成歩堂×冥②

気がついた時、彼女は雑踏の中を歩いていた。
何か考えたい事があると人ごみに紛れて歩く、それがアメリカにいた時からの彼女の癖のようなものだった。
どこにいるよりも、そこで彼女は独りでいられた。独りで考え、そうして彼女はあらゆる困難を独力で解決し、全てに勝利という結果を得てきたのだ。
しかし彼女は今、その独りの世界で、生まれて初めての屈辱を噛み締めていた。
容易く勝てるはずの勝負だった。
木槌の音──それはいつも彼女に勝利を言祝ぐもののはずだった。
しかし今日、それは彼女の敗北を告げた。
(何故あんな男に……)
凡庸な男に見えた。
彼女にとって全能である父が、彼女のよく知る怜悧な彼が、相次いで敗れた相手にはとても見えなかった。
だからこそ、一族に注がれた汚辱を自分が消し去る。そう決意してこの国へやって来た。
けれど彼女は敗北した。
歯を食いしばり、前を見据え、彼女はただ雑踏を歩く。そこには音も色も無く、世界にいるのは彼女だけだった。

「狩魔検事?」
不意に彼女の世界に音が現れた。
声に振り向くとそこに、つい先ほど彼女に敗北を与えた男が立っていた。
「成歩堂…龍一……」
成歩堂は彼女の呟きに苦笑する。
「どうして僕を呼ぶときフルネームなんですか」
世界中の誰に出会おうとも、今は会いたくない、絶対に見たくない顔だった。
「こんな所で何をしている」
彼女は震える声を抑え、やっとそれだけ搾り出した。
「何って…事務所に戻るところですけど──狩魔検事こそ、どうしてここに?」
笑って首を傾げる成歩堂を彼女は一瞥する。
「そんな顔をしていられるのも今のうちよ。せいぜい楽しんでいるがいいわ」
そう言って狩魔冥は、彼女の世界から成歩堂を閉め出した。
残された成歩堂は立ち尽くし、ただ彼女の背を見つめていた。

裁判所に程近い静かな公園のベンチに彼は座っていた。
「お疲れさま、なるほどくん」
そう言って差し出された缶コーヒーを成歩堂は受け取って笑みを返す。
「ありがとう真宵ちゃん。今日も何とか無罪が勝ち取れた……我ながらヒヤヒヤギリギリドッキドキだったけどね」
「ほんとだよ~。なるほどくんの裁判はいっつも崖っぷちに足の小指一本でひっかかってる感じだもん。心臓に悪いったら」
その言葉に彼は少々眉根をよせる。
「それはちょっと言いすぎだろ。せめて普通に手の小指くらいにしてくれよ」
「それ、本気で言ってる?」
真宵の冷たい視線が、成歩堂に突き刺さる。
「足の小指と手の小指のどこがちがうの?」
そう訊かれて彼は頭をひとつ掻いた。
「…………気持ちが違う…………」
さらに絶対零度に下がった真宵の視線に耐えかねて、コーヒーを一気に飲み干した。
そんな成歩堂を見て真宵は笑った。
「しかたないなぁ、そういうことにしといてあげるよ。……あ、カンについてるシールちょうだいね、最近はみちゃんとふたりではまっちゃってさ~、いろいろ集めては応募してるのー」
「カンごとあげるよ」
「ありがとう~──って、よく考えたらこれあたしが買ったんだった」
そんな会話に思わずふたりで笑いあった。
辛い事件が続いても、真宵はいつも成歩堂を明るい気分にさせてくれる。
少々抜けているのも確かだが、その明るさに救われている。
「さてと、僕はまだちょっと用事があるから、真宵ちゃんは先に事務所に帰っててくれるかな」
つい先ほどひとつの裁判が終った。その最後の手続きをする為に成歩堂は留置所へ行かなければならなかった。
「うん。じゃ、なるほどくんが帰ってきたらラーメン食べに行こうね」
「了解、それじゃまた後で」

