「ん……はっ、……」
口を離し、唾液を垂らす。手で塗りつける。下品だな、と他人事のように思った。
羞恥と倦怠と嫌悪がごっちゃになって、殆ど厭世の域に達していた。
ふと。バスローブがかろうじて引っかかっている肩が、軽く叩かれる。
巴が顔を上げる。その唇から涎がひとすじ垂れて、男性器との間に糸を引く。

糸はすぐに途切れた。
だから、その。怜悧な印象の女が見せた一瞬の無防備さを知るのは、たった一人
だけだ。

立ち上がるよう、厳徒に手で促され、巴はおとなしく従う。恥ずかしかったので
バスローブの前は合わせた。
「今度は──きゃっ」
そのささやかな羞じらいも、腰を抱かれバランスを崩し椅子に──腰掛ける男へ
身体を預けたことで、そいつに衿元ひっぺがされて胸を視姦されてダイナシになる。
抗議しようとして。
洩れたのは息を呑む高い音。
乳房に、その中心、色の違う場所にねっとりとした刺激が与えられる。つい先程
までの、与える側と与えられる側が逆転したかたちになる。ぞくりとする快感に、
巴は唇を噛み、
「トモエちゃん」
「は……はい……」
「下手糞」
心無い一言に目を見開いた。
「や。あれじゃ出るモノも出ないって」
厳徒はにこにこ笑っている。巴は──文句どころではなかった。
「……」
自身の身体とバスローブに遮られて見えないが、脚の間に、当たるモノが──
「ちょっと待ってください! せめてベッドに行こうという気は」
「ない。メンドウだし」
色々と言いたいことはあった。
只、そこらへん抗議しても流されるのだろうな。と。諦観があったのも事実だ。
つけ加えると、腰を掴んで引き寄せる厳徒の腕は抵抗不可能なほど強く。
結果として。巴は侵入してくるものに耐えるしかなかった。
「どうせ最後までやるんだから、力。抜いた方がいいと思うけど」
言われて出来るなら苦労はしない。巴は厳徒の胸にすがりつき、声を殺す。
痛みを堪える。
こうなるのを実は待ち望んでいたとかは無い。絶対無い。無理矢理にひらかれた
はずの場所からぬるりと体液が零れたのは、身体の負担を減らすためだ。内側の
痺れるような刺激に身体が跳ねたのは、単なる反射反応だ。そうに決まってる。

こん。と。
一種マヌケなくらい呆気ない音が、内側から、聞こえて。
「――っ!」
声を殺す。
表情を殺す。
痛みを探す。
身体の奥、深いところに端を発する快楽を否定しようと躍起になる。
ぞくり、と細い身体が震える。ソトから最奥までを貫く器官。脈打つその存在を、
目で見たときより、舌で味わったときより感じていた。
不安定な姿勢で、必定動きもひどくゆっくりしたもので。
だからか、先端が当たる感触や、襞で包む感触が、よく分かった。
「ん……」
悩ましい吐息が赤く色づく唇からこぼれ。
震える。
巴の胎のなかでそれは起こり、波及するような感覚に巴自身も静かに腹を波打たせ
──
「……あちゃー」
巴の耳のすぐ横で、何だか苦々しいというか「やっちゃったぜ」的な嘆息が発せ
られる。
え、と思う間もなく抱きしめられた。腰ではなく、背中に逞しい腕が回される。
肩口に厳徒の頭が乗っかっている。表情は見えない。おそらく、それが目的でこの
体勢を選んだのだろう。
「……ひとつ。発言を訂正するから」
「は、はい」
「……初めてにしちゃ上出来。モチロン、合格点は上げられないケド。ね」
しかしコレはなあ、やりたい盛りのガキじゃあるまいし──などと悔しがる厳徒
と、胎内の感触に、ナニを指しての台詞か理解する。
どうしようもなく手前勝手な男だ。しかもイイワケがましい。
――何処かで見たことのある評価。

