]]①歴史学の一分野としての軍事史=軍隊をひとつの社会集団(「軍隊社会」)とみなし、社会における役割や他の社会集団とのかかわり、その固有の特徴を問うことを通じてその時代の特徴を見極め変化を把握し理解することを目的とする。本書は16世紀から18世紀の300年間にあたるヨーロッパ近世に焦点を当て、主に三十年戦争以降の傭兵軍時代末期から常備軍時代にかけてを扱う。
②三十年戦争時代の傭兵軍
軍隊はまずもって「企業」であった。当時の戦争はビジネスであり、戦争企業家とでもいうべき傭兵隊長たちが最高司令官にあたる君主から募兵特許状をもらうところから軍隊の組織がはじまる。傭兵隊長は連隊長を任命して特許状を与え、連隊長は中隊長を任じて人員を集めさせる。この中隊長という役職は、当時の軍隊においてふたつの重要な意味をもつ。まずひとつに、中隊は君主の権力がおよばない自立的空間であり、中隊維持にともなう損得はすべて経営者である中隊長にはねかえってくるということがある。もうひとつは、中隊長位は将校を上級と下級とに分ける分水嶺的な地位にあったこと。中隊長より上にあたる高級将校位が貴族出身者に独占されていた状況は、軍隊社会が当時の身分制社会の縮図にほかならなかったことを示している。
こういった戦争ビジネスに身を投じる兵士たちの多くは、急速な人口増加によって創出された下層民であった。具体的には、あらゆる生活基盤を奪われた零細農民や農家の二男・三男、都市においては、暇を出された奉公人・下僕やツンフト制度によって仕事を奪われた職人たちがいる。また、悪貨の鋳造は固定収入をもつ人々の生活も苦しくし、村の学校教師や遍歴学生などの知識層も募兵に応じた。以上のように、三十年戦争時代の傭兵につきまとう「悪党、根なし草」といった悪いイメージはかならずしもほんとうではない。単に移動して生計を立てる人々のことをさした「渡り人」という言葉が「ならず者、犯罪者」といった意味合いに変質していったのは19世紀のことである。
彼らの兵士としての価値は戦場経験に終始する。新兵がほとんど戦力にならなかったのに対して、従軍経験の長い古参兵は軍事的戦力としての価値ばかりでなく、部隊の秩序を維持する役割も担った。これらの古参兵は三十年戦争を終えた各国が常備軍の準備をはじめる時期に入ると、新制度においても引き続き部隊の中核的存在となった。一見まったく違うものに見える傭兵軍と常備軍には、「戦いの職人」である古参兵の存在に代表されるようなある種の連続性が強くみられる。
軍隊社会には兵士だけでなく膨大な数の非戦闘員が含まれる。彼ら非戦闘員集団(独troβ)を適切に表現する日本語はなく、近い意味として輜重隊という単語が当てられている。彼らはの主な役目は兵站や傷病者看護であるが、それにとどまらない多種多様な構成と役割を担っていた。たとえば、兵士の妻たちは傷病者看護ばかりでなく縫物・洗濯、子供の教育など多彩な活躍をみせ、従軍一家の子供たちは少年なら兵士に、少女ならその妻になって軍隊社会の維持に寄与した。一方で、軍隊の生命線とも呼べる兵站は民間の酒保商人に依存していたため物資供給はきわめて不安定であり、このことは、近代的軍隊とは大きく異なる傭兵軍の構造的特質と呼べる。こういった輜重隊も戦闘員と同じく連隊長の軍事裁判権下におかれていたことは、彼らもまた軍の一部とみなされていたことを明らかにしている。
傭兵軍時代の軍隊社会では、封建制度にもとづく社会的身分序列がほぼそのまま採用されていた。こうした上下秩序は軍隊の内部構造を規定しただけでなく、都市・農村の保護を失った人々に対する保護機能をも担っていた。公共組織がいまだ未成熟であった三十年戦争期において、社会的共同体から切り離された人々にとって軍隊の保護機能は大きな魅力であったので、戦争と兵員供給のあいだにある悪循環が断たれることはなかったのである。
③三十年戦争期の諸特徴
