喫茶店シリーズ#3

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『喫茶店の人々』#3

事務官にアポなしの来客を告げられて、狩魔 冥は来客の素性を尋ねる。

上級検事室に不似合いな、サンダル履きで現れた成歩堂龍一は、脇に抱えていた書類封筒を冥に差し出した。
「はい、これ」
デスク越しに受け取って、中を確認する。
「先週までに提出してもらうはずだったけれど」
「うん、ごめん。でもね」
デスクに肘を突いて、前に立つ成歩堂を見上げた。
「言い訳は聞かない。次に不手際があったらもう“キサマ”は使わないわよ」
パーカーのポケットに手を入れて、成歩堂は肩をすくめる。
「キサマ、か。ひさしぶりに呼ばれたねぇ」
冥は手早く書類をめくって、内容に目を走らせた。
「でしょ?そういえば、倉院には行って来たの?」
「うん。先月ね」
勝手にソファに腰を下ろして、成歩堂はぼんやりと窓の外を見た。
「真宵ちゃんも春美ちゃんも元気だったよ。向こうは山だから、もうこっちよりずっと涼しくってね。そのうちみんなで遊びに来ればいいって言ってた」
「そう」
「まったく、君も人使いが荒いよ。みぬきはぼくが無職でも、文句なんか言わないけどな」
「・・・バカバカしい父親ね」
音を立てて書類をデスクに放り出す。
成歩堂はまったくお構いなしに目尻をさげた。
「最近、霧緒さんにみぬきのマネージメントをお願いしたら、とてもいいみたいだよ」
成歩堂の言葉に、冥はイラっとした。

もう半月も前になる。
自宅で資料を探していて、御剣の部屋にあった判例が見たくなった。
先に電話すると、御剣は家にいなくても戻って用意してくれるだろうから、直接行ったほうが早いと思ったのが間違いだった。
インターフォンを鳴らしてみると、やはり出てこない。
もらっている合鍵でドアを開けると、玄関に見覚えのある靴があった。
いつだったか、華宮霧緒が履いていたハイヒール。
冥はそのまま引き返した。
御剣は、追ってこなかった。

「まったく、なにがみぬきみぬきよ。体よく押し付けられただけの子育てのクセに」
言ってから、しまったと思ったが、飛び出した言葉はもう戻せない。
冥は唇を噛んでうつむいた。
成歩堂がソファから立ち上がり、デスクに近づいてくる気配がした。
・・・ぶたれる。
そう思って、ぎゅっと目を閉じた。
ふわりと、肩に暖かい重みを感じて、冥が顔を上げる。
「どうしたの、冥?」
成歩堂が、自分を覗き込んでいる。
泣き出してしまいそうだった。


「あ、成歩堂さん」
客に不親切なことこの上ない店構えの喫茶店。
ドアを開けると、王泥喜がカウンターでコーヒーを飲んでいた。
「よう」
相変わらず、マスターがそっけなく迎えてくれた。
「最近どう、王泥喜くん。早い時間にこんなトコにいるなんて、仕事ないの?」
隣に座って、成歩堂が聞く。
事務所の所長とも思えない、無責任さである。
「はあ、ちょっとずつは。なかなかうまくいかないですけど」
「ふうん」
「なんか、相手が悪いっていうか。なんでオレの裁判って、毎回狩魔検事とか御剣検事とか、無敗だの天才だのって人ばっかり出てくるのかなぁ」
マスターが挽いたコーヒー豆にお湯を注ぐと、豆がふっくらと膨らんで、いい香りが広がる。
「あっはっは、あんまり負けつづけると、茜ちゃんに愛想つかされるかもね」
王泥喜が飲みかけていたコーヒーを噴出した。
「あ、なんか昔、法廷でそういうことしてた人を知ってる気がするなあ」
慌てふためく王泥喜をまったく気にせず、成歩堂はそう言ってカウンター越しにマスターからカップを受け取った。
王泥喜が店を出て行くと、マスターは自分のコーヒーをカップに注いだ。