真宵の背中を見送って、彼は雑踏へと踏み出した。
確かに今日の裁判もギリギリだった。やっとひとつの証言を突き崩したと思った瞬間、またひっくり返され、そこから再び逆転する──その連続。
自分でもどうしていつもこんな苦しい闘いになるのか不思議で仕方がない。
そう考えながら、彼の思考はまた別の方向へ向かう。
真宵と同じ年のあの少女。
薄く銀に近い髪と酷薄な瞳を持つ彼女は、冷静に彼を見据え、時に狡猾に笑う。
彼女の不思議な色をした瞳を思い出していた時、彼の目の前にその本人が現れた。
徐々に近づく彼女の表情にはどんな感情の色も見えなかった。彼女の目は何も映していないし、おそらく彼女の耳には何の音も届いていないだろう。
先の裁判の後、偶然会った時と同じに、彼女は雑踏をひとり、歩いているのだ。
これまで様々な問題を、彼女はそうやって独りで処理してきたのだと、何となくそう思った。
すれ違いざま彼女の肩に手をかけた。
「狩魔検事」
引き止められ、肩に掛けられた手と彼の顔を見て──それは怒りのものではあったのだが──彼女の顔に色が戻った。
「またなの、成歩堂龍一。こんなところに…」
そう睨む彼女に、彼は笑んだ。
「そんなに睨まないで下さいよ。散歩ですか? 狩魔検事」
「私が何をしようと、関係ないでしょう」
取り付く島もない、そう心中で苦笑しながら、彼は狩魔冥に言った。
「まぁそう言わずに、お茶でもどうですか?」
不意の申し出に一瞬彼女の瞳に動揺の色が過ったが、すぐに平静を取り戻す。
「なぜ私が成歩堂龍一なんかとお茶を飲まなければならないの」
冥らしい物言いに、彼は証人を追い詰める時の笑みを向けた。
「いいじゃないですか。すぐそこに美味しいコーヒーをだす店があるんです。おごりますから行きましょうよ」
そう言いながら半ば強引に彼女を引っ張る。
勿論彼女は抗議し、また抵抗を試みたが強い力で腕を引かれ、渋々と店へ向かった。
この時はじめて、彼女は自分がいつも携帯しているはずの鞭を忘れて来た事に気付く。
不覚……彼女はそう天を仰いで小さな喫茶店に入った。

コーヒーは温かな湯気と香りともにテーブルに運ばれてきた。
「狩魔検事、砂糖は?」
「いらないわ」
「じゃ、ミルクは?」
「いらない」
「通ですね~、やっぱりコーヒーはブラックですか」
そう言いながら、彼は自分のコーヒーに2杯の砂糖とミルクをたっぷり注いだ。
そのまま無言でコーヒーをすする彼を冥は睨む。
「一体何を企んでいるの。こんなところに人を連れ込んで」
自分を睨み据える彼女に、成歩堂はひとつ溜息を吐いた。
「連れ込むって、人聞きの悪い。とりあえず裁判は終ったんだから、もう少し…その…仲良く…しましょうよ」
冥は皮肉な笑みを浮かべた。
「馬鹿が馬鹿な意見を馬鹿らしく述べるわね」
「はぁ」
「例え裁判が終っても、検事と弁護士は敵同士。その関係が崩れる事はないわ」
「そうですか? 僕はそうは思いませんけど」
「なんですって?」
不審そうに聞き返す冥に彼は、頭を掻いて答える。
「敵とか味方とか…そんなの関係ないでしょう」
「どういう意味かしら」
「裁判の結果真実が判った、それじゃいけませんか?」
事も無げな物言いに、冥は無性に腹が立った。
「それは自分が勝ったから言える言葉よ。もし負けていたなら、そんな暢気に笑っていられないわ」
彼は困ったような笑顔を冥に向けた。
「もし僕が裁判に負けていたとしたら…それは僕の依頼人が犯罪を犯していた、そういう事なんじゃないかな」
「え?」
「僕は依頼人の無罪を信じて裁判に臨んでいます。そしてそれが正しかったから、僕の依頼人は無罪判決を受けてきたんです。
 だけど、もし僕の依頼人が実際に犯罪を犯していたんだったら…僕の依頼人は無罪判決をもらえるはずはない。いや、無罪になってはいけないんです」
「そん…な」
カップを下ろし、彼は冥の瞳を見つめる。
「狩魔検事、君は被告の有罪を信じて裁判をしているのかな」
「なっ!?」
「僕にはそう思えない。そう君も含めて…み…いや、君のお父さんの狩魔検事にしたって、本当に被告が有罪だと思って裁判に挑んでいるんだろうか」
「それは……当然でしょう!」
「君たちは被告の有罪を唱える。時には証言を操作したり、証拠をでっちあげたりしてね」
「そんな事!」
していない──いつもならば平然と言える言葉が、今日に限って言えなかった。実際に彼女の父は15年程前告発された。この男はそれを知っている。
冥自身もこれまで幾度となくやってきた事だった。完璧な『勝利』の為に。
「本当に被告に罪があるなら、そんなでっちあげをしなくても有罪になるは……」
「馬鹿と馬鹿馬鹿しい議論をしている馬鹿な暇は私にはない」
彼の言葉を遮って冥は立ち上がった。
「成歩堂龍一、今度こそ、そんなふざけた事が言えないようにしてあげる。楽しみにしてらっしゃい」
そう言って彼女は店を出て行った。
残された彼は、結局一口もつけられなかった冷めたコーヒーにたつ波紋を見て呟いた。
「本当に美味いのにな……」
(狩魔検事の言う事にも一理あるか。もし僕が負けていたら……今みたいな事は言えなかったかもしれない。)
そう彼は自嘲する。
(まぁ何にせよ…あんな顔をして街を歩かれるよりは、怒っている方がずっといい。)
甘いコーヒーを飲み干して、彼は席を立った。

