※ゴドーの一人妄想劇場であり夢オチ
※一部カミチヒ
※一部暴力的表現あり

*****

──きっと自分は性質の悪い夢を見ているのだろうと思った。性質の悪い、というか、
欲求不満が昂じての、妄想じみた夢を見ているのだろうと。でなければ酔った勢いでの
バカげた状況に陥ったとか。
気づけば素っ裸で寝転んでいて、自分の上では知らないオンナが腰を振っている。目の
前の光景につける説明なんて、その程度しか思いつかない。
女の陰部はしとどに濡れて屹立を咥え込んでいる。白く華奢な腰が跳ねる度に柔肉が
割れ赤黒い肉を覗かせ、亀頭が見える寸前でまた沈める。少女めいて滑らかな腹は男性器
を呑み込むと微かに膨らみのたうつ。どぶり、と、白く泡立つ体液が結合部から垂れて
オトコの下肢を汚す。桜色の爪をつけた指が体液を掬いとり相手の腹に塗り拡げる様は、
何とも言えず劣情を煽る眺めだった。
違和感。
──眺望。
──視覚による情報。
何だ。彼は息苦しさを覚える。何 だ 、こ の 違 和 感 は 。
視覚。視覚以外の感覚が無い。指一本自由に動かせない。必死で探る指先、体勢から
して何処かに触れているはずの背中、オンナに咥え込まれた部分、ドコにも感触がない。
熱、痛み、快楽、その他、何も、なにも。どろどろに蕩けて絡みつく肉、溢れるほどに
零れる体液、白い指先から糸引く様子が見えるのに、あってしかるべきニオイがしない。
汗、愛液と先走り、もしくは精液、発情した肉のニオイ。何処にも、どこからも。声も。
自分とオンナの呼吸音も。笑うオンナの声さえも。
笑う。オンナは笑っている? 何故分かる? カオを見れば分かる? カオを、
オンナが背を仰け反らせる。白い喉、慎ましやかで、清楚さすら感じさせる乳房。白い
腹。快楽に緩んで、オトコを最奥まで呑み込んで揺すり上げる華奢なカラダ。白い腹が
ゆるく痙攣している。薄い脂肪越しに、射精寸前の男性器が震えている。オンナは促す
ようにじらすように内襞を絡め締めつけたまま上に下に跳ねる。筋を浮きあがらせ限界
まで硬度を増した屹立、ソレを支柱に移動を繰り返していたカラダが、一気に落ちた。
オンナの下腹にくっきりと男根のスガタが浮く。胎を埋め尽くし最奥を突く膨れあがった
肉が見え、精液が精管そして尿道を勢いよく通りぬけてゆくのが見え、オンナのナカへと
ブチ撒けられるのが見えて。
オンナが仰け反る。赤い髪が舞う。眼球に焼きつく、白い喉。
見える以外は、何も。
意識が沈む。視界はクリアなまま、射精の快楽と屈辱から分断されたまま、オンナの
嘲笑う声も聞こえないまま、

「お早うございます、神乃木さん」

目を、覚ました。

覚醒の瞬間感じたのは、病院独特の消毒臭だった。
目を開けると白い世界が広がっていた。茫洋とした白、輪郭のない白、緩慢に腕を持ち
上げ顔の前にてのひらを持ってくる。白。白。背景は白、ベッド横から優しく語りかけて
くる看護師も白、鼻先にあるはずの自分の手も白。彼我の区別のない白。

彼──神乃木荘龍は、ぼたりと腕を落とす。胸に軽い衝撃。それだけで骨にくる。
「神乃木さん? どこか痛みますか?」
「……いや」
見咎めたらしい看護師に、ようやっと一言返す。乾いた口内に唾液が絡まり、気持ち
悪い。水分の足りない舌先は、何故か血の味がした。
「そろそろリハビリも始まりますけれど、無理は禁物ですよ。五年も昏睡状態だったの
だから、ゆっくり戻していかないと……身体を拭きましょうか。さっぱりしますよ」
神乃木は横になったまま顔だけを看護師へ向け、触れようとする気配を制止する。
「悪いが、今ちょいと立て込んでてな。アトにしてもらえるかい?」
目の焦点も定められぬまま笑いかけると、看護師はしばしの逡巡ののち「では、また後
で」と言い置き病室を出て行った。一人残った神乃木はたっぷりと時間をかけて上半身を
起こし、毛布をめくる。股間部分は果たして予想通りの有様だった。
溜息も涙も出ない。
唯、衰えきってもこんなことにはなる自身の身体に、呆れ混じりの自嘲が零れるだけ
だった。

