喫茶店シリーズ#5

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『『喫茶店の人々』 #5

倉院の里にほど近い駅に、男女の団体が降り立った。
ぞろぞろと改札を出るとそこに、この里でよく知られた倉院流霊媒道の装束の女性が待っている。
「いらっしゃい!みんな」

綾里家の、和室をふすまで二つに仕切れるようになった大きな部屋へ荷物を置いて、一向はワイワイと周囲を見てまわった。
「あ、霧緒さん。あの向こうに見えるのがそうじゃないですか?」
渡り廊下に出たみぬきが、遠くに見える、木の壁で囲われた施設を指さした。
「あんなところに、温泉が?」
「温泉を引いたプールなんだって。観光対策で作ったって真宵さんが言ってました。霧緒さん、水着持ってきました?」
真宵が、喫茶店のマスターと常連客を倉院の里に招待したとき、「各自水着持参でね」と言ったのは、新しくできた倉院のレジャー施設にある「温泉を使った温水プール」のためだった。
最初は滝にでも打たれるのかと思ったことは口に出さず、成歩堂はみぬきに露出の少ないスカートつきの水着を買ってやった。
こんなのこどもっぽい、と不満そうなみぬきの苦情は、断固として受け付けなかった。
「楽しみだな、みぬきの水着」
牙琉響也が腰に手を当ててみぬきの大きなカバンを覗き込み、御剣と王泥喜がすばやく成歩堂を後ろからはがいじめにして止める。
「おちついてください、成歩堂さんっ」
「むうう、離すんだ、王泥喜くん、御剣っ」
「見苦しいぞ成歩堂!」
それを見て笑いながら、霧緒が冥の隣に膝を突いて小声で言った。
「私、新しいの買っちゃいました。うふふ」
冥は穏やかに、笑顔でそれに応えた。
茜が自分の荷物を抱えてきて、そこからショップの袋に入ったままの水着を引っ張り出す。
「私も買いましたよ、ほらほらっ」
まだタグのついたそれは、オレンジ色の三角ビキニ。
成歩堂を背中から押さえつけたまま、王泥喜がその生地の小ささに思わずぶっと噴出した。
女性たちが盛り上がる中、久々に仕事を離れた男たちは、思い思いにくつろぎ始める。
自然に御剣の視線が霧緒を追い、成歩堂の視線が冥を追い、冥は庭に面した廊下へ出た。

なにげなさそうに、マスターが立って来て冥の隣で外を眺める。
「アンタは、来ないのかと思ったぜ」
ひとり言のように言って、空を見上げた。
「心配しなくても、こんなところでみっともないマネはしないわ」
冥は緑の多い土地の空気を、大きく吸い込む。
「いいのか?」
言葉はそっけないが、その口調にいたわりと優しさがあった。
「・・・狩魔は、ジャマなプライドも捨てられないのよ」
そう言ったその横顔に浮かぶ、かすかな微笑。
・・・コイツは、なにかを後悔しながら生きるような女じゃないんだな。
部屋の中で女たちの笑い声が上がった。
マスターはつられたように後ろを見たが、冥は振り返らなかった。
唇をぎゅっと結んで庭をにらみつけ、風に乱される髪を押さえる。
その左手首には、マスターの知る限り常にそこにあった、プラチナの細いブレスレットがなかった。
ふいに、横顔が泣くまいとしている子供のように見えた。
マスターはそっと欄干を離れ、冥の背中に言った。
「強くなりな、ご令嬢。・・・もっと」