怒ればいいのか呆れればいいのか分からなかったので、巴は厳徒の肩に腕を載せ
回りきらないそれで出来得る限り抱きしめた。

離れろ、と命令されるまで。もしくは巴自身が普段の自分を取り戻すまで。そう
しているつもりだった。


「で」
本日二回目のシャワーで身体の内も外も流してようやく人心地つく巴に、厳徒が
問いかける。
「トモエちゃん。何が欲しいの?」

――見抜かれていた。
当然だろう。巴の態度はあからさま過ぎるくらいだった。
「あ。イキナリ検事になりたいってのは無理だよ。さすがのボクでも、さ。トモエ
ちゃんには捜査官としてもうちょっと働いてもらうつもりだから」
それだ。
「それです」
巴はきっと顔を上げ、
「主席捜査官」
仕事上のパートナーを見据える。
「今度の週末に、休みを下さい」
「……平日じゃダメだって?」
「土日に、下さい」
「何かあるの?」
「私用です」
「ああ。妹ちゃん」
「プライベートです」
忌引等、きちんと届けの出せる理由ならば、何もわざわざ厳徒に頼まない。
そこらへんは、厳徒も分かっているのだろう。にやりと笑い、
「じゃ。交換条件といこうか」
巴は厳徒の言葉を待つ。いい、想定の範囲内だ。この男が無償で他人のために何か
するわけがないのだから。
「やだなー。警戒しないでよ。ここまでガンバッてくれたトモエちゃんに、そんな
無茶な条件つきつけないって」
「……それで、条件は」

「ちょっとおねだりしてみてよ。
可愛く」

……。
……ああ、思考が飛んでいた。
おねだり。ねだる。漢字で書くと強請る。なんだか途端に愛らしさが薄れる。いや
それはいい。つまり強く要請すればいい。読んで字の如くだ。問題はその後──自分
に最も遠い形容詞がついていたような──
「かわいく?」
「可愛く」

「な」

「なななな何で」
「トモエちゃんのイヤラシイ姿、ジューブン見たから。どうせなら別のが見たいし」

「それでも! 『可愛い』って」
「休み。要らないの?」
ぐ、と言葉に詰まる。
欲しい。ここしばらくほったらかしの妹に、少しでも埋め合わせをしたい。
巴の思考を読み取ったのか、厳徒が笑う。
「じゃ。どうぞ」

巴は息を整える。考える。可愛いおねだり──自分だけでは思いつかない。
可愛いもの。ナニか参考になりそうなもの。

(――「今、いいかな?」)
咄嗟に浮かんだのは、おねだりしてくる妹の記憶だった。

(上目遣いで、/「お姉ちゃん」/語尾を、疑問形にならない程度に上げて)
「しゅ、主席捜査官?」
(舌っ足らずに、/「あのね、アタシ、ほしいものがあるんだけど」/読点位置に半拍
ずつ間を入れて)
「あ、ああああの、私、欲しいものがあるのです、です? あ、いえ、ありゅっ、
あるんだけど──」
噛んだ。
否、振り返らない。
捜査官は過去を教訓としても後悔はしないのだ。
(間。/「今度のテストでいい点取ったら買ってくれる?」/一気に畳みかける!)
「今度の」
畳みかける──
たたみ──
(あ)
──さて。
(あ、ああっ?!)
ナニをトリヒキ材料にすればいいのか──そこのところを宝月巴はすっかり失念
していた。
これは敗北。
そも最初のロジックが間違っていた。トリヒキを行うなら、コトの前に条件を提示
すべきであったのだ。一発やった後のハイパー賢者タイムにどんなエサで釣れと? 
テンパる。そういえば『テンパる』の語源はテンパリングだと聞いたことがあるような
無いようなそもそもお菓子作りと人間の精神状態との間にどのような相関関係がある
のかそれはともかく。この走馬灯状態、ナニか自体解決の糸口にならないものかそも
『走馬灯』とは危機的状況に瀕した際脳が解決手段をものっそい勢いで記憶野から
検索表示取捨選択する状態を指しちょっと待てこれでは先程の繰り返しではないか。
落ちつけ、クールになれ宝月巴。

と。
ここまでが約一秒。
単語にするとたった一秒、
しかし会話の空白としてはされどの一秒。
目の前では厳徒がにやにや笑っている。嫌がらせか。

これは決定的な敗北。
(敗北?)
否、断じて否。
敗北とは敵に敗れることではない。
勝利を諦めることだ。
道はまだある。諦めるにはまだ早い。

不意に走馬灯が止まる。ちかちか瞬くのは友人の口癖だった。

『発想を逆転させるの』

逆転。
起死回生の一手。
そう。今の厳徒はエサを必要としない。一発やってすっきりしたところだろう。
だが。そう、彼には不満があるはずだ。唯一点、彼に起因“しない”不満が。

(「発想を逆転させる」)

エサを投げつける隙を探すのではなく、相手が食らいつく隙を──作る!

す。と息を吸い込み。

「今度くちでする際にはもっと上手くやりますから休み頂けませんか!」

“今”の需要がないなら“次”に需要を作る。
そして……一気に畳みかける! (――あれ?)