「久しぶりだな。アンタがここへ来るのは」
「・・・そうですか?」
「なにかあったかい」
成歩堂が、笑った。
「なんだか、弁護士を辞めてからのほうが、いろんなことが見えてきたような気がするんですよね」
「ここにいれば、それだけで見えてくることもあるぜ」
「・・・現役って、大変だからなあ」
まったく人事のように言い、成歩堂はカップを置いた。
「で、その大変な現役の人なんですけど」
マスターが、壁の時計を見た。
法廷の終わった検事や弁護士たちが集い始めるのには、もう少し時間がありそうだった。
「なんだい」
成歩堂はカウンターに両肘をついて身を乗り出す。
「最近、冥は来ます?」
「ご令嬢?来るが、どうした?」
成歩堂はカウンターにおいてある白い陶器の器から、スティックシュガーを一本抜き取った。
「いや、どうしたのかなと思うことがあって」
スティックシュガーの端を引きちぎる。
「なに、御剣とケンカでもしたんじゃねえのか?イヌも食わないってやつだろうさ」
「ええ!?」
成歩堂がスティックシュガーを持った手を振り、カウンターは砂糖まみれになった。
「おい、師弟そろって店を汚すんじゃねえ」
「いやいや、今の、なんですか」
成歩堂には、マスターがマスクの奥で目をきょとんとさせているのが見えた気がした。
「御剣と冥って、そういうことではないでしょう?」
わずかな沈黙。
「・・・そうか。俺は、ご令嬢は御剣に惚れていると思ったんだが」
成歩堂が、スティックシュガーをわしづかみにした。
「だが、御剣の方は・・・違うのかもしれねえな」」
「・・・ものすごく、証拠不十分じゃないですか」
「クッ、ブランクが長いからな」
マスターがコーヒーカップを傾けて、ゴクゴクと飲み干す。
「それに・・・、証拠があるんですよ」
「じゃあ、提出してみな」
自称ピアニストはニット帽の中に手を入れて、髪をかきむしる。
「くらえ!・・・っていうのは冗談にして。・・・御剣のつきあっている女性を知っています」
「・・・」
「・・・」


新しく開けられたスティックシュガーが、コーヒーに落ちるサラサラという音だけが聞こえる。
「だいたい、冥は御剣の話なんかしてないですからね、一回だって!」
「・・・おい。なんでオマエさんがそんなにムキになるんだ?」
いきなりマスターが声を落とし、成歩堂はごまかすようにスティックシュガーの封を切る。
「いやいや、僕は別に」
「・・・まあ、ジャマすると馬に蹴られる、とも言うからな。がんばりな」
「ち、ちがいますよ」
砂糖を入れたコーヒーをむやみにかき回しながら、成歩堂が鼻にシワを寄せて反論したが、マスターはクッと笑った。
「結局、見えてないことはあるってことだ。俺も、オマエさんもな」

そこでいきなり店のドアが開いて、店主と客は飛び上がった。
「こんにちは、マスター!あ、パパ!」
学校の制服を着たみぬきが飛び込んできて、テーブルにカバンを投げ出す。
「今日、宿題いっぱい出ちゃったんだよ。ビビルバーでショーがあるのになぁ。霧緒さんは、宿題が終わるまでは絶対にステージに上がっちゃいけないって言うし」
カバンから、バサバサと教科書を取り出す。
「そ、そう・・・」
霧緒の名を聞いて、成歩堂はなぜか少し後ろめたく感じた。
「あ、でも今日の英語の小テスト、すっごくよくできたと思うんだけど。こないだ茜さんに教えてもらったからかな。やっぱり違うよね、キコクシジョ、っていうの?」
成歩堂が新しいスティックシュガーを取った。
「そ、そう・・・」
サラサラサラ。
「牙琉さんもキコクシジョだから教えてくれるって言ったんだけど。でもなんでかなー、みぬきが茜さんに教わってる間、ずっとオドロキさんがうろうろしてて・・・、パパ?」
サラサラサラ。
「そ、そう・・・、いや、なに?」
「お砂糖、入れすぎじゃない?」
マスターがまたクッと笑った。
「俺の淹れたコーヒーだ。飲んでもらうぜ」