神乃木が五年に渡る昏睡から目覚めたとき、彼を取り巻く環境は憎らしいくらいに変化
が少なかった。神乃木荘龍の名は相変わらず弁護士会の名簿の中にあって、つまり彼は
まだ弁護士で、勤めていた星影弁護士事務所も健在で、世の中も多少の流行り廃りはあ
れど昔と大した違いはなく。せいぜいが、事務所の後輩が独立して個人事務所を開き、
──死んだ、ということくらいだ。
後輩の名は、綾里千尋、といった。
神乃木荘龍が最後に愛した女だった。

「……チミには、伝えるべきではなかった」
ベッドでうつらうつらしている最中にそんな言葉が聞こえてきて、神乃木は目を無理に
こじ開ける。そして何も見えないのを思い出し、また閉じる。途端眠気が襲ってくる。
「千尋クンのコト……もっと、チミが落ち着いてから伝えるべきだったんじゃよ……」
折り畳み椅子に肥満した身体を乗せ小さくなる見舞客を、神乃木はぼんやりと聞いて
いる。かつての上司であるこの弁護士を、神乃木に綾里千尋の死を教えた彼を恨んでいる
わけでも憎んでいるわけでもない。許せと言われれば許すつもりだ。けれど『シンジツを
教えてくれてありがとう』と感謝する気もない。
つまり、何も無いのだ。
「やめとけよ、ジイサン」
それでも一応は世話になったという恩義のある相手だから完全な無視は避ける。
「アンタの秘密はミルクみたいなモンさ。例え一滴でも純粋な闇を濁らせる……アンタは
隠し事に向いちゃいないんだよ」
見舞客はますます背を丸めたようだった。すまなかった、と、謝罪の言葉も聞こえた気
がしたが、まるで神乃木ではない誰かへ向かうかのように不明瞭だった。

謝罪が、後悔が、何を為すというのだろう。
もう全ては終わったことだというのに。
神乃木荘龍が目覚めた時には何もかもが手遅れだったのに。
綾里千尋は、神乃木荘龍とは何ら関係のないところで殺されて、犯人は逮捕され、法の
裁きを受けて。
全て──終わってしまったというのに。

神乃木はオンナを抱いている。白く華奢な肢体、腕の中すっぽりと収まる小柄な彼女を
抱きかかえ、やわらかそうな尻に指を食い込ませ、思うさま揺すぶる。オンナは感極まり
汗に濡れた脚を神乃木へと絡みつかせる。視界の端をなよやかな腕が滑り、肩を通って首
へと回された。赤みの強い長い髪が、神乃木の褐色の肌とオンナの白い肌の隙間へと流れ
落ちる。

