まどろみの中に居る。 目に映るのは白い光だけ。その中で、手を伸ばす。 何かに触れた。柔らかい。これは……”ゴリッ” 「ぐおぉおおおおお!?」 /水と高さと美味しいご飯/ 50年前のとある研究員の一日 殴られたらしい頭を抱えてごろごろ転がる。 そして一瞬の浮遊感。母さん、俺今飛んでます。 重力の楔から解き放たれたこれはまさに、ヘブン―――着水。 あぁ、水が口に入ってくる。我らの命の源、水。というか俺溺れてる。 「ゴボァッ!?」 必死に水を掻き分けて水面に顔を出すと、大きく息を吸い込んだ。 「はーっ、はーーーーーっ。誰だ畜生!殺す気か!」 「殺す気だ、馬鹿!」 立ち泳ぎしつつ上を見ていると、足場の上に居るのは同僚の女だった。 「なんだ山下じゃないか」 「なんだとは何だ!仕事中なのに寝てるし、その上……」 「その上?」 聞き返すと、真っ赤になった山下は怒った顔でぶるぶる震えると、 「知るか!」 叫ぶと即座にきびすを返し、貯水槽階を出て行ったのだった。 ……おーい。俺の引き上げは? 「かーっ、確かに水浴びくらいはしたいとはいえ、溺れたくはねえっつーの」 頭をタオルでガシガシ拭きながら、廊下を歩く。 着替えた新しいシャツとズボンは気持ちが良い。 下着がない所為で、股間がスースーするのは御愛嬌だ。 「仕方ないだろう。君があんなところで仕事中に寝ていたのが悪い」 隣で一緒に歩くのは同じ技術科のランガー。 「だって水があるから涼しいんだぜ、あそこ」 「大事な水に菌が入ったらどうするんだ」 「滅菌するだろ、あの後に……」 「万が一だ、万が一」 はいはいわかりましたよっと。 タオルに隠れて舌を出しながら、隣にある窓を見る。 其処にあるのは一面の野菜畑。 いや、畑というのはおかしいだろう。野菜があるのは土もなければ屋外ですらない。 そう。此処はキノウツンの誇る(今俺が決めた)農場ビル。そのうちの一つである。 「ようやく此処まで来たんだよな……」 俺と同じものを見ていたのだろう。ランガーが感慨深げに呟く。俺も少し笑って 「だな。やっとだ」 「え?君何かしたっけ?」 「おい!」 「ははは、ごめんごめん。主任」 俺たちの住むキノウツン藩国は、砂漠の中にぽつんとたたずむ国だ。 元々の旧キノウツン国民が此処に集ったのは、今は王城の真下にある元オアシス、現地底湖を求めてだった。 だから人口が増えれば食料が足りなくなるのは当然なわけで。 隣国に支配されていた時は隣国からの食料の流入もあったが、それのなくなった最近では食糧問題は非常に大きな課題だ。 研究員の集まる部屋のドアを開くと壁を叩き、俺は声を張り上げる。 「しかし!今俺たちはその問題を乗り越えようとしている!」 「わー」 ぱちぱち。 部署の各所からまだらに拍手と声援が帰ってくる。 「見ろ、この青々と茂ったほうれん草!トマト!セロリ!」 「でも俺セロリ嫌い」 「誰だあぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」 「何でもありません、主任!」 部屋の隅に居る研究員の一人が直立不動になる。 「トマトは青いんじゃなくて赤いんじゃ」 「誰だあぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」 「何でもありません、主任!」 目の前の研究員が敬礼した。 「かつて日本の銀行地下に誕生した農場ビルを、俺たちは此処まで改良した」 俺たちが生まれるよりずっと前。爺さんもその爺さんも生まれる前の話だ。 日本という国で誕生した農場ビルは、当時の技術では未熟なものだった。 水をくみ上げるコスト、植物の育成に適した光の波長、与える肥料の配分費、適度なストレス。 これらの研究がまだ完璧ではなかった時代に、農場ビルは普及には程遠かった。 しかし今は違う。 「そうだ。俺たちはやり遂げたのだ!全ての問題はクリアした!予算も取った!ビルも建った!そして明朝!初出荷!」 「わー」 ぱちぱち 「お前ら本当に感動しているか?」 内ポケットに手を伸ばす。 「確かこの辺にドラッカー用の薬品」「「「「うおおぉぉぉぉぉぉぉ!」」」」 上がる歓声。よろしい。それで良いんだ。 「ということで!今日は飲むぞ!