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牙琉がシャワーを浴びに行ったのを見届けると、真宵はのろのろと重たい身体を起こした。
身体がだるかった。
大きく溜め息を吐きながらティッシュに手を伸ばして不快なままの局部を拭き取る。
そこには処女を散らした証と牙琉の白濁、そして多量の真宵の蜜がベットリと付着していた。
身体を動かした時に膣の中から愛液と精液が混ざった物が溢れ出して来て、
真宵はその感触に思わず顔を歪め、痛くなるほど何度も何度も拭った。
「う…っ」
涙が溢れるのを堪えてのそりと立ち上がると、汚れたティッシュを捨てにゴミ箱の元へ歩く。
…と、真宵はゴミ箱の中に気になるモノを見つけて顔を寄せた。
くしゃくしゃに丸められたそれには、『…ルマジキ キネンキッ』と記載されている。
シャワールームから物音がしているのを確認すると、真宵はサッとそれに手を伸ばし、破らないように丁寧に紙を広げる。

そこに現れたのは一枚のレシートだった。
『2019年4月○日 △△郵便局 アルマジキイチザ キネンキッテシート 120円』
── アルマジキ…?
(アルマジキって、なるほどくんが弁護した、あの事件の…?)
これはただの偶然なのだろうか?
でも、如何にもインテリな牙琉が、流行物に飛びつくようにも思えなかった。
関係があるかないか、それは分からない。
それでも、何もないよりはマシかもしれない。

真宵は手早く装束と髪の乱れを直すと、懐にレシートをしまって牙琉の部屋を飛び出した。

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(これからどうしよっかな…。)
まっすぐに里に帰る気にはならなくて、
かと言って汚れた身体のまま成歩堂の元を訪れる勇気も無くて、
真宵はもう小一時間も公園のベンチに腰掛けていた。
(とりあえず、帰る…?でも、もしこれが手掛かりなら、出来るだけ早くなるほどくんに渡した方が良いよね…。)
もう何十回も心の中で重ねた自問自答を繰り返す。
(大丈夫だよ。普通にしてたら気付かれないよね…。なるほどくんだし。)
成歩堂は真宵の事を女として見ていない、と真宵は思っていた。
どうせ、トノサマンとみそラーメンが命の子供だと思ってるのだから。
── まさかあたしがあんな事になったなんて、思いもしないはず。
そこまで思考を巡らせると、急に悔しさや悲しさ、怒り、寂寥の想いが真宵を襲い、
大きな瞳からポタポタと涙を零し始めた。

20年間守ってきたものを呆気なく、あのような不本意な形で奪われてしまったこと。
まんまと騙された愚かな自分。
戻りたくても戻れない、数時間前の穢れなき自分。

「ふぇぇ…っ」
堪えきれない嗚咽が、言葉にもならずに漏れる。
最終的に牙琉を受け入れてしまったのは自分なのだから、泣いてはいけないと真宵は思う。
だが、泣いてはダメだと思うほどに、反抗するかのごとく涙が後から後から溢れて、真宵の白い頬を濡らしてゆく。
(こんなコト、へっちゃらだよ。なるほどくんが受けた傷に比べたら、こんなの、全然たいした事ないじゃない。)
深呼吸をして呼吸を落ち着けながら、自分に言い聞かせるように反芻する。
(…そうだ、スパイだと思えば良いんだ、女スパイ。色仕掛けで情報を手に入れる、美人スパイ。)
スパイはこんな事で泣いていられないのだ、とゴシゴシと袂で涙を拭いて立ち上がると、
公園の出口へとゆっくり歩きながら、携帯の「ナ」行を呼び出した。
「…もしもし、なるほどくん?久し振り!…今、近くにいるんだけど、会えないかな。事務所に行っても良い?」
3回目のコールの途中で、聞き慣れた声が耳に飛び込んできて、
その瞬間、鼻の奥がツンと熱くなり、再び涙が溢れそうになったのを慌てて堪えるように深呼吸する。

── 普通に、普通に。
普通にしていれば、きっと大丈夫。
大丈夫だから。

そう自分に言い聞かせて。

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── たった一ヶ月の間に、すっかり変わっちゃったな…。
真宵は一抹の寂しさを感じながらソファに腰掛けていた。
ぐるりと室内を見回すと、だらしなくファイル等が散らかり、
真宵がいた頃には無かった手品の道具や子供向けの玩具が幅を利かせている。