夢、だった。
オンナの体温も感じ取れず、繋がった場所からの熱も快楽も捉えること叶わず、耳元で
喘ぐオンナの声も聞けず、失った視覚だけがはっきりとしているこの状況は、夢でしか
有り得なかった。五年の昏睡で衰えきった神乃木の腕が腰がオンナを掴み、責めたてる。
そんなことが出来るのも夢だからだった。
鎖骨の浮く肩口へと歯を立てる。オンナが悶える。視線を落とせばふたつの身体の作る
影の中、朱く裂けた肉と肉を裂く赤黒い肉とが粘液まみれで蠢いている。顎に力を込める
とぶつりと皮膚が裂け紅い血玉が生まれた。白い肌を這う赤。血の赤、髪の赤、食い込ま
せる指のアト、鬱血に滲む赤。何も感じぬまま舌を這わせる。血の筋を辿る。まだ硬い
印象すら残る乳房から、濃く色づく先端へ。ひくつくカラダは、神乃木の舌から敏感な
場所を逃そうとする。触れられずに震えるもう片方を押しつけようとしてくる。神乃木と
オンナの体格差から考えると無理な姿勢でもカンタンに届く。これは夢だからだ。
更にオンナを引き寄せ奥を抉る。かぼそい四肢が絡みつく。感覚はなくても視覚情報
だけで脳が灼ける。聞こえずとも、自身の息が上がっているのが分かる。オンナのカラダ
をほんの少し傾けて貫く場所がよく見えるようにする。ざっくり割れた場所は拡がって
勃起した性器をいっぱいに呑み込んでいる。ほとんどない隙間から体液が涎のように垂れ
流されてすべらかな太腿を濡らした。
──これが、夢だとして。
華奢な腰を抱え突き上げる。神乃木の肩に届くか届かないかの小柄な肢体がしなる。
跳ねる。
──神乃木が抱いているのは、誰なのだろう?
知らない女? そうかもしれない。神乃木の好みはもっと成熟したタイプで──豊満な
胸や尻、やわらかな脂肪、神乃木の動きに貪欲に応えるいじらしさ──凛とした、真直ぐ
な眼差し──それが神乃木の腕の中で蕩ける瞬間。神乃木の愛する女は、今抱くオンナ
とは全く異なっていた。
何故、ここに。
綾里千尋ではなく知らないオンナが──(知らない?)
知らない女。
本当に? 庇護欲と征服欲を同時に煽る、肉付きの薄い身体。不用意に力を入れれば
折れてしまいそうなカラダ。さらさらと零れる、赤みの強い長い髪。古めかしい結い方が
オンナの愛らしい容姿にぴったりとはまっている。
──容姿。
どくん。鼓動がひとつ。
──天使のように整った、その目鼻立ち。
どくん、どくん。同じ時間内で、鼓動がふたつ。
──吐息がかかるほど近くにあるそのカオを、神乃木は知って──「──自分のせいで
死んだオンナは、お抱きになれない?」

「ねえ、神乃木荘龍」

踏みつけられ、地べたで潰れる虫を見るような目で。
美柳ちなみが哂った。

五年前。神乃木に毒を盛り昏睡状態に陥らせたのは、美柳ちなみという名の女だった。
見た目は天使のように愛らしく、清楚そのもの。しかし内面は悪魔と呼ぶに相応しい。
自分の欲を満たすために他人を犠牲にして平然としていられる女だった。若干十四歳で
義姉と恋人を巻き込む狂言誘拐を起こし、全ての罪を当時の恋人に被せ、自分は別人と
してのうのうと生きてきた女。数年後には罪の重さに耐えかね告白しようとした義姉を
殺し、殺人の容疑者ともなった元恋人をも間接的にだが殺して。それで涼やかに微笑んで
いられる女だった。

そんな相手と不用意に会い、あまつさえ毒を盛られたのは。多分に神乃木の油断と慢心
が原因だったのだ。
そこまでするはずがない、と思っていた。事件の話を聞きに来た弁護士、そんな、害
すれば即嫌疑がかかるであろう相手に手を出すほど愚かでも大胆でもないだろう、と。
神乃木は美柳ちなみを読み誤った。間違いの代償は五年間の空白。
その美柳ちなみも、もういない。
神乃木が倒れてのち、別の殺人事件の法廷で綾里千尋と対決し、ちなみが犯人である
ことが立証されたのだと──綾里千尋が神乃木荘龍の仇を討ったのだと。そう、聞いた。
笑える話だった。
あの日。神乃木が一人でちなみに会いに行ったのは、綾里千尋を。法廷、彼女の目の前
で依頼人が命を落としたとき、その犯人である美柳ちなみを見送るしかなくて、泣く彼女
を──“悔しいんです、センパイ”“尾並田さんは、これからもうずっと、殺人事件の
容疑者で、弁護もできなくて──死んだから、彼は自分が無実だと言うこともできない。
それが、私には、”──そう言って唯前を見る彼女を、どうにかして支えてやりたいと。
そんな風に考えたからだ。
安っぽいヒーロー願望のツケはこんな形で回ってきた。
五年。
五年は、長過ぎる。

