ふわふわと漂ってくるみその香り。とんとんとんという軽快なリズムを刻む包丁の音。「ばあやは毎朝トーストを焼いてくれるのに……」と、寝起きのぼんやりとした頭で考える。
ゆっくりとベッドから身を起こすと、部屋の扉をとんとんと叩く音と、かわいらしい少女の声がかけられた。
「みつるぎ検事さん。朝ごはんができたので起きてくださいね」
これは……だれの声だろうか……。
ばあやはどこへ……?
数十秒後、御剣怜侍は飛び起きた。

そうだ。今は綾里 春美と同居しているのではないか!


*     *

ことの起こりは、2か月ほど前だ。親友の成歩堂が、電話をよこした。
『なぁ御剣。お前の家の近くにさ、女子高あっただろ?』
「うむ? まぁ……確かに、近くと言えなくもないが。確か私立の名門女子高があったな」『そこにさ、春美ちゃんが通うことになったんだ』
「春美くんが?」
『そう。今年の春には高校生なんだよ、春美ちゃん。時が経つのは早いよな』
「うむ……そうだったのか」
初めて出会ったのは、まだまだ彼女が幼い頃。でも、歳のわりにはしっかりしていて、いつも明るい少女だった。成歩堂の事務所に行くたびに出会う彼女は、確かにここ数年で
すっかり身長も伸びて、大人への階段を上りつつあった。もう高校生になろうとしているとは……。
「それは、知らなかった。何かお祝いを贈ったほうがいいだろうか」
『そうしてくれると、春美ちゃんも喜ぶと思うよ。それでさ、ひとつ相談なんだけど』
「なんだ」
『さすがに、そっちまで倉院から通うのは大変だろう? 電車で2時間かかるんだし。だからさ、御剣の家に居候させてくれれば、楽かなって……真宵ちゃんがきかなくて』
少しうなだれたように話す友人の背後に、無言ながらも背中にべったり張り付いて彼を脅している家元霊媒師の存在を感じた。彼は彼女に弱いようだが、
何か弱みでも握られているのだろうか。それとも惚れた弱みなのだろうか。
「しかし、何も私の家でなくてもいいだろう。きみの家に居候させればいいし、そうでなくても、彼女はきみよりもしっかりしている。一人暮らしさせても問題はなかろう?」
『だめですよ! みつるぎ検事!! なるほどくんの家、すっごく狭いんだから! それに、はみちゃんは女の子なんだから一人暮らしなんて! あたしだってそんなのしたことないし、
怖いよ! はみちゃんってば、最近きれいになったし、昔からかわいいし、イイ子だし、早寝早起きで働きものだし、かわいいし! “すとーかー”みたいなの、でるに決まってるよ! 
また事件に巻き込まれたら、なるほどくんに訴えてもらうんだから!!』
一気に電話越しにまくしたてられた。……甲高い声で、耳が痛い。
『……とまぁ、保護者がそう言ってきかないんだよね』
「む……。事情はわかったが……」
『最近、お前の世話してたばあやさんが体調不良で実家に帰った、なんて話してただろ? 一部屋あまってるんなら、問題ないと思う……って真宵ちゃんが』
……彼は、どうもこの電話を「させられて」いるようだ。とは言え、確かに年端もいかない少女が一人暮らしをするのを心配する気持ちはわかる。どうも霊媒師という家柄は
トラブル体質のようだし、何か事件に巻き込まれないとも限らない。幼いころから見てきた少女が、そう度々事件に巻き込まれるような事態になるのは自分の本意でもないし、
彼女のことだ。居候とはいっても、しっかり自分のことは自分でできる。何も問題ないだろう。
「わかった。では、春美くんを、我が家に招こう」

