仕事ぶりは尊敬している。
今の自分では足元にも及ばない実力者だというのも知っている。
弁護士の中での評価も飛びぬけて高いし、顔とスタイルが良い事も知っているし、
ついでに言うとその顔は――割と結構好みでもある事も自分で判っている。

だが、これだけの条件が揃っているのにも関わらず、綾里千尋が向かいの男に下す評価は
―――ああ、苦手だわ。この人。
である。

理由はなんとなく分かっている。
例えばそれは今。
飲み屋で酒を飲まずに、ひたすら持ち込みのポットでコーヒーを飲むところ。
非常識だ。
法廷でも好き放題な事を言っては(千尋を多分に含む)周囲を困らせるところ。
その発言は訳が分からない癖に、やけに的を得ていて人の心を抉るところ。
時にそれはとても怖い。真実から目を逸らしてはいけないという意識を、
千尋は改めて突きつけられる気になる。この男はおそらく真実しか言わないのだ。
だから心が深く抉られる。そう千尋は思う。
「どうした子猫ちゃん。もう酔っ払っちまったのかい?」
やっぱりミルクにしておくんだったかな、と酒場に着いてから3杯目となる
コーヒーを飲み干した向かいの男―――神乃木荘龍は、からかう様に言った。
「よ、酔ってなんか居ません。」
「そうかい?俺のことを大分熱っぽい目で見つめていたように思えたんだがな。」
「な!」
見つめていたのは事実だが何という厚かましい物言いだろうか。そんな軽口を
振り払うように、千尋は飲みかけていた三杯目の焼酎――実際はその前にビールを
五杯飲んでいるので八杯目だ――をぐっと飲み干してから言う。
「そんな事ありません。先輩は自意識過剰です!」
「クッ…確かにな。店の人間までこっちを見てる気がしてるぜ。」
「それは先輩がお酒を頼まないで自前のコーヒーを飲んでるから睨んでるんです。」
本当なら締め出されてもおかしくないのだが、千尋が通常より早いペースで多く飲んで
フォローしているので不問としてくれているのだろう。神乃木本人はどこ吹く風なのが
余計に千尋を逆撫でる。
「本当に見られてたって訳だ…。じゃあ、子猫ちゃんも本当は俺を見ていたんだろうぜ。」
「三岳ロックで。」
酔っていない戯言は酔って言うより始末に悪い。千尋はあからさまに無視して
店員に焼酎のお代わりを所望した。

「クッ…随分と釣れないもんだ。」
ダメージを受ける様子も無く、四杯目のコーヒーを注ぐ。
その気障な仕草は古い喫茶店や洒落たバーなら似合うだろうが、大衆酒場に
そぐわない。千尋はそんな事務所の先輩を半眼で睨みながら、残っていた
焼きイカを頬張った。ちなみに食事も殆ど千尋が平らげている。これは神乃木が
気取って食べないからではなく、千尋の食欲が彼のそれより多分に勝って
いるからなのだが。
イカを新たに届いた焼酎で喉の奥に流し込み、ごくり、と喉を鳴らす。
「そんなに飲んじゃあ、帰り道が危ないぜ。」
「大丈夫です。」
「そうかい?まあ…どうせ俺の奢りだ。好きに飲むといいさ。だけど
帰りたくない…っていうならそんなに飲んで口実を作らずとも…
すぐに俺の家に招待するぜ。」
「帰ります!」
間髪入れずに千尋はきっぱりと言い、机をばんと叩いて立ち上がった。
おそらく法廷でもここまで強く机を叩いたことはないだろう。しかし、
勢い良く立ち上がった為に、酒気が一気に千尋の中を駆け巡った。だが構わずに
財布から千円札を数枚取り出す。否、取り出そうとするが上手く取り出せなかった。
何しろ野口英世の顔がやたらとぶれているのだ。
「おいおい、子猫ちゃん…そう急ぐなよ。ちょっと酔いを醒まさないとマズイぜ。」
「大丈夫です!」
野口だか樋口だかわからない人物をばんと机に叩きつけ、千尋は去ろうとした。
諭吉でなければこの際くれてやる、という勢いだ。傍から見るとすさまじい
怒りっぷりのように見えるが、実際それほど気を悪くした訳ではない。
ただなんとなく、この男のペースに乗せられているのが気に入らないし、
気を悪くしてない自分自身も千尋は気に入らなかっただけだった。
戸を開ける前の段差でぐらり、と体が大きく傾いだ事に、千尋は自分で
気づかなかった。倒れなかったのは神乃木が千尋の背中を抱きとめたからである。
「おいおい、大丈夫か?」
逞しい男の腕が千尋の背中を抱え、ニヒルな口元は千尋が顔を上げると
すぐ近くにあった。
ドクン、と大きく心臓が跳ねる。
「だ、だいじょうぶです!構わないでコーヒーでも飲んでてくらさい!」
呂律が上手く回らないまま慌てて離れる。そして、離れた拍子に―――
がつんという音と共に衝撃が走り、千尋の意識はそこで途絶えた。