霧緒とこの店で落ち合うことになっている、というみぬきを残して、成歩堂は暗くなり始めた外へ出た。
茜や牙琉響也もやって来て、店がにぎやかになってきたせいもある。
『・・・ご令嬢は御剣に惚れていると思ったんだが』
だが、成歩堂は御剣と霧緒の関係を知っている。
つまり、冥は報われないのだ。


「マスターの見解だけじゃ、物的証拠はないな。すべては状況証拠か」
ペタペタとサンダルの音をさせながら、成歩堂はつぶやいた。
「・・・苦手なんだよな。状況証拠」
『まったく、なにがみぬきみぬきよ・・・』
そう言った時の冥の顔を思い出す。
あれは、成歩堂が霧緒の名前を出した後だ。
あの時の、今にも泣き出しそうな顔。
やっぱり、放っておけないな。
成歩堂は来た道を戻り始めた。

検事局まで戻ってきたはいいけれど、どうやって冥に取り次いでもらおうかと考えていると、地下駐車場から見覚えのある車が滑り出してきた。
車が成歩堂の横で止まり、運転席の窓が開いた。
「忘れ物なの?」
成歩堂が、笑った。
右側のドアを開けて助手席のシートに体を沈める。
「左ハンドルの車だとさ、助手席に座っても運転してるような気分になるね」
両手を上げて、ありもしないハンドルを握るマネをする。
「いいかげん、運転免許くらい取りなさい」
「うん、でもあと3~4年もしたらみぬきが取ると思うんだ」
「・・・あきれた」
「怒らないの?」
冥が首を回して成歩堂を見た。
「私だって意味もなくいつも怒ってるわけではないわ」
「みぬきの話をしたからさ」
「意味がわからないんだけど」
ハザードをつけたままの車の中で、冥は肩をすくめた。
「ふうん。じゃあ、昼間はみぬきの話をしたから怒ったんじゃないんだね」
「・・・バカバカしい。あなたがみぬきの話をするのが珍しいとでも言うつもり?」
「と、すると」
今度は、片手に持った見えない書類を手で叩くマネをする。
「あの時、僕はこう言った。『最近、霧緒さんにみぬきのマネージメントをお願いしたら、とてもいいみたいだよ』」
「よく覚えてるわね」
「そうしたら、君が言ったんだ。『まったく、なにがみぬきみぬきよ』って」
「・・・」
「でも、今の話だと君はみぬきの話に腹が立つわけではないようだ。これはムジュンする」
「・・・弁護士にでもなったつもり?」
「つまり、君が怒ったのは、この部分だ。『霧緒さん』」
「・・・」
「異議は?」
検事局から何人かの人が出てきて、人が乗ったままの路上駐車に不審そうな目を向けてくる。
冥は車を出した。


