れていってあげよう」
「私はね、涼しいところ!」
あぁでもせっかく夏なんだから南国も捨てがたいわ!、とすっかり冥の心は夏休みへと飛んでいる。
考えてみれば、二人きりで旅行に行くのは初めてだ。
特に冥は、勉強や仕事以外の事で海外に行くのも初めてなはずで、それは年相応にはしゃいでも仕方のない事だろう。
こんなに喜んでくれるなら、もっと早くから誘ってあげるべきだったな、と御剣は思い、その分たっぷり冥を楽しませてやろうと決めたのだった。


―――
それから二人は、旅行に向けての準備に余念がなかった。
とはいっても旅行そのものに対する事ではなくて、休みを取るために仕事の方を片付けておかねばならない。
二人が親密な関係にある事は職場には公表していないので、揃って休む事を相当渋られたが何とか誤魔化して休暇をもぎ取った。
後は抱えてる仕事を休暇に持ち込まないよう、必死に案件を処理していく。
そのため、さらに会える時間が少なくなってしまったが、それも旅行のため、と二人は我慢した。
冥の旅行に対する熱意は並々ならぬものがあり、旅行の話が決まった後からぱったりと暑いだのやりたくないだのの文句がなくなったのだ。
さすがにコレには周りの事務官や捜査官が驚いていたが、事情を知らない彼らはとりあえず彼女の機嫌をなだめるのに必要な労力を使わなくて済む事を喜んでいた。


―――
その冥が、受話器の向こうで固まっている。
『‥‥‥‥‥‥』
「すまん!」
電話機を片手に、鞄に書類を詰めながら御剣は大慌てで謝罪した。
『‥‥どういう事?』
「うム、それが‥‥」
今日は休暇の初日、旅行への出立日のはずだった。しかし御剣は、空港ではなく裁判所へ向かう準備をしていた。
「夕べ遅くに提出していた立件の書類が通って‥‥、急に裁判が決まったのだ。今日開けないと当分先送りになるそうで、変えられなくてな‥‥」
『そんなのこっちだって変えられないわよ!』
案の定、冥の怒りが爆発した。
『どうするのよ!もう出ないと飛行機に間に合わないじゃない!旅行は‥‥私はどうなるのよ!?』
「‥‥きみの言い分もごもっともだ‥‥」
『他の人で出来ないの!?』
「それも考えたが‥‥、この件は私が最初から手がけているし、他にこういう事例の経験がある検事はいない。第一、本当に急な事なので、引き継いでいる時間もないのだ」
『そんなの知らないわよ!』
「メイ、すまないが今回は諦めて‥‥」
「信じられない!何のために昨日までガマンしてきたと思ってるの!」
電話口の向こうで散々喚き散らす様子が手に取るように伝わってくる。
冥の言い分はもっともだ。だが、一社会人として時には耐えることも必要だということを、彼女はまだわかっていない。
さすがに冥に甘い御剣でも、一方的に責められて、いい加減苛立ってくる。
「メイ!いい加減にしないか!」
「‥‥!」
スピーカーから冥が息を詰めたのが聞こえた。少しきつく言い過ぎたか。
自分の大人げなさに気がついて、宥める言葉をかけようとしたが、一瞬早く冥が口を開いた。
「‥そ、それはこっちのセリフだわ!もういい、レイジのバカ!ウソツキ!!」
「な‥‥!」
せっかく冥のために色々気を回してやったのに、“ウソツキ”呼ばわりされてカッとなる。
「なら、勝手にしたまえ!」
「言われなくてもするわよ! ‥大ッキライ!」
プッ、ツ――――――
豪快な捨てゼリフを御剣の耳に叩き込み、通話は切られた。
しばらく呆然と電話機を見ていた御剣が、ぽつりとつぶやく。
「‥‥キライって言われた‥‥」


―――
夏も真っ盛り。
世間は夏休みの旅行シーズン真っ直中という事で、国際空港は忙繁期特有の騒々しさで満ちていた。
浮き足立つ旅行客とは対照的に、冥の表情は沈んでいる。
勢い余ってここまで来てしまったものの、実際一人でどうしたものか迷っていた。
売り言葉に買い言葉とは言え、御剣を怒らせ、ケンカをしてしまった。
そんなつもりじゃなかったのに。ただ楽しみにしていた約束が反故になって、悲しかっただけなのに。
