女神の小憩


「さあミカガミちゃん、こっちこっち」
信楽に背中を押され、水鏡は大きな姿見の前に立った。
「うん、いいね。やっぱり似合うよ」
磨きこまれた鏡の中には紛れもなく自分が映っている。
しかしあまりにも普段の自分とは違い、言葉が出てこなかった。

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毎年この時期に、裁判官同士交流して見識を深める目的で懇談会が行われる。
早い話が裁判官だけの大規模な宴と言うことなのだが、水鏡はこの手の集まりには無縁だった。
プライヴェートな時間は詩紋と過ごすと決めていたからだ。
しかし裁判官とはいえ組織の一員に変わりはなく、人付き合いを考えると断るのにも限度がある。
まして詩紋は既に中学生であり、水鏡が始終見ていなければならない年ではない。
それは周知の事実なので、とうとう今回は出席の返事をせざるを得なかった。

その集まりを数日後に控えたある日。
予定されていた裁判を全て終え、裁判所の廊下を歩いていると、信楽と会った。
――「ハグをいいかな?」「却下」のお決まりの挨拶を交わした後、最初は詩紋の様子や彼が主

演する映画のことを世間話のように話していたが、しばらくして信楽がこう切り出した。
「そういえばさっき法廷の合間に小耳に挟んだんだけど、ミカガミちゃん、今度裁判官同士の合コ

ン……宴会に出るんだって?」
「〝懇談会〟です。いかがわしい集まりではありません」
「そうなの? 男性判事はミカガミちゃんが来るのみんな楽しみにしてるらしいじゃない。いいな

ーオジサンも行きたいよ」
「残念ながら、規律上、弁護士と裁判官がおおっぴらに馴れ合うわけにはまいりませんので」
「そうなんだよね。行ける人羨ましいなぁ。だってミカガミちゃんの私服が見られるんでしょ」
「私服? わたくしの服はいつもこの法服ですけど」
「えっ、休日もその服なの?」
「はい」
「ね、寝る時も……?」
「不適切な質問には、法の神の裁きが下りますわよ」
木槌を構えた水鏡を見て、信楽は慌てて言った。
「わわっ、ジョークジョーク。ホントにカタいなぁ水鏡ちゃん」
信楽はズレた帽子を直しながら情けない顔をする。

無論、構えた木槌はただのポーズだった。 
この男のペースはいつも変わらない。
一柳万才の悪事を暴くためとはいえ、一時的に敵対関係にあったにも関わらず、いつでも会えば親しげにこう言う。――「ハグをいいかな?」
それをあしらうことがきっかけになり、気が付けば何がしかの会話を交わしている。

一時的に万才の側につく振りをしたことで、切れてしまった絆がたくさんあった。
切れなかった絆は大切にしたいと思う。そう思っていることを伝えたい。
しかし信楽が発する軽い言葉は、会話のきっかけになるだけで、いつも言いたいことを一つも言えずに終わってしまう。
もちろんそんな他愛のない会話だけで楽しくもあるが、最近は、それだけではどこかもどかしいようなそんな気がしていた。


「ね、ミカガミちゃん、今日の裁判もう終わりだよね。この後時間取れる?」
信楽は不意に身を屈め、水鏡を覗き込んだ。
顔の高さが合った分だけ距離が近づく。
「……どういうことですか?」
少し動揺したが、押し隠して聞いた。
「服だよ服! 折角の合コ……懇談会なんだし、イメージチェンジしなきゃ」
「必要ありませんわ。この服で出席いたしますので。この服は法の女神のご加護を受けた……」
「まぁまぁいいから付いてきてよ。オジサンに騙されたと思って」
「信楽さまがおっしゃると洒落になっていませんわ。それに先ほど申し上げたように、裁判官と弁護士が癒着するわけには……?!」
信楽の指が水鏡の唇に触れる。
水鏡は突然の出来事にその指を払うことも忘れて立ち尽くした。

「ならこれから法律の話は一切なしだ。これならいいでしょ」

答えようとしても唇から指が離れることは無く、何故か突き放すことも出来ず、結果として出たのは曖昧な頷きだった。
それに片方目を閉じることで返してから、信楽は水鏡の手を取った。
「エスコートさせてもらうよ」


裁判所を出たところで信楽はタクシーを捕まえ、水鏡を先に車内へ誘導した。
法の女神に暇を出された水鏡の心に「どうなってしまうんだろう」という気持ちと「悪いようにはならないだろうと」言う安心感が交互に押し寄せる。
その間でバランスを取っているうちに、車は目的地に停まった。

信楽に案内されたのは紳士物と婦人物の服を取り扱う店で、水鏡も良く知る海外ブランドの看板を掲げていた。
路面店ではあるが店構えは落ち着いていて、並んでいる商品も華美すぎることはなさそうだ。
幾分安心して、信楽のエスコートに身をまかせる。