傭兵軍時代の軍隊を特徴づける要素のひとつに、統一的命令系統の不在があげられる。上意下達の命令服従系統は厳然として存在したものの、兵士間の横のつながりともいえる兵士共同体は、しばしば団結して暴動やストライキを起こして不満を訴え、それらはときに命令服従関係さえくつがえす力をもっていた。兵士たちの自由裁量は広く、軍服の自弁などはその好例である。こういった自弁の原則がゆえに、俸給の未払いはとくに兵士たちの不満をかきたてた。三十年戦争期の軍隊は、ランツクネヒト全盛時代ほどの強固な兵士共同体とはいえないものの、16世紀から続く伝統は決して消滅したわけではなかったのである。
「国籍」という観点からみると、当時の傭兵軍は実にさまざまな国の出身者から構成されていたといえる。この時代の戦争では、勝利した軍隊が敗軍捕虜を編入することが当たり前とされていたため、兵士の構成は各地を転戦するうちに大幅に変わっていった。出身地域の違う傭兵たちの共存は決して容易ではなく、「国籍」をめぐる傭兵たちの争いを防止することは、君主の重大な懸案事項となっていたのである。
宗教改革以降、ヨーロッパ全土でカトリックとプロテスタントの宗派対立が厳しさをましたなかで、とりわけ16世紀の傭兵軍では宗派の相違はほとんど重要でなかったといわれている。宗派問題における君主の自由放任的な態度が、いわば16世紀の特徴だった。17世紀前半になると、宗派共存の精神が後退し、いきおい先鋭化せざるをえなかった対立意識は軍隊にも反映された。君主はこれまでよりも積極的に、軍隊の宗派統一を目論むようになる。また、三十年戦争期には「神の戦い、神の勝利」、すなわち、戦いに勝利するためには、軍事力の増強だけでなく熱心な信仰もまた不可欠だという宗教的戦争観が流布した。君主たちはこの観念の解釈をさらに広げ、神の勝利を得るためには、戦争の道具たる軍隊も神の御心にかなっていなければならないと考えた。こうして君主は、以前より積極的に軍隊の紀律化を試みるようになったのである。しかし、これらの君主の意図はかならずしも貫徹したとはいえない。三十年戦争期においては、宗派的理想よりも戦争の現実的要請のほうが優先されたからである。軍隊における宗派問題に君主が本格的に介入するようになるには、17世紀後半を待たねばならない。
近世の軍隊社会は、ある意味で非常に異質な人びとが寄り集まる集団であり、このような多様性を許す共同体だった。同時代のほかの社会集団や近代の軍隊と比較したとき、この多様性の共存こそ近世軍隊の大きな特徴ということができる。
兵士たちの生活はつねに死と隣り合わせであったため、近世の軍隊では俗信がとりわけ広く流布していた。それは、兵士たちの生活が極めて不安定だったこととあいまって、心理的不安を増幅させ、軍隊社会のいたる所で悪魔や魔女を出現させることになったのである。軍隊では魔女裁判もおこなわれた。三十年戦争のおこなわれた17世紀前半といえば、一般に近代科学技術の黎明期とみなされるけれども、むしろこの時代は、中世から続く俗信や俗説がいまだ支配的であり、こうした俗信にもとづいて物事を判断することのほうがふつうの時代であった。軍隊社会は、その縮図のような場所だったかもしれない。
三十年戦争では、傭兵による略奪が猖獗を極めた。この時代の略奪には当時の社会や軍隊の特質を理解するための、極めて重要な問題が含まれている。傭兵による略奪は、往々にして放火や破壊、強姦などをともない、農村や都市のいたる所で乱暴狼藉のかぎりがつくされたといわれる。三十年戦争にかんする史料や歴史書で、凄惨な光景を伝えるものは枚挙にいとまない。こうした情景をえがけばだれしも、金品目的の傭兵からなる当時の軍制を批判するであろうし、当時のすさんだ世相や、戦争の悲惨を嘆き悲しむことであろう。だがその前に、極めて重要な前提として、中・近世のヨーロッパ社会では、戦時の略奪が広く合法的行為とみなされていたことに注意せねばならない。この時代の社会には今日と異なる価値観や習俗が存在していたことを、われわれは略奪の問題をつうじて知ることができるのである。そもそもヨーロッパ世界では、古代ギリシア以来、戦争は、戦闘という労働によって戦利品という利益を獲得する経済的活動だったのである。このような価値観を基礎にした社会では、戦時の掠奪はむしろ正当な「営業活動」とでもいうべき活動だったのである。