白い天井が見える。
部屋が暗いのに天井が白いと思うのは何故だろう。
ああ、そうか、木目がないからだと千尋はぼんやりと思った。自分のアパートならば
天井に木目と黒いシミが右上のほうにあるはずだ。どうして今日はないのだろう。
そこで千尋はやんわりと覚醒していく。頭がちょっと痛い。気持ち悪さはないが、
なんだかぼんやりとしている。
のども渇いていた。
「水…」
冷蔵庫にミネラルウォーターはあっただろうか。ビール缶と野菜ジュースくらい
だったろうか。水道水でもいいかと千尋は起き上がる…と、それは
いつものベッドでもない。千尋のそれよりも、ひとまわりほど大きいサイズだ。
ようやく千尋ははっきりと覚醒する。
ここは、自分の部屋ではない。
そして―――自分の服もなかった。
「な…なんで…?」
ベッドから体を起こした千尋の身を守るのは、上下の下着一枚ずつのみであった。
青いレースのブラジャーと、それとは色が少々違う紺色のレースのパンティ。
ストッキングも穿いていない。
千尋の顔色が下着と同じく青くなる。
確か、駅前の居酒屋で飲んで…飲んで…それで…。
「よう、お目覚めかい?子猫ちゃん。」
その聞きなれた声に思考が凍りついた。
千尋はゆっくりと声の方向に視線を這わす。
そこには、水を手にした神乃木が、笑ってしまうほどベタな、しかも彼に
ぴったり似合ったガウン姿で立っていた。

「アンタ、相当凄かったぜ…。」
ニヤリと口端を持ち上げて、男は歩み寄る…が、脚はそこでとまった。
千尋が返事の代わりに枕を思いっきり投げつけたからだった。コップの中の
水が零れ、高級そうな絨毯の上に降りかかる。
「出てってください!出てって!」
「おいおい、ここは俺の家だぜ。」
「うるさい!」
クッション、目覚まし時計など手当たりしだいにベッドの周りにあるものを
部屋の主めがけて投げつける。ガシャン、とコーヒーカップが投げ割られ、
さすがに神乃木が腕を掴んだ。
「落ち着け千尋。」
「離してください!あたし先輩のこと尊敬してたのに!いくら酔っ払ってたからって
あんまりです!先輩は酔ってなかったくせに!」
「何もしてねえさ。」
「嘘よ!」
「何もしてねえ。」
さきほどのからかう様な笑みは消え、掴まれた腕が痛いほど、神乃木の表情は真剣だった。
千尋は次の攻撃の言葉が出ず、そのまま黙る。
床に打ち捨てられた時計は、電池が外れて夜中の3時10分前で止まってしまっている。
まるでその時計に呼応したかのように、神乃木と千尋も動きを止めた。
夜の空気が二人の間にぴん、と張り詰める。
張り詰めた空気を解くように、ゆっくりと口を開いたのは神乃木だった。