*    *

「おはようございます。みつるぎ検事さん」
「む……おはよう。春美くん」
着替えを済ませて部屋から出ると、セーラー服に身を包み、その上からエプロンをつけた春美がキッチンから笑顔を見せて声をかけてくる。朝の挨拶をかわしてダイニングテーブルにつくと、
焼き魚と白米、小鉢が数種類並んでいた。御剣家にはこれまでなかった、和食。
「いつもすまない。春美くん」
「いいえ。お部屋を貸していただいているのですもの。これくらい、どうということはありません」
彼女と同居し始めてから数か月が経とうとし、季節は初夏を迎えようとしているが、春美は毎日食事をつくる。そればかりか、掃除や洗濯など、あらゆる主婦業をこなしていた。
正直、ばあやがいなくなり、これまでやったこともない洗濯やら掃除やらをやらなければならないと途方に暮れていたので、彼女の存在はありがたかった。
こんな年下の少女を頼りにしなければ生活できないとは、成歩堂たちのことをバカにできないな。
寝起きの頭でぼんやりと考えていると、どうやら味噌汁が出来上がったようだった。春美が汁椀をテーブルの上へならべて、ようやくエプロンを外す。
白い布地から解放されたセーラー服は、地域では名門と名高い女子高の制服だ。それを目の当たりにするたびに、この子も大きくなったのだな、と少し父親めいた感傷を抱く。
御剣は部屋の隅っこにひっそりとたたずんでいる小さなスツールに目をやった。彼女と同居すると決めた時、真っ先に買い求めたものだった。きっと彼女は背が低いから、
洋式の自分の家では何かと不自由するに違いないと思って購入したのだ。しかし、そんなものは必要なかった。よく考えてみればわかる。彼女はもう高校生だ。
幼く、小さかったあのころより、ずっと大人になっている。
一緒に暮らし始めて、ようやく現実を目の当たりにした。すらっと伸びた手足、大人びた表情、子どものころよりさらにしっかりとした口調……。
きっと考え方だって、さまざまな経験を通してより大人に近づいているに違いない。
なんだかそれが──妙にむずがゆい気持ちになるのは、なぜだろうか。
「どうかされましたか。みつるぎ検事さん」
春美に顔を覗き込まれて、ようやく御剣は我に返った。春美の整った顔がほころぶ。
「みつるぎ検事さんでも、ぼうっとなさることがあるのですね」
「む……すまない。少し考え事をしていた」
まさに目の前の少女について考えていたこともあり、御剣はかすかに頬を赤らめた。それに気がつかない春美は、何がそんなにおかしいのか、ほほえみながら御剣の前の席についた。
「さあ、いただきましょう!」
「ああ。いただきます」

