成歩堂×千尋⑧

「あー、なるほどく~ん、なんかね、あたし楽しいよぉ~」
 …完全に酔っ払っている。
ぼくが家に帰ってきて転がっている空の缶に気付いた時には、真宵ちゃんは既にそんな有様だった。
「なんだよ、未成年が酒なんか飲んで。しかも3本もか…」
 だらしない格好で寝そべっている真宵ちゃんを横目に、ぼくはネクタイを緩めてぶつぶつ呟く。
「気分が悪くなっても知らないぞ。でも、人んちで吐いたりしないでくれよな」
 すると、真宵ちゃんはいきなり起き上がったかと思うと机に突っ伏して、けらけらと楽しそうに笑った。
「やだなぁもー、あたしお酒なんかのんでないよお。それに、気分はすっごくいいんだってば~」
 …容疑者の状態、供述、物的証拠から推測するに、以前量販店で買ったジュースと思わしき缶飲料が、
実のところアルコール入りだったんだな。…まったく、日本語表記のない得体の知れないものを買うから。
「♪きょーおもーお江戸はーさーつきー晴れ~♪」
 酒に弱い体質に空きっ腹も手伝って、実に見事な酔いっぶりだ。当社比で3倍はうるさい。
この場合、悪いのは酔っ払いでも、結局面白くないのは素面の方だ。
「仕方ない、便乗するか…」
 ぼくも冷蔵庫に残っていたビールを開けた。はぁ~ああ…やっぱり、仕事上がりの駆けつけ一杯はウマイ。
「おっ、いい呑みっぷりだねぇなるほどくん!よっしゃ、気に入った!もっと呑め!」
 調子いいもんだな。しかし、真宵ちゃんが出来上がっていなければ、酒盛りをする気などなかったし、
そもそも今夜はふたりで外食する予定だったので、つまみになるようなものも全くありはしない。
 あまりにも侘しいので、何か買ってこようかと思案してみたが。
「♪ひゃあっかりょおらーんん、へんげんじざいー、ヒ~メサーマーン~♪」
 このへべれけは、置いていくのも連れて行くのは大いに不安なのだ。
「あ~、おっぱいーおっぱい触りたいな~」
 いきなり訳のわからないことを云い出すし…。
「…あのさ、真宵ちゃん。食べるものないから烏龍茶飲んで酒抜きしろよ」
「今あたしがほしいのはおっぱいだけなの~っ!」さらに机をバンバンと叩いて喚いた。
 管を巻くだけでなく、幼児退行もするとはタチが悪すぎる(いや、場末の呑み屋のオッサンかも)。
「せめて、ここがぼくんちで良かったと思わなくては…」
 とりあえず真宵ちゃんの酒癖を知らずに外で恥ずかしい思いをすることは免れた。
「…ンだからぁ、触りたいんだってば~」
 それでも真宵ちゃんはぐだぐだと続ける。
「無茶云うなよ…だいたい誰のをだよ…」まさかぼくのじゃないだろうな。
「そんぁのお母さんのに決まってるでしょ~」
「……」ああ、真宵ちゃんは…。
「なるほろくんはちっさい頃おっぱい飲んだの覚てる~?」
「さすがに覚えてないだろ…それにろれつがまわってないぞ」
「でもねぇ~あたしは覚えてるのよ~」半分寝ているような顔をしてこっちを向く。
「…お母さんを?」
 真宵ちゃんが小さい頃に失踪して、今もその行方は知れないという綾里流霊媒道の家元の…。
「ううん違う…昔ね~、あたしがお母さんを寂しがるとね~、お姉ちゃんおっぱい触らせてくれたの」
「…所長…、が」
「そ~。でね~、そのおっぱいね~、つきたてのお餅みたいにすっごいやわらかいのよ~」
「…へ、へえ」
「でもねえ、いっくら吸ってもおっぱいは出ないの」
「そんなことまでしたわけ…?」
 ああ、いかんいかん。つい、ぼくはリアルな想像してしまいそうになり、ビールを喉にかっ込んだ。