桜もそろそろ散ろうとする季節、成歩堂法律事務所は暇だった。
その上気だるい春の暖かさからか、どうもいまひとつ元気が出ない。それで暇にあかせて手紙の整理をしていた。
「何だこれ?」
「どうしたの? なるほどくん」
成歩堂の独り言に真宵が問い掛けた。
「うーん、旅行に当選したとか何とかいう手紙が来てるんだけど、覚えがないんだよな」
「え、ほんと!?」
真宵は成歩堂が持っていた手紙を奪い取り、その文面に目を走らせた。
「そんなの応募した事もないよ。何かの勧誘のDMかな」
「違うよなるほどくん。これ、こないだあたしとはみちゃんで出した懸賞だよー!ほら、覚えてない? なるほどくんにもシールもらったでしょ、コーヒーの」
そういえばそんな事もあったかもしれない、あれは確か冬だった。
「あたしとはみちゃんとなるほどくん、それぞれの名前で応募したんだけど。そっかー、当たったのかー」
満面の笑みを浮かべる真宵に、成歩堂も笑んだ。
「よかったね真宵ちゃん。それって何人行けるの?」
よくあるペア旅行やご家族4名様まで、というのを期待して、あわよくば自分も行きたい成歩堂だった。
「ひとりだよ」
「ふーん。それじゃ、気をつけて行っておいで。お土産はたっぷり頼むよ」
自分は行けないと踏んで、急にそっけなくなった成歩堂に真宵はからかうように笑った。
「何言ってるの。これ、なるほどくんの名前で当たったんだから、なるほどくんが行くんだよ」
「へ?」
「こういう懸賞って、人に譲れないんだよ。当選者だけの権利なの。知らないの?なるほどくん」
そんな事を応募した事のない成歩堂が知るはずもなかったが、真宵はそれが一般常識であるかのように説明する。
「それじゃ……」
「うん、なるほどくん一人で行ってきてね。一人が寂しかったら、あたしとはみちゃんの旅行代をなるほどくんが出してくれてもいいよ?」
「最近暇だしそれもいいね。男一人で旅行に行ったって仕方ないしなぁ。行き先はどこ?北海道とかだったらちょっと楽しそうだ」
「へへーほんとに旅費出してくれる?……アメリカなんだけど」
「はぁ!?」
「だから、アメリカ。えーっと米の国、って書くんだっけ?」
アメリカまでの往復の旅行代と滞在費ふたり分、考えただけで眩暈を覚える成歩堂だった。
「うそだよ。……一人で行っておいでよ、なるほどくん」
「え?」
真宵の言葉に何か含みを感じて聞き返した。
「アメリカには、かるま検事さん、いるんだからさ」
「な、何でそこに狩魔検事の名前が……」
狼狽える成歩堂に構わず真宵は続けた。
「なるほどくんて、ほんと正直なんだもん。かるま検事さんがいなくなって、ずっと元気ないし…そりゃわかるって」
抜けてるようで鋭い乙女の直感。そんな妙なフレーズが成歩堂の頭を巡った。
「ね、行っておいでよ。そしたらその間にあたしは御剣検事さんのところに……」
「何! 真宵ちゃん。それはどういう事だよ! いつの間にっ」
御剣とつきあっているのか、そう訊ねようとした成歩堂に真宵は照れ笑いする。
「えー……だって、御剣検事さん、かっこいいじゃなーい。それにトノサマンの事とかすっごく詳しいしー」
その答えに成歩堂は少し安堵した。
(そうか、トノサマンか…その程度なら大丈夫…かな? 御剣が好きとか、そういうんじゃないんだよな?)
「だいたいもし万が一、あたしが御剣検事さんと何かあったって、なるほどくんには関係ないでしょー」
そう笑う真宵に、少々真剣な面持ちで成歩堂は言った。
「関係ないって事はないだろう。真宵ちゃんのこと、千尋さんから頼まれてるんだぞ、妹みたいなもんなんだから」
「えー! そんなぁ、あたし…もっと素敵なお兄さんがいいなー」
「……いいけどね…別に」
成歩堂は、真宵のつっこみにいじけたように答えた。
「ほらほら、いじけてないで、行くの? 行かないの?」
「……う~ん……」