*   *

「……今日もベントウなのね」
昼休憩中に、検事局内にある自室へ断りもなく堂々と侵入してきた妹分が、呆れたようにつぶやいた。
「……うむ。せっかく、作ってくれるのでな」
共に暮らし始めた初日から、春美は弁当を作って御剣に持たせる。どうも、彼女の慕う従姉に毎朝そうしていたのと、同じことを御剣にもしているらしい。そう聞かされて、
むげに断ることもできない。必然的にここ数カ月は弁当持参を続けている御剣だった。
「まるでシンコンね? 女子高生と同棲だなんて、御剣 怜侍も地に落ちたわ!」
「人聞きの悪いことを言うな! 同居、だ。メイ、何しに来た」
「呆れたわね! 今日の帰りにブティックに寄るから付き合えといっておいたはずでしょう」
「む……? 今日だったか」
確かに、しばらく前にそんな約束をした気もする。無論、御剣は荷物持ちだ。彼女の選択肢に口をはさむことは一切ない。学生時代より、この妹分でありお嬢様の伴をするのは御剣の
仕事なのだった。
「仕事は上がれるのでしょう? 今はそう大きな事件は抱えていないはずよ」
「うむ。それで、一体何を買いに行くのだ」
「いろいろ、よ。バッグやら服やら靴やら」
「……わかった」
今日、自分の車にはブランド品の袋で埋め尽くされるに違いない。ひどく単純で疲れるロジックに、御剣は眉間のしわを増やした。
「だが、帰りは遅くなれないぞ。春美くんには、今日何も言わずに来てしまったから」
「あら、綾里 春美は三食つくっているの?」
「うむ。何なら今日は寄っていくか? 春美くんもきみが来ると言えば喜ぶだろう」
「そうね」
言いながら、冥は御剣の弁当の里芋の煮付けを手づかみでぱくぱくと口へ運んだ。
「む! メイ、行儀が悪い」
「私は帰国子女だから、作法にはウトいのよ」
わけのわからない論理に、御剣は渋い顔をする。そんな御剣を華麗に無視して、冥は煮付けに感銘を受けたのか、深く頷いた。
「ハルミは料理が上手なのね。日本食は好きだし、お邪魔することにするわ」
「そうか。では、連絡をしておこう」
「……レイジ」
春美の携帯電話の番号をいそいそと押している御剣に向かって、なんだか複雑そうな表情をした冥が低く声をかけた。
「アナタ、何だかダラしないカオをしているわ」
「む!? なんだ、突然」
「まるで、新妻を自慢したいうっとおしい夫みたいなカオよ」
御剣は目を丸くした。そ、そんなカオをしていたのか!? というか、それは一体どんなカオなのだ……?
「成歩堂 龍一や綾里 真宵が、ハルミをやれ『かわいい』だとか『賢い』だとか『素直』だとか自慢している時と同じカオよ」
「……事実ではないか」
目の前のはねっかえりのお転婆よりも、確実に。
そう思ったのがばれたのか、先ほどの御剣の発言をとがめるものなのか、鋭い視線が寄せられた。黙り込む御剣。
「あまりそんなカオをしていると、淫行罪でヒゲに捕まるわよ」
「人聞きの悪いことを言うな。そんな憎まれ口ばかりを叩くから、成歩堂に相手にされないんだ」
「!!」
その御剣の言葉に、冥はあからさまに顔色を変えた。
「わ、私は別にあのギザギザ頭のことなどどうでもいい!! ヤツに勝てればそれでいいのよ!!」
「そうかそうか。わかった」
「レイジ!!」
「今日は何時に待ち合わせるんだ。春美くんに帰る時間を言わなければ」
「私のハナシを聞きなさい!」

すっかり昼間のやり取りでへそを曲げた冥は、就業時間を終えてもまだ機嫌が直らず、そのうっぷんを買い物で晴らそうと気に入った物を試着しては店員に包ませていた。
