ミツマヨ1



 私・・・御剣怜侍の朝は早い。
 5時半に起床し、新聞各紙で世界各国の事件事故の報道に目を通す。
 その日課は1時間ほどで終わり、今はコーヒーを片手に朝もやの街をベランダから見下ろしている。
 どんな高級ホテルからの夜景よりも、このマンションの自室から眺める景色が最も好きだ。
 ブラックの苦いコーヒーを一口すする。
 誰にも邪魔される事の無い時間。私にとってこの一時はかけがえの無い安息の時。
 だが・・・
「む?」
 誰かが私の部屋の戸を叩いている。
 ドアチャイムを鳴らさずにドアを叩くとは、外に居る人物は焦っているのだろうか。
「むむ」
 今度はドアチャイムが鳴り始めた。
 1回や2回ではない。まるで、子供の悪戯のように何度も何度も続けて押されている。
「誰だ。こんな朝早くに」
 いくら防音設備完備とはいえ、朝から近状迷惑な輩がいたものだ。
「あ。やっと起きたか。まったく、もっと早く起きてこいよ」
「あれ?御剣検事さんだ。おはようございます」
 ドアを開けた先に居たのは、青いスーツとツンツン頭の青年。そして、不思議な装束を着た少女だった。
「成歩堂・・・それに、真宵くん」
 青年の名前は成歩堂龍一。少女の名前は綾里真宵。
 どちらも、私にとっては見慣れた顔だった。
 見慣れた顔だからこそ、呆れてしまう。
「なるほどくん。ここって」
「御剣の家だよ。ってことで、御剣。真宵ちゃんを2・3日面倒見ててくれないか」
「なに?」
「えーーーー!!?ちょっと、なるほどくんそれどういう」
 これはまた近所迷惑な声だ。小柄な体からどうすればこんな大きな声が出せるのだろう。
「あっと、新幹線に間に合わない。じゃあ、御剣あとは頼んだ」
「待て!成歩堂!!」
 成歩堂はろくに説明もせず、エレベータに乗り込み私たちの前から姿を消してしまった。
「な・・・なるほどくん」
「まったく。成歩堂のヤツ。何を考えているんだ」
「御剣検事さん。ごめんなさい」
「いや。君が謝る必要は無い。とりあえず中に入ろう」


 私は成歩堂の行動に呆れつつ、この状況を整理するために彼女を中へと招きいれた。
「うわぁぁ。綺麗・・・なるほどくんのボロっちいアパートとは大違いですね」
 ボロ・・・糸鋸刑事と実はいい勝負するのではないだろうか。
 ふむ。今度、差し入れでも持って行くか。矢張と一緒に。
「どこでも好きなところにかけてくれ。コーヒーとお茶。どちらがいい?」
「あ、じゃあ。お茶でお願いします」
 綾里真宵。成歩堂の助手として敵になったことも多かった。
 そう言えば、彼女を有罪にしようとしたこともあったな。
「粗茶ですまない」
「いえ。構いませんよ」
 私は彼女と対面になるようにソファーに腰掛ける。
「現状を話して欲しいのだが」
「私だって騙されたんですよ。もう、なるほどくん・・・帰ってきたら絶対にギタギタにしちゃうんだから」
「騙された?」
 確かに先ほどまでの彼女の態度を見る限りでは、彼女の同意の元、ここに連れてきたというわけではなさそうだ。
「なるほどくん。南の島で起こった事件の弁護をするんです」
「ふむ。あの、村長が殺された事件だな。確か、捕まったのは村長の息子」
「それで、今日は一緒に調査に行くって話になってたのに・・・その前に寄る所があるって」
「それがここ・・・か」
 真宵くんは首を縦に振る。
 手にしている茶碗が微かに震えているのは、怒りか悲しみか。
「しかし・・・どうしてこんな遠くの弁護士に頼むのだろうか」
「さぁ。なるほどくんは昔の知り合いの知り合いとか言ってましたけど」
「少し腑に落ちないが、まぁ、ヤツの活躍を考えればありえない話ではあるまい」
「そう・・・ですね」
 歯切れの悪いしゃべり方だ。
「どうした?」
「いえ・・・それにしてはあまり事件のこととかこっちで調べてなかったなと思って」
 事前準備を怠っていた・・・か。
「さすがに現場に向かわないとニュースやワイドショーでやっている程度の情報しかはいらないだろう」
「・・・御剣検事でも?」
「うム。検事局も警察も管轄が違えば情報などほとんど回ってこないものだ」
「あ。そっか」