「信じろ。アンタには何もしてねえ。」
法廷と同じ、低い落ち着き払った声。こんな声で信じろと言われれば、
依頼人でなくてもハイと答えてしまい、全てを任せてしまいたくなる。
憎らしいほどの大人の声だ。
だが、千尋のプライドはその声に委ねる事を許さなかった。弱々しい抵抗をする。
「じゃあ…なんであたし…下着なんですか…。」
「まあ、そいつは俺が脱がしたからだ。」
カッと千尋が目を見開くが、神乃木はそれには取り合わず、さっき言ったろ、
と付け加えた。千尋は殺意を押し殺しつつ(…といっても滲み出ているが)問う。
「さっき…?」
「言ったろ…凄かったって…吐きっぷりが。」
「は…。」
「ああ。アンタのスーツはもちろん、足にも靴にも飲み屋のメニューを片っ端から
ぶちまけてくれたぜ。…ついでに俺のスーツと玄関にもな。」
真剣な表情のまま、神乃木は続ける。こういうときは意地悪い表情で
いてくれたほうがまだマシというものだ。千尋の顔は赤くなったり
青くなったりと大忙しだった。
「仕方ないからアンタの服を脱がして、全部出し切った後に口をゆすいで
寝かせた。その後に床を掃除して、服を洗濯して干して、体を洗って
風呂上りの一杯を楽しんでいたら、アンタが起きたってワケさ。酒屋で
飲み始めたのが午後11時すぎ、アンタが酒場でもんどり打って倒れたのが
12時半、家は知らないから、俺の家までタクシーで運んだ。そいつが1時過ぎ。
アンタの汚れた服を脱がして吐いたもんを片付けるのにおよそ30分強、
掃除、洗濯に30分。風呂に入って30分てところだ。空白のやましい時間が
ありそうなら、立証してくれねえか?子猫ちゃんよ。」
「う…。」
確かに、頭は多少痛いものの、妙にすっきりしていた。己が中身を吐き出した
何よりの証拠だ。しかしすぐには認められない千尋は、返事の代わりに下着姿の
まま布団を飛び出し、どこだかわからない玄関とお風呂場を探した。
そうして見つけた風呂場は確かに濡れており、千尋のシャツと、神乃木のシャツが
洗われて干されていた。二人分のスーツは丁寧に汚れが拭われており、
クリーニングに出される為にまとめてある。
玄関も掃除の形跡があり、千尋の靴も洗われて干されていた。
千尋の完全な敗北である。
しおしおと部屋に戻ると、神乃木は割れたコーヒーカップを片付け終え、
新しいコーヒーを淹れていた。


「あの…先輩…すみませんでした…。」
蚊の鳴くような声で千尋は頭を素直に下げる。今までに有り得ない失態だ。
酒で記憶を無くすことは多少あったが、酔いつぶれるのは自分の家だけと
決めていた。しかも、誰よりもこの人には見られたくなかったというのに。
「コーヒー、飲まねぇかい?」
神乃木に促され、千尋は素直に頷く。
「それから…その格好のままじゃ、幾ら俺でも目のやり場に困っちゃうぜ。」
「!!」
千尋はあわててベッドの上の掛け布団を引き寄せて引っかぶる。
下着姿で居たことを失念していたのだ。
(しかも、下着の上下ばらばらなのに…!もう最低だわ…!)
子供のように布団に隠れた千尋に向かって、神乃木はコーヒーの香りを
楽しみながら言った。
「生憎とガウンは一枚切りでな、シャツでよかったら貸すぜ。」
「…おねがいします。あと…あの…シャワーも…借りていいですか。」
「……ああ。」
下世話なネタでからかわれるかと一瞬身構えたが、神乃木はあっさりと
シャワールームに案内してくれた。神乃木のベッドから奪った清涼掛けを
ずるずると引きずりながら、千尋は後に続いた。
「好きに使いな。後でシャツを置いておく。」
不思議なくらいそっけない遣り取りに、千尋は少し不安になった。
だらしない上に図々しい女だと、軽蔑されたのかもしれない。
呆れているかもしれない。
そう思うと胸の奥がきゅ、と締め付けられる。この人には先日、
法廷で取りみだすところも見られたばかりだ。弱い所やみっともない
ところばかり…千尋が見せたい自分と、いつも違う方向ばかり晒している
気がする。
コンビニに替えの下着を買いに行きたかったが、着ていく物すら無いので諦めた。

長い髪から吐瀉物の酸えた匂いが気がした。もしかしたら髪も拭ってもらって
いたのかもしれない。千尋は慌てて湯を出し、頭からざぶりと引っ被った。
出だしのお湯は冷たく、水といっていい代物だ。思わず叫びかけたが、堪える。
頭を冷やせ。今の自分にはいい薬だ。
風呂場は男の一人暮らしとは思えない清潔さで、広さも十分だった。
自分の家のユニットバスとは大違いだ。
他の女の人も、ここを使ったのだろうか。
きっとそうだろう。しかも自分などとは違う理由で。
…というか、自分のような状況で夜中に風呂場を借りるような女とは、
神乃木は付き合わないだろう。
後輩だから…優しくしてくれているのだろうか。
シャワーの前に取り付けてある鏡を見つめると、驚くほど情けない顔をした
女が映っていた。千尋は、そんな自分を振り切るようにシャワーのコックを捻った。
(何を…落ち込んでるのよ、千尋!)
熱い雨が千尋に降り注ぐ。鏡にシャワーを当てて己の姿を打ち消した。