数週間後、成歩堂は機上の人となった。
見送りには真宵と晴美はもちろん、何故か御剣とイトノコ刑事までが来ていた。
「さ、真宵さん晴美さん、お宅までお送りするッスよー」
「ありがとー、イトノコさん。でもあたしちょっと小腹がすいちゃったんだけど」
「了解ッス、帰りにどこかに寄って食事するッス。いいッスよね? 御剣検事」
「ああ、まかせる」
「それじゃ車取って来るッス」
「おひげのけいじさん。わたくしも駐車場に行ってみたいんですが、だめでしょうか。最近色々なお車を見るのが趣味になってしまったんです」
何故か照れたように言う晴美にイトノコも笑う。
「もちろんいいッスよ。それじゃ御剣検事、真宵さん、正面で待っててくださいッス」
慌しくイトノコが晴美を連れて駐車場に向かう背中を見ながら、御剣が真宵に──彼にしては──優しく微笑んだ。
「本当にこれで、よかったのかな? 真宵君」
「え?」
「アイツは何も考えずにメイの所へ向かった。──君の気持ちは、それでいいのか?」
虚を突かれた真宵は、それだけでもう笑顔の仮面を被ることができなかった。
「だって、なるほどくん…うれしそうだったんだもん……」
大粒の涙が真宵の頬を伝う。
「なるほどくんが…うれしいなら…それで……あたし……」
「やはりあいつは大馬鹿者だ。傍にこんな素敵な女性がいるのに気付かない」
泣きじゃくる真宵の肩をそっと御剣は抱いた。
「ふ…ふえぇぇぇぇ」
御剣はしがみついてきた真宵の背を優しく撫で続けた。

