新光皇歴2238年。
 四大大陸以外の五つ目となる人類版図、アイサ大陸西方海に御蓮群島は連なる。
 北西海を一島が占め、大小幾多の島々が集う中央部を持ち、南東部に最大規模の大島を擁す群島地帯。
 その南東域最大島内で、東端沿岸部へ位置付く形に、小さな町が存在していた。
 町の名前はクレント。
 住民は漁業や農業を生活の基盤とし、土地固有の穀物を近郊に並ぶ風車でひいて、味わい深いパンを焼く。
 畑に隣接する牧場では豚や牛など家畜が飼育され、特産の葡萄から作られる上質なワインが、交易品として他の街々と遣り取りされていた。
 気候は穏やかで晴れの日が多く、空気がカラリとしていて過ごしやすい。
 西海を望む牧歌的で平穏な町。風土の故か住民は懐深く、朴訥で、細かいことを気にしない度量の持ち主だ。
 リィン・カーネーションとミナモ・ノー・ブラックの傭兵夫婦は今、この街に逗留している。
 本来はもっと北東に居を構えている二人だが、とある依頼を機にクレントへと移り住み、既に一年を経る。

 良く晴れた昼下がり、抜けるような青空に、疎らな白雲が漂っていた。
 吹いて渡る緩やかな潮風に桃色の髪を遊ばせて、リィンは木製の長椅子へ身を凭せ掛けている。
 聞こえてくる細波の音へ耳を傾け、植わった木々の落とす葉影を、右目だけでぼんやりと見遣る。
 顔の半分には包帯が巻かれ、左側は完全に隠れた状態だった。
 着ているのは白いワンピース。剥き出しの右腕にも包帯が巻かれ、手だけが露出する。
 左腕は、肘から先が無い。本来続いて伸びる筈の部位を失っている肘へ、包帯の白が幾重にも重ねられていた。
 サンダルをつっかけている両脚は、だらしなく前方へ投げ出される。場所の差こそあれ、そこもまた包帯による蔽いが占めた。
 日差しを受けて照り返す褐色の肌。張りと艶を湛え、滑らかで瑞々しいが、彼女の様を痛ましく際立たせてしまうばかり。
 整った容貌にかつてのような覇気は薄く、どこかぼんやりとした陰りが落ちている。
 やり手で鳴らした『白き緋姫』の面影は、今のリィンには見られない。そこに在るのは戦いに敗れ、意志を圧し折られた重傷者の姿。

「リンちゃん、今日もいい天気だ。風も気持ちいいし」

 優しく掛けられた声に反応し、リィンの顔が動いた。
 輝きの衰えた瞳が、斜方に立つミナモの姿を映す。
 にこやかに微笑む夫の細面を暫く見詰め、彼女は小さく息を吐き零した。

「ああ、ミーナ。そうね、とてもいい天気だわ」

 ほっそりとした笑みを刷き、リィンは返す。
 刺々しさも、鋭さもない、穏やかな表情だった。
 心乱のない安寧を根とする様相。だが一方で、そこへ戦士の力強さは微塵も感じられない。

「少し、浜辺を散歩しようか」
「ええ、いいわね。……手を、貸してもらえる?」

 右の眉根を微かさに下げて、リィンが右手を差し出す。
 ミヤモは素早く妻の傍らへ歩み出し、その手を掴むと、無理をさせずにゆっくりと引き起こした。
 手を引かれ、支えられ、リィンは長椅子から立ち上がる。だが立った瞬間、僅かによろけ、ミナモの体へ依り掛かった。

「ごめんなさい」
「なにも謝る必要はないよ。大丈夫かい?」
「ええ。心配いらないから」

 ミナモに右手と肩を抱かれて、リィンは真っ直ぐに立ち直る。
 少しだけ恥ずかしそうに口元を緩めると、小さく頷き返した。
 ミナモは笑顔でそれに応え、妻の隣へごく自然に並ぶ。そのまま彼女の手を握り、互いに指を絡め合った。
 二人は歩調を合わせ、寄り添い合い、のんびり歩き始める。
 前方に開けている白い砂浜へ向かい、それぞれの履物で土を踏んだ。
 音もない微風が隣り合う夫婦を撫で、蒼い髪と桃色の長髪を揺らして去る。
 歩み程に波音は近付き、寄せては返す海原の波頭が、より明瞭に視界へ躍る。
 何時しか二人の脚は砂地へ至り、柔く受け止められる感触を靴裏から感じていた。