「そりゃそうだよねえ、お姉ちゃんがチューガクかコーコーセーの時だもんねえ~あはははは」
「…だから、所長の胸はあんなに大きくなった、のか…?」
 あの広い屋敷の縁側で…学生服の姉の乳房を無心に吸う妹…。
うおわー!イカン異観遺憾偉観これ如何!どうやらぼくも悪酔いしているのかもしれない。
「お姉ちゃん…」
 真宵ちゃんは腕を組んで机に顔を伏せた。
…ぼくには真宵ちゃんにおっぱいをあげることは、云うまでもなく出来ないので、
かわりにそのてっぺんにだんごがついた頭をよしよしと撫でてあげる。
すると、真宵ちゃんはそのぼくの手を掴んで引き寄せると、その指をちゅうちゅうと吸いだした。
 う…、なんかその感覚には、ぼくの母性なんかよりも反応するものがあるんだが…。
「なるほどくんは、お姉ちゃんと恋人同士じゃなかったの?」
「…ぅへええぇえ?」
 更なる発言にぼくはずっこけそうになってしまった。
「何云ってるんだよ…そんな訳ないじゃないか」
 母恋し、姉恋しときて、次は所長とぼくか…。まったく、真宵ちゃんの思考は読めない。
「そうかな」
「所長とぼくはそんなんじゃないよ…」
 そうだよ、そんなんじゃないんだ。
「じゃ、なるほどくんはお姉ちゃんのおっぱい見たことないんだ」
「だから何でさっきからそう話が飛躍するんだよ!」
 しかし、真宵ちゃんはぼくの云うことなど意にも介していないように続ける。
「じゃあ、お姉ちゃん喚んであげるから触らして貰いなよ」
「は?…な、何を云って…」
「あのおっぱいは触っておきべきだよ、なるほどくんも興味あるでしょ?」
「や、そうじゃなくって!真宵ちゃん酔いすぎだよ!」
「お姉ちゃんもなるほどくんならイヤじゃないからさ」
「…そんな勝手なことを!!」
 泡食っているぼくを放って、真宵ちゃんはその辺に散らばったペンと紙をとった。
「よし、手紙書いとこ…、んっと…」
 その表情がぼくには良くわからない。そもそもぼくの思考が追いついていない。
「これお姉ちゃんに見せてね」
「え?あ、お、おい…!ちょっと待った…」
「あ、あたしは今度、はみちゃんに降ろして貰った時にでも触っちゃうから平気」
「そうじゃないだろー!」
 メモ紙を置いてそれだけ云うと、真宵ちゃんはやっぱり何も聞こえないようにがっくりと机に伏せて、
そのままぴくりとも動かなくなってしまった。…こうなってしまってはもう遅い。
「真宵ちゃん…!」
 交霊中に体を揺するのは危険だろう。しかし…いくらなんでも強引すぎる…。
ぼくは一気に酔いから覚めてしまった。
 うう…くそっ、真宵ちゃん、一体何なんだ?どういうつもりだ。勝手なことするなよ…。
そう、ぶつくさ呪い言葉を吐いていると、不意に真宵ちゃんの体がピクッと動いた。
「…しょ、所長?」
 ぼくは変な汗が背中に伝うのを感じつつ、そちらを伺った。
「久し振り、ね…ナルホドくん」
ゆっくりと机から上げられたその顔は、紛れもなく千尋さんのものだった。
「お、お久し振りです所長っ…」
 何度もこのような不思議な場面に立ち会っているが、いまだ慣れないものがある
(慣れていいものかどうかはわからないが)。
それに、先ほどの話題のせいか、どうも所長がいつもより艶かしく見える気がしてどぎまぎしてしまう。
「…なんか、妙に体がだるいんだけど、ナルホドくん…この子に何かした?」
「人聞きの悪いこと云わないで下さいよ!」
 ぼくは、簡単に真宵ちゃんが酔っ払った経緯を説明した。ぼくは何もしてないぞ!