元は姉のものだった、この場所。
それが姉の死と同時に成歩堂のものになり、
そこは真宵自身の居場所でもあったのだが、
今はもう真宵のいるべき場所ではなくて。

それは同時に、姉が生きていた痕跡が一つ消えたように思えて、
無性に悲しくなって涙が溢れそうになった真宵は、
成歩堂に見られる前に顔を整えようと、両頬を叩いた。

── 妙に感傷的になのは、さっきの事も影響してるかな…。

そんな事をぼんやりと思っていると、背後のドアが開いて、真宵の心臓は飛び跳ねた。
思わず背を正して、聞き慣れた歩調に耳を澄ます。
前は、革靴のコツコツ。
今は、サンダルのペタペタ。
音の種類は違えど、歩くリズムは変わりなくて、
そんな小さな事に安堵を覚える自分が、真宵は少し悲しかった。
それでもそんな内心を気取られないように、精一杯元気を装って声を掛けた。
「お、なるほどくん!」
「久し振りだね、真宵ちゃん。」
衿から金のバッジが消えた青いスーツでなく、普段着のパーカーに身を包んだ成歩堂が、
ポケットに手を突っ込んだまま、対面のソファにどっかりと座った。

無精ひげを生やして、ニット帽を目深に被ったその姿は
自分の知る成歩堂とはまるで別人のようで、真宵は目を丸くしたまま硬直した。

「どうしちゃったの?」とか、「変わったね」などと言いたい事は沢山あるのに、
そのどれもが成歩堂を傷付ける事だと思い至り、真宵は開きかけた口を噤む。
そんな真宵を知ってか知らずか、成歩堂は目を細めるように真宵を見つめていた。
成歩堂にしてみれば、
目の前で見慣れた人物の変化に驚いているその真宵の変化も、十分驚愕に値するものだった。
だが、真宵の変化は成歩堂と違ってマイナスの原因がある訳ではないので、成歩堂は躊躇無く感想を口にした。
「…なんかそんな格好してると真宵ちゃんじゃないみたいだな。」
「え。変かな?」
「いや、そんな事ないよ。ただ、大人っぽくなるもんだと思ってさ。」

── 大人っぽくなるもんだ
何気ない成歩堂の一言が今の真宵にはチクリと突き刺さるが、おくびにも出さずに精一杯笑う。

が…。
それまで背もたれに背中一面を預けて座っていた成歩堂が、
怪訝な顔で身を乗り出して、覗き込むように真宵を見つめた。
「な、なに…?」
射抜くような瞳で見つめる成歩堂にそう問いかけながら、
先ほどの精一杯の笑顔が引き攣っていたのだろうか、と真宵は思う。
「…真宵ちゃん、ぼくに隠し事してない?」
「なにそれ。してないけど…?」

── 普通に、普通に。
動揺しないように。
さり気なく話題を移さなくっちゃ。

通常の2倍の速度で情報処理していた真宵の脳が、
事務所に来た本題を切り出していなかった事を思い出し、
真宵は袂から例のレシートを取り出して成歩堂に突きつけた。

「そうそう。これなんだけどさ。」
成歩堂はその眼に訝しさを残したまま、真宵が差し出した紙を手に取った。
「…なに、これ?」
「レシート。」
「いくらぼくでもそれ位は分かるぞ。どうしたのこれ。」
「ゴミ箱で見つけたの。」
「ゴミ箱?どこの?」
「牙琉弁護士の。」
「牙琉?」

真宵はこくりと頷く。
「もう知ってるかもだけど、牙琉検事のお兄さんが弁護士だって。」
成歩堂は膝に肘を付いて、片手でレシートを弄ぶ。
俯いたその顔にどんな表情を湛えているか、真宵には分からない。
「査問会の時に、唯一庇ってくれたのが牙琉だったんだ。」
「……。」
「引き継いだ事件の担当検事が前任弁護士の弟で、身に覚えのない証拠捏造なんて…出来過ぎた話だよな。」
「……。」

