「抱いて・・・欲しいの。なるほどう・・・りゅういち・・・」
拳は既に真っ白になっていた。彼女の瞳も濡れている。
「もう、貴方を追わない。戻って欲しいなんて、言わないから」
情欲で求められているのでないことは、見ればわかった。あれに僕なりの決意があったように、これには、彼女なりの決意が込められているのだ。きっと。
・・・でも。
「御剣、は?」
途端、彼女は目を見開いた。その顔が真っ赤に染まる。
「どうしていつも怜侍なのッ?! 私は・・・私は貴方の声が聞きたいのに・・・!!」
「狩魔、冥・・・」
それは怒りだった。そして僕は、僕がいかに今まで彼女ときちんと向かい合っていなかったかを、思い知らされたのだった。
「貴方は私と話してるの?! 私は怜侍じゃない・・・だからすべて聞かせてくれなんていう資格はないかもしれないわ・・・。でも、せめて・・・」
瞳に溜まっていた、涙が遂に溢れた。たった、一滴。
それでも彼女は、それですべてを語っていた。
「・・・・・・」
言うより先に体が動いていて、結果的に僕は彼女の耳元で謝罪の言葉を言う羽目になってしまった。彼女が、息を飲む音が聞こえる。
「成歩堂・・・」
彼女の肩は、細く小さく。
「あのさ」
「ええ・・・」
「僕。結構溜まってるから、加減とか出来ないかもしれない」
「・・・・・・」
「けど、いい・・・?」
そういうと彼女は、恥ずかしそうに目を伏せて頷いた。
オドロキ君とみぬきが出かけていて、珍しく僕が事務所の留守番をしていた時だった。
事務所のドアを叩く音が聞こえ、僕は呼んでいた新聞から顔をあげた。ドアの磨りガラス越しに影が見える。
(依頼人か)
居留守を使ってもいいのだが、後からオドロキ君にばれるとまずいし、そもそも留守番の意味がない。どうぞ、と呼び掛ける。が、来訪者が入室してくる様子はなかった。
(聞こえていないのか・・・?)
人影は何やら躊躇っているようで、辺りを見回している。その内入ってくるだろうなと判断し、僕は再び新聞に目を落とした。
しばらくして、キィ、とドアが開く音がした。
その頃には僕はもうすっかり新聞に夢中になっていたので、来訪者が何者なのか、その人物が目の前に来るまで気付くことが出来なかった。
迂闊にも。気付くことが出来なかったのだ。
コツ、とわざと音をたて、彼女は僕の前に立った。僕はその音に顔をあげ、柄にもなく目を見開く事になる。
「狩魔、冥・・・」
「久しぶりね、成歩堂龍一」
そう言って彼女は、昔より大分寂しそうに笑った。
そしてその手には、もう鞭は無かった。
「どうしたんだ? こんなところに、君みたいな人がわざわざ」
「・・・・・・」
僕はあの後、狩魔冥をソファーに座らせ、比較的彼女の好みそうな紅茶を出した。昔の知り合いに対する精一杯の気遣いだったが、勿論安物なので、結局彼女の口には合わないだろう。しかしそれ以前に、彼女は先程から何も言わずに俯き、黙り込んでいる。
「用事があって、来たんじゃないのかい?」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
狩魔冥は答えない。僕は溜息をつき、ソファーに身を沈ませた。
訪ねて来ておいてだんまりを決め込んでいる狩魔冥に、僕は正直なところいらついていた。
(・・・いや。それだけじゃないな)
彼女の目が。仕草が。態度が。
僕に同情している。
証拠品の捏造で法曹界を追われた僕に、同情しているのだ。
それを感じる。この狭い部屋の中で、彼女の胸の内に溢れる僕には必要のないその感情が、僕を限りなく不快にさせているのだ。
「用がないなら帰って貰えるかな? 僕、こう見えても忙しいから」
僕のその台詞にも。昔なら直ぐさま飛んで来た、彼女の勝ち気な反論はない。まったくと言って良い程に姿を消していた。
それが益々僕を不快にさせる。
「狩魔冥」
「なるほどう・・・りゅういち」
苛立ちを含んだ声で彼女を呼ぶと、彼女は弱々しく僕の名を呼んだ。僕は黙って先を促す。
狩魔冥が、口を開いた。
「もう・・・戻ってはくれないの」
「え?」
「法廷に。戻ってはくれないの」
「・・・君にそんな事を言われるなんて、意外だね。戻ってきて欲しかったのかい?」
「ええ」
「・・・・・・」
僕の冷やかしの台詞に、彼女はきっぱりと答えた。それは彼女なりの覚悟だったのかもしれなかったが、その瞬間の僕はただただ驚いていて、それに気付けなかった。
「・・・不意打ち、だね」
そう言うと、彼女は顔を上げて僕を見つめた。その余りにもまっすぐな視線に、僕は苦しくなる。
それは昔の僕の、僕と僕を取り巻くすべての人達がしていた目とまったく同じで。そこには同情など、微塵も含まれていなかった。
僕は一体、何を見ていたのだろうか。
「狩魔、冥」
「会いたかったわ・・・ずっと。貴方の事ばかり、頭に、浮かんで」
「・・・・・・」
「生意気だった私に、嫌々ながらも付き合ってくれて。いつの間にか、寝ても覚めても、貴方の事ばかり・・・」