あんなにたくさん服を買っても、着る機会などないのではないか?
そんな疑問が脳裏をかすめたが、すぐに考えてはいけないことに思い至る。女性の買い物には、絶対に口を挟まない。
それが、御剣怜侍が33年間で学んだ最も重要なことの一つだった。
店内の、シックながらも女性らしい服の数々をなんとなく眺めて、そういえば、春美の洋服姿を見たことがないことに思い至る。同居し始めてからも、
制服以外はあの霊媒師の格好か、もしくは和服を着ているし、寝巻きは真白い浴衣で、洋服姿を見たことがない。霊媒師の掟か何かなのだろうか。
しかし、真宵はたびたびこちらを訪れる際には、洋服を着ているのを見かけたことがある。最も、それは仕事で表舞台に立つときだけ着るスーツ姿で、
しかも彼女の陽気な雰囲気とはそぐわなくて成歩堂など見るたびに笑っているが。
御剣はふと視線の先にある、黄色いワンピースを見た。
そう、きっとこんなワンピースなら似合うだろうに。これから学校の友人と、街へ出かけたりするかもしれないし、そんな時に和服ではきっと妙に浮いてしまうだろう。
彼女はこれから、たくさんの人と出会って、たくさんの思い出をつくって、しあわせになるべきだと、御剣は思う。
かつて起こった暗い過去など、忘れてしまえばいい。
大人たちの陰謀に巻き込まれた悲しい記憶など、彼女から消えてしまうべきなのだ。それでも、彼女が一生忘れないことも、御剣はわかっている。
自分が、自分の身に起こった事件を、生涯忘れることがないのと同じように──。
暗い意識に吸い込まれそうになるのをこらえ、御剣は黄色いワンピースの傍に立った。Aラインのワンピースは、縫製がしっかりとしていて、
そのブランドの質が高いことを思わせた。間近で見ると、黄色は柔らかな色合いで、陽だまりのような彼女の笑顔を思い起こさせる。
「そんな服、私は買わないわよ」
突然の声に、心臓がぎゅっと縮まる御剣。背中越しには、試着中の青いシャツワンピースに身を包んだ冥が立っていた。
「お、脅かすな……」
「アナタが勝手に驚いただけよ。それより、そんな服が私に似合うと思っているの? かわいいけれど、私には似合わない」
それはそうだろう。冥はスタイルだって良いし、美しい女性だが、このワンピースのイメージにはそぐわない。
「べ、別にキサマの服を選んでいたわけでは……」
冥はじとっと湿った視線を御剣に送った。
「……ハルミはこれよりワンサイズ下だと思うわ」
「!! べ、別に春美くんへと思っていたわけではっ……」
「じゃあ他に誰がいるというの。アナタ、今コイビトいないでしょ? それとも、こんなかわいらしいワンピースを贈る間柄の女性でも他にいるというの?」
「ぐっ……」
「アナタの周りに、現在交際中の女性はいない。そして、そのワンピースは私へのものではない。なら、そのワンピースを贈る女性は、普段世話になっているハルミしかいないでしょう。
どう? 狩魔のロジックはカンペキよ」
自慢げに腰に手を当てて不敵に笑う冥を見て、御剣は眉間にぎゅうっとしわが寄るのを自覚した。
「……別に、深い意味はない。こんな服の一枚でも持っていれば、後々便利だろうと思っただけだ」
「あら、そう。別に私は何も言っていないけれど」
かわいくないな!
御剣はちょっぴり憤慨するが、声に出すと後々面倒なので、黙り込んだ。
「……メイ」
「なにかしら」
「……サイズの件は、確かなのだろうか?」