「やっぱり、綺麗ね、ここの海は」
「そうだね。ずっと見ていても飽きないよ」

 常に揺れ動く波打ち際。変動を続ける海水の入りと下がりを、リィンは歩きながらぼんやりと見ている。
 隣に立ち、同じ足並みで進みミナモも、同じ光景を瞳へ取った。
 リィンのか細い声と、ミナモの静かな声調。繰り返される波の揺れ音に、二人が砂浜を踏むサクサクという小さな足音以外、他には何も聞こえない。

「今日はメドックさんからジャガイモを貰ったんだ。晩御飯に蒸して出そうと思うよ」
「あら、美味しそうね。バターも用意しておかないと」
「あはは、リンちゃんはベタベタに塗りたくるからね」
「だってぇ、その方が、美味しいんだもの」
「僕は塩だけでいいんだけどな」
「私はどうしても、濃い目が好きなの」

 他愛ない話をしながら、二人はゆったりと砂浜を歩く。
 微笑みを交わし、肩を寄せ合い、視線を交差させ、楽しそうに歩を刻む。
 固く握り合わせた手は離さずに、互いの体温を手中に感じながら。

「ねぇ、ミーナ」
「うん? どうしたんだい、リンちゃん」

 しばらくの後、不意に、リィンが声を潜めた。
 不思議そうに、ミナモはその顔を覗き込む。
 リィンの顔がミナモへ向けられ、右の瞳が、彼を捉えた。微かな明光が、奥深くで俄かに瞬く。

「エクセレクターに会わせて」

 妻の口から出た言葉。これを聞いた瞬間、ミナモの脚が止まった。
 同時にリィンも歩みを止め、共に砂浜の上で立ち尽くす。
 真っ直ぐに見上げてくるリィンの眼差し。ミナモはそこから視線を切り、雄大な海原を見やった。
 遠い水平線を望みながら、長々と息を吐く。

 頭の中を、幾つもの記憶が駆け抜けていく。
 それは自分が見たものと、彼女の愛機エクセレクターの記録映像に残されていたものの混合物。
 1年前に舞い込んだ仕事。
 名のある傭兵を叩き潰す為に仕組まれた、偽りの依頼。
 敵の策緑で、分断された自分とリィン。
 執拗に張り巡らされたトラップと、彼女へ襲い掛かる多数の無人機。
 疲弊したアームヘッドへ、完全武装のテロリストが仕掛ける連携攻撃。
 苦闘の末に破壊された白亜の乗機。
 コックピットから引き摺り出され、兇相の無法者に囲まれる妻。
 駆けつけた時、目の当たりにしたのは、散々嬲り者にされ、凌辱し尽くされた後の無惨な姿。
 焼かれた顔面、叩き砕かれていた左腕。
 徹底的な蹂躙と、完膚なきまでの敗北。

「……いつか、そう言われると思っていたよ」

 目を瞑り、呻くように呟く。
 敗北はしたが、生命は取り留めた。だから一線を引き、この平和な町で療養をしている。
 二度と戦うことはないだろうと、ミナモは思っていた。
 あの日以来、リィンからは強烈な熱が消え、すっかり穏やかにもなっている。このまま静かに、此処で人生を歩むことこそが幸せなのだと。そう考えた。
 だが一方で、全てを忘れ、無かったことにすることは、自分達に出来ないだろうという思いもあった。
 傭兵としての終焉状態から、どう転がるかは分からない。しかしいつか、転機がくるのだろうと。

「リンちゃん、こっちだ」
「うん。ごめんね」

 目を開けて、ミナモはゆっくり歩き出す。
 浅く頷き、リィンもまた隣を行く。
 二人の進む足音を、波の揺らぎは飲み込み果たす。


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最終更新:2016年10月13日 21:02