ぎゅっと力を込めた手の中には、すでにデンパサール行きのチケットがくちゃくちゃになって握られている。
頭ではあの男を置いて行ってやる!と思ってはいるものの、心の奥ではどう思っているのか、この状態の紙切れを見ればおのずと分かるようだった。
先ほどから冥の足は固まったように動かない。空港ロビーには、乗る予定だった便の搭乗案内が始まっていた。
「メイ!」
微かに耳に届いた聞き慣れた声に、冥はパッと顔を上げる。
「‥‥!」
気のせいではなかった。人混みの向こうに確かに御剣が冥を目がけてやってきた。
「レイジ‥‥」
「良かった、間に合って‥‥」
一緒に来たかった人物が現れて、冥は思わず潤んだ目をぎゅっと吊り上げた。
「な、なんでここにいるのよ!」
「そりゃあ、‥‥君を探しにきたのだ」
「し、仕事はどうしたのよ!法廷があるんじゃないの!?」
「なんとか午後からにしてもらった。さ、帰るぞ」
そう言って差し出された手に、冥は少し迷いながらも指を添えた。
御剣はそれを捕まえるようにぐっと掴むと、背を向けて歩き出した。
納得いかないながらも、冥は引きずられないようにバタバタと後について行く。
「わ、私はまだ許したわけじゃないんだから!」
「‥‥君の言い分は後でゆっくり聞くから」
虚勢を張ってはみたものの、こちらを振り返りもしない御剣の返事に、言い返すだけの元気は出てこなかった。
やはり聞き分けのない自分に怒っているのだろうかと、冥は不安になる。
それでも、わざわざ連れ戻しに来てくれたことが嬉しかった。


―――
夜、公判を無事終えた御剣は引き継ぎを済ませると、明日からはきっちり休暇を取らせてもらうと宣言して職場を飛び出した。
時間がなかったので、とりあえず待ってろと言って自宅に置いてきたのだが、冥は大人しく待っているだろうか。
部屋で暴れているか、自分のマンションへ帰ってしまったか、それとも今度こそ一人で飛行機に飛び乗ってしまったか。
悪い予想ばかりが頭を過ぎるが、リビングのドアの向こうに人影を見て、御剣はホッと息をついた。
部屋の片隅で、スーツケースに寄り添うように冥が座り込んでいる。
よっぽど旅行に未練があるのだろう。御剣は困ったように苦笑すると冥の元へと向かった。
「‥‥ただいま、メイ。待たせてすまなかったな」
待ちくたびれたのだろうか。のろのろと冥はふてくされた顔を上げた。
「謝るのはそれだけ?」
「‥‥悪かった。せっかく楽しみにしてたのに、ダメにしてしまって‥‥」
小さく座り込む冥を包み込むように抱きかかえる。
「そうよ。ダメになったのは貴方なのに、なんで私まで行けないのよ」
ぷいと顔をそらして冥は言う。半日放っておかれて、さらに拗ねてしまったようだ。
「悪かったと言っているだろう。それとも君は、私がいなくても旅行を楽しめるとでも言うのか?」
「‥‥‥‥」
「私は君のいない休暇などつまらないからな」
「それで、無理矢理連れ戻したというの?」
「そうだ」
御剣に頬を撫でられる冥の顔は、もう不機嫌ではなかった。
バカ、と照れたように小さく呟くと、軽いキスを交わす。


―――
「それにしても、随分冷えているではないか」
先ほどから抱いた身体も、頬も唇も、冷房のせいかひんやりと冷たくなっている。
外から来た御剣には心地よいが、寒くないのだろうか。
彼女の格好を改めてみるといつ着替えたのか、エアコンの効いた部屋にいるにはかなり薄着のワンピース姿だ。
「これ、向こうで着ようと思って買ったの」
なるほど、綺麗な群青色のサマードレスはリゾート地の澄んだ海にとても映えそうだった。
海景色で披露はできなかったが、新しい服を御剣に着て見せたかったのだろう。
きっと、まだ訪れたことのない異国の風景を思い浮かべて、あれこれと選んだに違いない。
冥のいじらしさに堪らなくなった御剣は、彼女をぎゅうと抱きしめた。
「よく似合うよ」
冷え切った肌を感じながら、ちゃんと連れて行ってやりたかったとの思いが強くなる。
「これをビーチで着せてやりたかったな。やはりエアコンの効いた部屋にはそぐわない」