「温泉プールもいいけど、まずちゃんと温度の高い温泉に浸かりたいッスね、御剣検事」
部屋の中で大きな体をごろんと畳に転がして、糸鋸刑事が手足を伸ばした。
「おい、ジャマだ刑事。そんなとこにいたら踏みつけちまうぜ」
部屋の中に戻ってきて糸鋸につまづいたマスターが、軽くその脚を蹴った。
「うう、相変わらずひどいッス、昔と変わらねえッス・・・」
王泥喜は、その言葉にひっかかった。
「あれ、イトノコさん、マスターと知り合いだったんですか?」
畳の上で足を伸ばしている男たちと、それぞれの水着やリゾートファッションを披露している女たちが、いっせいに手を止めて王泥喜を見た。
「・・・え?あれ?」
突き刺さるいくつもの視線に、王泥喜が前髪を垂らした。
「クックッ、おもしれえ」
マスターが、知らん振りを決め込んだ成歩堂の横にあぐらをかいて座った。
「この坊ちゃんは、何にもしらねえで、よくあんな胡散臭い店に通ってくれるよな」
誰も何も言わなかった。
王泥喜が、えっと、とつぶやき、茜が腰を浮かせた時、廊下に面したふすまが勢いよく開いた。
「みんな、広間にお昼ご飯の用意できたよ」
倉院流霊媒道家元が元気な声をかける。
それから、部屋の中を見回して、自分の後ろに立っている春美と顔を見合わせる。
「ん?どうしたの?あ、食後のコーヒーは神乃木さんが淹れてくれるんだよね?」
「ああ、かまわねえぜ。とびきり美味い豆を持ってきたからな」
気軽にマスターが引き受け、みんながぞろぞろと真宵の後について廊下に出る。
残された王泥喜の背中を、茜がぽんと叩いた。
「神乃木荘龍。マスターの本名だよ。聞いたことくらいあるでしょ?」

真宵と春美が用意してくれた、山の幸満載の昼食の後で、一行は腹ごなしに春美に里を案内してもらい、それからレジャー施設の温泉プールへ行こうということになった。
全員の水着やタオルの入った荷物を背負って、糸鋸が元気に先頭に立つ。
みぬきと春美が、糸鋸の両腕にぶら下がるようにして歩くのを見送って、マスターは渡り廊下から里を眺めた。
「神乃木さん、行かなかったんだ」
後ろから、真宵が声をかけた。
欄干にもたれていた神乃木が、肩越しに振り返る。
「里は見たいが、あの集団はどうもな。それに、温泉プールもこの体にはちとキツイぜ」
「じゃあ、里は、後であたしが案内してあげるよ。昔、お姉ちゃんが山ブドウを取ろうとして落ちた池とかね」
神乃木が、口元だけで笑った。
「千尋は、ここで育ったんだな」
「・・・うん」
「前に来たときは、こんなにゆっくり眺めてるヒマもなかった」
あの事件の時に。
真宵は隣に並んで欄干に肘をついて、両手で顎を支える。
すっかり、家元の衣装がなじんでいる。
「神乃木さんは、まだ定期的に病院へ?」
「ああ。おかげでかろうじて生きている」
晩秋の風が、真宵と神乃木の髪を揺らした。
「本当は、もうこの体で長く生きる必要はねえと思っていたんだがな」
「・・・」
「あんな連中と、こんな風に賑やかに過ごすことになるなんざ、予想もしなかった」
ふふ、と真宵が笑う。
「考えたら、すっごいメンバーだもんね」
マスクの奥の不自由な目で何を見ようとしているのか、頭を上げて遠くへ顔を向ける。
風に乗って、静かな里に響き渡る歓声がかすかに聞こえてくる。
「あーあ、大騒ぎだね。はみちゃん、ちゃんと案内できてるかなぁ」
それから手を伸ばして、神乃木が腕を置いている欄干の傷を指でおさえる。
「これ。あたしと遊んでて、お姉ちゃんがつけた傷」
神乃木は、愛しそうにその古い傷を撫でた。
「子供の頃からお転婆だったんだな、千尋は」
「・・・元気だったら、今頃神乃木さんと一緒に喫茶店やってるかな。それとも弁護士続けてるかな」
神乃木は欄干の傷を、ぐっと握り締めた。