成歩堂はとっくに気付いていた。
あの忌まわしい公判の、不自然過ぎる展開に。
離れていたひと月の間に、成歩堂は既に真実を求めて歩き始めていたのだ。
「あの人が或真敷一座に興味あるとは思えないし、もし仕事で使ったのなら領収書を捨てるのも不自然だよね?」
どうしても偶然だとは思えなかった、と真宵は言った。
成歩堂は俯いたまま、しばらく何事かを思案している。

「…ねえ、真宵ちゃん。ぼくが弁護士バッジを失った理由を知ってるよね?」
「うん。もちろん。」
「── だったら、ここはきちんとしておきたい。」
「なに?」

「このレシート、どこで手に入れたの?」

「……!」

出自不明の証拠を出してしまったばかりに弁護士人生を失った成歩堂。
彼がそれを求めるのは至極当然のことだった。

真宵の心拍が跳ね上がる。
クラクラと眩暈がして、気分が悪い。
「あ…えと…牙琉さんの事務所だよ。」
口元に無理矢理浮かべた笑みが引き攣る。
本当は牙琉の自宅のゴミ箱で拾っただなんて、どうしても言えなかった。

「── 嘘だ。」
俯いた真宵が思わず顔を上げると、見た事もないような怖い顔で睨んでいる成歩堂と目が合った。

「…真宵ちゃん。ぼくに嘘をつきとおせると思ってるのかい?」
そう言いながら、成歩堂はパーカーのポケットからスッと手を出した。
その手に握られているのは、淡く輝く黄緑色の真宵の…勾玉…。
「本当はどこで拾ったの?ぼくは無理矢理にでも暴くよ。」
そして、次の瞬間、真宵は耳を疑う言葉に目を見開いて硬直する。

「…それとも。真宵ちゃんまで証拠を捏造してぼくに渡すのかい?」

「………… ッ!!」

── パシンッ!

乾いた音が、事務所に響いた。

唇を戦慄かせた真宵の瞳から、ボロボロと大粒の涙が零れる。
「どうして…?どうしてあたしがそんな事しなきゃいけないの…っ!?」
「じゃあどこで見つけたの?」
真っ赤になって泣く真宵とは対照的に、左の頬を赤くした成歩堂は涼しい顔をしている。

──嘘なんてつけない。
成歩堂に嘘など通用する訳がない。
真実を求める瞳は絶対にそれを許さないのだ。
そんな事、分かっていたはずなのに。

自分がその牙琉に汚されたこと。
成歩堂に疑われること。

こうなってしまった以上、真宵にとっては最早どちらも同じ責苦に違いなかった。
それならば…。
覚悟を決めた真宵は、瞳を閉じて小さく息を吸った。

「…自宅だよ。」
「は?自宅?」

拍子抜けしたかのように、成歩堂の口元が引き攣る。
「牙琉さんの、自宅だよ。」
低い声だった。
真宵のものとは思えないような低い声が、小さく震える。
全てを諦めた真宵が、力なく微笑んだ。

「自宅のゴミ箱って、どうやって…」
そこまで言って、成歩堂の顔から薄い笑みが消えた。

「…部屋に入ったの?」
「入ったっていうか…。」
「っていうか…?」
「なるほどくんから電話だって言われて、それで…。」
「つ、連れ込まれたの…?」

真宵はそれに答えずに小さく頷いた。
成歩堂の顔から、見る見る内に血の気が引いて行く。

「それで…。それで…。」

心臓が早鐘を打っているかの如く鼓動しているのがハッキリと分かる。
目の前で小さくなっている真宵に聞くべき事があるのに、咽喉がカラカラに渇き、声が出ない。
これを言葉にすれば、真宵は消えてしまうかもしれない──。
そんな悪寒がゾクリと背中を掠めるのを感じながら、必死に声を振り絞る。

「何か…されたの…?」

しばらく躊躇した後、俯いたままの真宵の頭が小さく小さく縦に動いて、成歩堂は思わず口を覆った。
「……!」

「何された…?」
「…。」
「真宵ちゃん…!」

牙琉の部屋に行った事を頑なに隠していた真宵。
その理由は…。
成歩堂は思わず立ち上がって真宵の腕を掴んだ。
「…ごめんなさい…ごめんなさ…っ」
ただただ謝罪の言葉を繰り返し、顔の前で交差した腕で成歩堂から身を庇うようにしてかぶりを振る。
── それだけで答えは一目瞭然だった。