「おかえりなさませ、みつるぎ検事さん! いらっしゃいませ、かるま検事さん!」
自宅へ戻ると、春美が笑顔で出迎えてくれた。今日も霊媒師ルックの上に、ひらひらのエプロンをつけている。
「久しぶりね、ハルミ」
「ええ。一年ぶり……くらいでしょうか? すっかりご無沙汰してしまって、もうしわけありません」
「構わないわ。今日はお邪魔させてもらうわよ」
「はい。お食事、お口に合えばいいのですけど……」
照れながら微笑む春美がキッチンへ姿を消すのを見送って、冥は御剣を見た。
「完璧だわ」
「何がだ」
「私が持っていたニホンジンノツマのイメージにぴったりだわ。よくもここまで調教したものね、レイジ」
「だから人聞きの悪いことを言うな!! キサマの日本へのイメージもボキャブラリーも激しく間違っているぞ!」
「あ、あの……? お二人とも、どうかされたのですか」
二人の大声を聞きつけて、春美が不安そうに玄関をのぞいた。
「む……いや、なんでもない」
「お食事、あとの方がよろしいですか」
「まさか。今日はハルミの手料理を食べに来たのよ。すぐに行くわ」

春美は和食を中心に、アメリカ育ちの冥のために簡単なオードブルも用意していた。花を花瓶に生けたり、苦手な盛り付けも頑張ったり、精一杯飾り付けたテーブルは
春美が冥をもてなそうという気持ちにあふれていた。
すっかり気をよくした冥は、春美とよく話した。春美も、幼いころから自分を知る女性に心を許し、最近の学校生活などを語って聞かせた。冥は年下の少女とは縁がなかったから、
まるで姉のようにふるまって、心底楽しそうだ。御剣は基本的に耳を傾けるだけだったが、二人が仲良さそうに話しているのを見て、口元をわずかにほころばせ愉快な気持ちになる。
春美は気を利かせて酒まで用意していたが、御剣は遠慮なく飲む妹分をマンションまで送り届けるために飲まなかった。
「お泊りになればいいじゃありませんか」
春美の提案に、御剣は眉間にしわを寄せて首を振った。
「だめだ。今日は荷物が山ほどあるから、それと一緒にコイツを運ばなければならん」
「レイジはケチね」
玄関先で酔っぱらった冥が不服そうに唇を突き出す。それを無視して、御剣は春美から差し出された車のキーを受け取った。
「それでは、行ってくる。戸締りはしておくように」
「あ、あの……」
「む? どうしたのだ」
春美がなにやら言いたそうに、もじもじとしている。心なしか、頬が赤い。確か、彼女はアルコールの類を口にしていないはずだが。
「こ、今夜はお戻りになられるのですか……?」
「? ああ。マンションはそう離れていないから、すぐに戻るが……どうかしたのだろうか」
御剣が不思議そうに答えると、春美はますます顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。
「いいいいいいいえ!!! す、すみません、わたくしったら……!! さ、差し出がましいことを申しました! ききき、気になさらないでくださいっ!」
「む……では、春美くん、行ってくる」
「行ってらっしゃいませ!!」

「レイジはオンナゴコロがわかってないわね」
走り出した車の助手席で冥がつぶやいたのを聞いて、御剣は眉間にしわを増やした。
「なんだ。唐突に」
「ハルミ、私たちのことをゴカイしているみたいよ」
「誤解……?」
「“今夜はお戻りになられるのですか”と聞いていたじゃない。私の部屋に泊まるのか、という意味でしょう」
「は?」
いつ自分と冥がそんな間柄と誤解を受けていたのだろうか。そんなことを言った覚えも、疑わしいことをした覚えもない。
「なぜそんなことに……」
「さあ。でも、はたから見ると、私たちは血縁関係のないただの男女だから」
そう誤解を受けても仕方がない、と。
しかし、御剣はこの美しい妹分を、妹以上に思ったことがない。おそらく、それは彼女もそうだろう。一番親しい間柄なのは、当然だ。「家族」なのだから。
「ハルミ、今心細いんじゃないかしら。アナタあの時全然わかってない受け答えしていたもの」
「ぐっ……そ、そういうことは言ってくれればいいだろう!」
「アナタ私のこと無視したじゃない」
それでふてくされたというのか! 
御剣はギアをチェンジし、ペダルを踏み込んだ。加速する車のGに、冥が抗議する。
「ちょっと、レイジ! 危ないでしょう」
「……春美くんを待たせるわけにはいかん。飛ばすぞ」
「もう飛ばしているわよ」



*     *

何度も、何度も、夢に見る。幼い、幼い頃の記憶。今まで信じていたものが、目の前から消えてしまった、あの日。
自分のせいで。
自分のせいで。

知らないことは、罪になる。
その現実は、自分の罪を、決して忘れさせてはくれない──。


春美は、目から何かがこぼれていることに気が付いて、身を起こした。ダイニングのソファでうたたねをしてしまったようだった。
まだ御剣たちが家を出て20分も経ってはいない。眠っていたのは数分のことだというのに、しばらく経っても、悪夢の余韻が頬を濡らし続ける。
春美は心を落ち着けようと、ソファに正座をした。この方が落ち着けると話したとき、同居させてもらっている家主は困った顔で「きみがそれでいいのなら」と、
特に追及しなかったことを思い出す。変わった娘だと思ったに違いない。春美は、そのことを思い出して少し顔を赤らめた。そして、少し涙がひっこんだので、頬の涙をごしごしとぬぐった。
そう、楽しいことを考えよう。そうすれば、きっと彼が帰ってくるまでに涙は収まっているはずだ。

彼と暮らせると従姉から聞いたとき、とてもびっくりして、うれしかった。この部屋へ引っ越してきた時も、あんまり立派なリビングとソファを見て、
ついついはしゃいで彼をあきれさせた。もう子供じゃないのに、と自分では思うけれど、やっぱり彼の前では子どもなのだと初日から反省したものだ。
今日久しぶりに会った冥は、記憶にある姿よりも数段大人びていて、美しかった。きっと、彼女と比較すれば自分はまだまだ子どもで、だからこそ御剣も冥も自分を可愛がってくれる。
でも、でもそれではだめなのだ。
春美は、ある、とても寒い冬の夜を思い出した。彼を心の支えにしだした、あの、夜を──。