御剣以外で、冥が部屋に入れた男性は成歩堂が初めてだった。
「で、話ってなによ」
気ぜわしく聞いた。
成歩堂の事務所には王泥喜がいるし、どこか食事のできる店に行こうかと思ったが、成歩堂が君の家がいいと言ったのだ。
拒否することもできたのに、冥は黙って自宅へ車を向けた。
成歩堂は勝手にキッチンへ入ると、冷蔵庫を開ける。
「なにやってるのよ!」
「いやあ、見事に水しか入ってないね」
「わ、私が料理でもすると思ってるの?」
「思わないけど。キッチンがすごくキレイだもんね」
冥がムッとしたような顔をして、バッグを放り投げるとリビングのソファにどさりと座った。
「おっと、ポテトチップスだ。これ食べてもいい?」
「やっぱりお腹すいてるんじゃないの。だから・・・」
コンビニの袋に入ったままのビッグサイズのポテトチップスを見つけられた照れもあったが、だから食事に、と言えばまるで誘っているかのように聞こえる。
冥は言葉の途中で黙り、成歩堂が菓子袋とペットボトルの水を持って戻ってくる。
成歩堂は、冥の隣に腰を下ろして袋をバリバリと開け、冥は座りなおして距離をとった。
「真宵ちゃんが、千尋さんとお母さんのお墓を移したいらしいんだ」
冥が移動したことに構わず、ポテトチップスを音を立てて食べる。
「・・・・お墓?」
「うん。ほら、この間の命日。ぼくは君からの仕事で行けなかったろ?それで後から倉院のほうに行ったんだけど、その時にね」
そんな話をしたかったのか?
冥は手を伸ばしてポテトチップスをつまんだ。
「こっちにお墓を作ったのは、倉院の里のほうでもいろいろ分家の反対があったかららしいんだ。二人とも一度は里を出たわけだし。でもほら、今は真宵ちゃんが家元だからね。綾里家のお墓に移すことにしたんだって」
「それで?」
「ま、その時には僕も倉院に行こうと思うんだ」
「それで?」
パリっと音を立てて、組んだ冥の脚にポテトチップスの破片が落ちる。
「・・・まあ、そういう話」
「あいっかわらず、バカは仕事を変えてもバカなままね、成歩堂龍一!」
バッグの中に入っている鞭に手が届かず、冥はテーブルの上のペットボトルを投げつける。
「危ないなあ。当たったら痛いじゃないか」
投げつけられた水を受け止めて、成歩堂はキャップを開けて飲んだ。
「あんまり乱暴だと、嫁のもらい手がないよ」
「・・・ッ!」
「おっと、かんべんしてよ」
投げつけるもののなくなった冥が振り上げた手を、つかむ。
「まあ、御剣ならそれでもいいと言うかな」
「・・・バカがバカらしくバカなことを言ってないで、手を離しなさいっ」
「それは、異議?」
手を振りほどいて、冥は成歩堂をにらみつける。
「異議よ!だいたい、怜侍がそんなこと言うわけがない」
「それは、君の推理でしかない。証拠品の提出を求める」
「弁護士みたいな言い方をしない!」
たたみ掛けられて、成歩堂はポテトチップスの袋に手を伸ばした。
「あ、大きいの、見つけた」
パリッ。
冥は肩透かしをくって黙った。


「まったく、なにを考えているのかさっぱりわからないわ、あなたも」
「僕も・・・、御剣も?」
「だから、なんでそこに怜侍がっ」
「知ってるんだろ?御剣と霧緒さんのこと」
成歩堂は、冥の左手をとった。
白い手首に巻きついている、細いプラチナのブレスレットが軽い音をたてた。
「それで、妬いてる?」
冥は、手を振り払わなかった。
「私が?バカバカしい」
「そうかな」
「怜侍は、私のことなんか子供だと思ってるわよ。昔からずっと」
成歩堂は冥の指を口に含んだ。
ポテトチップスをつまんだ塩味がした。
「なにしてるのよ」
「・・・うん」
「離しなさい」
ゆっくりと冥の細い指に舌を這わせる。
一本ずつ、丁寧に。
「・・・っ」
ぞくりとする感覚に、冥が強く手を引いた。
引かれて体を乗り出した成歩堂が、そのまま冥の顎に手をかけて唇を重ねた。
成歩堂の舌が唇を割り、冥が力をこめて成歩堂の胸を押し返した。
「そんなつもりはないんだけど」
「・・・うん」
「バカじゃないの?」
「・・・うーん。好きな女の子の部屋に来た男としては、普通の反応じゃないかな」
振り上げた冥の手を、顔の横で受け止める。
「鞭がないと弱いね、冥」
「やめなさい、成歩堂龍一っ」
つかんだ冥の手を自分の頬に押し付けて、成歩堂はため息をつく。
「やめるよ。嫌われたくないからね」
「・・・・・」
ふいに、冥の目に涙が盛り上がった。
「冥?」
握ったままの手を引き寄せた。
抵抗なく成歩堂に抱きとめられた冥は、そのまま肩を震わせた。
声も立てずに泣く冥の背中を、優しく撫でる。
ずっと耐えてきたものに耐え切れなくなったかのように、冥はただ切ない想いを涙にする。
「御剣が、好きだったんだろ?」
ずっと。長いこと、ずっと。
冥は否定しなかった。
「言わなかったの?」
下唇をかみ締めてうつむいた冥の髪にそっと触れ、成歩堂はそこに唇を寄せた。
「・・・言えば、怜侍は困るわ」
ようやく、冥は言う。
『ご令嬢は、御剣に惚れていると・・・』
あのマスター、やっぱり見えていたんだな。
冥の髪から、甘い香りがする。
「嫌われたくないもの・・・」
言うと、頭に成歩堂のため息が吹きかかった。
御剣に嫌われたくない、冥。
冥に嫌われたくない、成歩堂。
すれ違う想いが、そこにあった。