長時間のフライトを終え、何とか滞在先のホテルにチェックインした成歩堂は、くしゃくしゃになった一枚の紙切れを睨んでいた。
それは、御剣が調べた冥がいるであろうと思われる住所の写しだった。
(とりあえず、場所だけでも調べてみるか)
ホテルの玄関を一歩踏み出すと、様々な肌の色をした人々の姿が見える。
(こんな雑踏で狩魔検事に会ったっけ)
つい感慨に浸っていた成歩堂の目に、信じられないものが映った。
その姿は、間違いようもなく狩魔冥、その人だった。
お互いがほぼ同時に互いの姿を見つけたのだろう。ふたりとも凍ったように動けずにいたが、先に話し掛けたのは成歩堂だった。
「や、やあ、狩魔検事。げ、元気そうだね」
驚きよりも動揺を強く面に表した冥は、日本で見たどんな彼女よりも年相応見える。
しかもタートルネックノースリーブにミニスカートで、本当に普通の少女に見えた。
「こんな所で偶然出会うなんて……あの、えーと…よかったらラウンジでお茶でも……」
「何故こんな所にいる、成歩堂 龍一!」
「やっぱりフルネームで呼ぶ?」
もう何度そう思った事だろう。
「私を笑いにわざわざ来たの!!」
「そんな事するはずがないだろう!」
「じゃあ何をしに来たっていうの。お前の顔など二度と見たくなかったのに!」
こんな感情的になった冥を成歩堂は見た事がない。裁判でエキサイトしている時でも、あくまで冷静に対処しようとしていた検事狩魔冥の表情ではなかった。
しかし、二度と顔を見たくないと言われたのには、流石の成歩堂も憤慨したようだった。
「懸賞でたまたま当選したから来たんだ! 僕だって君の顔が見くてこんなところまで来るもんか!」
売り言葉に買い言葉とはこの事である。
「そう、それならもう二度とその顔を見なくて済むように、早々に立ち去りなさい」
今度は冷たく冥が言い放った。
「ああ、言われなくてもそうするよ!」
成歩堂は踵を返し、ホテルの中へと向かった。

それでもやはり気になって、成歩堂は振り返る。冥がいたであろう場所へ視線を流した。
──果たしてそこに冥はいた。
その瞳から流れる涙は幾筋も頬を伝い、または顎へ沿って零れ落ちる。
ただ涙を流して、冥はそこに立ち尽くしていた。
「か、狩魔検事!」
思わず走り寄った成歩堂は、冥の肩を両手で掴む。
「どうしたんだ。何をそんなに……」
冥の小さな小さな呟きが成歩堂の耳に届いた。
「どうして…こんなところに…いる………」
その弱々しい声に弾かれたように成歩堂は、強く冥を抱きしめた。
「君に……君に…あいたかったんだ!」
成歩堂の叫ぶような声を聞きながら、冥は涙を流したまま抱きしめられていた。

ホテルの成歩堂の部屋にコーヒーの香りが広がる。
「ブラックで、よかったよね?」
目を赤くした冥は小さく頷き、大人しくソファに掛けていた。
ゆっくりとカップに口をつける。
「よかった、今度は飲んでもらえた」
微笑む成歩堂に冥は首を傾げた。彼が何を言っているのか一瞬判らなかったが、すぐに今年の初め、無理やり連れられて入った喫茶店の事を思い出した。
「あの時のコーヒーの方が、ずっと美味しいとは思うけど。まぁ君は飲んでなかったし」
彼もカップを持って冥の隣に座ったが、どうにも気まずい空気が流れた。

──今度は冥がその沈黙を破った。
「私に会いに、来たと言ったわね?」
小さな、法廷での彼女からは考えられないほどにか細い声で、そう成歩堂に問うた。
彼女から顔を背け、強く瞼を閉じて、答えた。
「そうだ……君に、会いたかった。君が…………好きだから……」
搾り出すようにして発せられた声に冥が再び訊ねる。
「私が、好き?」
「ああ」
「だから、あいに、来たの?」
「そうだ」
成歩堂はまっすぐに冥を見る事ができなかった。ただきつく目を閉じて、問われるままに答えた。
長い長い間があった。──いやそれは一瞬だったかもしれない。だが、彼にとっては長い時間が経った気がした。
成歩堂は頬に柔らかく冷たく、そして小さく震えるものを感じた。
冥の掌が、指が、成歩堂の頬を撫でていた。そして一瞬唇に、触れた。
成歩堂は目を瞑ったまま冥の手を自分の手で覆った。そしてその掌にくちづける。
唇はそのまま手首をなぞり、腕の内側を徐々に上ってゆく。腕の付け根に届くと今度はその剥き出しの肩にキスした。
その間、冥は何の抵抗もせず、成歩堂のなすがままになっている。
肩から首筋をつたった唇は、とうとう冥の下顎に到達し、そこからゆっくりと冥の唇を塞いだ。
触れるだけの唇は徐々についばむようなキスに変わり、次第に深いくちづけに変わる。
息をつくために開いた冥の口へ狙いすましたように、成歩堂の舌が侵入した。
成歩堂は情動のままに冥の舌を絡め取る。
たどたどしくそれに応える冥の舌が愛しくて、彼女の舌を甘噛みした。
気の遠くなるようなキスの後、ふいに冥は浮遊感を覚えた。それはほんの数秒で、自分がどこかへ座らされたのだと気付く。

