司法試験に合格し、最年少で念願の検事となった冥は、その報告を直接父にしたくて日本に戻ってきていた。
父の部屋で彼の帰りを待ちながら、検事バッジを掌に転がす。
もっと特別な感慨が沸くかと思っていたが、実際手にしてみると、父の言うようにそれ自体はただのバッジに過ぎなかった。
手持ち無沙汰の冥は、口の中にキャンディを転がしながら、部屋に置かれているチェス盤を覗いてみた。父親が御剣怜侍相手に遊んでるようだが、譜を見る限り、あの男も中々健闘しているようだった。

(生意気だわ……)

冥は御剣側の駒を適当に置き換えた。
そのとき、ドアの向こうから小気味良い足音が聞こえてきた。まぎれも無く父の足音だったが、機嫌が悪いのを冥はすぐに察知した。
荒々しく部屋に入ってきた狩魔豪は、娘の存在に多少なりとも驚いたようだった。

「お帰りなさい、パパ!」
「……冥?……戻っていたのか」
「ええ。パパのおかげで、検事になることができたわ!直接報告したくて、戻ってきたのよ」

そうか、という父の素っ気ない答えに失望したが、滅多に見せない疲労の様子を前に、冥はそれ以上、自分の話はする気にはなれなかった。

「ふん……バカ共の初動捜査ミスのせいで明日の公判を一から洗い直しだ。無駄な時間を使わせおって!そもそも検事局、警察局共にバカが多過ぎる!全員まとめて首でも吊ってしまえッ!!」 

狩魔豪は一度不満を爆発させたあと、ソファに横なって苛立たしげに息をついた。冥は横たわる父のすぐ側に座ると、不機嫌そうなその口元に自身の唇を押しあてた。狩魔豪は口内に感じた違和にたちまち顔をしかめると、安っぽいオレンジの味がする、キャンディを吐き出した。

「……疲れてる時は糖分を取るといいのよ」

言葉を返すのも気だるいようで、キャンディをゴミ箱に向かって放ると狩魔はまたぐったりとソファに身を沈ませた。

「何か手伝うことある?パパ」

豪はさっと時間を確認すると、言った。

「……いや、もう遅い。御剣にでも……」

「どうしていつもレイジなの?パパ!私だってもう検事になったのよ。デビューはまだだけど……御剣怜侍以上の仕事をする自信はあるわ!」

狩魔の自分なりに娘を慮ったつもりの言葉だったが、また御剣に対する妙な闘争心をけしかけてしまったようだった。御剣怜侍はいずれこの手で葬り去るので冥の心配は杞憂なのだが、娘の反応は豪の自尊心をくすぐる、なかなか楽しいものだった。

「……ふん、いいだろう。では論証の組み立てに付き合ってもらおうか」

この時のために、今日まで冥は必死の努力をしてきた。傍目から見れば異例の早さで検事になった少女だが、彼女自身にとっては長く、辛いことも多い道のりだった。
だが今、こうして父と同じ検事として彼の隣にいる。
証拠の突き合わせも、論証の組み立ても狩魔豪の及第点にかなったようで、父が満足している様子を見て、冥は誇らしかった。
ふと向かいの窓間鏡に目をやると、十分に成長した自分がいた。
まだほんの小さな頃、冥はショーウインドウに映った自分の姿にもどかしさを覚えたことがある。父と並ぶといかにもアンバランスで、当然といえば当然のそのバランスの悪さに、冥は強い不満を感じた。
父に対して自分の求めている位置は、途方もない場所かもしれない。そう思ったのは、その時がはじめてだった。
後ろにはぐんぐんと伸びていく御剣怜侍がいて、彼が冥の成長へのハッパをかけたとも言える。そういう意味では、あの弟に感謝をしてもいいかもしれないと、冥は思った。
もう自分は大人だ。冥は自信を深めた。

「……ウム。いいだろう。あとは我輩一人で十分だ……もう遅い。早く部屋へ戻れ」

そう言って、義務的に娘のこめかみに口づけしてやった。

「……パパが連れていって」
「ふん……その歳で一人で眠れないとは、御剣に笑われるぞ」

そう言うと、冥は白い肌に赤味を宿し反論した。

「私、もう子供じゃないのよ。パパやレイジと同じ検事よ!」

狩魔は娘の真意を探ろうと、小首をかしげて冥の顔を覗き込んだ。まるで磁器人形のような顔、細い首筋に脈打つ蝶の妙脈。そのリズムに何事かの訴えが見てとれるようだった。

「ああいう、子供っぽい……は……イヤなの……」
「なんだ?よく聞こえん。もっとハッキリ言え。お前らしくない……」

冥は周囲に誰もいないにも関わらず、父親の耳元で秘密を打ち明けるようにささやいた。

(子供みたいなキスはもうイヤ)

そう言うと、気恥ずかしさからか、顔を狩魔の胸にうずめた。こういう仕草は、幼女の頃から何ら変わっていない。狩魔豪は苦笑しつつ娘の顔を上げると、緊張で渇いた唇をそっと吸ってやった。
すると、小鳥がついばむように小さな舌がチロチロと豪の舌を探ってきた。そのくすぐったさに思わず狩魔が身を引こうとしたとき、下唇に鋭い痛みが走った。

「…………………………。」
「……ぁ……鉄みたいな味がする…………」

その瞬間、ほんの一瞬ではあったが狩魔豪の理性の手綱が緩んだ。
次に手綱を握り直した時には、自分の下で苦しげに、しかし熱く狩魔のシャツをかき抱いている冥がいた。
ふと平静に戻った狩魔が冥から身を離すと、冥は震える声で呻いた。

「……やめないで……パパ……」

しかし、狩魔豪は今日のところはこれで満足だった。自分と同じく、どうやら娘も容易く境界を越えられる性質らしい。自身の分身なのだから当然かもしれない。
考えてみればこれ以上、完璧で完結した世界はない。だが簡単に完成させてしまっては面白くない。それはゲームの終わった暁にあるべき。
口内と肺に残るオレンジと血の風味……狩魔は先ほどまでと比べて、だいぶ気分が良くなっていた。

「もう部屋に戻れ……冥」
「私、子供じゃ……」

そう言いかけた冥の唇に狩魔豪は人差し指をあてた。

「そう急くな。時間はいくらでもあるのだからな。……そう、これからなのだ。色々と面白くなってくるのは……クックックッ……」

狩魔豪は自身の脳内にあるチェス盤で、完全な勝利のために完璧なゲームを作り上げていく。それを乱されるのは好まない。
だが要のクイーンは意外な大胆さを持っているようだ。このコマの扱い、しっかり掌握しておかなければならない。
冥はまだ何か言いたげだったが、衣服の乱れを直しはじめた。
が、突然、跳ねるように窓辺に駆け寄っていった。

「ねえ、パパ!今、流れ星が通ったわ!」
「ふん……」

たちまち子供に返る娘の姿に、狩魔豪は再び苦笑せざる得なかった。


END

最終更新:2020年06月09日 17:37