店に入ると信楽と店員がいくばくかの言葉を交わした。
信楽が懇意にしている店なのだろうか。
しばらくすると、女性の店員が水鏡と信楽を店の奥のフィッティングルームへ案内する。

「何か彼女に似合いそうなものあるかな。店員ちゃんのセンスに任せるから」
「かしこまりました」
勝手にかしこまられては困る。
水鏡が困惑した表情を浮かべていると、信楽は言った。
「ミカガミちゃんも好みがあれば言ってね。この店の人ならうまく組み合わせてくれるはずだから」
「でも……」
「まぁ着てみるだけでもさ。じゃあオジサン向こうに行ってるから」
手をひらひらと振る信楽の背を見送りながら、水鏡は溜息をついた。


店員は水鏡のスタイルをしきりに褒め、それを活かすようなコーディネイトを熱心に薦めた。
しかしそのどれもが水鏡にとっては露出過多に思えてどうしても怯んでしまう。
その反面、やはり店員の薦めるものは皆センスが良く、心からの気遣いも感じられ、無下に断るのも気が引けた。
結局、迷いに迷って、フリルが豪華にあしらわれた薄手のブラウスと膝丈のスカートと言うところに落ち着いた。
ブラウスはカッティングが施されてやや胸元が開くものを、スカートは膝丈ではあるが、大腿部付近までスリットが入っているものを選ぶことで、店員の薦めを取り入れたつもりだった。

フィッティングルームを出ると、信楽がこちらを振り向いた。
水鏡を見て、一瞬目を見開く。
「いいじゃないすごく! こういう服も良く似合う」
「…………」
着ているのは自分だが、服を選んでくれたのは店員である手前、肯定も否定もできない。
服が良いものであるのは分かるし、店員が自分に合うようにセレクトしたのも分かるが、服を着た自分を見下ろしてみるとまるで風景が違っていて何と答えてよいか判断できなかった。
何せ、水鏡の判断基準であった法の女神は、今はいない。

「さあミカガミちゃん、こっちこっち」
信楽に背中を押され、水鏡は大きな姿見の前に立った。
「うん、いいね。やっぱり似合うよ」
磨きこまれた鏡の中には紛れもなく自分が映っている。
しかしあまりにも普段の自分とは違い、言葉が出てこなかった。

「決定ってことでいいかな。じゃあこれ」
信楽は胸ポケットからカードを取り出して店員に渡した。
「一括で」
それはあらかじめ計算していたかのような洗練された行動で、水鏡は慌てて止めた。 
「こ、困りますわ。自分で払います……」
「いいっていいって。日頃お世話になっているからね」
日頃世話になっているのはむしろ自分なのに。
水鏡はなおも止めたが飄々とした笑みでかわされ、その主張は却下された。

店を出ると夜の9時を過ぎていた。
営業時間は8時までと書いてあったが大丈夫だったのだろうか。
そう聞くと信楽は「うん今度店長さんに何か奢っておくから」と笑い飛ばした。
水鏡が服を選ぶのに時間が掛かったせいなのに、それは一言も出さない。
店の前でタクシーを拾おうとしたが、思うように来なかった。
ふたりは駅前まで歩いてみることにした。

水鏡は信楽のたっての希望で、買った服をそのまま着て店を出ていた。
最初はやはり気恥ずかしいと思ったが、いつもと違う服は思った以上に軽くて動きやすく、しだいに心も慣れていく。
途中、大きな公園に差し掛かったところで水鏡は足を止めた。
昼間とは違い、噴水がライトアップされている。
「わたくし気が付きませんでしたわ」
足を止めた水鏡の傍で、同じように足を止めた信楽が噴水に目を向ける。
「夜は毎日ライトアップしてるみたいだね。ミカガミちゃん夜遊びしないから知らなかった?」
「信楽さまはよく夜にお歩きになるの?」
「美女と一緒ならいいんだけどねぇ」
肩をすくめて見せる信楽に、水鏡の顔が自然に綻ぶ。
「噴水のこともそうですけれども、もっと別のことに気が付きましたわ」
「別のこと?」
「信楽さまはわたくしの思っていた以上に行動力のある方ということです」
「はは、強引ってことか。幻滅した?」
「いいえ、楽しかったですわ」
水鏡はそのまま頭を下げた。
「今日はありがとうございました。それからこちらこそ日頃から詩紋ともどもお心遣いいただいて。ずっと感謝しておりました」
今まで言いたかったことを言えた気がする。
水鏡が顔を上げると信楽は困ったような笑みを浮かべながら、帽子をかぶりなおした。