渡されたシャツは白のオーソドックスなものだった。千尋は女性の中では
背の高いほうだが、長身の神乃木のシャツに袖を通すとかなり袖が余る。
普通の女の子の事後のようで、えらく気恥ずかしい。裾も長く、お尻も
すっぽりと隠れているのだが…ひとつ問題がある。
下着がないのだ。
買いに行くのを諦めたものの、やはり一度脱いだものに足を通すのは
躊躇われた。
結果、千尋は素肌にシャツ一枚という悩ましい姿のまま、更衣室で懊悩している。
ズボンも置いてあり、気持ち的には借りたいところだが、サイズが合わなさ過ぎた。
第一、脚の長さが段違いだ。裾を搾りあげられる、リラックスできるタイプのものなど、
神乃木の衣装のなかにはないだろう。
それに、迷惑を掛けてこれ以上物を借りるのにも気が引けた。
ばれないでと祈りつつ、シャツ一枚という格好のままで部屋に戻る。

「お風呂、ありがとうございました。」
「…ああ。」
神乃木の寝室は、オレンジ色のスタンド明かりだけが灯っており部屋全体は薄暗かった。
千尋は幾分か安心してソファに腰掛る。神乃木が熱く、香り高い湯気の立つ
カップを差し出す。また新たに淹れ直したばかりのものだ。
「…ありがとうございます。」
ほっとする温かさに少し心が落ち着いた。千尋が投げ飛ばしたものは
全て定位置に戻っており、時計も元通りに規則的な音を刻んでいた。
「あの…すみません。時計とか…その、大丈夫でした…?」
神乃木は短くああ、とだけ答えてから、いつものようにクッ…と
笑い声を漏らした。
「…それにしても、アンタがあんなに取り乱すとはな…まだまだ
子猫ちゃんは返上できねぇな。」
「……。」
返す言葉もなく、千尋は沈黙で返事をする。
「まぁ、何もしてないのも事実だが、からかったのも事実だ。悪かったな。」
「いえ。」
「何だ…まだ拗ねてるのかい?子猫ちゃん。」
「拗ねてなんていません。」
そう言ってぷいと顔を背けてから、子供が拗ねる仕草と何等変わらないことに
気づき、千尋はバツがわるそうにコーヒーを啜った。先ほどの温かみよりも
今度は苦味が増した気がした。
ちらりと神乃木を見ると、同じようにコーヒーカップを傾けている。
琥珀色の液体を喉に流し込む、その喉の動きが妙に男を感じさせる。スーツに
隠れて普段は見えない鎖骨もやけに千尋の目についた。
(いけない。まだ、酔ってるのかもしれないわ…。)
早く飲み干して帰りたいところだが、電車もない時間の上、考えてみれば
着て帰れる服すらないのだった。
(っていうか…これって…かなりマズイ状態なんじゃないかしら…。)
千尋の頭が回転を始める。今は夜中の3時半。このまま夜明けまでコーヒーを
飲み続けるには無理があるし、かといって眠ってしまうのもどうかと思う。
横でコーヒーを啜るこの男が、自分に対して何を考えているのか全く読めない上、
自分の恰好は襲ってくれと言っているようなものだ。
もし、あの顔で、あの声で近づかれたら…拒める自信はない。
(どうしよう…!そりゃ、先輩の事は嫌いじゃないけど…でも…!)
千尋の鼓動が早くなる。コーヒーを流し込み、ふ、と息をつく神乃木の仕草が
余計に彼女を落ち着かなくさせた。
(いけないわ…落ち着くのよ千尋。ピンチの時こそふてぶてしく…!
余裕を見せ付けてやらないと…!)
「心配するな。何もしねえよ。」
千尋の心を読んでいるかのように神乃木が短く、そっけなくそう言った。

 

最終更新:2020年06月09日 17:35