「・・・オレは。今は、もう少しこの体を持たせたいと思ってる。もう少し、アイツらを見ていたい」
「神乃木さん」
「その方が・・・、そう遠くなくアイツに会った時、面白い話がしてやれるんじゃねえかと思うのさ」
神乃木は、成歩堂の中に千尋が生きていると言ったことがある。
でも、神乃木の中にも、千尋は生きているのだ。
真宵は、ほんの少し嫉妬に近い感情を覚えた。
「神乃木さん」
「ん?」
「お姉ちゃん・・・、呼ぼうか?」
「・・・」
神乃木が、真宵をじっと見下ろす。
「ほら、あたしこれでも霊媒師だし、家元だし。もちろん、霊媒料も取らないからね」
おどけた言い方ながら、真剣な目で真宵は神乃木を見つめた。
見つめ返す目は見えないが、神乃木の動揺は伝わってくる。
「・・・いや」
長い間沈黙してから、神乃木は低く言った。
「オレはまだ、アイツに話せるようなことはなにもしてねえ」
―――あなたはこの先の人生を、後悔するためだけに生きるつもりか。
御剣の言葉が、よみがえる。
真宵は、神乃木から離れた。
「ここ、夕方には冷えてくるからね」
神乃木を残して、廊下を引き返す。
温泉プールでは、みんなが大騒ぎをしているだろうか。
御剣検事なんか、鼻まで温水に浸かって動かないんじゃないかな。
なるほどくんは、冥さんの水着姿に鼻血出してなきゃいいけど。
それに、イトノコさんが暴れたら、温水なんか全部なくなっちゃうかも。
いいなあ、あたしだって皆と遊びたいよ。
少し不自由な立場になった家元は、それでも自分を探す修行中の霊媒師の声に返事をして、足を速めた。

里を歩き回ってプールで散々騒いで、温泉に浸かった後は夕食で飲んで食べてすっかり満足した一行は、ふすまで仕切った部屋に男女で別れて布団を敷いた。
水着に続いてパジャマで大騒ぎする女性たちに、男性たちはそれを見ながら部屋に持ち込んだ缶ビールを空けてゆく。
夜が更けて、さすがに全員が寝静まった頃、神乃木はそっと寝床を抜け出した。
秋とはいえ、大勢が一室で寝ている空気が暑い。
ゴウゴウといびきをかいて眠っている糸鋸をまたぎ、ふすまを開けてそっと外の廊下へ出る。
風の冷たさが心地よかった。
千尋がつけた傷のある欄干を手で探りながら歩く。
廊下の先に、ぼんやりと灯りが見えた。
なにげなく、足をそこへ向ける。
小さな灯りは細く開いたふすまから洩れており、中に人がいた。
思わず、手をかけて開ける。
かたん、という音が深夜の静寂を破った。
ゆっくり振り返る、霊媒師の装束を着た女性。
にっこり、笑う。
限りある視力でもわかるその笑顔を、神乃木は知っている。