あの、忘れられない事件。信じていた母が、自分の大好きな従姉を殺そうと企てた、あの冬の日。大好きな従姉の、母を、自分の母の計画が殺した、あの……。
あの日、一番泣きたかったのは、従姉だったのに。それでも彼女は微笑んで、「幸せだ」と、そう言って。だから、自分が泣くわけにはいかないと思ったのだ。
彼女が、もっともっと幸せになるように。この世で一番幸せになれるように。自分も、笑わなくては。

「……春美くん?」
あの事件の審議が終わり、皆で食事をした後は、成歩堂法律事務所で朝までばか騒ぎした。そんな中を、春美はこっそり抜け出して近くの公園へ行ったのだ。
大人でも凍えそうな冬の夜、薄着のままでベンチに座る春美に近づいたのは、御剣だった。手には春美の上着を持っている。
「……検事さん……」
春美の小さな唇から、白い息がこぼれる。目の前の男の口からも、やはり白い息が漏れて消える。
「……こんなに寒いのに、上着も着ずにどこへ行くのかと、思ったのだ」
「……皆さんとお話するのがとっても楽しくて、眠れそうもなくて、それで、ここへ来たのです」
「……春美くん……」
笑う春美を見て、御剣は何も言えずに傍へ寄り、持ってきた上着を掛けてやった。その御剣の親切が、春美はとてもうれしくて、申しわけなく思った。
「ごめんなさい、検事さん……」
「む? 何がだろうか」
「……わたくしを心配して、追いかけてくださったんですよね……」
「……風邪をひくといけないからな」
御剣の言葉に、春美はうなだれて首を振った。
「そうでは、ないのでしょう? ……すみません、でした……。……わたくしの、お母様が、あんな……あんな、恐ろしいことを……」
「……それは、きみのせいではない」
「いいえ! ……いいえ。わたくしが、わたくしなどが生まれてきたばっかりに……だ、大好きな真宵さまに……皆様に、とんでもないご迷惑を……」
「……そんな言い方は、よくない」
御剣は、泣いている子どもをあやすように、春美の頭をなでた。しかし、春美は泣いていなかった。今にも泣きそうな表情をしていたが、泣いてはいなかった。
「……わかっています。今、そんなことを言っても、意味がないことを。わたくしは、お母様の罪を、一緒に償います。真宵さまが、世界で一番しあわせになれるように、
わたくし、一生懸命頑張ります。工作も苦手ですが、真宵さまのために、頑張ります」
「……うむ。だが……」
「みつるぎ検事さん! わたくし、いい子にしています! だから、真宵さまが困っていたら、検事さんも真宵さまの味方になってください! 真宵さまは、絶対に悪いことなどなさいませんもの!」
春美の、すがるような訴えに、御剣はまるで身を裂かれた時のような苦痛の表情を浮かべた。そして春美と目線を合わせるため、膝を地につけてかがみこんだ。
「……わかった。でも、春美くん。それはきみも同じだ。きみは悪いことなどしないから、私は、いつでもきみの味方だ」
「……わたくしの?」
「そうだ。だから、困った時は、いつでも力になる。……泣きたい時があったら、傍にいよう。一人ぼっちだと思ったときは、私ができる限り力になる」
「……いいえ、検事さん。わたくしなど、別にいいのです。真宵さまが……」
「よくはない」
静かで、冬の冷気に消えてしまいそうな小さな声だったのに、なぜか春美の耳には深く印象に残った。
「……よくは、ない。きみが、真宵くんの幸せを望むのは、よくわかった。……とても、大切な気持ちだと思う」
「……なら……」
「でも……なら、きみは、幸せにならなくてもいいのだろうか。私はそうは思わない。きみだって、幸せになるべきだ」
「検事……さん……」
「……これから、きみは真宵くんの幸せのために頑張るんだろう。それは、とても、素晴らしいことだと、思う。だが、そのためにきみが我慢することはない。
……泣きたいのに、笑うなど、とてもつらく不幸なことだ」
「……わたくし、別に泣きたいなんて……」
そう言っているそばから、春美の大きな瞳には涙がにじんでいる。
「ちがいます。……検事さんが急にへんなことを言い出すから、びっくりしてなみだが出ただけです。……子どもだからといって、ばかにしないでください!」
「……子どもだから、泣くのではない、と私は思う。……悲しいことがあれば、大人だって、泣くものだ」
「……みつるぎ検事さんも?」
「ふっ……ああ。怖い夢を見て、何度も泣いたことがある」
「まあ……」
春美はびっくりした。こんな大きな大人の殿方が、こわい夢を見て泣いてしまうなんて。
「それは、おそろしい夢だったのですね」
「……きみも、今、同じ悪夢のなかにいる」
大切な人を、自分のせいで失ったかもしれない、あの日から。自分は彼に会うまで、悪夢をさまよい続けた。この小さな少女に、あんな不幸を背負ってほしくはない。
御剣は祈るような気持ちで、少女の手のひらを握った。

