「それに」
この悪意と憎悪に足を踏み入れれば巴は戻れなくなる。「もう。飽きたんだよ」
「検事風情がゲンバにしゃしゃり出て。捜査がどうの、給与査定がこうの、って言って
くるの。ホント。ムカつくからさ──そろそろ、交代してもいいアンバイだと。そう。
思うよね? 分かるでしょ。トモエちゃん。
キミも、捜査官なんだから」
引き返す術なぞ最初からなかった。証拠品の捏造を行ったとき。巌徒に縋ったとき。
倒れた妹を見て、巴自身の意志で、ツボのカケラから血痕を拭き取ったトキ。既に巴は
一歩を踏み出していたのだから。
「ホント。楽しみだね。ボクが局長になるのと、トモエちゃんが主席検事になるのと。
ドッチが先だろうね? マ。ドッチも、そう長くは掛けないけど。──?」
巴が静かに手を伸ばす。右手の向かう先は、胸にほど近い巌徒の手。触れる。巌徒の目
が訝しげに細められる。
「そうすれば」掠れた自分の声を、巴は他人事のように聞いていた。「あかねを、」
痛み。手首が握られる。引かれる。「カン違い。するな」狭まった二人の間に、白い紙
が落ちる。
「ボク、そういうの。キョーミないから。別に。キミの代わりだって、幾らでもいるし」
巌徒は巴でなくともよい。
それは正しい。
「それでも、貴方は、私を選んだ」
けれど彼は巴を選んだ。
彼が検事局を掌握するための布石として、巴を選んだ。
「私は、」
逃げられない。茜と巴の罪を知るこの男がいる限り、何処にも逃げ場はない。
「何でもします。貴方の希望に応えます。だから──あの子を、あかねを、助けて」
「“何でも”ねえ……具体的には?」
巴は押し黙り。そっと身を屈め、黒手袋の指にくちづける。「──」そのまま舌先を
這わせる。革の苦い味がした。「そう。ナルホド」
見上げた先では、巌徒が、満足感と失望をないまぜにして巴を見下ろしていた。
「マ。そういう、分かりやすいのは。キラいじゃないよ」
鍵を掛けてくるようにとの指示にはさすがに耳を疑ったが──否。予測していた。巌徒
が、巴が何処まで要求に応えられるかを試すのを、巴はきっと知っていた。
鍵を掛ける。がちゃん、と、大きな音。
「トモエちゃん」
振り返る。巌徒は拾い上げたリストを無造作に机へと置き、ジャケットを脱いで椅子の
背にかけているところだった。「時間、ないから。とっととやろうか」ネクタイを片手で
器用に緩めながら、巌徒が何かを巴へ放る。捕らえる。
未開封の、避妊具のパッケージだった。
不意の。握り潰したくなる衝動を抑える。
巴もジャケットと──あと、スカートも脱がなくては。スーツに皺がついては困る。
これから、裁判に証人として出廷しなくてはならないのだから。

室内に、粘った水音が響いている。粘性の高い液体を啜る音も。音は、ソファに深く
腰を下ろす巌徒の脚の間から。跪き、露出した性器を咥える巴の口から発せられていた。
亀頭から陰茎のなかほどまでを呑み込み、口内にて舌と内側の肉とを使い刺激する。
「──んっ、ふ──」
びくびくと角度を上げる陰茎に従い、巴の頭もずりあがる。栗色の髪が汗で頬に額に
貼りついている。
巴の呼吸は苦しげだった。仕方ない。がくつく顎と、動きの鈍い舌先からして口淫が
そこそこの時間続けられているのは明白であったし、巴はその間一度たりとも口を離さな
かったからだ。小休止を入れることも、口内に溜まる唾液と先走りとを吐き出すことも
しなかった。時折しろい喉が動くのは、溜まりきった体液を嚥下しているからだ。