「誰のせいだと思ってるのよ」
笑いを含みながら言う冥も、冷えた身体に御剣の体温が気持ちよいのか、ぴったりと身を寄せる。
「わかってる。お陰ですっかり冷えてしまったな」
そう言って、むき出しの腕に唇をつける。
「あ‥‥」
「暖めてあげよう」
腕から肩へ、肩から首筋へと小さなキスを降らせてゆく。
「やだ、‥‥レイジ‥‥」
冥はひくりと身体を捩ったが抵抗する様子はない。
微かな制止の声に耳を傾けずに、もう片方の肩に掛かっている肩紐をするりと外していく。
濃い色味の布地に冥の白い素肌が一際映えて、薄暗い室内の明かりと窓の外の夜闇に一層艶めかしく映る。
「ぁん‥‥」
鎖骨や首筋に絶え間なく注がれるキスに、冥はうっとりと身を傾ける。
キスを続けながら、御剣は片手で背中で編まれた紐を解いてゆく。
滑らかなボディをしっかりと包んでいたワンピースは、次第に緩められて片方の肩紐だけで頼りなく冥の身体に引っ掛かっている。
半分ほど解いたところで肩に滑らせた唇に肩紐をくわえ、そのまま肩から外してしまう。
支えを失った服はするりと冥の身体から滑り落ち、その眩しい白い肌が目の前に――
目の前に、現れたのは目が覚めるように真っ白な布地だった。
御剣の眼前に露わになるはずだった柔らかい乳房は、白地に上品なプラチナ色のプリントがされた、エレガントなカットのビキニのブラにしっかりと包まれていた。
見れば下も揃いのスイムショーツを身につけている。
「これは‥‥」
予想外のことに目を細める御剣に、冥は少し照れたようにエヘと笑った。
「この水着も買ったの。可愛いでしょ?」
期待の眼差しで見上げられたら、男としてはただ頷くより他にない。
「‥‥あぁ、‥‥可愛いよ‥‥」
その言葉に嬉しそうに笑う冥を前に、御剣は力無く微笑んだ。
ワンピースだけでは飽きたらず、水着まで拡げて試着していたらしい。
実際、一瞬は落胆してしまった御剣だが、その様子を思い浮かべると思わず可笑しさがこみ上げてきた。
それに、改めて見れば水着姿の冥もなかなか――いい。
冥にとてもよく似合う上品なデザインの水着は、彼女のボディラインを惜しげもなく披露しながらも、その清廉さを失わせていなかった。
しかし室内で水着姿という不自然さが、妙にいやらしく見せるから不思議だ。
なんとなくその情欲が不健康なものに思えた御剣は、それを振り払うかのようにヨシ、と立ち上がった。
「レイジ?」
「メイ、待ってろ」


―――
ベランダへの窓を大きく開け放つ。
日本の夏特有のむあっとした熱気がリビングに流れ込んできた。
「何するの?」
「確かここに‥‥」
ベランダの片隅に置かれた袋を開けると、何かを取り出した。冥も何事かと窓辺に近寄ってくる。
「何?それ?」
「少し前に成歩堂が置いていったのだ。正確には成歩堂が持たされていた真宵くんの物なのだが」
そう言いながらもそれを広げると、先にエアポンプを繋いだ。
「あ~!」
空気を送り込まれたソレは、みるみるボートの形をなしてゆく。レジャー用ゴムボートだ。
「せっかく水着を着ているのだから、少しだけ海っぽく‥‥てのはどうだ?」
「あははっ」
御剣のマンションの広いベランダは、ウッドデッキ風に床面が作られている。少しだけ、気分を味わうくらいなら遊べそうだ。
さっそく冥はボートにごろんと寝転がってみる。
ベランダだから、もちろん夜空を見上げる事ができて、なんとなくその気になったような気もする。
「どうだ?」
「ふふふ、なんか恥ずかしい」
くすぐったそうにクスクスと笑いながらも、何だか楽しそうだ。
何とか今回の失敗を取り戻せたと思った御剣は、胸中安堵する。
「私ね」
「うん?」
「私、こういう風に海辺でレイジと一緒に星空見たかったの」
「‥‥そのための水着かい?」
「ワンピースもね」
脱がされちゃったけど、と言って冥はまたクスクスと笑った。
「意外とロマンチックなシチュエーションが好みなんだな」
「女の子だもん。いいじゃない」
照れ隠しのようにつんとすました顔をしてみせる。それから、優しく微笑んだ。