成歩堂が指を冥の顎にかけると、冥はその手をそっと払った。
体を起こして、片手で頬に流れた涙をぬぐう。
「嘘よ。全部、嘘。忘れなさい」
「冥」
「嘘だって言ったでしょう。今の話は全部、嘘」
ぷい、と顔をそらせた冥を成歩堂が見つめる。
「・・・なに」
その視線に、冥がいらだったように聞く。
「ふうん。嘘なんだ」
「・・・」
「じゃあ、僕も嘘だ」
冥の肩を押すようにして、ソファに倒した。
「な・・・」
「やめるって言ったけど、嘘」
抵抗する冥の手首をつかむと、その手のひらに口付ける。
手のひらに舌を這わせ、指を順番に舐めつくす。
「やめ・・・」
冥の指を含んだまま、成歩堂は彼女の目を見つめる。
手首からひじまでゆっくり舐められて、冥はまたあのぞくりとする感覚に体を震わせた。
成歩堂の舌の感触が、ただ一本の腕から伝わる。
経験したことのない、もどかしいような痺れ。
成歩堂の視線が、痛い。
「やめなさい・・・」
「どうして?」
成歩堂が冥のスカートの上から体に触れた。
男の本気を感じて、冥が逃れようと体をよじった。
より強い力で、押さえつけられる。
「いや・・・!」
はっきりとした、拒絶。
成歩堂が手を離すと、冥はソファの端まで逃げた。
両腕で自分を抱くようにして、足を胸にひきよせるように丸くなる、防備の姿勢。
「・・・ごめん。もうしない」
「・・・」
「嘘じゃないよ。冥に嫌われたくないからね」
「・・・バカっ」
成歩堂は冥から離れて、ソファの反対側に寄る。
「あーあ。あいつには、かなわないのかな」
片手で、口元を撫でた。
「だいじょうぶだよ。あいつは、冥を嫌いになんかならない。絶対」
「なぜそんなことがわかるのよ」
成歩堂の手の中に、冥の感触が残っている。
「ごめん。帰るよ」
立ち上がった成歩堂を、冥が見上げた。
「帰るけど、・・・もう一回だけキスしていい?」
「いいわけないじゃない!」
「・・・そうだよね」
くす、と笑う。
「嫌いになんか、ならないよ。御剣も、・・・ぼくも」


冥は、見送らなかった。
ただ、ドアを開けて出て行く音を聞いただけで。
冥は、成歩堂の跡が残る腕を、そっと撫でてみた。
嘘よ。全部、嘘。・・・好きだなんて、嘘。
声にならないつぶやきが、吐息となって唇からこぼれる。
成歩堂が口付けた唇。それをなぞる指は、成歩堂が口に含んだ指。
ぎりっ、と指先を噛む。
痛みで、あの感覚を打ち消してしまいたかった。
成歩堂の胸の温かさに、すがってしまいそうになったあの気持ちと一緒に。
冥はゆっくりとソファの上で膝を抱えて丸くなる。
御剣でなければ、だめなのだ。

成歩堂は、マンションの下で冥の部屋の明かりを見上げる。
いつか彼女は、御剣をあきらめられるのだろうか。
それとも、御剣が彼女を振り返る日が来るのだろうか。
抱きとめた彼女の体と口づけた指や唇が震えていたのを思って、成歩堂は胸が痛かった。


#4へ続く

最終更新:2020年06月09日 17:56