「…警察に行こう。」
成歩堂は真宵の腕を抱えて立たせたが、真宵は大きくイヤイヤをするように抵抗する。
「イヤ…。それだけはイヤだよ…!」
「でもこんなのは許されることじゃないんだ…!」
「合意があ…ったから…。」

消え入りそうな声。
「合意?」
成歩堂の身体から力が抜けて行くようだった。
真宵だって子供じゃないのだから、それ位は自分の意思で決めるだろう。
それをどうこう言うつもりは無いが、
今の真宵の様子からは、「合意」の言葉はあまりにも遠いものであるように見える。
「何を言われた?何があったのか、全部話して。」
俯いたまま顔を上げない真宵の肩を抱く。

触れたら折れてしまいそうな程に華奢なこの娘に乱暴を働いた牙琉。
怒りと憎しみが、沸々と湧き上がる。

「あの人、電話中のなるほどくんがあたしに用があるって。
…それで、家に入ったの。家に入らなきゃ大丈夫って思ってたのに…。」
カタカタと身を震わせる真宵を、成歩堂は思わず抱き締める。
「いきなり押し倒されて、それで、ハンカチを口に入れられて…。」
「あのね、最初は抵抗したんだよ? …でもなるほどくんに何かするって…。」
「レシートはね、牙琉さんがシャワー浴びてる間に見つけたの。」

要するに、成歩堂の為に真宵は身を差し出したと。
成歩堂はイラつきを真宵にぶつけた。
「あいつが本当に捏造を知らないなら、真宵ちゃんにこんな事する訳ないじゃないか。
こんな事して口封じしたのが何よりの証拠…」
「──分かってる。だから、これを見つけて持って来たんだよ。」
そう言って、真宵はレシートを握り締める成歩堂の手に、そっと手を添えた。
「ただでは起きないんだから…!」
精一杯の強がりだろう、真宵は鼻の頭を赤くしてぽつりと呟いた。
「……カヤロウ…!」
振り絞った声は情けないほど震えていた。
そんな成歩堂を慰めるように真宵は成歩堂の頬をギュッとつねる。

「あたしのこんな痛みなんて、なるほどくんが受けた傷に比べれば全然大した事ないよ。」

小さな身体でどんな怖い思いをしただろうに、それでも手掛かりを見つけて来たという真宵。
小さな紙切れと引き換えに、失ってしまったものは余りにも大きかったのに。
成歩堂は真宵を抱く腕に力を込めた。
「な、なるほどくん…?どうしたの?」
「真宵ちゃん…!」
「あのね、あたしはあたしの形でやるから。なるほどくんにあんな顔をさせたあの人、絶対許さない。」

「だから、今はきっとあの人は優位に立ったつもりでいるだろうけど
なるほどくんがあのレシートを役立たせてくれるなら、それで良いんだ。」

健気に笑う真宵を抱きすくめながら、成歩堂は宙を睨み付けていた。

迂闊だった。
成歩堂自身を傷つけるのが目的なのであれば、ヤツが真宵に目を付けないはずがなかった。
そう思ったから、敢えて連絡を取らずに遠ざけたのに。
安直な己の思考が恨めしい。
何故もっと頻繁に真宵と連絡を取って、近況を伝えなかったのか。
音信不通になった成歩堂を心配した真宵が何かするかもしれない可能性を、どうして考えなかったのだろう。
今まで身体を張って守って来た大切な者を傷つけられた悔しさが、成歩堂を襲う。
傷付いた真宵が持ち帰った切手のレシートを、強く握り締めた。

許さない。
許すものか。
何年掛かったとしても、必ずこの手で裁きの庭に引きずり出してやる。

牙琉霧人。

ぼくはオマエを絶対に許さない。
真綿で首を絞めるように、ぼくはオマエを追い詰める。

── 地獄の果てまで、ぼくのやり方で。


この日を境に、弁護士時代に成歩堂が見せた熱さは影を潜め、
無精ひげにどこか眠たげな瞳というやる気のない相貌の中で、
眼光だけがその鋭さを増すことになる。

成歩堂の執念が実を結ぶのは、それから実に7年後のことだった。

<終>

 

最終更新:2020年06月09日 17:43