「“一緒”っていうのと、“夜空”は叶えてくれたから、許してあげる」
そう言って冥は目を閉じる。夜風が出てきて心地よい。
生暖かい空気を払い去ってくれる夜風に身を任せていると、いきなり水をかけられた。
「きゃあ!!」
驚いて飛び起きると、横でホースを持った御剣が笑って立っていた。
「なにするのよ!」
「もう一つ、願いをかなえてやろう」
そう言うと非難の声もお構いなしに、ドボドボとホースの水を冥にかける。
「海は無理だが、プールくらいならできるぞ」
言われて足下を見ると、ボートの内側にかけられた水が溜まって、水たまりを作り始めていた。
「やだぁ、もう子どもみたい」
御剣らしからぬ発想と行動に、思わず冥は吹き出した。これでは庭先のビニールプールで水遊びする子どもと同じではないか。
ケラケラと笑いながらその子どものように水を叩いて遊んでみると、なんだか楽しくなってきた。
御剣も調子に乗って、わざと水を冥にかけるようなフェイクをし向けたりする。その度に冥は歓声を上げ、きゃあきゃあと笑った。
「あっ‥‥」
「きゃあぁ!」
そうしているうちに手元が狂ったのか、思いきり冥の頭から水をかぶせてしまった。
すっかりずぶ濡れになった冥がむっとふくれっ面を見せる。
一瞬及び腰になった御剣の隙を見るやニヤッと笑うと、溜まった水を思いきり両手で掬い上げた。
「えいっ!」
「うわぁ!」
冥の細い両手の平とはいえ、かなりの水量を勢いよくひっかけられ、前髪から足下までしっかりと濡れてしまった。
「やられた‥‥」
「あはははっ、お返しよ!」
水着の冥と違って、御剣は職場から帰って上着を脱いだだけの格好だ。濡れたシャツがべったりと貼りついて気持ちが悪い。
「まったく、本当に子どもと同じだな‥‥」
「あら、この余興を始めたのは貴方でしょ」
してやったりとばかりにニヤニヤと笑う冥の得意げな顔といったらない。
御剣はホースをボートの中に放り出すと、とりあえず濡れたシャツを脱ぐことにした。
そんな御剣は放っておいて、冥はまた冷たい水に身を浸してばしゃばしゃと遊び始める。
ふと顔を上げたとき、異変に気がついた。
「な、何やってるのよ!」
御剣がシャツだけでなく、ズボンも脱いでいたのだ。
「濡れていては履けないだろう」
「そうだけど‥‥」
だからといってベランダでトランクス一枚というのもどうかと思う。
そんな冥の動揺を知ってか知らずか、御剣は大丈夫大丈夫といたって暢気だ。
「別に水着とたいして変わらないだろう?」
「‥‥う~ん‥‥」
違う。違うと言いたいが具体的な否定理由が見つからず、冥は唸る。この辺が男と女の感覚的な違いなのか。
そんな冥にはお構いなしで、御剣はよいしょとボートに覆い被さった。
「あ、ちょっと‥‥!」
狭いボートの中では必然的に冥は御剣の胸に抱きかかえられる格好になり、容量オーバーの水が一気に溢れ出た。
「なんだ、結構冷たいな」
冥を自分の上に乗せるように身体の位置をすらしながら御剣が言う。
その冷たい水をかけ続けたのは自分だろうと、つっこむかわりに冥はぺち、と御剣の額を叩いた。
「?」
何故叩かれるといった風に視線を向けられたが、冥は知らんぷりしてぎゅうと御剣に抱きついた。
帰ってからあまり冷房に当たっていない御剣の肌はまだ熱かった。
蒸し暑い外気の中にいるとはいえ、水に浸っていた冥の冷えた肌にはその熱も心地いい。
一方の御剣も、溜まった熱を冥に分け与えるように強く抱き締める。
冥は注ぎ込まれるように急速に伝わってくる熱に、手足が痺れるように浮かされてゆく。
密着させられた冥の柔らかく冷たい肌は、逆に御剣の熱を奪ってゆくが、それとは違う熱が身体の中心で高まってゆく。
少しでも多く触れ合いたくて、深く唇を求めた。
肌とは違って冥の口腔内は温かかったが、かまわずねっとりと舌を絡めた。
肩を抱きしめ、ラインをなぞるように腰をゆっくりと撫でてゆく。
冥はキスの合間にうっとりと吐息を吐き出すと、積極的に脚を絡めてくる。