中世ヨーロッパで広く行われていたフェーデも、掠奪を論じるにあたって極めて重要な要因である。フェーデとは、武装能力のある個人や団体に許された、武力による正当な自力救済のことである。フェーデによる武力行使は、今日の裁判訴訟と同じような意味をもつ、合法的な手段だったのである。フェーデはまた損害賠償の性格ももっていたので、破壊行為によって的に損害を与えることは、自らのこうむった損害にたいする賠償を意味した。すなわち、掠奪や放火はまさしくフェーデの正しい手段だったのであり、ここからも掠奪は正当化されていたのである。
さらに、中・近世のヨーロッパにおいて「敵」という場合には、一般住民もすべてこの言葉のなかに含まれていたことに注意せねばならない。なぜなら一般住民は保護者たる君主や領主の所有物とみなされていたからである。それゆえ、傭兵が一般住民にたいしてどれほど残酷にみえる行為をしたとしても、それがフェーデであるならば正当な根拠のある行為だったのである。
中・近世の習俗との関係でいえばさらに、この時代のヨーロッパ社会が現在よりはるかに暴力にあふれていたことを知っておかねばならない。ある程度の暴力は近世社会では日常的であったのである。掠奪を評価するにあたっても、それがこのような社会のなかで生じていたことを考慮せねばならないのである。
掠奪はさらに、当時の傭兵軍の特質を知る手がかりでもある。なぜなら、その直接的な原因は、軍隊のあり方自体に由来していたからである。当時の軍隊には、規則的な俸給の支払いができなかった。極度の困窮に追い込まれた兵士たちは、生き延びるために、上述の集団暴動や脱走といった挙にでたのである。食糧の供給も、極めて大きな問題をかかえていた。市区量供給にさいしては、中隊を経営する将校、軍事監察官、さらに穀物商や運送業者といった者たちが結託し、利殖活動をしたからである。このように、特定の者たちが給養の問題にひそむ弱点を利殖に利用したため、そのしわよせとして、兵士は極端に厳しい生活をよぎなくされたのである。
飢餓、栄養不足、寒さは兵士の体力を奪い、肉体をむしばみ、病気を蔓延させ、最終的には死にいたらしめた。近世の軍隊における主要な死亡原因は、戦闘による死亡ではなかった。その数倍の兵士が病死していたことは、つとに銘記されるべきであろう。給養の問題がこれほどまでに深刻化した背景には、軍隊の急増が考えられる。短期間で巨大化した軍隊にたいして十分な俸給や食糧を供給することは、どの君主にも不可能であったのである。軍隊の規模の猛烈な拡大、それに見合う財政力の欠如、酒保商人への兵站の依存、中隊経営といった特質が、三十年戦争期においては兵士への俸給や物資の安定供給をひどく困難にさせ、その結果、彼らによる激しい掠奪を生じさせたのである。
掠奪との関連では、当時の軍隊の特質をもう一つ指摘しておかねばならない。それは、軍隊社会が解雇兵や落伍兵にたいしてまったく関与しなかったことである。彼らの多くは無法者と化し、三十年戦争期にはマロード団と呼ばれる強盗団を結成して、掠奪をはじめとする数々の狼藉に手を染めたのである。放浪乞食の失業兵による掠奪行為は、すでに16世紀には深刻な社会不安をまねいており、これが三十年戦争期のマロード団の背景をなしたのである。落伍した傷病兵もまた、その多くがマロードになった。落伍して、いまや軍隊社会との結びつきを失った傷病兵は、同時にいっさいの保護をも失い、放浪乞食にならざるをえなかったのである。戦争の長期化によって、失業兵や落伍兵がいっそうふえただけでなく、都市や農村で生きてゆけずに逃げた者などもこの集団に加わったため、マロード団は戦争をつうじて巨大化する一方であった。マロード団と密接な関係をもつものとしては、さらに騎馬巡察隊がある。この部隊の本来の任務は偵察活動であった。しかし、軍隊の生存条件が厳しくなると、敵の場所や兵力、作戦行動を知ることよりも、自軍が生き残るための物資の探索のほうが重要になった。そのため、やがて軍紀を大幅に逸脱する巡察隊があらわれ、敵の補給部隊や商人の輸送隊をおそいはじめたのである。軍紀にほとんど服さないこの巡察隊とマロード団は、どちらも正規軍の周りを移動した集団だったため、両者の境界は極めて微妙であった。傭兵軍時代の軍隊は、冷徹な企業倫理を貫いた自立的な組織であった。マロードはたしかに正規の傭兵ではなかったが、彼らの掠奪は、傭兵軍のもたらした必然的な帰結でもあったのである。