いや、でも…したと云えばしたのか?…ぼくは真宵ちゃんと…。それで所長はその姉さんで…。
 考え込むぼくをよそに、所長は苦笑していた。
「まったく…仕方ないわねぇ…。でも幼稚園児じゃあるまいし、監督不届きだなんて云わないわよ」
「はぁ…でも、なんか顔赤いですけど大丈夫ですか?」
「…そうね、少しふらふらする気がしないでもないけど、酔っ払ってるとまではいってないわよ」
 ほんとうかなぁ…。でも、目元が酒のせいか潤んで色っぽい。…いやいや。
 しかし、雑念を振り払ったところで千尋さんは相変わらずものすごく目のやり場に困る格好なのだった。
真宵ちゃんの服は千尋さんには小さすぎて、着物の合わせが足りなくて胸元は開きすぎ。
そして、机に圧迫されて余計盛り上がった胸が、肘を突いた前傾の姿勢のせいで、
さらに深く谷間を覗き込めるようになっている。
 結局、ぼくは思いっきり観察してしまっていたのだった…。
「どう?最近、事務所の方は。皆は元気?」
 その声に我に返り、ぼくは平静を装って返事をした。
「お、お蔭様で、仕事は一応軌道に乗っています」
 平常心だ平常心…こんなの修羅場の法廷に比べればなんてもことない。
いや、法廷でも所長の胸はすごかっ…って、そこに戻ってどうする。
「それに…真宵ちゃんは勿論、春美ちゃんもこの前会った時は元気そうな様子を見せてくれました。
あと、そう遠くないうちにキミ子さんとの面会も叶いそうです」
「そう…ありがとう。ナルホドくん、あなたには色々面倒をかけるわね…」
「いえ、ぼくこそ所長にはお世話になりっぱなしでしたから。このくらい何でもないですよ」
 勿論それはぼくの本心だった。
「そう云って貰えると助かるわ」
 所長は静かに微笑むと続けた。
「…そうね、こういう機会もあんまりないし、今日は少し話でもしましょうか」
「はい…」
 千尋さんのその声になんとなくぼくは落ち着かないものを感じて、それとはなしに目線を下げても、
余計落ち着かないものが視界に入ってしまって如何ともし難い。
 所長は、やっぱり悶悶としているぼくには気付かず、机の上の走り書きのある紙きれに目を落とした。
『おねえちゃんへ』
「あら…?これ真宵の字?何かしら…」
 所長はそれを手にとる。あ、それは…。
「そういえば、今日は何かの用事で呼ばれたのかしら?」
 その紙きれ、広告の裏には辛うじて判別できる文字でこう書いてあった。
『おっぱい』
「………」
 真宵ちゃん…寄りによってこのSUMMONING MESSAGE(とでも云おう)かよ…。
「…何なのこれ?」
「え、えーと…これには深い事情がありまして…」
 かくかくしかじか、ぼくはまた先程の話を掻い摘んで話した(流石に、吸った揉んだ部分は割愛したが)。
それを聴くと、千尋さんは昔と同じような仕草で耳から落ちた髪を掻きあげ少し唸った。
「あの子にはまだマザーコンプレックスの類いがあるのかもね…」
 千尋さんがあっさり胸の話をスルーしたのには安心したが、少しがっかりもした。悲しき男の性だ。
「ぼくはさっき、指をしゃぶられましたよ」
「まぁ…加えてファザコンの気もあるのかしらねぇ」
「ぼくはファザーなんですか!?」
「綾里家は父性というものが希薄だから…」
「…ぼくは限りなく兄のような気持ちだったんですが」
 年上と云ったって10も離れていないのに、それはちょっと不本意というかショックだ。
「ナルホドくん、冗談よ。気にしないで」
 所長はくっくと笑った。
「母がいなくなったあの頃、真宵はよく泣いてね…私が学校に行く前が一番困ったわ」
 当時を懐かしむような顔をして所長は話をする。
「そのせいで…というかお陰でというか、私に母…そして父の不在を悲しんでいる暇なんかはなかったわ」
 …それは勿論冗談だろう。しかし、悲しみや苦しみをを他のものに変えて所長はやってきたのだろうとは思う。
故郷を出てから立ち止まる事もなく、あの日まで。
「でも、その反動なのかその頃以来、真宵はめったに泣かない子になった…」
 …そういうところはこの姉妹はよく似ている。