たっぷりとした臀部を柔らかく揉んでいると、冥は身をよじって太腿を摺り合わせてくる。
しばらくの間、密やかな水音だけに包まれて、長い長いキスを交わした。
唇を離し、新鮮な空気を思い切り吸い込む。
冥の瞳をのぞき込むと、すでにうっとりと潤んで焦点が合っていない。
お互いに水に濡れた肌の感触は初めてで、外の開放的な環境と相まって不自然に気持ちは高まっていた。
先ほどまで冷たかった冥の肌も御剣にも分かるくらい熱を帯びていて、もう水の冷たさすら気にならないほどに、二人の身体は熱くなっている。
背中のホックに手をやると、冥は掠れた声で拒絶の言葉を口にした。
「ダメ‥‥。ここじゃ痛い‥‥」
そう言うと冥はボートに触れないように、完全に御剣の上に乗っかってきた。
彼女を支えようと身を捩ると、腕がボートの縁で擦れてぎゅむと嫌な音がした。
確かにゴムボートの上では寝転がるのに快適とは言い難い。特に冥のような柔らかい女性の肌には不快であろう。
御剣は冥をボートに寄り掛かるように横たえてやると、一人立ち上がった。
床が濡れるのも気にせずに、リビングに入り部屋の奥へと向かう。
手早くランドリーボックスから清潔なバスローブを2枚とると、すぐに冥の元へととって返す。
歩きながら一枚を自らの肩に引っ掛ける。ベランダへと戻るとボートの横にしゃがみ込んだ。
冥はそれを待っていたかのように両腕を伸ばして抱擁をねだる。
抱きかかえながらローブを巻き付け、両腕でその細い身体を抱え上げた。


―――
外気の入り込んだリビングと違い、寝室はまだ空調が行き届いていた。
バスローブごとベッドに寝かせると、冥は巻き付いたローブを拡げてその上に寝転がるような格好になる。
御剣はぐっしょりと水に浸った下着を取り去って、着ていたバスローブにくるんで床に放り捨てた。
冥に覆い被さるようにベッドにあがると、同じく濡れた彼女の水着を脱がせてゆく。
長く水に浸かっていた冥の肌は白くふやけていて、いつものさらりとした肌触りとは違うしっとりと吸い付くような感触になっていた。
それは御剣も同じで、冥の添える手のぺたりとした感触がなんだかくすぐったかった。
しかしその湿り気も、よく効いたエアコンと乾いたタオル地のバスローブにすぐに取りさらわれる。
重ね合わせた肌は、間もなくお互い熱く汗ばんだものへと変わっていった。
絶え間なく冥の肌に与えられる口づけは、彼女の肌を艶めいた桃色に染め上げ、その吐息を甘くとろけさせてゆく。
「メイ‥‥いいか?」
ベッドへ移るまでにすっかり気分も盛り上がっていた御剣は、すぐにでも次へと進みたくて冥に囁いた。
「うん‥‥」

上気したように頷く冥の秘部も、濡れているときは分からなかったが被った水とは違う湿り気を帯びていた。
腰を押し当てると、冥が喉の奥で小さく息を飲んた。
それに構わず一気にすべてを押し込むと、さらにぐっと微かなうめき声を漏らす。
お互い盛り上がっていたとはいえ、少し余裕なく事を進めすぎたか。
最奥まですべてを飲み込むと、冥は恍惚としたため息を吐き出した。
「もう少し濡らした方が良かったか?」
「ううん‥‥、いいの」
御剣にしても、いつもより少し抵抗があったのも確かだ。冥に余計な負担をかけなかったか心配になる。
しかし冥はうっとりと首を横に振る。
「レイジの‥‥早く欲しかったから‥‥」
そう言って冥からも腰を押しつけてくる。
深くお互いを繋ぎ合いながら、また口づけを交わした。
「ふふ。メイから欲しがるなんて珍しいな」
ゆっくりと腰を動かしながら耳元で囁くと、冥は恥ずかしそうに頬を染めた。
「だって、‥‥レイジ、怒らせちゃったかと思って‥‥」
動きに合わせ甘い喘ぎを繰り返しながら冥は答える。
昼間の事を言っているのだろう。そりゃ時間がなかったため少し粗雑な扱いをしてしまったが、彼女の方が不満に思う事はあれど御剣が怒ることなどない。
むしろ御剣の方が彼女の機嫌をとるのに色々思案していたくらいだ。
「私が?‥‥なんでまた」
「仕事なのに‥‥我が儘言っちゃったから‥‥」