「それに今は私は日本の検事局には属していない。仮に頼ってこられても無理な話だ」
「うわぁ。御剣検事、むの~」
 ぐっ・・・なぜ、ここで無能呼ばわりされなければならないのだろうか。
「あ~あ。私も行きたかったなぁ。南の島」
「成歩堂も遊びで行ったわけではあるまい」
「そうですけど」
 真宵くんはソファーに深く腰掛け足をプラプラとさせている。
 暇をもてあましているのだろうが・・・この部屋には彼女の喜びそうな娯楽はない。
「テレビでも見るか?」
「あ。平気です。どうせニュースしかやってないし」
 確かにこの時間はニュースばかりだ。
「では、新聞でも」
「字が多いのはちょっと」
 時計秒針が時を刻む音がはっきりと耳に届く。
 普段は心地よいと感じるリズムなのだが、今日はその音が暗く遅く聞こえる。
「あの。私帰りますね」
 突然、真宵くんが立ち上がった。
「押しかけてきちゃってごめんなさい。事務所で留守番か、もしくは里に帰ってます」
「待ちたまえ」
 私は帰ろうとする彼女を咄嗟に引き止めた。
 が、引き止めてどうする。
 確かに物騒な世の中だとはいえ、彼女だってそれがわからない年ではない。
 それに、ここよりも、慣れ親しんだ場所の方が彼女は落ち着くのではないだろうか。
「はい?」
「あ~・・・いや・・・帰りの電車賃はあるのか?」
 私は何を言っているのだ。
「はい。大丈夫です。ありがとうございます。御剣検事」
「う・・・うム」
「じゃあ。おじゃましました。お茶、ご馳走さま」
 それだけ言って彼女は部屋を出て行った。
 さて・・・今日は一日余暇を楽しむつもりだったのだが。
 時計を見る。
 午前7時21分か・・・準備をして出掛けるにはいい時間だな。


「あ。御剣検事」
「む?・・・真宵くん。どうしてここにいる」
 書類に目を落としていたため気づかなかったが、マンションの入口の階段に座っている少女。
 紛れもなく彼女は、朝別れたばかりの真宵くんだった。
「あはは・・・事務所に戻ったけど鍵かかってた。当たり前なんだけど」
「里の方には?」
「・・・電車賃足りなかった」
 真宵くんは苦笑いをしながら横を向く。
「そうか。ではどうする?電車賃を貸そうか?それとも、成歩堂の頼み通り部屋を貸してもよいが」
「そうだなぁ」
 彼女は頬に指をあてて考える仕草をしてみせる。
 と、同時にぐ~~という、何物にも変えがたい人間の欲求が奏でる音が聞こえてくる。
「とりあえず・・・お腹すいちゃった」
 顔を赤くしてへらへらと笑っているが、ひょっとしたら朝に出したお茶以外、彼女は何も口にしていないのではないだろうか。
 成歩堂の事務所から里までは電車で千円強。そして、ここに来るには千円弱。
 ここと事務所の往復だけで彼女の財布は空になってしまっていると思われる。
「わかった。では、行きつけのラーメン屋に案内しよう」
「え!?御剣検事の行きつけ」
「どうした?」
「いや・・・検事って、ラーメンってよりはフランス料理とか高級そうなものばかり食べてそうなイメージが」
「そうか」
「というか、なるほどくん。缶詰とか食べるたびに『あぁ、御剣のヤツ今頃、フォアグラとか食ってるんだろうなぁ』って」
 偏見も甚だしい男だ。
 そうだ。差し入れは缶詰の詰め合わせにしてやろう。
「で。どうする?確かにフランス料理の美味しい店も知っているが」
「あ。ラーメンでお願いします。普段、御剣検事がどんなラーメンを食べてるのか気になるし」
「わかった。では、行くとしよう」
 私は先ほど車庫に入れたばかりの車を出す。
 助手席に人が乗るのはいつぶりだろうか。
「あれ。これ」
「あぁ。気になって調べごとをして来たんだ。後ろの座席にでも置いといてくれ」
「は~い」
 先ほど読んでいた書類を、ついいつもの癖で無意識に助手席に置いてしまっていたらしい。
 彼女は座席に乗っていた、大きな茶封筒を後部座席に置く。
 中が見えない状態にしておいてよかったと思う。彼女が目にするには少々酷な話だ。


「ごちそうさまでした。すごく美味しかったです」
「そう言ってもらえると、連れてきたかいがある」
 今は車で彼女の里まで行く途中だ。
「ごちそうしてもらって、その上、倉院の里まで送っていただけるなんて」
「気にするな。後で成歩堂に経費を請求する」
「あはは。なるほどくんピンチ」
 今までこんなに長く接する機会がほとんど無かったせいか、今日は彼女のことがよくわかった。
 彼女のことを一言で言ってしまえば、喜怒哀楽の表現が実に端的な少女だ。
 たった数時間だが、一緒にいて本当にいろんな表情の彼女を見た。
 朝はやはり、成歩堂に対しての怒りと、私に対する緊張や恐怖があったのだろう。
「あれ?」
「どうした?」
「今すれ違ったタクシーになるほどくんが」
「彼は南の島にいるはずだろう」
 そう南の島にいる。こんな場所で見かけるはずはない。
 少なくとも彼女の中ではそうなっていなくてはおかしい。
「見間違い・・・ううん。違う。あのトゲトゲ頭を見間違うわけないよ」
「どうする?引き返すか?・・・追いつける保障は無いが」
「・・・いい」
 朝と同じだ。
 沈黙がまた訪れる。
 重い重い沈黙。さきほどまであんなに明るかった彼女とはまるで別人だ。
「・・・何か見たのか?」
 そう聞くと、彼女は小さく首を縦に振る。
「御剣検事は知ってたの?」
「どうも成歩堂の行動に不可解な点が多すぎてな・・・少し調べてきた」
「これ?」
 真宵くんは後部座席から茶封筒を手に取る。
「あぁ。まず、南の島の事件。弁護士は成歩堂ではない」
 彼女は黙って私の話を聞いている。
「そして、今日は美柳あやめの仮出所日だ」
 美柳あやめ。とある事件で殺人幇助の罪で捕まった女性。
 そして、成歩堂龍一の元彼女。いや、正確には違うのだが、そう言ってしまっていいはずだ。
 本来なら彼女には保護観察官が付いているはずなのだが。どういうわけか正式書類ではそこは空白になっていた。