巴は、ゆっくりと、自分の発言を反芻した。その意味を、相手に伝わるであろう
意図を咀嚼した。
(今のはつまり)
もう一回口淫やらせろ──と、そういうコトではなかろうか。
自分が口走った内容に、巴はざざーっと血の気が引くのを感じ、
「――っく」
それ以前からぷるぷるかたかたしていた厳徒もとうとう堪え切れなくなったのか、
「アーハッハッハ! トモエちゃん。キミ、サイコーに面白いよ!」

「~~っっ!」
手を叩いて爆笑する。途切れることのない笑声、素晴らしきかな肺活量。息の根
止まればいいのに。
巴はもう耳まで真っ赤だ。主に怒りと恥ずかしさで。
そして無言のまま服を身につけ、
「あれ。帰るの?」
「お邪魔しました!」
「イエイエ──次“も”楽しみにしてるよ。――くくく」
巴は答えず出来得る限りの早足でホテルの一室を後にする。
(ああもう──!)
今夜のことはしっかり覚えておくとしよう。曰く──「口は災いの元」
捜査官は、過去を教訓としても後悔はしないのだ。


翌日。
出勤した巴は、今度の土日が連続休日になったことを、上司のおしつけがましい
笑顔と共に知るのだった。


「――お姉ちゃん?」
妹の声に、巴は我に返った。
「どうしたの? あ、疲れちゃったとか」
「ううん、そんなことはないわ」
「そう……?」
首を傾げる茜へ、巴は急いで、何でもない、と繰り返す。
土曜日のショッピングモールは人通りが多い。道で立ち止まる姉妹に視線を向ける
通行人もいたが、大半は自分の用事に夢中で、ざわざわと流れてゆく。
「ごめんなさいね。さ、行きましょうか」
「うん……」
まだ納得がいかないのか、ピンクのビニールパッケージを抱えたまま、茜は巴を
見上げる。中には、姉との交渉の末「定期考査で平均八十点以上」と引き換えに
彼女が手に入れたブラウスが入っている。
下から上目遣いにのぞきこんでくる妹──可愛い。身内の欲目? 知ったことか。
そして再確認する。このテの仕草はローティーンの可愛い女のコがやるから好い
のであって、ハタチをとっくに過ぎた女がするもんじゃない。
「何でもない……うん、何でもありませんよ、あかね……」
「でも、顔色がワルいよ」
心配そうに訊ねる妹へ、力なく微笑む。
まさか、休み欲しさに貴女の真似しておねだりして上司に大爆笑されました、とは
言えない。絶対言えない。姉の沽券にかけて、死んだって言うものか。
「そんなコトより、あかねの好きなものを食べてこうか。お姉ちゃん、奮発しちゃう
から」
「ホント?! なんでもいいの?」
「もちろん」
「やった! ええっと、じゃあね──」
途端はしゃぎだす妹の姿に、巴は先程よりも明るい笑みをこぼす。

もうちょっと、自分は頑張れそうだ。色んな意味で。

妹と手を繋ぎながら、巴はそう確信した。


――後日。
警察局、給湯室での会話。

「殿方を悦ばせる方法……ねェ」
「……市ノ谷捜査官、何故私は貴女にこんな話をしているのかしら」
「思い出せないなら大したコトじゃあありませんよ」
そうですねえ、と響華は腕を組み小首を傾げてみせる。その仕草に何とも言えない
色香が漂う。
「……宝月捜査官の髪はキレイですわね」
「え?」
「真直ぐで羨ましい。ワタクシ、クセがあるものですからどうしても髪型が限られて
しまって」
「え、ええ、有難う……?」
しかし髪質と猥談との間にどんな因果関係があるのか。
戸惑う巴に響華はさらりと爆弾を投げつける。
「硬めですし──先っぽを突っ込んで差し上げれば宜しいかと」
「――――――は?」
何を。
「髪の毛を」
何に?
「ナニに」
巴が吹いた。
「ちょ、ちょっとそれは! 第一つ、突っ込むって、入れる場所がないわよ?!」
「ありますわよ」
「何処に?!」
「汁が出る場所があるでしょう? 平気ですわ、入りますとも。髪の毛ですし」
「──!」
もう巴は言葉も出ない。酸欠の金魚もかくやの有様で、虚しく口を開け閉めして
いる。

「――なんだ、おキョウにセニョリータか。ワルいがコーヒーを──うおっ!」
折良くというか悪しくというか、給湯室へ顔を出した罪門が仰け反る。彼の横を
真っ赤になった巴が出て行った。
「……珍しいモノを見たが、おキョウ、何やった?」
罪門の問いに響華は蓮っ葉な笑みを返し、
「ウブなネンネエをからかうのは楽しいねえ」
「……やれやれ」
「コーヒーかい?」
「ああ、頼む」

よく晴れた。雨の時期に入る前の、午後のこと。

最終更新:2020年06月09日 17:36