口いっぱい、喉の近くまで他人の肉を含み、巴は顔を伏せる。頬を動かし唇と肉の隙間
から体液が零れないよう啜りこむ。
「──、──ッ?!」
そこを。口唇での奉仕を行うやわらかい喉の奥を急に突き上げられて巴の背が強張る。
額から汗が滲み、全身が瘧に罹ったように震え。「──ん、ぐ、んん──ッ」耐え切れず
顔を上げる。しかし唇はつぼめたまま、ぴったりと隙間なく陰茎を咥え、なぞり上げて、
亀頭のラインに沿って蠢き。
「っは、う、げほッ!」
溜まりに溜まった吐気と唾液と先走りとがようやっと吐き出されたのは、巴自身の
なめらかな太腿の上だった。ストッキングから解放された肌に、嘔吐じみた体液がブチ
撒けられる。ぺたりと横倒しにした太腿から体液が伝い落ちて、床へと滴った。
「汚しちゃったねえ」
ティッシュ箱と共に差し出された台詞に、巴は微かに身を震わせる。羞恥か、怒りか、
そんなところ。
そもそも巴がここまで耐えたのは、ジャケットとネクタイを脱ぎ前をくつろげただけの
格好の男や、この部屋に、出来得る限り情交の痕跡を残さぬようにと配慮していたから
だ。普段なら零れるに任せる体液を飲み下したせいで、気分は果てしなく悪い。薄手の
シャツと下着だけを身に着け青く息吐く巴の耳に、かつん、と靴のカカトが床を打つ音が
届く。
ソファに背を預け尊大に構える巌徒は、何処か、試験官じみていた。
“何でもする”と言ったお嬢さん、まさかココで終わりでしょうか──? 「少し、
待って、ください」「時間ナイから。早くね」
ティッシュで肌と床とを乱暴に拭い、避妊具のパッケージを破る。中身を屹立した性器
に被せ、しごき、馴染ませる。
そこで巴は刹那逡巡を見せ。
やがて俯いたまま立ち上がり、下着から足を抜く。今度は掛け値なしの羞恥に肌が紅く
上気する。
何かを言われる前に巴はソファへ、巌徒を跨ぐようにして膝をつき。両の手をソファの
背もたれへと回して逞しい身体に覆い被さる。立て膝の姿勢だから、巴の方が僅かに目線
が高い。騎乗位の際とも異なる視線のズレは。こんなときだというのに酷く不思議なもの
だった。
「トモエちゃん。チョット」
「は──きゃっ」
なんだかやたら可愛らしい悲鳴をあげる間に、巴の身体は巌徒に抱きとめられていた。
身長差が戻る。ぺったりつけた尻の下にカタい律動を感じ、巴の頬がますます赤くなる。
「舐めてくれる?」
唇に押しつけられた黒革の指を、先走りの残る舌でなぞり、新しい唾液を絡ませる。
一本目。二本目。指先で舌をくすぐられると嘔吐に似た快感が喉を滑り背筋を震わせた。
こういうときばかりは優しい巌徒の手が。
巴は、大嫌いだった。
唯の。捜査官としてのキャリアの対価でしかない性行為に、愛情めいたものを感じて
しまう自分が、厭でイヤで仕方がなかった。──特に、今は。
涙はぎりぎりで堪える。指が抜かれ、もう片方の腕で腰を抱かれ。固定されて。
「っつう──ッ!」
僅かな湿り気があるだけの秘所に乱暴にねじ込まれる痛みに悲鳴を洩らしかけ、必死で
堪える。ソファを掴む手からぎりぎりと軋みが上がる。
いくら唾液で濡らしたとはいえ、太い指を二本まとめて挿入され、掻き回されるのは、
辛い。
辛いはずなのに。こんなおざなりな前戯でも、馴らされたカラダは反応を示す。ナカが
熱く潤いはじめ、やわらかくなった襞を擦られると腰が跳ねた。