成歩堂はやっと目を開き、冥を抱き上げて、ベッドルームへ向かった。
そっと彼女を下し、隣に座る。
先程とは逆に、今度は成歩堂が冥の頬を撫でた。
冥は成歩堂の掌にキスして、目を開いた。
しばし見つめあい、そうしてふたり、やっと笑いあった。
それは互いに初めて見る笑顔だった。
再び唇は触れあい、濃密なキスを交わす。
お互いの唇を柔らかく噛みあい、歯列を舌でなぞる。
ふたりは一言も言葉を発しない。ただ冥の吐息が少しずつ甘く蕩けるように色づいてゆく。
ふと冥は何も纏っていない自分を自覚し、そして肌と肌の擦れ合う熱を感じていた。
存分に冥の唇を味わった成歩堂の唇は、冥の瞼に触れた。次に冥の小さなホクロをなぞり、耳朶を食む。
やっとお互いを隔てる衣服を剥がし終わった成歩堂の腕は、小刻みに震える一対の丘へ向かった。
触れた柔らかな乳房の感触に酔い、あくまで優しくもみしだく。だが決して濃い桜色に染まる突起には触れなかった。
うなじをつたった唇は、背中をなぞりはじめる。
冥にはもう自分がどんな格好をしているのかさえ判らなくなっていた。
導かれるままに身体を動かし、両の腕は成歩堂の胸板と背中を触れてるのが背一杯だったが、その拙い愛撫は成歩堂を余計に昂ぶらせた。
背中を隈なく舐め取った唇は、次にわき腹を這った。
冥にとって、普段ならばくすぐったいだけのはずの場所だが、今は熱く蕩けそうになる。
荒く甘い吐息だけがベッドルームに満ちた。
わき腹を這った唇は、ほんのり色付いた乳房にやっと辿り着く。
成歩堂の左手は冥の乳房を柔らかく揉み、右手は足首から太腿へむかって撫でながら上る。そうしてもう片方の乳房に熱い吐息が触れた瞬間、唇が唐突に乳首を捕らえた。
「ああッ」
今まで吐息と肌の擦れ合う音以外しなかったベッドルームに初めて冥の声が響いた。
自分の発した甘い声が恥ずかしくて、冥は自分の口を手で塞ぐ。
すると耳の後ろから急に声がした。──掠れた声が懇願する。
「我慢しないで…冥の、声が聞きたい」
初めて『冥』と呼ばれた声で、彼女の背中を何かが駆け上る。
ゆっくりと力強く口を塞ぐ手を外された。
「やぁっ、こんなの……違う…私の声じゃ…な……あっ」
「もっと聞かせて、冥の可愛い声」