「眠れないんですか、センパイ」


喉がひりつくほどに渇いて、声が出ない。
「・・・それ、誰だ?」
彼女はくすっと笑った。
「春美みたい。急に呼び出すんだもの」
「そうかい・・・」
「さっき、真宵と少し話をしたの。みんな、来てくれてるのね」
「ああ・・・」
「明日は、私のお墓参りなんですって?」
「ああ・・・。やっとここへ帰ってこれたぜ」
神乃木が手を伸ばして、髪に触れた。
「私は、向こうにいても良かったのに。センパイ、いつも来てくれるでしょう?」
引き寄せて、抱きとめた。
会うことはできないと言った意地が、溶ける。
「・・・千尋」
腕の中に抱いたのは、まぎれもなく愛した女だった。
言葉が、口をついて出た。
「すまねえ・・・オレはお前を守れなかった」
ただ、それだけを思って生きてきた。
千尋は力をこめて神乃木を抱きしめ返した。
「ごめんなさい。私は、あの時あなたを守ることができなかった」
神乃木の表情に、驚きが広がる。
「後悔してたの。あの時、一緒にいなかったことを。あの子があんなマネをするのを、止められなかった」
お互いに。
お互いの、最大のピンチの時に、そばにいなかった。
「・・・そうだったのか」
神乃木が後悔し続けたのと同じように、千尋も後悔していたのだ。
そっと頬を撫でる。
「不思議なもんだな」
春美の体のはずなのに、形状と意識は千尋。
「私にもよくわからないの。だって、霊媒師の修行はしたけれど、霊媒される方は教えてもらわなかったから」
千尋が少し笑った。
「でも、私が出て行ったら、元通りの春美に戻るはずだから・・・」
神乃木は後ろ手にふすまを閉めた。
小さな燭台の明かりの中で、神乃木は千尋の唇をふさいだ。
長くそうしてから、千尋の耳元でささやく。
「いいのかい・・・」
答えを待たずに、千尋の体を抱きかかえるようにして畳に横たわらせた。
触れた脚も腰も、なつかしさと愛しさがよみがえる。
密着した肌から伝わる温もりが、すでに失われたものなのだと思うと、神乃木はただ強く千尋を抱きしめることしかできなかった。
手の中に抱くことでよりいっそう、失いたくなかった、守りたかったという思いが強く自分を責める。
後悔だけが、神乃木を満たす。
「・・・泣いてるんですか」
痛いほど抱きすくめられていた千尋が、腕の中で体を震わせる神乃木に言った。
「いやですね、泣きたいのは私ですよ。なんせ、死んじゃったんだから」
「千尋、オレは」
「後悔、しないでくださいね」
「・・・」
千尋が神乃木の言葉を唇でさえぎった。
「それ、全部私にください。センパイの後悔」
神乃木の背に回した腕に、力をこめて千尋は言った。
「だから、できるだけ、できるだけでいいからそばにいてください。あの子たちの、そばに」
「・・・」
「私のできなかったこと、お願いします」
「・・・」
「それで、できなくなったら。その時は私に、あの子たちの事、話してください。ね?」
「・・・」
「やだ、まさか忘れたんですか、男が泣くのは」
神乃木は親指で千尋の唇を押さえた。
「そうだ。まだ終わっちゃいねえ・・・」

うなじに手を回して、指で押し広げた唇に舌を差し入れるように口付ける。
千尋の舌がそれに応え、むさぼるように求めた。
果てしなく続くかと思えるほどの長いキスの後に、神乃木は千尋の装束の帯を解いた。
時間が、急速にさかのぼる感覚。
神乃木は千尋の耳に舌を差し入れ、首筋や背中に跡を残さないように、柔らかく唇を這わせる。
ぎこちない動きが次第になめらかになり、触れるか触れないかの危うさで乳房をなぞった。
その質量と柔らかさを確かめるように手の中に収める。
「ん・・・」
千尋の腕が神乃木を抱いた。
失われた時間をとりもどすかのように、千尋は神乃木を、神乃木は千尋を求めた。
千尋が上になると、神乃木の胸に腹に腕に口付け、撫でる。
しなやかな指が湿った唇が、皮膚を撫でる感覚が神乃木の体の奥に火をつけた。
自分の上の千尋の腰を掴み、そのまま感触を楽しみながら上へ手を滑らせる。
吸い付くような肌のなめらかさは、記憶のままだった。
豊満な尻をなぞった手を、花弁に差し入れる。
「・・・っ」
千尋が一瞬震え、神乃木のまだ残る理性がその先をためらわせた。
潤んだそこに、それ以上なにかすることへの罪悪感。
今の千尋の肉体に対する、不安感。
神乃木が手を引いたのを感じて、千尋は下の方に頭を下げた。
柔らかくて生暖かい粘膜に包まれて、神乃木は低くうめいた。
体中の血流が集まるかのような快感に、股間に伏せた千尋の頭をつかむ。
指の間に髪をからめると、ほどかれた毛先が太ももをくすぐる。
だんだんと卑猥な水音を立てながら、千尋は神乃木を愛撫した。
壊れ物のような体に負担をかけないように。
「ク・・・」
技巧的に優れているとはいえないその愛撫にも、次第に熱がこもる。
千尋の口に余るようになったそれが、息を詰まらせた。
「んは・・・っ」
唾液と体液でぬめったそれを口から離す。
神乃木が体を起こして千尋を組み伏せた。
やや乱れた息遣いで、片脚に手をかけて開かせる。
「大丈夫・・・?」
神乃木の体を気遣うように言う千尋の言葉は、神乃木の唇でふさがれた。
「・・・男は上だ、コネコちゃん。そいつがオレのルールだぜ」
やおら両脚を肩に担ぎ上げ、目の前に開いたその場所に口付けた。
「・・・あ」
舌が縦に何度も往復すると、千尋の唇から切なげな声が洩れた。
「はあ・・・、あ、あ、んっ」
わざと大きく立てるぺちゃぺちゃという音とその声で、神乃木の最後の理性は落ちた。
差し入れた指は程よいきつさで締められる。
充血してふくらんだ花の芯に触れると、千尋の体は弓なりに反る。
その突起を舌先で押したりこねたりすると、焦れたように千尋が腰を波打たせた。
執拗に加えられる刺激から、逃れようとするかのように。
すでにすっかりあふれている蜜壷をを強く吸い上げると、悲鳴のような短い声が上がった。
「ああっ、もう・・・」
それでも執拗に舐め上げ、つつき、吸い続けると、千尋は両手で畳を叩くように身をよじる。
「や・・・っ、あ、あっ」
神乃木の両手で押さえつけられた脚ががくがくと震えた。
がっくりと力の抜けた腰から離れて、神乃木はいきり立った彼自身をそこに当てた。
「ん・・・っ」
愛する人を受け入れた喜びが、千尋を満たした。
愛する人に受け入れられた喜びが、神乃木を満たす。
始め緩やかに、だんだんと速さと強さを増す律動が、二人を上り詰めさせる。
神乃木が眉根を寄せて息を乱す。
千尋が腕を伸ばしてその首を抱いた。
「あ、あ、あああっ」
千尋が体を反らし、びくりと震える。
神乃木が喉の奥でくぐもったような声を発して、体を引いた。。