「ぼくも所長の泣いているところは見たことがないです」
 そもそも、所長はあまり自分のことを話すことがなかった。
「ふふ…ナルホドくんに会う前に涙は枯らしちゃったから」
 でも、ぼくもあまり自分のことを話すでもなかったから。
「…それは残念です」
「あら、慰めてくれた?」
「…はい」
「優しいのね。私も惜しいことをしたかもしれないわ…」
 しかし、ぼくがもっと早く所長に出会っていたとしたら、果たして所長は涙を見せただろうか。
ぼくは千尋さんの消えた涙を受け取ることが出来たのだろうか。
 所長は少し億劫そうに上体を起き上げ、ぼくに顔を向けた。
「…ところで、ナルホドくん。いい加減所長だなんて呼ばなくていいわよ。
それともプライベートやベッドにも職場を引きずるタイプ?」
「え…と」ぼくは少し戸惑った。
「ごめんなさい、あなたとはこういう話はしたことがなかったわね…」
「……」
「私は結構あなたが好きだったわよ」
「……」
「勿論、男と女という意味でね。…でもねえ、私はあの時のあなたとの関係を崩すのも惜しかった。
部下…というより、同じ弁護士としてのあなたを失うリスクを背負ってまで行動を起こせなかった…」
 ぼくは顔を上げられないまま返す。
「ぼくも…あなたのことが好きでしたよ…」
 もう、伝えることもないかと思っていた。
「…なんとなくわかってはいたのよ。でも、お互い気づかない振りだったわね。そうでしょう?」
「なんとなくは…ですが」
 千尋さんは静かに笑っている。
「あの時、私たちはそれぞれ違うものを追いかけるのに必死で、
 ついぞお互いを一番にすることはなかった…。それだけのことね」
「千尋さん…」
 千尋さんは有能で、感情をうまく嚥下しそれに支配されないやり方を心得ていた。
逆にぼくは、誠実というよりはただ自分の決めたことにひたすらであろうとした。
あの時は冷静なつもりだったが側から見れば闇雲だったのかもしれない。
ぼくは思い込みが激しいみたいだから…。
「何で今さらこんな事をあなたに云ってしまったのかしらね。それこそ、せっかく墓場まで持っていったのに…」
「ぼくにも…わかりませんが」
 それでもぼくは千尋さんを優しくだっこするように抱きしめた。

 千尋さんがぼくを慰めているのか。ぼくが千尋さんを慰めているのか。
今まで、ぼくは前だけを向いて、振り返ることも、思い出に浸ることもなく、
つんのめるようにしてやって来た。だから、我が身を振り返ることがなかった。
慰めることもなかった。その必要なないと思っていた。
そんなところが、ぼくと千尋さんもまた似てないようで似ているのかもしれない。
 いや…、そもそも何を慰め合うというのだ?
埋められることのなかった過去か、紡がれなかった未来か、こういう形でしかありえなかった現在をか。
 何故、真宵ちゃんはぼくらを引き合わせたのだ。
置き去りにした思いを取り戻す事は難しい。しかし。
ぼくにとって千尋さんは懐かしい人ではなかったのだ。
 千尋さんの唇にキスをすると、ぼくは喚きたくなるほど不思議な気持ちになった。
この人が、あの所長。ぼくが好きだった人なのか。死んでなどいないじゃないか。
 抱いたまま柔らかく細い髪を指で梳かすと、千尋さんは全身を委ねる様にぼくの肩に顔を埋める。 
「あなたの腕の中はいいわね。…でも、別に私はファザコンじゃないわよ?」
 簡単にも思えるこの行為が、ぼくらにはとても遠かった。
「あなた、私でマスターベーションしたことある?」やっぱり唐突な姉妹だ。
「…ありますよ」ぼくは少し不貞腐れたような顔をしながら答えた。
「私もあなたでしたことがあるの」
 千尋さんはぼくの頬に触れて、いたずらっぽく微笑んだ。
「あたしの中のあなたは私にすごいことをしたのよ」
 彼女にまだ父が居て、母が居て、妹が居て、
そんな頃の千尋さんを思い起こさせるような笑顔だった。
「どんなことをしたんですか」
「あなただってしたんでしょう?」
 そうして…ぼくらは開放されるはずのない思いを解き放った。
ぼくらをひきあわせた彼女に許しを乞うて。
最終更新:2006年12月13日 08:00