執拗に乳首を咥え、吸い、弄る。
その度に冥は細く高く声を上げる。
太腿に伸びた腕が遂に冥の中心にとどいた時、既にそこは蜜で溢れていた。
充血しきった乳首から離れた唇もそれを確認する為に下腹部へ移動を始める。
敏感な緋色の真珠を目で舌で味わうと、色付いた声は一層高く響いた。
溢れた蜜を舐め啜ると、静かな水音が冥の耳に届いた。
挿しいれた舌を襞が押し返そうとするが、成歩堂は意に介さない。
深く浅く何度も出し入れされる舌で更に水音が大きくなっていた。
それに気付いた冥が再び羞恥に身悶えると、成歩堂が囁いた。
「もう…我慢できない」
その声に冥は頷く。
大きく広げられた両足の間に成歩堂がいる。そう思うだけで冥は恥ずかしくてたまらなかった。こんなみっともない格好をするとは思ってもいなかったのだ。
「冥、綺麗だ」
「うそ…こんなみっともない格好…なのに……」
「そんなことない、冥が僕を待ってくれてる証拠だ」
狭い入り口に成歩堂の欲望があてがわれた。
それを感じて冥は少しだけ震える。けれど彼女の奥深くでそれを求める疼きがあった。
「は…あっ」
身体の内側へ侵入しようとする成歩堂自身を冥は必死で受け入れようとしていた。
ぷつりと、何かが弾ける音を冥は身体の中で聞いた。多くはないが決して僅かではない痛みが冥を襲う。
だがそれは嫌な痛みではない。冥にとって、何か達成感さえ覚える痛みだった。
初めて男を受け入れる襞は、先ほど十分に舌で慣らされてはいたものの、やはりサイズの違いは如何ともし難いらしく、成歩堂の侵入を拒む。
けれど成歩堂はその抵抗をゆっくりと押し退ける。
やっと全てを収めきった成歩堂は冥に深く熱くキスした。片手は乳房の、もう片方は身体の中央、その敏感な芽を摘み擦る。
痛みで冷めかけた冥の思考が再び蕩け始める。
「く…う」
けれど成歩堂は抽送を始めない。ただ深いキスを与え、冥の感じる場所を探る。
「や…ぁ」
もぞもぞと冥の腰が動き始めたが、それでも成歩堂は動かない。
そうするうちにもどんどん昂まってゆき、ついに冥は一際高い声とともに高みへと達した。

やっと少し冷静になった冥だったが、未だ自分の中にいる成歩堂を不思議に思う。
「……どうして…動かない?」
低く掠れた声が答える。
「気持ち、良すぎて。もったいないんだ。ずっとこのまま入っていたい気分」
その言葉に耳まで真っ赤になる冥に成歩堂は優しく笑む。
「それに、初めてだと痛いだろ? だから、僕が治まるまでこのままでいさせて」
成歩堂は、初めての相手には動かない方がいいと経験上感じていた。慣れてきてからなら、相手に負担をかけずにすむ。
冥とこれから先があるのか? という疑問はこの際封印しておくことにした。
「……ずるい」
「え?」
「私だけ、なんて……ずるい」
「な、何が?」
冥の言葉の意味が判らず、成歩堂は焦った。
「私だけ気持ちいいなんて、ずるい」
冥は少し膨れっ面になっている。
「……龍一にも…気持ちよくなって…欲しい……あっ…」
その声に反応して、冥の中の成歩堂が更に大きく硬くなった。
これまでフルネームで呼ばれはしても、龍一、と呼ばれたのは初めてのことだった。
そのうえ冥にそんな可愛い事を言われてしまっては、反応するなと言う方が無理だった。
「それに……」
「それに?」
思わず鸚鵡返しになってしまう成歩堂。
「何か、奥の方がじんじんしてる……」
冥の言葉は、易々と彼の我慢の限界を超えさせた。
「ごめん。もう我慢できない」
そう言うが速いか、成歩堂が抽送を始めた。
冥の中は狭くて柔らかい。このまますぐにでもイってしまいそうになるのを堪える。
堪えれば堪えるほど冥が辛いのだという事は、既に頭から消え去り、成歩堂は先程までの優しい愛撫を忘れたように、激しく抜き差しした。
冥にはもちろん快感よりも痛みの方が大きかったが、自分ひとりイかされた時よりも喜びは大きかった。
濡れた肉と肉の擦れる音に恥らいながら、冥は全身で成歩堂を感じる。
そしてとうとう成歩堂は、彼の白く濁った欲望の全てを冥の中へ吐き出しす。
同時に狩魔冥は、これまで感じた事の無い幸福感を胎内で感じていた。

(今度は法廷で会うはずだったのに…ね)
満足そうに眠る成歩堂の横で、冥は一枚のカードを見つめて──笑った。
最終更新:2006年12月13日 08:03