「忘れないでほしい。きみの周りにいる人々は、きみの幸せを願っている。だから……我慢をしないでほしい」
春美は、御剣の手の温もりを感じて、自分の手がとても冷たくなっていることに気が付いた。そして、とってもとっても心細く、さみしかったことにも。
本当は、とてもとても、悲しいことにも……。
「でも、わたくしが泣いては、真宵さまとなるほどくんが、心配してしまいます……」
「では、私の前で泣くといい」
「……みつるぎ検事さんは、わたくしのことを心配していないのですか……?」
「そういうわけではないが……。きみは、私よりずっと強いから……」
「……そうでしょうか……」
「……ああ」
春美は腕をのばして、御剣のスーツを掴んだ。広い額を、ひらひらのタイにこすりつける。シルクでつくられたそれは、とても心地よかった。
今まで我慢していた涙が、ぽろぽろと瞳からこぼれるのがわかる。それでも、もう春美には止められなかった。
「わたくしが幸せになることは、真宵さまのためになりますか?」
「……彼女は、きみのことが大好きだから、きっときみが幸せになるのを望んでいる」
「なるほどくんも?」
「うむ」
「……みつるぎ検事さんも……?」
「もちろんだ」
しゃっくりを上げて泣き始めた春美の背中をさする御剣。その大きな手のひらが温かくて、ますます涙がこぼれる。
「じゃあっ……わたくしが泣きたいときには、ぜったいに傍にいてください……っ。わ、わたくしが、おとなになっても、ずっとっ……。
でなければっ、わたくし、こんな風に泣いたりできませんっ……」
「……うむ。努力しよう」
その夜、御剣は春美が泣き疲れて眠るまで、ずっと傍にいた。


それでも、春美が泣いたときに傍にいてくれたのは、あれが最初で最後だった。約束をしたのに、御剣は仕事で諸外国を転々とし、帰国は年に数回だけで
しかも成歩堂と仕事の話をして帰っていってしまう。たまに春美と会っても、海外の珍しいぬいぐるみや人形などを渡して春美の近況を簡単に聞くくらい。
そして、今また、御剣は傍にいない。彼は、かの人と共にいる。自分の傍にはいない。