千尋は体力を使い果たしたように突っ伏す神乃木の背に、優しく触れた。
「・・・情けねえな」
顔を背ける神乃木の耳元に、くすくすと笑いながら千尋は囁く。
「私・・・死んじゃうかと思いました」
二呼吸分の時間、神乃木は考えた。
「・・・すごいことを言うようになったな、千尋」
体をひねって腕を開き、千尋を抱く。
いつまでこうしていられるのか、それを聞くのは怖かった。
「オレが近いうち、そっちに行ったら・・・」
聞き取れるかどうかといった声で、神乃木が言う。
「間違いなくお前のところへ行けるように、迎えに来てくれねえか」
「センパイ?」
「もしそっちでこの目が役に立たなかったら、会えねえかもしれねえだろうさ」
「・・・」
「それだけが、心配でな」
千尋が、ぎゅっと神乃木を抱きしめた。
「ダメですよ。まだ来ちゃだめ。まだまだ、あの子たちはあなたを必要としているもの」
その言葉に、神乃木は意外さを感じた。
ただ生きているだけになりそうだった自分の毎日に、彼らが与えてくれた生き甲斐。
誰かが尋ねてきて、闇色の飲み物で笑顔を見せる。
それを楽しみにできる、日々。
「必要?オレを?」
千尋の手が神乃木の頬に触れ、温かみが伝わる。
「そうですよ。センパイの喫茶店がなければ、あの子たちどこで息抜きするんですか。どこで、あんな嬉しそうな顔して、あんな楽しそうにはしゃぐんですか」
「・・・千尋」
「私は待てるから。急がなくても、あなたを待てるから」
神乃木は、それ以上語る言葉を見出せなかった。
「センパイ。まだ」
「ああ。・・・泣いちゃいねえ」
そう言う唇に、千尋のそれが押し付けられた。