この部屋の野菜は藩王様が俺たちのために買い占めてくださった!食べ放題だ!」 「というか何でそんな薬品を持ってるんだ、君は」 三十分もすれば皆良いが回って陽気になる。 壁際から人だかりの中央を見ると、ランガーの奴がセロリ嫌いの野郎の口にセロリを詰め込んでいるのが見えた。 ……疲れてんのかなぁ。 缶ビールを傾けていると、ふと明かりがさえぎられた。 「ん?」 「何一人で飲んでるのよ」 「あぁ、山下か」 じろり、と見ると、少しひるむ山下。夕方のことを思い出したのだろう。 「まぁいい。俺は今気分が良いんだ。お前も飲め飲め」 手ぶらだった山下に未開封のビールを投げる。 「と、わ、っと」 「ナイスキャッチ」 しっかりと缶を掴むと、山下は俺の隣に座り込む。 しばらく二人、何も言わずにビールを飲んだ。 「信じられないよなぁ」 缶が空っぽになったのを契機に話し出す。 「何が?」 あっちも話す機会をうかがっていたのだろう。返事はすぐに返ってきた。 「この野菜。水と肥料と光だけで出来てるんだぜ?」 そう。俺たちの目の前にあるこの野菜たち。地面とは一切縁がないまま収穫時期を迎えている。 「そうね。あと少しの菌類」 「俺らが子供のころに一生懸命耕した土は、無駄だったってことだよな」 「あの時は必要だったでしょ。あぁしないと今頃私たち土の下よ」 「土や砂の下なら良いが、肥料だったかもな」 「私たちの両親みたいに?」 二人で同時に笑い声を上げる。乾いた笑い。 「……ごめんなさい」 「いや、いいさ。正しい。それにそういう悲しいことを無くすために、俺たちは研究してきたんだ」 このビルが建ったことで、このキノウツン藩国は豊かになるだろう。 街中で死んでいる子供や、食料目当ての略奪も減るはずだ。 立ち上がって伸びをすると、体中からパキポキと軽い音がした。 「さて。これで俺の仕事も終わりだな」 「え?」 「言ってなかったっけ?俺、軍に入るのよ」 さぁっと、山下の顔色が変わった。 「元々国に予算を出してもらうときの約束でな。ほら、俺研究員よりパイロットの方が適性高かっただろ」 子供のころの職業適性試験で俺がたたき出した値を思い出したらしい。 「だからあの薬を……そ、そうだけど、でも、まだ始まったばっかりじゃない!」 「主任はランガーに任せた。仕事のノウハウは全部教え込んだ。もう俺のすることは、此処にはないのさ」 「で、でも、私、私は」 「やめてくれ」 言葉をさえぎる。俺だって朴念仁じゃない。20年も顔を合わせている相手のことくらいわかる。 「あ……」 「死亡フラグなんて立てたら、本当に死んでしまいそうだ」 他の研究員がこちらに気付いた様子はない。 俺は今のうちに此処を出ようと――― 「待って」 「ん?」 振り向いた俺の目前に、小さな光が。投げられたそれをあわてて掴むと、それは指輪だった。 「おい、これ親御さんの……」 「結婚しましょう」 「はぁ!?お前俺の話」「しなさい」 俺は黙る。泣いた女に勝てる気がしなかったからだ。特にこいつには。 「……本気か?」 「してくれないと、ここで舌噛んで死ぬわ。そしてこのビルで化けて出てやる」 世はそれを営業妨害というんだぞ。 息を深く吸い込んで、吐き出す。煙草が吸えないのがきつい。頭をがりがりかくと、何本か毛の抜ける感触がした。 「いい加減年だな、俺も」 「………」 「そろそろ身を固める時期か」 「………ほんと?」 ぐああ、上目遣いとかやめろ。恥ずかしいことこの上ない。特に筆者が。 「あぁ、ホントだホント。マジもマジの大マジだ」 「じゃあ、そっちから言って」 「は?」 「は?じゃないわよ!わかってるんでしょ!」 「えー」 「女の方から言わせて置いて……酷い……」 「わ、わーったわーった泣くな泣くな」 あー、恥ずかしい。いやだ、でもなぁ。あー…… 『近年の有名パイロットというと、皆さんはトリン=ロウコブ中尉を思い浮かべるのではないでしょうか。  しかし彼がその戦果を上げる前まで、この国には一人の伝説のパイロットが居ました。  その名は桜=ツン。キノウ=ツン様の大伯父様にして、この国の英雄です』                                   ~キノウツン藩国ツアー 農場ビル探訪より~