③常備軍の時代
三十年戦争が終結して17世紀の後半に入ると、ヨーロッパの大陸諸国では君主権力がますます強化され、絶対主義と呼ばれる統治体制が確立した。常備軍時代の到来である。軍隊における大きな変化は、一言でいうなら「軍隊の集権化」と表現することができる。中・近世ヨーロッパの支配秩序の根底をなす家父長制の理念が、この時代には軍隊にも全面的におよんだのである。これらの変化は、従来大幅に自立的であった軍隊にたいする君主の本格的な介入を示すものであり、絶対主義国家による集権化過程の一部である。常備軍時代の「軍隊の集権化」は、軍隊の近代化にあたって決定的に重要な局面なのである。しかし、この軍隊は19世紀以降のような国民的基盤に立った軍隊ではない。主力をなしたのはこれまでと変わらず傭兵であるから、むしろこれは「常備軍的傭兵軍」と呼んだほうが適切な軍隊である。また、軍隊の内部において、連隊長や中隊長が大幅な裁量権を保持しつづけたことは極めて重要である。常備軍時代においてもなお、中隊経営という傭兵時代の特質はいまだに存続していた。前代との連続性は、常備軍の性格を規定する重要な因子ですらあったのである。
この時代になると、これまであまりみられなかった強制徴募という募兵に言及する史料が、数多くあらわれはじめるのである。強兵徴募とは、物理的な暴力のみならず、恐喝や詐欺、奸計を用いた不法な募兵のことである。しかし、常備軍時代において無軌道な募兵は、君主の命令によって禁じられていた。君主に体現される絶対主義国家は、一方で新兵の調達を重要な課題としたが、他方では重商主義の見地から、経済政策上有用で担税力のある者を兵士にさせるわけにはいかなかった。募兵の問題は、軍備増強と経済促進という、絶対主義国家の両立しがたい課題が交差する領域だったということができる。ところで、強制徴募がしばしば生じた原因はどこに求められるのだろうか。それは、兵士の需要供給関係の変化にあると考えられる。三十年戦争までの時代には、志願者のほうが募兵に必要な人数より多かった。つまり兵士の需要関係は原則的に供給過剰であったわけだが、17世紀半ばからこの関係は逆転し、今度は需要が供給を大幅に上回るようになった。それでは、なぜ兵士の需給関係は逆転したのだろうか。その理由はなんといっても、ヨーロッパ諸国の軍事力が急激に増大したことにあるだろう。この時期におけるヨーロッパ諸国の軍隊が激増したこと、そしてその増大が軍事革命の重要な一局面であることにはまちがいなかろう。17世紀後半以降になると人口の増大はもはや以前ほどの伸びをみせず、兵士の供給はまったく追いつかなくなって、募兵の問題は一気に深刻化したのである。近世後半の常備軍は「犯罪者の寄集め」というイメージで語られることも多いが、これは手段を選ばぬ兵員増強策によって犯罪者や浮浪者といった人びとが数多く軍隊に編入されたという事情によってできあがったものである。そして強制徴募もまた、このなりふりかまわぬ募兵の結果であったことはいうまでもない。軍隊の急激な巨大化こそ、強制徴募の主要因だったのである。