翌朝、一行は真宵の案内で、墓参りへ出かけた。
それぞれが、さまざまな思いで綾里家の墓に手を合わせた。
最後まで墓前で手を合わせていた成歩堂が顔を上げると、横に真宵がいた。
「ありがとう、なるほどくん」
成歩堂は、墓石を見つめる。
「千尋さんは、僕のことを怒ってるね。きっと」
今の姿を、千尋になんと説明してよいか。
真宵は、言葉の代わりに成歩堂の背中をバシンと叩いた。
「いいんだよ、なるほどくんはなるほどくんだから」
「・・・」
「いいんだよ。なるほどくん」
成歩堂は、少しうつむいた。
「ありがとう、真宵ちゃん」
綾里家の墓に背を向けて、成歩堂と真宵はみんなの後について歩き出す。
「なるほどくん」
「ん?」
「もし、この先、なるほどくんが子育てに追われてお嫁さんをもらい損ねて、みぬきちゃんがお嫁に行って、寂しい老後を迎えたらさ」
「なんだよ、それ」
成歩堂が笑う。
真宵は、真剣だった。
「そしたらさ、老後はこっちへおいでよ。なるほどくんの一人や二人、面倒見てあげられるよ」
「・・・」
「ね、そうしなよ」
顔を上げると、みんなの後姿が見えた。
まっすぐに背を伸ばして歩く、冥の背中も。
「ありがとう。真宵ちゃん」
真宵が、ほっとしたように笑った。

荷物をまとめて、一行は綾里家を後にして駅へ向かった。
もっとゆっくりできるといいのにね、と真宵は言ったが、今回このメンバーが同時に休みを取るのもかなり難しかった。
みぬきと別れを惜しんでメアドを交換する春美に、昨日と変わった様子はみえない。
神乃木はやや複雑な思いで、それを見つめていた。
「あーあ、明日からまた現実が戻ってくるんだ」
思い切り腕を伸ばして、先頭を歩く王泥喜がぼやき、
「仕事のないヒマな現実が?」
と、隣で茜が茶化す。
その後ろを、響也と並んで歩きながら、みぬきが口をとがらせた。
「みぬき、もう少しここにいたいなあ、ねえパパ?」
「そうだねえ」
なにげなく、みぬきと響也の間に割り込んで、成歩堂が父親の顔で笑った。
「成歩堂さんはともかく、みぬきちゃんは学校もステージもありますから」
のんきな成歩堂親子を、しっかり者のマネージャー、霧緒がたしなめる。
「ボクも、もっと休みが欲しいんですけどね」
と言う響也の苦情を、背後から御剣が言葉でひねりつぶした。
「検事局はいつでも人手不足だ。キミに回したい案件が私のデスクに山積みになっている」
後輩をやりこめた御剣は、あえて霧緒と距離をとり、歩調をゆるめて後ろを歩いている冥に並ぶ。
冥は御剣が言葉をかける前に、斜め前にを歩く糸鋸に追いつくようにすっと御剣から離れた。
今はまだ、御剣に優しくされたくなかった。
人の荷物まで持てるだけ持って歩く糸鋸に並ぶと、封筒に入ったお土産代を渡す。
「駅の売店で、忘れずに買うのよ」
「検事局にお土産ッスか?狩魔検事も気のきくところがあるッスね」
「あいかわらず、バカのバカげた発想ね。検事局がいつそんなのんびりした職場になったの。
あなたが刑事課に配るお土産に決まってるじゃない。裁判長の分もよ」
「か、狩魔検事・・・!」
「あっはは、よかったねーイトノコさん!イトノコさんのお給料じゃ、マコちゃんのお土産しか買えないもんね!」
送りがてら付いて来た真宵が、感動している糸鋸の大きな背中を叩いた。

一番最後を歩きながら、神乃木はその様子を眺めている。
それぞれが、前へ歩いていく後姿を、眺めている。

あの子たちの、そばにいてくださいね。
千尋の声がする。
あの子たちは、あなたを必要としているもの。
神乃木は、空を見上げた。
この目が空の青を知覚できることを、幸せだと思った。
「・・・マスター!」
風に乗って、神乃木を呼ぶ声がする。
駅に着いたあの子たちが、遅れた神乃木を呼んでいる。
神乃木はもう一度だけ里を振り返ると、唇の片端を持ち上げてかすかな笑みを作り、足を速めた。


これまでの、そしてこの先の人生を、後悔しないために。

最終更新:2020年06月09日 17:47