それが、さみしくて、さみしくて。

かるま検事さんのことも大好きだけれど、でも、彼女が彼の“特別”なのが、苦しくて……。3人で過ごした楽しい時も、ほんの少しさみしくて、
彼がいないと、もっとさみしく感じてしまう。なんて自分は嫌な女なのだろう。
引っ込んだと思ったのに、再び瞳から涙がこぼれ落ちる。今度は、容易には引きそうもないほどの大洪水だ。春美は顔を手のひらで覆った。
それでも。それでも、傍にいてほしい。わたくしの傍にいてほしい。
「っ……み、みつるぎ、検事さんっ……」
小さなしゃっくりの間から、小さく名前を呼ぶ。
どうして、わたくしの傍にいないのですか。
「ひっ……く、れ、れいじ、さ……」
約束したのに。泣いているときは、傍にいると。
胸の内には、彼への恨み事でいっぱいだ。そんな醜い自分が嫌になる。
きっと、彼はあの約束をもう忘れてしまっている。忙しい毎日のなかで、年端もいかない少女との約束など、まっ先に消えてしまったに違いない。
それでも、あの約束は自分の中でまだ生きている。……あの約束があるから。自分にも泣いていい場所があるから、日々を明るく過ごすことができた。
春美が泣きたいとき、怖い夢を見たとき、御剣は傍にいなかった……。

早く帰ってきて。早くわたくしの傍にきて。
さみしい夜に、何度彼を思い出しただろう。何度、あの約束にすがっただろう。
「……れいじさん……っ!」

わたくしの傍に、いて……!!

悲鳴のような呼びかけに、突然現れた大きなぬくもりが自分を包んで答えた。
「……春美、くん」
「みつるぎ検事、さん……」
後ろから自分の身体を抱きこむ男の息は、荒かった。駐車場からマンションのエントランス……もしかしたら、階段で部屋まで上がってきたのかもしれない。
「か、かるま検事さんは……?」
「む……送ってきた。荷物も部屋へ放り込んできた」
それにしても随分早い。いくらそれほど離れていないといっても、往復するなら40分はかかるはずなのに。
「ど、どうして……」
「……春美くんが、心細い思いをしていると思ったら、一刻も早く帰らねばならんと、思って……少し無茶をした」
「まあ……」
これは、喜んでいいのだろうか。留守もあずかれない子どもだと思われているのだろうか。そんな考えは穿ちすぎなのだろうか……。
でも、どうでもいい。
彼が、今傍にいて、抱きしめてくれている。それだけで、他の事がどうでもよくなった。男の体温が近くにあることがうれしくて、抱きしめてくる腕に体重を預けた。
「ふふ、あまり危ないことをなさらないでくださいね」
「ふっ……そうだな」
御剣は春美の身体を放して隣へ座り、春美の涙を拭ってやった。
「……すまない。さみしい思いをさせてしまったようだ」
「……いいえ。……少し、怖い夢を見てしまっただけです。だから……みつるぎ検事さんのせいではありません」
そう答えると、御剣は眉間にしわを寄せた。額に深くヒビが入る。
「そういえば、昔、さみしい時は傍にいると、約束をしたな」
「え……?」
顔を上げた春美に、御剣は少し困った表情を見せた。
「きみは覚えていないかもしれないが、そんな約束を、したことがあった。思えば、一度もその約束を守っていないな。ひどい約束をしたものだ」
春美は、胸が震えて何も言えなかった。覚えていてくれた。忘れてなかった。いつもそ
の約束を胸に秘めていたのは、自分だけではなかった。
春美は唇に手をあてた。嗚咽が漏れそうだ。涙があふれて止まらない。そんな春美の様子に、御剣は心底焦った声で語りかける。
「は、春美くん……? どうしたのだ。もしかして、約束を守らなかったことを怒っているのだろうか」
「いいえっ……! いいえ、違うのです……。約束を、覚えていて、くださったことがうれしくて……」
「……春美くん……」
「れいじさん。……では、これからは、わたくしの傍にいてくださいますか……? こうやって、泣いている時に……さみしい時に、わたくしの傍にいてくださいますか」
涙をためた瞳で見つめられ、御剣はなぜか息が詰まった。胸が苦しくて、うまく息ができない。心から、この少女の力になりたいと思った。
「……ああ。無論だ」
春美はうれしさのあまり、御剣に抱きついて、一晩その傍を離れなかった。しがみついてくる春美を抱きとめながら、御剣は複雑な表情をしていた。
せっかく買った服を渡す機会を逸してしまい、例のブランドの紙袋をどうしようかと悩んでいたことなど、春美には思いもよらないことだった。

続き

最終更新:2020年06月09日 17:44