「やっぱり。隣りにいたのあやめさんなんだ」
「いたのか?」
「うん・・・暗くてはっきりは見えなかったけど・・・多分、そうだと思う」
 これだけ情報が出揃っているのだ。
 まず間違い無いとみていいだろう。
「なるほどくん・・・私にウソをついてまで」
 成歩堂の考えは私にはわからない。
 彼女のためにウソをついたのか。それとも、自分のためにウソをついたのか。
「・・・ぅぅ・・・なるほどくん・・・」
 彼女が成歩堂を慕っているのは、こういったことに疎い私でもなんとなくはわかる。
 それが恋愛感情からか親愛からかはわからないが。
 だが、少なくとも信じていた人に裏切られた。その気持ちには変わらないはずだ。
 私は泣いている彼女の方を見ないようにしながら車を走らせた。
 こんな時どうすればいいのか。誰も・・・私には教えてはくれなかった。
「御剣検事・・・もう、いい・・・ここで降ろして」
 山の中を走っている時だった。
 車でもまだ30分はかかる。そんな中途半端な場所。
「しかし」
「いいよ。ここから歩いて帰るから・・・ありがとうございました」
 だが、私は車を止めずに走らせる。
「御剣検事」
「ダメだ。そんな状態のキミを一人でこんな山の中に置いていくわけにはいかない」
「そんな状態って。別に自殺なんてしませんよ・・・ただ、一人になりたいだけですから」
「しかし」
「どうして、そんなんに私に構うんですか?こんな面倒な女、降りるって言うんだから降ろせばいいのに」
「・・・成歩堂に君の事を頼まれたからだ」
 今度は何も言わない。
 さすがに納得してくれたのだろうか。
 ・・・何も話さず山道を進む。
 月明かりもほとんど届かないような山道だ。やはり、彼女を途中で降ろさなくてよかったと思う。
 こんな時、弁護士なら・・・成歩堂ならなんと言うのだろうか。
 彼女を気遣う言葉一つかけられず・・・情け無い。


「御剣検事」
 突然、声をかけられた。
「なんだ?」
「カルマ検事とかに女心がわかってないって言われたりしません?」
「ん?・・・あぁ、言われるな。それが?」
「さっき、なるほどくんに頼まれたからって言ってましたけど・・・あぁいう場合はもっと別ないい方があると思いますよ」
「別な?」
「誰かに頼まれたからじゃなくて、御剣検事自身が、私の事を心配だからとか」
「しかし・・・それはウソになる。キミはウソで傷つけられたばかりだ。そんな事を言うわけにはいかない」
 車は里の入口に着く。
 車ではこれ以上、立ち入れ無いはずだ。
「ついていいウソと悪いウソがあるって覚えた方がいいですよ」
 私はそのウソのせいで多くの人間を苦しめてきた。
 もちろんウソも方便という言葉があるように、彼女の言った言葉の意味はわかる。
 だが、日本での検事人生を顧みると、ウソで固められた事件と証拠と犯人。
 ウソそのものに吐き気すら覚えてしまう。
「法廷じゃ、スラスラとウソをつけるのに・・・ホント、なるほどくんも御剣検事も・・・サイテー」
「すまない」
「じゃあ。さようなら」
 彼女が車を降りる。
「成歩堂には私の方から言っておく。だからキミも」
「もういいんです。御剣検事は検事のお仕事・・・頑張ってください」
 彼女は私に笑顔を見せてくれた。
 悲しい笑顔。先ほどまで泣いていた跡が月明かりに反射して・・・不謹慎にも綺麗だと思ってしまった。

「ついていいウソ・・・か」
 私は車の中で先ほどの真宵くんの言葉を思い出していた。
 確かに、あの場合・・・成歩堂の名前を出すのはさらに彼女に追い討ちをかけるようなものだ。
 これも一種の職業病なのだろうか。
 相手が弱る隙・・・それを見つけるのは得意なのだが、どうも喜ばせる方法はわからない。
「冥にでも、話を聞いてみるか」
 そんな風に考え、私は車を走らせた。
 私は全ては時間が解決してくれる、そう思いながら・・・悪い未来など、頭の隅にも存在していなかった。

『御剣』
 成歩堂からの電話は、その翌々日にかかってきた。
『真宵ちゃんが・・・居なくなった』

つづく
最終更新:2006年12月12日 23:39