「なんだかそう言われると、オジサンすごくいい人みたいじゃないの」
「あら、いい方だと思いますわよ」
「そうでもないんだけどねぇ。たとえばさ……」
信楽は一度言葉を止めて、軽く溜息をついた後呟くように言った。
「本当はちょっと後悔してるんだよ」
「何を、ですか?」
「ミカガミちゃんにいつもの服を着せておけばよかったかなって」
水鏡の手がふっと持ち上げられた。
信楽の口元付近まで引き寄せられて、触れる寸前で停まる。

「こんなに綺麗なミカガミちゃん、他の男に見せたくなくなっちゃったんだ」
「信楽さま……?」
「自分勝手だろ」
引き寄せた水鏡の手を開放して、信楽は横を向いた。
「ごめんね、帰ろうか」

ここは法廷ではない。
判決を下す木槌は置いてきてしまったし、身を守るように包んでくれていた黒い法服も脱ぎ去ってしまった。法の女神にはお暇を頂いている。
何かを決めるならば、己の胸に聞くしかない。

「お待ちください、信楽さま」
先に歩き出していた信楽を水鏡の声が静止する。
「自分勝手ではありませんわ」
「え?」
「帰りたくもありません」
信楽がゆっくり近づいてくる。
水鏡も一歩だけ前に出た。
「……本気にしちゃうけど?」
「どうぞ」

腰を引き寄せられて、抱きすくめられる。
「ここまでは挨拶だけど、ここから先は特別」
顎に指が掛けられ、そのまま唇を重ねた。

************

水鏡が提案を受け入れる形で、信楽の自宅に向かった。
駅前でタクシーに乗ってからここまで殆ど無言だったが、詩紋に遅くなるから先に休むように、と電話を掛けた水鏡を見て、信楽は「女子大生の外泊許可みたいだね」と少し笑った。

普段は事務所に寝泊りすることが多く、ほとんど帰ってこないという自宅は殺風景だが片付いていた。
信楽は買ったばかりの水鏡の服を慎重に脱がすと、ソファーの背もたれに丁寧に掛ける。
明かりを消して欲しいという水鏡の願いを聞き入れた後、その身体を抱き上げてシーツの海に浮かべた。
水鏡はしばらく成されるがままだったが、穏やかな笑みを見て信楽の身体に腕を回す。
何度か口付けをかわすと、身体に沿うように掌のぬくもりが伝わってきた。

信楽は何も言わず、時折目が合うと軽く微笑み返すのみで、しかし水鏡の僅かな呼吸の乱れを感じ取り、的確に攻めてくる。
水鏡のペースは綺麗な弧を描くように押し上げられた。

愛撫だけで一度絶頂に達した後、その余韻が残ったままの水鏡の中に熱い楔が侵入した。
たまらず声を上げる水鏡の頬に時折唇が落とされるが、行為はやまない。
初めて抱かれたはずなのに、まるで身体の隅々まで知り尽くされているかのようだった。
弱いところばかり狙ったように突かれ、難なく心地よさを引き出され、乱れてしまう。
いつもの飄々とした口ぶりとは違う熟達した行為に、改めて彼が10歳年上の男なのだと実感する。
そんな彼にただの女として抱かれていることもまた同時に実感し、それがさらに快感を引き出した。
「あっ……いっ」
呼吸することも忘れ、寄せてくる情動に身を任せることしかできない。
水鏡は自分を組み伏せている腕に縋りながら、何度も果てた。


「女性に服を買ってあげる時に男が考えることって、何だか分かる?」
ペットボトルの水を水鏡に手渡しながら、信楽が聞いた。
「いいえ」
身体にシーツを纏っただけの水鏡が首を横に振ると、信楽はいつもの茶目っ気溢れる目をして言った。
「綺麗な服を着ている女性を見て、それを脱がしたいなぁ~と思うんだよ」
「まぁ」
やはりいつもの信楽だった。
ベッドの上ではあれほど……とあられもないことを考えて少し心が揺れる。
「それは信楽さまだけでは?」
「反論したいけど、この状況では何を言っても説得力がないからやめておこう。ところで……」
信楽はソファーの背もたれに掛けられた水鏡の服を見ながら言った。

「あの服着て合コ……懇談会に行くのかい?」
「そのために選んでくれたのでしょう」
「いや、そうなんだけど……」
バツの悪そうな顔をする信楽が子供のように見えて可笑しかった。
水鏡は、10歳年上のその男に向かって言った。 
「着ていくのはやめます」
「えっ」
「信楽さまに見ていただければ十分ですわ」
水鏡は立ち上がると、自分の服に手を伸ばした。

「待った! 待って待って、もう服着ちゃうの?」
「ええ」
「も、もう一回くらい……」
次の瞬間、室内に凛とした声が響いた。

「却下!」


(終)

最終更新:2020年06月09日 17:33