指が抜かれる。換わって。もっと大きく熱いモノが、ひらきかけの場所に当てられる。
被膜越しでもソレの熱とカタさとが分かる。アタマがぐらつくのは、きっと、指の余韻の
せいだけではなくて。巴の肉が抉られる/貫かれる/蹂躙される痛みと悦楽とを思い出して
しまったせいだ。
捻じ入れられる屹立に、腰を合わせる。粘膜と被膜とが擦れてくちゃりと音を立てる。
先端の、ひろがった場所さえ通せばアトは簡単。痺れるような痛みと快楽とを無視し
角度を合わせ腰を落とせば、一気に根元まで呑み込める。
「あ、っく、か、は──」
敏感な部位や最奥までを貫かれ、遅れて襲ってくる感覚に耐えるのは、苦しい、の一言
に尽きるが。
「──っい! ん、っく、あ、あ──!」
ソコを。逃げられぬよう押さえつけられ、突き上げられるのは。痛いのも苦しいのも
通り越して衝撃としてしか認識できないが。
まだ充分には潤っていない最奥を突かれ。抉られる。はらわたを、骨を肉を軋ませる
衝撃に息も出来なくなる。
「あ、く、あ、い──」続きを、噛み砕く。“イヤ”の一言を奥歯ですり潰し、悲鳴を
上げるカラダを動かしナカで擦過を繰り返す男根へと新しい刺激を与える。ぐ、と。僅か
に。しかし確かに容積を増し押し広げる感覚と熱に、殺しきれなかった喘ぎが洩れる。
おそらく分泌されているであろう先走りは、被膜に遮られて潤滑液とは成り得ない。衝撃
はもう内臓を抜けて、脳に直接叩き込まれるかのようだった。
それでも。喘ぎにどろついた甘さが混じり始める。
最初は痛いばかりだったソコを“快楽の得られる場所”と教え込んだのは巌徒だった。
巴のカラダは痛いばかりのソコがそのうち快さを生みだすことを知っていた。そう教え
られた。そういう風にされた。
だから。ソコから歯の根が合わなくなるほどの悦さが生まれ脳髄を灼くのは当然のコト
だった。
「   、──」
声が、聞こえた。どうやら自分の名前らしい、と、巴の脳が認識するまでに、幾許かの
時間を要する。
「コッチ。見て」
巴はのろのろと顔を上げる。本心は見せたくはなかったが。こんなだらしない、痛みと
疲労と快楽とでぐずぐずに崩れきったカオなぞ。しかもこういうトキの巌徒ときたら本当
に、「トモエちゃん」──トクベツの。一等お気に入りのオモチャで遊ぶコドモみたいな
目で、巴を見るものだから。それが本気で本当に──「“何でも”するって?」
巴の霞んだ目が見開かれる。あ、と、意味を為さない呻きがひらいた唇から零れて。
ソファの背もたれを支えとしていた手が、巌徒の腕を、掴む。シャツにシワが寄る。巴
は巌徒を信じられないものを見る目で凝視する。巌徒は素知らぬ風に、革手袋の指を巴の
後孔に這わせる。
「そこ、ちが、っ」
「キミ。“何でもする”んだよね?」
“後ろ”を使っての性行為が存在することは巴だって知っている。しかし知識と実践の
間には大きな隔たりがあった。羞恥と、既に胎内に存在する他人の肉と、ソレ以上の、
はらわたを掻き回される不快感と。“ソレを受け入れなければならない”コトとに。巴は
混乱していた。
「あ、ちが、まっ──?!」
何を言いたいのかも不明な言葉は、強過ぎる突き上げに苦鳴混じりの嬌声と化す。力
加減自体は変わらない。受け止める側が緊張し、“孔”を狭め、結果摩擦が大きくなった
だけだ。
「イヤ?」
「──ッ」