出し入れを繰り返す結合部から、次第に淫らな水音がするようになる。
相当感じているのか、潤沢に溢れ出る冥の愛液がさらに動きを滑らかにしていた。
「だから‥‥早く、‥‥いっぱい、愛して欲しいの‥‥」
「メイ‥‥!」
愛おしさに身体を抱く腕に力が入る。ぐんと硬さを増した結合部に冥は敏感に反応して、小さく啼いた。
「あぁ、メイ‥!愛してる‥‥!」
「レイジ‥‥っ」
内からも外からも押し寄せる衝動を堪えるように、冥は御剣にしがみつく。
御剣も溢れ出る愛おしさを伝えるかのように、さらに大きく速く腰を打ち付けた。
快楽よりも気持ちが繋がる悦びに溺れ、快感に歯止めが効かなくなる。
「レイジっ‥私、もう‥‥!」
冥の締め付けが強くなる。離さないでくれと縋ってくるようで、御剣を一層煽り立てた。
もう一時の余裕もない。もっと深くとばかりに穿たれた瞬間、冥はびくりと身体を硬直させた。
「あっ、あ‥、ぁあー‥‥!」
一際高い冥の啼き声と共に、御剣は思いの丈を全て彼女の中にぶちまける。
どくりどくりと脈打つ想いを、二人は感じ合っていた。


―――
「行きたかったかい?旅行‥‥」
優しく胸に抱きながら囁くと、冥はうん、と小さく頷いた。
「でも‥‥レイジと一緒にいられればそれでいい‥‥」
夢見心地から抜け出れていないのか、とろけるように冥は言葉を紡ぐ。
そんな冥に御剣は軽い笑いを零すと、小さく口づけた。
「もう海外は無理だから‥‥、明日は車を出して温泉にでも行くか?」
「‥‥ほんと?」
ついさっきまで惚けていたのに、御剣の言葉に冥はパッと目を覚ました。
その現金さに、御剣は思わず苦笑する。
「今回はすまなかったな‥‥、年末はちゃんと埋め合わせをするから。クリスマス休暇を取って、今度こそ南の島だな」
「もういいったら‥‥」
冗談めかした御剣の言葉に冥は少し恥ずかしそうに微笑むと、それでも嬉しそうに抱きついた。
まぁ御剣とすれば彼女を抱ければどこだっていいのだが、そんな事を口にしようものなら血を見ることは必至なので、黙って彼女を引き寄せる。
そんな思惑があるとも夢にも思わない冥は何か気づいたように、ん?、と顔を上げた。
「クリスマスはダメよ。だって‥‥」
「?」
言いかけて冥は一瞬口を噤むと、御剣をちらりと窺い見た。
「だって、命日じゃない。‥‥お父様の」
父親の命日に、自分のために日本を離れさせるわけにいかないと思ったのだろうか。冥はしゅんと俯いている。
普段はそんな素振りを見せないが、やはりこの件については色々と思うところがあるらしい。
御剣はそんな冥の気持ちを和らげるように、軽い口ぶりで「あぁ、構わない」と言った。
「え?」
「未来の“義娘”のためだと思えば、父だって大目に見てくれるさ」
「え?え、ムスメ?」
「逆に、逃げられないようにとハッパをかけられそうだな」
「えぇ?」
クククと可笑しそうに笑う御剣の横で、冥は耳まで真っ赤になって困惑している。
からかわれたと思ったのか、頬を赤くしたまま冥はぷぅと口を尖らせた。
そんな仕草も可愛いと思いつつ、御剣はまた冥を抱き寄せる。
御剣に翻弄されっぱなしが気にくわないのか、何か言い返さないと、と冥はアレコレと言葉を探している。
「そ、それに、そうよ!」
見つけた!とばかりに勢いよく言い募る冥に、何が出てくるかと半ば見守る気持ちで御剣は次の言葉を待った。
「年末年始って、何でか毎年大きい事件が起こってる気がするんだけど!」
「うっ‥‥、そ、それは‥‥」
「‥‥き、気のせい?」
確かに、と御剣は思う。思えばここ数年、平穏な正月など迎えていない気も‥‥。
「いっ、イヤ!気のせいだ!」
認めてしまったら、今年もやっかいな事に巻き込まれそうで、御剣は必死にそれを否定した。
「そう?」
「そうだ!そんな事はない!」
しかし一度考えてしまうと、そうなってしまう予感でいっぱいになってしまって。
願わくば、それが彼女との修羅場でないことを祈るばかりだ。

―― END ――
最終更新:2006年12月12日 21:50