「それで」

「貴方さまは、それが綾里千尋ではなくわたくしをお抱きになる理由になると、本気で
お考えになっていらっしゃいますの──?」

恋人に内緒話をする近さで。ちなみが嘲笑った。

仰向けになった神乃木の上で、ちなみが微笑んでいる。赤い髪がショールのように素裸
の肌を覆っている。
「ねえ、オジサマ」
繋がったまま神乃木の胸板に肘をつき、ちなみがにっこり笑ってみせる。角度だけなら
愛くるしい、イタズラっぽい笑み。しかしその目は冷ややかに見下すもの。
「わたくしは“何故、神乃木荘龍は綾里千尋ではなく美柳ちなみを抱くのか”をお聞き
しましたのよ?」
ねえ、とちなみが身体を起こし腰を振る。白い肢体がぶるりと震えた。肉と肉が、陰毛
同士が、粘りつく体液が混ざり絡み合う。
何故? 「答えられませんの、オジサマ」何故? 「答えが本当にお分かりなさらない
の?」何故、「それとも、」
肉と肉が醜悪に絡み合う。
「お答えになりたくないだけ」
欲を吐き出すための器官がオンナのナカで汚穢じみて脈打っている。
こんなもので。
「……抱けるワケがねェ」
「あら」
勢いをつけ上に乗るちなみをひっくり返し今度は自分が圧し掛かる。先程とは丁度逆の
体位だ。神乃木はちなみを見下ろし。見下す視線にブチ当たる。
ずく、と。腹の底で感覚が蘇った。不快な熱を伴うソレは何処か怒りに似ていた。
「アイツを、オレは見殺しにした」
「ふうん」
「そんなオレが、今更どんなツラでアイツに会えと」
例えこれが神乃木の夢で、全てが神乃木の都合の良いように進むのだとしても、一体
どうやって。「──ふ、は、あはは!」

哄笑。
「何が」
オトコに貫かれたオンナは他人の肉なぞ意に介さぬ冷淡な表情を向け。
「何が可笑しい!」
オトコはオンナを割り裂く部分からぬめるように這いあがる感触に、腹の底に生まれる
奇妙な熱に白熱する。
「オジサマがあまりにもオロカなもので」
「なん、だと……?」
するりとちなみが目を細める。神乃木の腕を滑る手はぬめる肉の熱さとは裏腹にひどく
冷たい。
「ねえ。だって」
ちなみが口を、開き。「綾里千尋が死んだのは神乃木荘龍のせいではありませんもの」
「…………ハ」
なんだ、これは。神乃木は乾いた、笑いとも呼べない声を洩らす。自分は罪悪感極まり
とうとうこんな女にまで許しを求めるようになったのか?
「だって」
囁き声。音が鮮明になるのと同期し、視界が滲む。額を流れる汗が目に入ったのだろう
が、拭う余裕がない。
「綾里千尋は神乃木荘龍が何も出来ない時に死んでしまわれたんですもの」
気づく。
せりあがるコレ。腑の底からどろどろと溢れてくるこの感情は。
「……そうだ」
絞り出す自身の声が示すのは。
「オレは、アイツを守れなかった。……傍に、いてやれなかった!」
劣情に似て。怒りよりも明確なコレは。
「オマエのせいで!」
殺意。
ちなみの華奢な首に指が食い込む。神乃木の両の手が、細い首を絞める。てのひらの下
で動脈が猛スピードで脈打ち、酸素の足りない身体がもがき始める。
「本当に」
「何」
「本当に、そう思っているの?」
なのにちなみは平然と神乃木を嘲笑う。
「“アタシのせいで”“アタシがアンタを眠らせたから”、だから綾里千尋は死んだ?」
「そうだ!」
体重を掛ける。みしみしと骨が軋む。華奢なカラダは恐ろしい勢いで痙攣する。繋がる
部位も同じく。強烈な締めつけに神乃木の意識が一瞬白くなった。縋るように手に力を
込める。暴れ強張るカラダの中、他人の肉を咥え込む場所だけがぐじゅぐじゅと淫蕩に
蠢き神乃木の肉へ離すまいと喰らいついてくる。強過ぎる刺激に一気に吐き出しそうに
なる。
「オマエの、」
まだだ。
「オマエの、せいで、アイツは──!」
終わらせない。こんなものでは終わりにしない。ほど近い“死”にぎりぎり狭まるナカ
を抉る。首を押さえつけられ、胎を激しく突き上げられて、ちなみのカラダが滅茶苦茶に
踊る。
彼女の表情は見えない。神乃木の視界は白く霞みがかり何も見えない。
「そうよ」
それでも、声は届く。何処までも、拒んでも。
「もう、アンタにだって分かってる。アンタはアタシを抱きたいんじゃない。犯したいん
じゃない。アンタは、アタシを、“綾里千尋を殺したアタシ”を、」