襞を削られ抉られ引かれ、また侵される感覚が、ちぎれるような熱を貯め込んでゆく。
気持ち好い。快い。後ろをこじ開けようとするおぞましさすら悦楽と感じるほどに、感覚
が狂ってゆく。
「──!」
「──」
声を殺し。噛み砕き。目の前の、原因であるオトコにしがみつく。縋る。前。薄皮一枚
隔て繋がるどろつく熱い場所。恐怖と恥辱と後ろからの圧迫とで狭まる場所を割かれる、
慣れた快楽に縋る。
クソッタレ。耳元での呟きに余裕が足りないのを聞く。ただし胎にぎちぎちにカタい肉
を詰め込まれた巴には余裕なんてものとっくになくなっていたから、拘束する腕が強さを
増し逃げ道という逃げ道が塞がれたコトしか把握できなかった。
「いいさ」
囁き。
「信じてあげるよ──キミが、妹のタメに、“何でもできる”ってね──!}
最奥を抉られる。どちらも、馴れた場所も慣れない場所も壊す寸前まで激しく貫かれた
にも関わらず。被膜越しに精を叩きつけられた巴が発したのは、細い、高い、鳴くような
絶頂の悲鳴だった。


開廷間近の法廷。開放した扉の傍に巴は立ち、証人席に座る制服姿の妹を見た。小柄な
身体は裁判所の空気に気押されますます小さく見える。
巴はちいさく息を吐き、吸った。その面は妹と同程度に蒼褪めてはいるが、平静では
ある。
「トモエちゃん。今日は、アッチなんだよね」
巴の横に立つ巌徒は法廷をぐるりと見渡し世間話のように切り出した。
「じゃ。イモウトちゃんのタメにも、頑張らなきゃねえ」
「──はい」
巴は巌徒へと軽く頭を下げ、証人席へと向かう。
見送る巌徒に僅かながら困惑の色があったのは。巴の短い返答に、緊張でも、諦念でも
なく。奇妙な信頼のニオイを嗅ぎ取ったからだろう。
巴が茜の隣席に腰を下ろすと、妹は弾かれたように顔を上げ、お姉ちゃん、と心細げに
呟いた。
「お姉ちゃん、あ、あたし、」
「大丈夫よ」
少女らしい小さな手が、助けを求めるように伸ばされる。巴は迷い、結局は、先程まで
オトコに縋りオトコの性器を愛撫していた手で、妹の手を握った。茜が安心したように
くしゃりと笑った。

裁判官が入廷し、場の空気が変わる。
巴はそっと妹の手を離した。

巴はこれから捜査官として最低のコトをする。偽証、捏造、証拠の隠蔽。“妹を守る”
名目で、法を破る。
そして今日だけでは終わらない。この事件が終わったら、巴は検事になる。きっと最低
の検事に、なる。
そして。きっと何度も同じ自問を繰り返すのだろう。
――何を、しているの。
──貴女/私は。いつまで、こんなコトを続ける気なの。

──いつまで。こんなコトが続けられると思っているの?

巴は微かに笑んだ。いつまででも。巴が、巌徒に、“宝月巴”が“沈黙”という対価を
与えるに値する部下/手駒/走狗だと、証明し続ける限り。
証明に必要ならば全部差し出せばいい。カラダだろうと、法の番人としての誇りだろう
と、必要ならば、全て。妹以外のモノ全て。
宝月茜は、姉の、たった一人の肉親の、宝月巴が守る。
そして。
(大丈夫)
声無き声で巴は呟く。大丈夫。
証拠品のリストはあのオトコが握りつぶす。
“捜査官”の宝月巴はあのオトコが殺す。不正捜査を、裁判での偽証を行う“捜査官”
は。もう、法の番人ではない。
そして。
きっとあのオトコは、何度でも巴に思い出させる。「イモウトちゃんを、守るタメに。
“何でも”するって──?」──そうして逃げ道を塞ぐ。巴に利用価値を見出す限り、
あのオトコは巴を逃がさない。逃げようとする巴を、許さない。

宝月茜を捨てようとする宝月巴は。あのオトコが、排除する。

宝月茜は巴が守る。
妹を傷つけるものから、巴は、妹を守る。

そして。
宝月巴からは、あのオトコが守ってくれる。

巴はひどく凪いだ心地で開廷の木槌を聞いていた。
とてつもない間違いに、ムジュンに軋む自分の何処かは、今は聞こえなかった。

最終更新:2020年06月09日 17:34