強制徴募は、それ自体が常備軍時代に特有な現象であったが、同時にそれは、別の構造的特質を軍隊に与えることになった。兵士の脱走がそれである。常備軍時代の脱走はもはや、所属する軍隊への抗議表明などというものではなく、軍役そのものを放棄する行動であった。こうして脱走は、軍隊を維持する君主にとって放置できない問題になるとともに、常備軍の構造を規定する重要な特質へと変化したのである。軍役の放棄のための脱走が、強兵徴募と密接な関係にあったことはいうまでもない。&()もとより、常備軍の兵士は、強制徴募の兵士ばかりで構成されていたわけではない。極めて図式的ないい方をすれば、常備軍時代の兵士は、戦力と組織の両面において部隊の中核をなした古参兵、数年間というかぎられた年限の仕事として兵役を志願した兵士、そして危急時や戦時に強制徴募で集められた不本意入隊者の三種類に分類されるのではないかと思われる。とりわけ平時には、軍隊への志願者が一定数存在し、強制徴募はきわめてまれだったという指摘もあることから、兵士はほぼ第一、第二類型の者たちで構成されていたと考えられる。多数をなしたのはあくまでも第二類型の兵士たちであり、常備軍時代の兵士は、その多くが3~4年の勤務ののち、都市や農村へとふたたびものっていったのである。
常備軍の時代になると、軍隊社会と既存社会(都市や農村)との接触についても比較的多くのことが知られてきている。そのひとつが宿営である。宿営とは、職務にある軍人が行軍中あるいは平時に、都市民や農民の家に投宿することである。都市民にとって宿営は極めて大きな負担であった。おそらく最大の問題となったのは、宿営先での兵士と都市民の衝突であろう。軍人たちは市民に、財政的にも、心理的にも、また日常生活のさまざまな場面でも負担をしいることになったのである。かつて歴史家のビュッシュは、貴族=将校が、軍隊においても、農村においても、農民=兵士を笞打って彼らに命令・服従原理を徹底的に教え込んだ結果、生活様式にいたるまで軍隊の影響を色濃く受けたという18世紀プロイセンにみられる社会の変容を「社会の軍事化」と表現した。生活のすみずみにいたる軍隊の影響力という点では、宿営は「社会の軍事化」を担う重要な推進力になっていたのである。しかし、宿営がもたらした軍隊と都市民との関係は対立の側面だけではなかった。より仔細にみると、両者の共生や協力、ひいては都市社会への兵士の統合ともいうべき事態すら生じていたからである。宿営は、兵士と都市民の相互に利益を生み出す協力関係をつくりだしていたのである。経済の分野以外にも、兵士と都市民は多くの接点をもっていた。たんに多くの接点が兵士と都市民とのあいだにあったということだけではなく、兵士たちが都市社会に統合されてもいたのである。軍隊社会と既存社会のあいだに「社会の軍事化」という方向性だけを想定するのはまちがいである。両者のあいだにはたしかに「社会の軍事化」と呼ぶにふさわしい関係があったが、他方では協力的な社会関係や経済関係もとりむすばれていたのである。それどころか、支障なくおこなわれた日常的な宿営が史料として残りにくいことを考えれば、軍隊社会と都市とのあいだには反目や暴力の行使よりも、むしろ相互協力関係のほうが支配的であったとすらいえるかもしれない。
ヨーロッパの18世紀は一般に「啓蒙の世紀」と呼ばれる。啓蒙は戦争や軍隊の領域にもおよんだ。とりわけ18世紀の後半になると、「戦争と軍隊はいかにあるべきか」をめぐって知識人たちが広く議論するようになった。しかし、現実には啓蒙家の主張どおりにすべてが実践され、成功をおさめたわけではなかった。したがって「軍隊の啓蒙」の意義は、その実態よりも理念のレベルに求められねばならない。掠奪にたいする観念も、啓蒙の影響を受けて原理的な転換をとげた。1762年に公刊されたルソーの『社会契約論』では、戦争が国家間の戦いと定義され、「敵」は戦闘員の身に限定されている。一般住民はもはや敵とみなされておらず、さらに私有財産権の論理から掠奪が非合法化されている。中・近世ヨーロッパを特徴づけてきた掠奪=合法行為という観念は、ここにいたってついに根本から否定されたのである。18世紀後半のフランスでは、啓蒙の最重要拠点であったサロンで軍隊や戦争がよく論じられた。軍事思想家の一人であるギベール伯は、1772年『戦術概論』のなかで、傭兵軍とそれによる戦争の欠陥を厳しく批判し、徴兵制にもとづいた近代国民軍の登場を予言した。こういった新しい軍隊が主流になったとき、近世の傭兵軍はその役割を終えたのである。
最終更新:2010年05月29日 12:57