いつの間にか彼女の目元は濡れていて、肩も小刻みに震えていた。握り締められた拳も、微かに揺れている。何を思ってそのような思考に至ったかは謎だ。凄く謎だったが、僕はもう少し早く、前を向いてあげたらよかったなあと、思った。
僕は彼女を見つめる。彼女の胸元の、昔と同じにそこにある、ブローチを見つめる。
「でもね」
狩魔冥は俯く。彼女の体が強張るのがわかった。
「でも、それを君が言うには」
狩魔冥は黙っている。
僕は続ける。
「少し、僕らの距離は離れすぎていたみたいだね」
狩魔冥は、黙っている。
「残念だよ」
本当に。
僕は再び、溜息をついた。
「じゃあ」と僕は立ち上がり、彼女の目の前のカップを持った。彼女は俯いたまま動かない。
「飲まないみたいだし、片付けるよ」
「ええ」
「・・・御剣は」
「え?」
何気なく出した御剣の名に、彼女は顔を上げた。やはり、連絡は頻繁に取っているようだ。表情でわかる。
「帰って来た事、知ってるの?」
「知らないわ。・・・それが?」
酷くあっさりと言ってのける彼女に、僕はまたしても驚かされた。
「どうして?」
「どうしてって」
「・・・・・・」
「貴方に、会いに来たのよ。怜侍の許可がないと貴方に会えないのなら、そうするけど」
「そんなことは」
ないけど。
ただ、不思議だった。
「・・・ねえ」
「なんだい?」
彼女の声が、震えているのがわかった。気付かないふりをして、僕は問い掛ける。
彼女は何を思ってここにいるのだろう。何を、言いに来たのだろうか。
知りたかったのだ。
――僕は、卑怯だ。
何故かその時、漠然とそう思った。
「お願いが、あるの」
狩魔冥の、声がする。僕はカップを、再びテーブルの上に置いた。
伏せた睫毛はとても長い。
彼女の赤い唇が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「抱いて・・・欲しいの。なるほどう・・・りゅういち・・・」
拳は、既に真っ白になっていた。
「あ・・・やっ・・・な、る・・・っ」
「ッいい加減・・・フルネームで呼ぶの、やめてくれないか」
僕の上に、彼女が座っている。汗やら何やらでソファーは大分汚れていたが、それすらもどうでもいいと感じる程に、僕はこの行為に没頭していた。
久しぶりだからだろうか。
それとも。
「・・・えっ?あ、っん・・・」
夢中なのは彼女も同じなようで、僕はそれが少し、いや、かなり嬉しかった。
「フルネームで呼ぶのっ・・・止めてくれよ・・・冥」
少し速度を落とし、彼女の名前を呼ぶ。彼女は初めはぼんやりとしていたが、すぐに理解し表情を変えると、僕の肩に顔を押し付けた。彼女が言おうとしているのを感じ、僕は止まる。
声は小さく、だがよく聞こえて。
「なるほどう・・・」
「・・・そっち?」
「・・・りゅういち」
「それイイ」
顔が、更に押し付けられる。
純粋に、彼女が愛おしいと思った。丸まった背中を撫でると、背中の半ば、指先が髪の先に触れる。
「髪、のびたんだね」
「いま気付いたの?」
「うん」
服を着て、テーブルごしに話していた時よりも。今の方が、様々な事に気付く。しかし、それは多分僕だけなのだろう。僕は彼女から目を逸らしていたけれど、彼女の方は、僕を見ていたのだから。
「動くよ」
追ってきてくれて嬉しかった。
僕を見ようとしてくれて、嬉しかった。
素直になって思い返せば、こんなにも僕は彼女に喜ばせてもらっている。
僕は、彼女に感謝している。
「あっ・・・りゅういちっ・・・」
そして僕で喜んでくれる彼女がとても愛おしくて。僕は、彼女を妹のように大切にしていたであろう僕の友人に、心の中で謝罪した。
「冥・・・ッ」
「っや・・・りゅ、あん、ああっ・・・!!」
「――――ッ!!」
彼女の中で、僕は果てた。
彼女は何も言わずに、僕の肩に頭を乗せた。
いつまでこうしているつもりかしら、と冥に言われるまで、僕は彼女を抱きしめていた。僕はもう少しこうしていたいと言おうとしたのだが、思い当たる節があり顔を上げる。
「オドロキくん達が帰って来るかもしれない。服は着よう」
「オドロキくん?」
「僕の・・・息子? いや・・・従業員? 今度紹介する」
「・・・ええ」
自然に言葉が出た。
僕たちには、次がある。そしてそれは、僕が。
僕が、求めている。
服を互いに着終わって。ソファーに座り僕が両手を広げると、彼女は来てくれた。僕の足の間に座る彼女を、後ろから抱きしめる。
「こうしないと話せない?」
「うん・・・そうかも」
離れていると、また僕は君を見失ってしまいそうだから。
「あのさ、」
「ええ」
「これから近づいていくんじゃ・・・ダメかな」
彼女は、振り返る。
「最初から、離れてなんかいないわ。貴方がそう、思い込んでいただけ」
「そっ・・・か」
彼女の言葉は何よりも真実で。僕は少し、ほんの少しだけ、泣きたくなった。
「ねぇ」
「何だい?」
「・・・ううん、何でもないわ」
「そう」
何も失くしてなんかいなかった。僕はようやく、それに気付けた気がしたんだ。