──殺したいのよ。
「……そうだ」
ばきり。手の中でそんな音がすると同時に、神乃木はちなみのナカへ精を放った。

「──アンタ、ふたつほど忘れてるぜ」
誰もいなくなった場所で神乃木は一人膝をつき、呟く。視界に移るのは白い闇。何処
とも繋がらない空間。
「アンタはもう死んでる……殺しようがねェ。
そして、オレが一番殺したいのは」
「アンタ本人、ってわけね」
もう消えたはずの人間の声に神乃木は頷く。
「オレはアイツを守れなかった。守るつもりが、五年も無駄にして、アイツが苦しんでる
時にも何もしてやれなかった……情けねえ話さ」
「全くね。なんでアンタまだ生きてるの?」
微かな、違和感。
「まあいいわ。アンタなんか、どうせ生きてても死んでるのと同じだし」
頭を巡らす。そんなことをしても毒にやられた神乃木の目は白しか映さないのだが、
「ねえ、弁護士のオジサマ」
そこに、人がいるのが分かる。清楚なワンピースを身に着け、日傘を差した誰か。
「“アンタがいたら”“綾里千尋は守れた”の?」
「──なに」
「アタシがいてもいなくても、あのオンナはアンタに頼らずヒトリで行って、アンタの手
の届かないところで死んだだろうって。そうは思わないの?」
違和感。
なんだ、これは。
眼前に存在する、このオンナは。
「アンタには最初から綾里千尋を守れるチカラなんてなかった──そうは思わない?」
「オマエは──!」
思わず起き上がりかけ、病み衰えた脚では支えきれず無様に転がる。
「アンタには誰も守れないのよ」
神乃木を誰かは嘲笑する。
「アンタはずっとそこで寝てればいいわ。……アタシは違う。アタシは、自分のやりたい
コトをやるわ」
「待て! オマエは、」
「ごきげんよう、死に損ないの弁護士サマ」
優雅に礼するちなみに筋力の全てを振り絞って手を伸ばし。
届かず、神乃木の意識は暗転した。

神乃木荘龍が自分の病室からロビーに辿り着くまでに、実に十数分を要した。健康な
男性なら数分あれば充分な距離も、萎えた脚には辛い。それでもリハビリの効果はある。
ベッドから起き上がるのがやっとだった神乃木が、曲がりなりにも自分の足で歩けるよう
になったのだから。医師はその回復の早さに驚いていた。
急ぐ理由が神乃木にはあった。
夢で見た、美柳ちなみ。彼女の最後の言葉を単なる妄想と片付けるのは簡単だ。夢は
夢、現実ではないのだと。
──違う。
神乃木は自動販売機で買った缶コーヒーを握りしめ、人気のない病院裏手に回る。
──アレは、きっと違う。確かに妄想かもしれない。第六感、存在さえあやふやな感覚
に因るモノなのかもしれない。それでも神乃木は確信する。アレは、確かに何かをしよう
としている、と。

今度こそ。ちなみを止める。
そのために必要なものがある。
神乃木は苦労して缶コーヒーのプルタブを開ける。疲労で震える指を一本一本缶に添え
一気に呷る。ミルクと砂糖、人工香料のたっぷり入った。神乃木の基準からすればおよそ
コーヒーとは認め難い液体を飲み下し。
強い刺激が食道を胃を焼き。耐え切れず吐いた。
薄茶色の液体全てを吐いても咳が止まらない。吐き戻しと胃液の苦さ、混じる血の鉄
錆びた感触が神乃木を汚す。
神乃木は。
笑う。
そう。これが“神乃木荘龍”だ。
吐瀉物まみれの自身の手を顔近くまで持ってくる。毒にやられた目は物を物として認識
しない。もう片方の手で、触る。老人のように痩せさらばえ乾いた手の甲。これが神乃木
荘龍だった。ぎりぎり歩ける程度の筋力しか残らなかった脚。これが神乃木荘龍だ。
愛する女を死なせた男。
愛する女が死んで、安っぽい自罰と自己憐憫に浸るだけだった男。
自分に愛する女を救うチカラがなかったことを、認められなかった男。
「それが、オマエだ。神乃木荘龍」
彼は断ずる。この世で最も唾棄すべき相手の名を呼ぶ。

「だから。オレは、オマエを殺すぜ」

言って。彼は再び立ち上がり、よろける足を叱咤し歩き出す。
神乃木荘龍としての全てを捨てて。神乃木荘龍が果たせなかった何事かを成すために。

最終更新:2020年06月09日 17:33